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魔王とクロ

「お茶よりオレンジジュースがいいんだけどね」


「ええ。でも、わたくしは慎ましく生きる敬虔な性女。そんな高級な贅沢に浸かる余裕は、わたくしにもあなたにもありません。果物屋の女主人を殺して奪えば話は別ですが」


「はいはい。きょうは、お前の股ぐらから出た性水でガマンしておくよ」


「ひひ。きょうのは特に濃いですよ」


 にちゃあと笑うリリスの顔は、すでに人間のものではない。頬っぺたを一直線に横切るようにして口が完全に裂け、獣人よりも鋭い歯が綺麗に並ぶ口内がよく見える。


 さすがに、こればっかりはシャルンのような騎士に見せられたものではないだろうが、オリはリリスが魔族だということを知っているし、リリスもまたオリのことをよく承知していた。


 師匠の弟子の中で生き延びた最後のひとり、それがリリスなのだ。自分を殺せず、夫であるオリも殺せず、どうやっても殺せない不老不死の魔族であるリリスのことは、モモエでさえも放置するしかなかったのである。


 しかし、それにしてもリリスは嬉しそうにしている。お茶は股ぐらから出る小便、お菓子は菊門からひねり出した大便を指すというのは、この業界の隠語のようなもの。はじめからそのつもりだったのだろう。普通のお茶菓子があるのかも怪しいものだ。


 とはいえ、魔力は魔力である。魔女の小便が混ぜ物として使われるのはよくあるし、魔力をウリにする代物のニセモノは、他人の小便を飲んでいるのと変わらない。


 オリは鼻づらで嗅ぎ分けることもできるが、あんまりにも半端なものは、誰でも小便だとすぐに分かるだろう。


 ただ、エルフと魔族の小便はニオイでも分からない。純粋な魔力というだけなら男の玉袋にもあるが、男から魔力を奪い、どんなに不純な魔力でも体内で浄化して強力な魔法に帰ることができるのは、エルフと魔族の二種族のみ。


 魔力は空色のような透き通ったものほど純粋であり、純粋であるほど魔法として昇華した際の威力も強くなる。


 ある意味、エルフ以上に気まぐれで恐れを知らない魔族から、その小便を直々に与えられるのは、魔法学的に羨まれることなのかもしれなかった。


「はい、どうぞ。召し上がれ」


「むう・・・」


 ところが、いざオリの鼻づらの前に出てきたのは、ありふれたカップに注がれた粗茶。そして、小振りの器に盛りつけて添えられた変哲のない焼き菓子であった。


 つい先日、シャルンの部屋に招かれた際、なんだかんだとばくばく鼻づらの中に放り込んでぺろりと平らげてしまったものによく似ている。パンの耳より硬質なのにも関わらず、さくっとした歯ごたえ。それが割れた瞬間に香ばしいニオイが鼻づらに立ち込めて、なんと本物の砂糖を混ぜ込んだ甘い味がするのだ。


 このツメの先でつまめる五センチぐらいの菓子は、デンバーの名物なのだろうか。ここにきてから、いつでもどこでもモモエと街を歩いていたときも見かけた気がする。


 とにかく、美味ければ何でもいいのだ。また急に眠くなって下水の腐臭がする下水の床に鼻づらから倒れないように、笑顔で見守るリリスの股ぐらに鼻づらの先をねじ込んで一緒に寝床に入ったけれど、いつまで経っても何も起きない。


 要するに、正真正銘の普通の食べ物と飲み物なのだった。


「どうしましたか?」


「別に。お前の小便、嫌いじゃないけどなあ」


「相変わらず調子が良いですねえ。そうやって不細工な鼻づらとオスのニオイを振りまきながら囁きながら、あのエルフの小娘も口説いたのですか」


「いんや。そういうもんなんだよ。分かる?」


「ええ。分かりますよ、そういうの」


 リリスはそう言ってオリの鼻づらを絹の手袋越しに撫でつけ、空いている方の手で自分の茶をできるだけ上品に啜っていた。


「わたくしもあなた様の妻のひとりとして営みたいのは山々ですが、きょうはいろいろとお話があるのでしょ。大事なお話の前に、わたくしの魔力で酔ってしまっても困りますから、性水も交尾もお預けですよ」


「ふうん」


 まあ、そんなことだろうとは思ったが、これも毎度のこと。魔族というのは、不老不死であるが故に内面の鍛錬を怠り、ふらふらと大陸を彷徨っているうちに脳ミソが腐って溶けてしまったような女が多い。あくまで比喩だけれど、実際そんなところだ。


 リリスの場合、もともとが賢い素質があったのだろうが、師匠の弟子となってエルフの知識も持ち合わせている正統な魔法使い。そんじょそこらで男の玉袋しか考えていない我流の魔女や魔族とはわけが違う。


 それでいて大陸を股にかける教会の性女としてエルフに劣らぬ情報網やコネを持ち、オリが何を言うまでもなく万物を知り得ているのだから、リリスとも夫婦でいるオリの先見の明が分かるというものだった。


 ちょうど魔族は嫉妬したモモエに殺されても死なないし、重婚先としては申し分ない。オリを素直に可愛がってくれるし、師匠がいなくなった後の喪失感を埋めてくれるのは、リリス以外にはあり得ない。


 こういう面倒に巻き込まれたときは、この甘い股ぐらに逃げ込むのである。


「で、話ってなあに」


「いやですねえ。それをあなた様が言いにきたのでしょう。ま、だいたい察しはついてますけれど、この国の王女、もとい女王。いや、幼女のフリをした男の子のことですか。玉袋を持って生まれたというだけで生きにくいかぎりですねえ。男というのは」


「どうでもいいよ。あんな野良魔族の置き土産よろしく肉欲上昇の呪い、すなわち淫紋なんてオリの魔法ですぐに消せる。ちょちょいのちょいってさ」


「では、何を悩んでいるのですか」


 その瞬間、オリの鼻づらにモモエの憎たらしい褐色の綺麗な顔と、オリの子を孕んでぱんぱんに膨れたボテ腹の姿がよぎった。


 全く憎たらしいかぎりの忌々しいエルフ娘である。オリの人生の不幸は、この世に男として生まれ落ちたときに始まったのかもしれないが、モモエというエルフ娘と出会ってしまったのが運の尽き。それでおしまいだ。


 師匠も相当に変わった人だったけれど、もう少し自制と寛容のあるまともな娘を産んでくれていたならば、オリだって苦労をすることはなかったのである。


「モモエが治すなって言うんだ」


「はて。わたくしが聞いたところによれば、あなた様たちはデンバー王の呪いを解いて報酬を受け取るために来たのでしょ」


「そうだよ。でも、この国の魔力をエルフのものにするって紙に一筆入れさせるまでは、治さないことにしたんだって。どうしたらいい?」


「ふうむ。王を救うためにきたのに、王を苦しませるなんてエルフらしいですねえ」


 リリスはオリの鼻づらを上から撫でたり、首周りの産毛に指を突っ込んでがりがりと掻きほぐしたりしながら、目を閉じて考え込んでいた。


 だが、そう長いことは掛からなかった。


 オリには師匠から受けた恩と義理がありすぎて、その愛娘であるモモエに本能的に甘くなってしまうが、リリスはそうではない。この世のいつから存在していたのかは知らないけれど、リリスは長く生きた経験を無駄にすることなく昇華して蓄えており、迷えるオリに然るべき道を指し示してくれる。


 オリは形のない神とかいうものをこれっぽっちも信じてないが、このリリスという魔族は本物の現人神である。


 そして、先先々代ぐらいの魔王とも呼ばれた存在であった。

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