(8)終
セミの部屋の蛍光灯が、やけに青っぽく、テレビ、スーツ、カーテン、畳、パソコン、レンジ、本棚、いちいちうすい影をつくる。角がとれて、つるんとまるい。ひらがながちらかっているようだった。わたしは、8のような、&のようなかたちになって、コーヒーを飲むセミを見ている。
「つかれた」
「そう」
予想以上でも以下でもない、こんなこたえのために、それでも言ってしまう。こんなむだなことが、ときどきはいとおしいこともあるけれど、いまは、無力感がすべてだった。
「ごめんね、遅かったでしょ」
「いや」
「一時間弱くらいかかったかな。人身事故あってさ」
「人身事故」
「てゆうか、歩くのがだるくて。休み休み歩いてたら、こんなになった」
「いいよ」
まばたきもせずにじっと見張って、ほんの少しの心の動きも逃さないように、待ち受けているのに、なんにも見えないのは、わたしが鈍感なせいじゃなくて、セミのポーカーフェイスじゃなくて、本当になにも考えていないだけのような気がしてならない。わたしは必死で、一番かんたんな感情、セミが怒ってくれるのを期待して、しつこく遅くなった言い訳をしている。はじめからわたしが来るかどうかなんてどうでもいい、セミには通用しなかった。そんなことは、分かってた。でも、わたしたちには、会話をはじめるのに、ほかにてきとうな話題もなかった。人間じゃねえよ、馬鹿。底の底までからっぽで、いまここで、コーヒーをすすったら、もう完全にやることがなくなって、惰性のエネルギーがつきたら、スイッチを切ったように活動を終えて、死ぬだろう。死んでしまえ。わたしは、こんなにあたふたと赤くなったり青くなったり、信号みたいにちかちか落ち着かないのに、どうして、わたしにつきあってくれないんだろう。わたしを相手にしているから、わたしがあまりにもつまらない女だから、一緒になって人間ごっこするには人間くさすぎる、だから、こんなセミはわたしの前だけで、だとしたら、やっぱりわたしがならなきゃいけないのはペンギンだった。シーソーみたいに、わたしたちの役も逆転して、水槽ごしに、かわいい、かわいい、かわいい、って言ってもらえる。かわいい、じゃないにしても、かわいそう、くらいは思ってくれる。でも、わたしは、にやにやして、ペンギンのポーカーフェイスをくずしちゃいけない。すぐに、あきられてしまう。
「ここまで来てる」
「なにが」
「水」
「へえ」
「池袋は、もう水没してた。じとっとしてて、なんか息苦しくて、青黒いのがもやもやしてる。街灯とか、お店のあかりとか、五倍くらい大きく見えて、輪郭が変になってぶよぶよして、気持ち悪かった。歩いてる人は海草みたいじゃない。とまってたらサンゴみたいだし。車は回遊魚みたい。カツオとかマグロみたい。たまに、クジラがいる。わたしも小魚みたいに、海草をかきわけて、ふらふら駅に流れ着いたのね。電車の扉が開いて、飲みこまれて、網にかかって引き上げられたみたいに、電車がだんだん池袋から遠ざかるでしょ。気づいたら、もう水のなかにはいなかった」
セミはだまっていた。わたしの言いたかったことは一割も伝わっていないのだと思った。分からないことにはあいづちをうたない、というくらいには、セミは正直だった。池袋を泣きながらさまよっていた、体がだるくて、せつなくて、泣いていた。そのまま言ったらうっとうしいだろうと、うつくしい表現をしてみたけれど、よけいなことだった。いまさら、種あかしするのも、くやしかった。つまり、泣き虫のわたしは、また、泣きそうだった。わたしは、こてんと横に倒れた。無限大の記号みたいになって、最後の力をふりしぼって、これから、セミにおそいかかる。その力をかき集めていた。わたしは、立った。服を脱ぎはじめた。
「なに」
やっと、セミがこちらを見た。もう、なにを考えてるかなんて、どうでもよかった。すっぱだかのわたしは、くずれ落ちるようにセミに抱きつき、
「このまま寝る」
と、ささやいた。セミが細く息をついた。それも、どういう意味か分からない。わたしは寝る。肩が軽くなった。意識をうしなう、この瞬間だけが本当の、健康だったころのわたしで、でも、わけの分からないだるさのなかで、また目を覚まさなきゃいけないと知っている。溶けてる、ちがう、おしっこもらしてる。下っ腹の激痛は、やっぱり血尿だろう。人間のにおいがする。これを全部出し切れば、体はなおって、ペンギンになることもできるだろうか。わたしは、わたしの膿を垂れ流しつづける。セミが、背中をたたいている。ぴしゃり、ぴしゃり、と、しめった音が響いて、それはもう、体温のある肉と皮じゃない。