(7)
由紀は、日本酒を注文した。おちょこも二個たのんだ。
「えいひれ。あと、ししゃも、二人前。あと、さしみの盛り合わせ、てきとうに」
「全部、おふたりぶんでよかったですか」
「ええと、じゃあ、おねがいします」
偶然なのか、なんなのか、魚介系ばかりだった。
「もういらない」
「そう。でも、食えるよ」
「いい」
「じゃあ、わたしが食べる」
「酒もいい」
「飲むよ。ひとりで」
もはやファンデーションなんてなんの意味もなかった。ただでさえ年じゅう黒い肌が、赤くなって、まざって、きたない紫の顔をしている。耳だけが、ちゃんと血の色をしていた。わたしは目をそらして、
「いま、何時」
「九時前」
「帰らなきゃ」
「なんで。なんかあるの」
「いや」
でも、いまから池袋にむかったって間に合わない。たしか、九時に閉まると思う。だめだと分かると、よけいにしたくなる、欲しくなる、行きたくなる、そういうもので、わたしは、ひとりですねはじめる。なんで水族館に行くんだっけ。最初から知らなかった。忘れた。行って、なにするんだろう。ペンギンとか、見ると思う。それも、忘れた。いつのまにか、気分だけが残る。目の前の由紀が、とても腹の立つものに見える。ここが、水族館に似てくる。ここを水族館にしてしまえ。変形していく。
由紀が、白紙の台本をもてあそんでいる。
「ある日」
そこから読み上げるように、それをテーブルに置いて、のぞきこんで、由紀は、突然口を開く。
「うん」
「ある日、水族館の男が、巨大水槽にもたれて座ってた。目は開いてるけど、眠ってるみたい。なにか考えてるみたいだけど、ぼおっと休んでるだけのような気もする。空調の音と、循環する水の音。けっこう気持ちいいと思う。溶けて、どろどろに、水になったみたいに眠れる気がする。なにしてんだか、意識もあるのかないのか分からない。なんか、見たり聞いたり、考えたりしてるとしたら、こう、頭の三十センチ上くらいのところで、ぼおっと自分を見下ろしてる感じ。わたしは、よくなるよ、そんなふうに。
寝る寸前だった。消えてなくなりそうな、ふわっと飛んでいきそうな、その瞬間、ぶうん、ぶうん、ぶうん、ぶうん、って、空気と水のうねる音を裂いて、声が聞こえたの。子供の声だった。遠くから聞こえた。水族館の男は、はっとして、立とうとして、でも立ちきれなくて、そのまま中腰で耳をすました。こわかったし、うれしかった。でも、まだよく分からない。また聞こえてきたら、本当に、気のせいじゃなかったら、そのときになったら、ちゃんと自分の気持ちを決めようと思ってた。しばらく、ぶうん、ぶうん、って、いつもの音がずっと聞こえてるだけだった。うすうす、気のせいじゃないかって、あきらめはじめてた。夢だって思うのが、一番分かりやすかったから。よくある。テレビの砂嵐を流してたら、なんか、知ってる歌に聞こえてくるとか。突然、君が代が耳に入って、びっくりしてそっちを見たら、もう消えてた。この前、本当にあったよ、わたし。二日酔いの朝だった。五時くらい。それで、それで、水族館の男は、なんだ、って、また座った。馬鹿馬鹿しくなって、ふて寝しようとした。ちゃんと寝るつもりで、目を閉じたの。
また声がした。笑ってた。
男は、無視した。どんどん、近づいてくる。やっぱり、と思ったけど、もうがっかりするのはいやだったから、がまんして、がまんして、確実にそうだということにできるまで、男は目を開けないことに決めた。
もう、すぐそこ。水槽にそって、ぐるっとまわって、もう、来る。笑ってた。
ブルージェリー。
ブルーカンディル。
ふたりいた。たぶん、ふたり。男の子と、女の子がいた。ひとりが、ブルージェリー、と言ったら、もうひとりが、ブルーカンディル、って、こたえた。こたえたみたいに聞こえた。それから、笑った。
カクレクマノミ。
ハナビラクマノミ。
