(5)
「まだ具合悪いの」
「よくはない。悪い」
もうなにか飲んだり食べたりするようなことは起こらないので、心配してもらおうとマスクをかけなおしたら、案のじょう由紀は心配してくれた。うれしくもなんともない、約束どおり、そうなったというだけのことで、
「そう。なにが悪いの」
さらに聞くけれど、やっぱり反射的にそうなるだけで、でも、わたしはここぞとばかりに、
「知らない。分かんない。ひまさえあれば寝るからね。肌のはりとか、どんどんよくなっていくんだけど、頭のなかがくさっていくような気がする。なんかがわたしの体をむしばんでるの。そのうち、変な動物を出産するよ。ぐちゃぐちゃに糸ひいて、紫の体液を垂れ流して、口のなかが緑色で、くわっと歯をむきだしにして首すじにおそいかかってくる。それで、また別の人間に寄生しようと、排水溝のなかをずるずる這いまわってね、まあ、そんな感じ」
クリーチャー的なアメリカ映画になぞらえて、寝すぎて眠い、くらくら、ふらふら、夢とうつつの国境をまたいで立っているようなこの感じを表現しようとしたが、苦労して表現しているわりに、あまり伝わっている手ごたえがない。マスクごしの、わたしの声は酒やけしたホステスのようにすごみがあって、しゃべるのもめんどくさいようなけだるさが、絶妙の間をつくっているのかどうか知らないけれど、そうなのかもしれない、そんな感じ、とわたしが結んだとき、由紀のなかでは順調に脱線して、最近見たB級映画の話でもしていたのだと錯覚したらしく、わたしの体のことなんて置き去りにして、ジブリの映画の話題で、ひとくさり、ひとりで盛り上がる。
いつでもどこでも眠れるように、先週くらいから、わたしはコンタクトをしない。メガネをかけるのも、顔が重くていやで、字を読むとき以外はケースにしまって歩く。こんなはじめて来る場所では、ぼやけて、にじんで、なにもかもがモネとかセザンヌになってしまう。時計も、カレンダーらしき壁にかかった紙も、ただ抽象的な丸と四角で、テーブルを縫って歩きまわるバイトも、飲み放題の二時間をまっとうしようとがんばる人々も、微生物のようにぶよぶよ伸びたり縮んだりしているように見えて、顕微鏡をのぞくような、万華鏡をのぞくような、ぬるま湯の感覚に身をまかせているのは、気持ちよくないこともなかった。あきたころに、由紀はちゃんとわたしのことを思い出していた。
「水族館の話、したっけ」
わたしは、はっとして、なんで知ってるの、と問いつめたいのを押し殺し、肘をついて、わたしの体をテーブルに貼りつけた。
「してない。なに」
「世界の終わりみたいな大津波があって、隕石だか、地震だか、天変地異だか知らないけど、まあとにかくあった。分かった、隕石。隕石にしよう。隕石が落ちてきて、大津波があったのね。で、水族館ね、その水族館は、海岸にあるでしょ、海に浮かぶみたいにできてて、一瞬で波にのまれてしまった。海面が上がったんだか、地盤沈下したんだか、それも知らないけど、波が引いても水族館は海のなかなの。みんな、閉じこめられた。水がもれるとかは心配ない。完全密閉されてるから。空調も生きてるんだね、ちゃんと空気が入れかわってる気がする。でも、こういうのは理屈じゃないから、とりあえず無事でも、関係なしにパニックだ。
で、騒ぎがおさまって、たぶん何日かかかったと思うけど、まず、逃げだそうとする人がいる。まあ、そうなると思う。世界で何番目とかの、すごい大きな水槽があって、その水槽は海につながってるの。網とか、フェンスでかこってさ、生きものが逃げていかないようにしてるだけ。だから、ただしくは水槽って言うのかどうか分かんないんだけど、ガラスから海をのぞいてるだけでしょ、勇気ある人たちはそこから外を目指して出ていくわけだ。どっか、あることはあるんだよ、水槽に入れるところが。たぶん、外側からガラスのそうじとかするだろうし。
