(6)
ボストンバッグから顔を出したヘビにも、ペンギンはまるで動じなかった。ヘビのほうも、ずるずる体を引き出して、ざぶとんの上でぼったり自分を折りたたんだら、それで落ち着いてしまった。くやしくて、泣きそうで、壁に背中を寄せ、くずれ落ちるように座りこんだら、もう泣いていた。電話した。
「はい」
こんなときにかぎって、一発で出た。
「もしもし」
「うん。わたし。いま、だいじょうぶ」
「だいじょうぶだけど」
「聞いて」
「聞いてるよ。いいよ。言えよ」
「いま、わたし、部屋にいるの」
「ああそう」
「いま、部屋にヘビがいるの。いまにもおそいかかってきそう。ちょっと来てよ」
「は」
「ヘビがいるんだ」
「なに言ってんの」
「正確には、ボア・コンストリクターっていう。助けてよ。特定動物なんだよ。無毒だけど、力が強くて、大型だから」
セミがなやんでいる。こんな言いかたで、会いたいと伝えたがってるわたしが、どれくらい深刻に会いたがっているのか、考えている。でも、本当に大型のヘビがいるとだけは思わないだろう。馬鹿。あんたは、わたしのことなんて、なんにも知らない。
「なに言ってんの」
なやむのはちがうと思って、怒りだした。なんでもよかった。セミはわたしのことを知らなくて、知ろうとしてくれなくても、わたしはなにかの力でセミをかき乱している。ここから、けんかすることだってできた。わたしは、はじめて、こいつと対等に話している気がする。
「今日は、どうなの、いそがしいの」
「なに」
「遊んでよ。かまってよ。てゆうか、お見舞いに来て。買いものするのもだるい。なんか、買ってきて」
ペンギンが見てる。見てる、と思って、そちらに目をやるけれど、正面をむいたまま、こちらを気にしてくれたような感じは気配も残していない。見ててよ。ねえ、
「助けて。ヘビに食われる」
つま先をぴんと立て、右足をヘビのほうへ伸ばした。助けて、助けて、と、言うたびに嘘になって、たのしくなって、まるでいちゃいちゃしているようだけど、一方通行だと思い出して一気にさめる。いまさらやめられないのが精神的な拷問のようで、しっぽの先を蹴っても、あごに親指をあてても、ヘビはじゃまだとも思わないらしく、もう、わたしが本当にヘビに飲まれるしかないのに、まるでそのことが分かっていて、わたしにいじわるしているように、ぜんぜん動かない。目をぱっちり開いて、外敵を警戒している緊張感をびりびり感じるのに、つまり、わたしは外敵でもなければエサですらない、ヘビにとってはなんだかわけの分からない、暑さ、寒さ、かゆい、くすぐったい、そんなうっとうしい現象のひとつでしかない。
どのタイミングで電話を切ることができたのか。セミのほうで切ってくれたのなら、むしろ感謝すべきなのかもしれないけれど、次またふつうに電話をかけられるような感じで終われたのか、それだけが気がかりだった。どこかで飛んで、わたしは、全裸で寝ているわたしを見つける。飛んだのは記憶なのか、それとも、夢のように全部が不安定であやふやで、すぐにくずれてしまう、そういうあやうい、いまのわたしなのか。しばらく目を閉じていた。おそるおそる、まぶたを持ち上げると、やっぱり部屋のなかにいるのが分かった。首をかたむけると、ペンギンがいた。ヘビもいた。もういやだ。部屋が荒れている。わたしが暴れたにちがいない。他人事みたいにそれを見て、なぜか、ひさしぶりにやすらかな気持ちになり、生きてるなあ、と噛みしめるように思った。わたしは、ひとりで片づけなくちゃいけない。ヘビもペンギンも手伝ってくれないから。
「すみません。そろそろ閉館のお時間なんですが」
「あ、ごめんなさい」
振り返ると、バイトらしい女の子が立っていた。入口のほうの明かりは消えていて、水槽からもれる光にも、目鼻はちゃんと見えた。
「待ち合わせ、ですか」
「はあ」
「いや、なんか、電話してたから」
待ち合わせだったら、待たせてくれるんだろうか。まさか。わたしは歩くのもだるいから、ここで待ち続けて、待ちぼうけのまま寝てしまっても別によかったけど、この子がかわいそうなので、素直に帰るしかないと思った。
「ペンギンって、飼えますかね」
「さあ」
「さあ、って」
「家庭で、ということですか。わたしはよく分からないんですが、むずかしいんじゃないでしょうか」
