表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
水族館で鬼ごっこ  作者: 川光俊哉
8/8

(8)終

 セミの部屋の蛍光灯が、やけに青っぽく、テレビ、スーツ、カーテン、畳、パソコン、レンジ、本棚、いちいちうすい影をつくる。角がとれて、つるんとまるい。ひらがながちらかっているようだった。わたしは、8のような、&のようなかたちになって、コーヒーを飲むセミを見ている。

「つかれた」

「そう」

 予想以上でも以下でもない、こんなこたえのために、それでも言ってしまう。こんなむだなことが、ときどきはいとおしいこともあるけれど、いまは、無力感がすべてだった。

「ごめんね、遅かったでしょ」

「いや」

「一時間弱くらいかかったかな。人身事故あってさ」

「人身事故」

「てゆうか、歩くのがだるくて。休み休み歩いてたら、こんなになった」

「いいよ」

 まばたきもせずにじっと見張って、ほんの少しの心の動きも逃さないように、待ち受けているのに、なんにも見えないのは、わたしが鈍感なせいじゃなくて、セミのポーカーフェイスじゃなくて、本当になにも考えていないだけのような気がしてならない。わたしは必死で、一番かんたんな感情、セミが怒ってくれるのを期待して、しつこく遅くなった言い訳をしている。はじめからわたしが来るかどうかなんてどうでもいい、セミには通用しなかった。そんなことは、分かってた。でも、わたしたちには、会話をはじめるのに、ほかにてきとうな話題もなかった。人間じゃねえよ、馬鹿。底の底までからっぽで、いまここで、コーヒーをすすったら、もう完全にやることがなくなって、惰性のエネルギーがつきたら、スイッチを切ったように活動を終えて、死ぬだろう。死んでしまえ。わたしは、こんなにあたふたと赤くなったり青くなったり、信号みたいにちかちか落ち着かないのに、どうして、わたしにつきあってくれないんだろう。わたしを相手にしているから、わたしがあまりにもつまらない女だから、一緒になって人間ごっこするには人間くさすぎる、だから、こんなセミはわたしの前だけで、だとしたら、やっぱりわたしがならなきゃいけないのはペンギンだった。シーソーみたいに、わたしたちの役も逆転して、水槽ごしに、かわいい、かわいい、かわいい、って言ってもらえる。かわいい、じゃないにしても、かわいそう、くらいは思ってくれる。でも、わたしは、にやにやして、ペンギンのポーカーフェイスをくずしちゃいけない。すぐに、あきられてしまう。

「ここまで来てる」

「なにが」

「水」

「へえ」

「池袋は、もう水没してた。じとっとしてて、なんか息苦しくて、青黒いのがもやもやしてる。街灯とか、お店のあかりとか、五倍くらい大きく見えて、輪郭が変になってぶよぶよして、気持ち悪かった。歩いてる人は海草みたいじゃない。とまってたらサンゴみたいだし。車は回遊魚みたい。カツオとかマグロみたい。たまに、クジラがいる。わたしも小魚みたいに、海草をかきわけて、ふらふら駅に流れ着いたのね。電車の扉が開いて、飲みこまれて、網にかかって引き上げられたみたいに、電車がだんだん池袋から遠ざかるでしょ。気づいたら、もう水のなかにはいなかった」

 セミはだまっていた。わたしの言いたかったことは一割も伝わっていないのだと思った。分からないことにはあいづちをうたない、というくらいには、セミは正直だった。池袋を泣きながらさまよっていた、体がだるくて、せつなくて、泣いていた。そのまま言ったらうっとうしいだろうと、うつくしい表現をしてみたけれど、よけいなことだった。いまさら、種あかしするのも、くやしかった。つまり、泣き虫のわたしは、また、泣きそうだった。わたしは、こてんと横に倒れた。無限大の記号みたいになって、最後の力をふりしぼって、これから、セミにおそいかかる。その力をかき集めていた。わたしは、立った。服を脱ぎはじめた。

「なに」

 やっと、セミがこちらを見た。もう、なにを考えてるかなんて、どうでもよかった。すっぱだかのわたしは、くずれ落ちるようにセミに抱きつき、

「このまま寝る」

 と、ささやいた。セミが細く息をついた。それも、どういう意味か分からない。わたしは寝る。肩が軽くなった。意識をうしなう、この瞬間だけが本当の、健康だったころのわたしで、でも、わけの分からないだるさのなかで、また目を覚まさなきゃいけないと知っている。溶けてる、ちがう、おしっこもらしてる。下っ腹の激痛は、やっぱり血尿だろう。人間のにおいがする。これを全部出し切れば、体はなおって、ペンギンになることもできるだろうか。わたしは、わたしの膿を垂れ流しつづける。セミが、背中をたたいている。ぴしゃり、ぴしゃり、と、しめった音が響いて、それはもう、体温のある肉と皮じゃない。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