きらきら光る、イワシみたいな小魚が群れてて、人が泳いでいくと、ぱっと散って、しばらくは魚たちはあたふたして、なかなか仲間たちともとどおり一緒になることも思いつかない。想像もできないけど、きれいだろうね。舞台にラメを降らして、照明あてると、そんな感じかな。はたで見ててもすごいだろうけど、そこを泳いでいく人は、さぞ感動しただろうね。それどころじゃないけど。宇宙遊泳してるような、そんな感じか、ますます想像つかないけど。けっこう、簡単に脱出できそうだった。水槽にべったりはりついて、みんなが見守ってたし、泳いでる人も、そう思ってた。
動かないから、分かんなかった。岩かなんかだと思ってた。大きな、タコがいた。誰も気づかなくて、水面ごしの波に反射した光がゆらゆらまたたいて、ふらふらしてたから、そう見えるだけだということにして、ぜんぜん気にしなかったけど、泳いでる影がさして、急に溶けるみたいにぐにゃっとかたちがくずれると、足がのびた。つかまった。本当に大きなタコで、まさかタコだとは思わないくらい、馬鹿馬鹿しいくらいの大きさでしょ、あ、って誰かが声をもらした。たぶん、それが、最初に気づいた人で、そこからだんだん広がっていった。うすうすみんな、あれがタコで、そいつが足をのばして人をつかまえて、いまぐにゃぐにゃしてるのは、きっと食事中なんだろうと想像できた。
みんな、じっと見てるの。馬鹿みたいに、口あけて、馬鹿のふりして。どうしていいのか、分からない。そりゃそうだ、なんにもできない。ふくらんで、しぼんで、つかれたピンクのタコは、なんだかむきだしの心臓を見てるみたいだった。だんだん、にぶくなって、とまった。タコはもと通り、足をたたんで、ぎゅっと体をちぢめて、一個の岩みたいになった。みんな、散っていったよ。なに考えてたんだろ。どうせ、外も天変地異でどうなってるか分かんないし、案外、水族館が一番安全なのかもしれない、なんて、心のなかで言い訳してる。実際、そうなんだ。このまま水族館で一生暮らすのと、世界の終わりみたいな外の世界と、どっちがいいのか、くらべられないから分かんない。てゆうか、そんなに水族館も悪くない気がしてきた。ふと顔を上げると、
タコの仲間で最大になり、体長九.一メートル、体重二七二キログラムという記録があります。
タコの水槽があった。正式名称はミズダコなんだって。ああ、ミズダコだったのか。ミズダコ、ミズダコ、ミズダコ、名前がついて、それでもう、納得したことにしておいた。
あきらめたというか、覚悟というか、水族館での共同生活がはじまったわけさ。共同生活って言ったって、別にサバイバルってほど深刻でもない、レストラン、カフェ、売店、大きな水族館だったから、お店もいっぱい入ってて、たしかに、たくわえてある食料はしれたものだけど、水槽のなか、魚たちはほとんど無数に、永遠につきないような気がした。カップルだったり、家族だったり、一緒に水族館に来た人たちが、自分たちの水槽、つまり食料庫を決めて、見張れるような場所、たいていはガラスのすぐ前をなわばりにした。誰からそうするともなく、自然と、そうなっていった。みんな、しゃがんでる。空調の音が底鳴りして、頭の上からがんがん押さえつけられるみたいで、変な圧迫感があったけど、しだいに水族館の空気が、また、眠ったみたいに、波うつのをやめた。しずかに、血がめぐるみたいに、水槽のなかの水が循環してた。その流れが、聞こえるくらいだった。水族館の生活は、小さな村に似てた。おたがいに水槽のなかの自分の食料を交換する、そのときだけ、会話と交流があった。国と国の貿易のほうが、もっと近いかもしれなくて、だんだん、同じ言葉を話せなくなってきた。そうなると、水槽の前にうずくまって、ぼおっと一日すごしてる人たちが、人間、って名前をつけられた動物みたいで、生活してるというか、生息してるような感じだった。自分の水槽以外にはなにもいらなくなって、貿易もなくなった。カクレクマノミ、ドクターフィッシュ、ミズクラゲ、スミレナガハナダイ、ナンヨウハギ、カブトムシ、なんてのも水族館にはいたんだけど、小さい、そんなのにあたった人は運が悪かった。なんだか、見えない檻が、水槽の幅だけあって、立てなくて、抜け出せないの。