男の子が、カクレクマノミ。女の子が、ハナビラクマノミ。言い合って、また、笑った。水族館の男は、やっと目を開ける。魚が泳いでる。視界いっぱいに、きらきら、魚が泳いでるみたいに見えた。目がなれるまで、なにがなんだか、分からなかった。息をとめてたかもしれない。さっきより明るい気がしたけど、気のせいじゃなかった。廊下、柱、床、水槽、こんなに照明があったんだってはじめて思った。そこらじゅうの電気がついてた。こいつらがつけたんだって、それは、すぐにつながった。青白い、病気みたいな顔した子供たちだった。でも、きれいで、かわいくて、押したらへこみそうな、まだふにゃふにゃやわらかい粘土みたいなほっぺしてて、なんか、ちゃんと地に足がついてないというか、たよりない感じで、その子たちも不安なのか、おたがい寄りそって、Yみたいにも見えた。男は、急にむせた。涙が出るくらいせきこんで、口に手をあてて、顔を上げるとまわりがひどいほこりだって気づいた。そうじなんて、してないからね。男の子と女の子が走りまわったせいだと思う。のどが、いがいがした。これだったのか、と思った。正体は分かったのに、ばれてるのに、しつこく目の前で、きらきら、光を反射してただよってるけど、もう二度と、魚が泳いでるように見えることはなかった。
ふたりは、Tシャツ着てた。売店で盗んできたやつだった。どこかで見た気がする。ハダカカメガイ、いわゆるクリオネをキャラクター化したようなのがプリントされてる。そういえば、着てる子たちは、クリオネに似てる。クリオネじゃなかったら、クラゲとか、あんな感じ。いるんだかいないんだか、分からない感じ。骨は透明なプラスチックでできてる。口を開いても、胃とか腸まで管が続いてなくて、内臓はぽっかり空洞で、おしりの穴もないような気がする。クラゲをながめてても、あれが生きもので、心があって、なにかを目標にして日々ふらふらしてるなんて、誰も思わないでしょ。わたしも思わない。そんな人間、いたら気持ち悪いでしょ。でも、その子たちが、まさにそれで、ぜんぜん生々しいところがなくて、呼吸してるんだか、光合成してるんだかも分からない。
クリオネという名前で知られています。その名前はギリシャ神話の「海の妖精」であるクレイオに由来しています。子供の期間にしか殻を持たない巻貝の仲間で、羽ばたくように泳ぎながら生活しています。
生活って言葉が、なんか違和感がある。ギリシャ神話、海の妖精、なんだか知らないけど、こんな名前つけた人は、ハダカカメガイにどんな夢を持ってたんだろう。こんなグロテスクな生きものはいないね。もし擬人化したら、ちょうど、この子供みたいになる。幽霊みたい。幽霊とちがうのは、ぎらぎらした食欲、とりあえず生きとかなきゃっていう本能を、ぜんぜん感じないところだけ。いや。幽霊みたいな、まがまがしい怨念、意思なんてないと思う。
北海道の一部をのぞく、日本各地で見られるクラゲで、体色は無色または乳白色を呈しています。傘の中央部には馬の蹄のようなかたちをした生殖腺が四片見られ、その生殖腺を目にたとえてヨツメクラゲとも呼ばれています。
男は、説明書きなんて、全部覚えてる。知ってる。これは、ミズクラゲっていうクラゲの説明。生殖腺って、要するに、男性器、女性器でしょ。そんな特徴で名前をつけられるのも、かわいそうというか、あわれというか。漢字読めない子供が、お父さん、お母さんに聞いたら、なんてこたえたらいいんだろう。生殖腺、って、書かれてても、ぜんぜんぴんと来ないくらい、クラゲって清潔だね。でも、あんなクラゲも、生殖だけはするらしいよ。生殖腺がついてるからには。分裂するんじゃなくて。クラゲ、絶滅してないしね。そういえば、男の子にも女の子にも、ぜったいについてるものはついてるんだ。いますぐにはつかえないし、つかわないにしても、十年もたてばできるような体になってるわけで、なんていうか、グロテスクな想像だね。これは、わたしがいま思ったことなんだけどね。まあいいや。クラゲみたいな、クリオネみたいな子供たちが、寄りそってる。風が動いてる。ほこりが流れていくから、分かる。男の子と、女の子が、くすくす笑いだした。なにがおかしいんだろう、と、男は、単純に興味を持った。自分が笑われてるなんて思いもしないから、むっとしたりすることはなかった。なにを笑っているのか、それが、この子たちの正体と無関係じゃない気がした。だから、誰だろうと警戒する気持ちは、だんだんしぼんでいって、なにがおかしいの、って、聞きたくてしかたがなくなってきた。ど、どうしたの。そういえば、ひさしぶりに声を出した。前になにか言ったのはいつだったか、そんなことは思い出すこともできないし、どうでもいいことだったけど。
ブルージェリー。
ブルーカンディル。
また言ってる。ちらちら、目を合わせて、こっちを見て、魚の名前で話してる。
カクレクマノミ。
ハナビラクマノミ。