「おとなしいもんじゃないですか。部屋にいたら、いやされるだろうと思って」
こんなことを平然と言うわたしの口は、ばちがあたって、よじれていただろう。笑ったように見えたのか、バイトの子は、わたしにこたえるように、ふふふと笑った。
ケープペンギンは、アフリカ大陸に生息する唯一のペンギンで、砂地に掘った穴や木の根もと、岩場のすきま、民家の軒下などに巣をつくります。夫婦交代で卵をあたため、子育ても協力して行ないます。夫婦の絆はとても強く、何年も同じ相手と同じ場所で営巣すると言われています。
誰か、わたしにも、こんなすてきな説明書きをつけてほしい。わたしはかけがえのないものです、大事にしてください、愛してください、電話だけじゃもう伝わらないから。分かりやすく書いてあげなきゃ、あんたには分かんないんでしょ。そうなんでしょ。夫婦の絆はとても強く、なんて、書かれてたら、もっとわたしを愛さないといけないって気づくはずで、わたしだって、それなりにかけがえのない、唯一の人間で、さみしいし、死にたくなるし、のたうちまわる、あんたと同じように心を持った人間なんだ。だめだ、口を開いたら、全部を吐き出してしまいそうだ。早く、バイトの子から離れて、ひとりでどうにか片づけなきゃいけない。きっと泣くだろう。わたしは、ふらふら、最寄りのトイレを探す。もう泣いてる。こぼれていないだけで、涙をせきとめるまぶたが、重くて熱かった。わたしはこんなに泣き虫だっただろうか。たぶん、体が変なのと無関係じゃない。泣き虫、なんて、かわいいものでもないけれど、なんだかおもしろくて、泣き虫、その言いかたが気に入ってしまう。
いろんなものがじゃまだった。わたしは、どうしようもなく弱っていて、わたし以外の誰か、たとえばセミからやさしくされたいだけで、でも、たぶん、もう、だいじょうぶとか、お大事に、とか、そんな言葉のかたちじゃ満足しない。やりたい。性欲みたいだけど、少しちがう。わたしは、それを、最大の愛情表現だと思って、受けとめる。そういう心の準備はできている。生殖以外のセックスがしてもらえないなら、わたしとセミは、目的のない行動なんてしないペンギンと同じで、それなら、それでもいい。それでもいいけど、ペンギンになりきるには、いろんなものがじゃまだった。たりないのは、かわいさだった。
「どうした」
セミから、かけなおしてきた。わたしは、トイレでおしっこしてた。細い、たよりない線で、だらだら流れつづけるのをながめながら、
「めずらしい」
「なにが」
「そっちからかかってきた」
「いま、携帯見て気づいたから」
ぽこん、ぽこん、尿道にひっかかるものがあって、わたしは体を折った。目の奥まできりきりするほど痛かったけれど、歯を食いしばって、声には出さなかった。おしっこに血がまじってた。こわかった。わたしの体はどうなってしまうのかと、変な汗が、額ににじんだ。
「今日は、どう」
「なにが」
「会えない」
「え」
「なに、なんかあるの」
「もう風呂入って、寝るだけみたいな状態だからなあ」
「めんどくさいの」
「まあ」
「じゃあ、わたしが、そっち行く」
おしっこしてるとか、血尿が出たとか、言ってみたい気持ちをおさえて、わたしは声であまえた。でも、わたしの攻めかたは逃げ道をひとつずつふさいで、かこんで、じりじり追いつめるようで、わたしが行っちゃいけない理由をうばっていく、消去法でしか、じゃあいいよ、とセミから引き出すことはできない。セミが考えている。なにひとつ、わたしはわたしのことを伝えていない。でも、それでもいいと決めたのは、わたしだった。
おしっこがとまっていた。残尿感は、いつもよりひどかった。わたしは、片手で音を立てないように紙をちぎって、ふいていた。
「じゃあ、いいよ」
「いいの」
「いいよ。なんで」
「じゃあ、四十分くらいしたら着くと思う」
「分かった」
契約が完了したように、電話は終わった。赤いマーブル模様が、溶けきらずに、ゆらゆらしていた。わたしは、これから、セミとセックスしに行く。わたしの体を気づかうということが、セミが遠慮する理由にならないか、なんて、わたしはだめだったときのうまいフォローを探しながら、水を流した。目を閉じた。五分ほど、このまま休むことにした。