分かった。話してるんだ。どういう意味なのか分からないけど、この子たちは、魚の名前で会話できる。てゆうか、ほかの言葉を知らないし、たぶん、必要もないんじゃないか、って、男は分かりはじめた。
キイロハギ。
ナンヨウハギ。
水槽には、くさった死体がゆらゆらしてた。ごめん、からっぽって言ったっけ。まあ、原形が残ってるのもあるさ。で、人間なんて自分以外に誰もいない、こんなところで、どこから入ってきたのか、それとも、ここで暮らしてるうちにできた、誰かの子供がひっそり隠れて生きてたのか、男は知らないけれど、どう見ても五歳か六歳くらいで、この子たちが勝手に育ったってわけはないし、誰かがめんどうを見てたとしたら、それは人じゃなくて、水族館そのものが、っていうか、つまり、説明書きの字をながめて、案内のアナウンスをどっかで聞いて、とにかく声を出してみることは覚えて、お腹がすいたら水槽から魚をつかまえて食べて、そういう、すごいシンプルな、動物みたいな成長をしてきたにちがいない。動物じゃない、魚。水族館で飼われてる人間、人間、って名前をつけられてガラスのなかに入ってる人間は、こんなのだろうなって、思った」
由紀が、携帯を閉じる。ちゃんと水族館に取材に行ったらしく、写真にでもとっていたのだろう。近くの水族館と言えば、池袋くらいしか思いつかないから、きっと、わたしはいつか由紀にあそこで会ってしまう。わたしは、そのとき、なんの水槽の前で、ぼおっとしてて、肩をたたかれて、はっとして、なんて言い訳するんだろう。
「誰が」
「なにが」
「誰が、思ったって」
「そいつが」
「ああ。あんたじゃないんだ。そう。あんたじゃないんだ」
「なんで」
「それでいいと思うけど、結局、なんなの、それ」
「雰囲気」
「雰囲気だけの話ね。それでもいいけど。終わったの、全部」
「まだ。たぶん。雰囲気だから、分かんない」
「じゃあ、それもいい。とりあえず、わたし、なにすればいいの」
由紀が、A4を置いた。はしの差してある筒の横、アンケートはがきを書くためのえんぴつが転がってる。由紀がそれをつまみ上げて、頬杖をつきながら、くるくるもてあそぶ。つまり、なにも考えていないということで、ここですねられる意味も分からないが、わたしは会話がとぎれたすきに、自分の体の点検をする。肩が痛い。まあ、悪くなってはいない。下半身は、残尿感を中心にしてだるさが広がっている。本当の尿意かどうかあやしいが、さっき行ったばかりだから、たぶん、このままがまんしていればそのうちおさまるのだと思う。目がごろごろした。くさったみたいに粘膜の水分がねばねばしてる。重くて、かたくて、動かすのもめんどくさかった。たしか九時くらいだと言っていた気がする。有線の音楽は、何度目かの福山雅治で、気づけばいつもこれで、毒にも薬にもならないけれど、それぞれのテーブルでうずまいている声を、つないで、埋めて、うすめて膨張させるようで、ぱんぱんにふくらんでわたしの耳まで波が押し寄せてくる。沈んでいくことはできなくて、いつまでも波がくずれる瞬間、その瞬間に立ち会っているという、このストレスに、目を閉じると、案のじょう、音は高まるばかりで、わたしは軽石みたいな眼球を固定して、由紀が指にはさんだえんぴつの尻を見ている。
由紀は、水族館の、と、おばあちゃんのような楷書でていねいに書いた。迷ったようなそぶりを一瞬しておいて、女、と書いた。水族館の女、その下に、わたしの名前を書いた。そうだ、それでいい、と思う。わたしは水族館の女で、いつのまにか人の死に絶えた水族館に迷いこんでいて、水族館をうろうろしてる。理由は分からない。体はだるいし、眠いし、ひとりきりで欲求不満で、いつもむらむらして、いやらしいことを考えている。
「それでいいの」
と、わたしは言った。
由紀が顔を上げる。
「いいよ」
「分かった」
わたしは、ペンギンとかヘビにあこがれて、あんなふうになりたくて、着々と変身は進んでいたはずなのに、また、わたしそのものみたいな水族館の女になって、わたしはわたしをちゃんと生活させなきゃいけない。肩が痛い。人間が、人類がのしかかってきたみたいに、重くて、つらい。わたしが人間代表で、いま、ここで、苦しんでいるんじゃないかと、はじめて神様みたいなもの、いじわるな、運命とか人生とかを左右するわたしを越えた存在に、神様、という言葉で呼びかけ、なんでわたしが、と文句を言う。