水槽をながめて、一日じっとしてる。そのうち、似てくる。タカアシガニ、ミズダコ、ボア・コンストリクター。それに、ケープペンギンとか。みんな動かないのね。エサをくれる人もいないし、体力節約してるのかと思ったけど、そういえば、ふだんからこうだった気もする。馬鹿みたい。マイペースにだらだら、ごろごろしてるのを見て、かわいいとか、変な顔、とか、こわい、きれい、なんてよろこんでたんだって、分かった。映画見て、ちょっとお茶して、そのまま帰っておけばよかったものを、ぶらっと水族館に入って、閉じこめられた。馬鹿だ。ちょっとめずらしいだけの生きものたちと、どっちが長く生きられるか、競争してる。なんのために、水族館に来たんだっけ。てゆうか、なんで、水族館なんてあるんだろう。
不気味だよ、たぶん。人間が、人間って動物になると、こんな感じなんだ、って、そんなの見たくないでしょ。そう、誰も見る人がいない、ってことをのぞけば、ただの平和な水族館にもどったようでもある。生きものが、ひたすら生きてるだけ。汗と排泄物のにおい、それがむれて、動物のにおいがしてきた。それはそれで、安定した、ひとつの状態なのかもしれない。生きてるだけって、本当に楽なのね。でもね、人間だからね。生きてるだけ、ってだけで安定しつづけることは、むずかしい。なんだっていいの。今日の食料、おまえのほうがちょっと多いぞ、とか。あんまりこっち来んなよ、せまいんだよ、とか。あとは、簡単。言い出したら、とまらないよ。ちょっと動物っぽくなってるから、殺すぞ、って言ったら、本当に殺そうとするんだよ。首しめて。そういう事件が起こると、みんなまねする。まねするというか、こういう生活が不満だったってことにやっと気づいて、やつあたりでもしなきゃやってられない、ってくらい、すさんで、どろどろにくさって、死ぬほどいらいらしてるのをやっと認めたわけ。体力も限界だし、だから、一番エネルギーをつかわないやりかたで、最短距離で相手をぶち殺そうとするのね。まねしてるのかもしれないけど、やっぱり本能的に。首をしめようとするんだよ。水族館でさ、そこらじゅうで、首をしめ合ってるの。それを、水槽のガラスごしに、魚とかが見てるの。なんなの、これ。地獄なの。ヘンリー・ダーガーみたい。お花畑のなかで、兵士が子供を虐殺してる、あれみたい。男が女を殺して、たまに女が男を殺して、これで、人間は半分くらいになったでしょ。残った人たちも、すぐに死んだ。たいていは自殺で。水槽に飛びこんでね。そうじゃない人は、さみしくて死んだ。とにかく、全滅した。水槽の生きものは、もうしばらく生きてると思うよ。どんどん増えて、エサの藻とか苔とかプランクトンが足りなくなって、それから、徐々に死んでいくんだろうね。ひょっとすると、何十年かかかるかもしれない。
で、これからが話なんだけど、いままでのは、設定ね。人は全滅して、何十年か何百年か知らないけど、水槽のなかもからっぽになって、どろどろした水が波うってる。廃墟になった水族館に、ひとり、うろうろ歩きまわる男がいる。どこから入ってきたのか。なんのために水族館を徘徊してるのか。誰にも分かりません。誰も見たことがないからねえ」
「なんの話」
「そういう話」
「はあ」
「だから、そういう話を考えてる」
「ああ。芝居の」
問題提起で断ち切られて、いったいそいつは誰なんだという疑問が、全体的な後味の悪さとからみつき、お腹のなかのアルコールをぐつぐつ沸騰させる。発酵してる。話がなんだか分からないなりに、頭はちゃんと考えようとしていて、栄養をほしがっているけど、胃のなかにはウーロンハイと焼酎とワイン以外になにも入っていないのが申し訳ない。ぐらぐらした。どこかで、飛んでる。夢みたいに、場面がつぎはぎされてる気がする。そこから考えなおす。やっぱり、やめとく。
ビールのピッチャーからしずくが垂れて、まるい水たまりが、台本へ半径を広げていって、あと一センチ、わたしは、拾って救う。話しているうちにいつのまにか由紀が置いていて、タイトルに、水族館で鬼ごっこ、とあった。右上に、ページ番号がふってあった。1だった。それだけだった。でも、たぶん台本でまちがいなかった。油のしみがあった。ぶるぶるふるえて、やがて、左のほうへ動いていく。またひとつ、しみが浮き出る。小さな魚、メダカのようなシルエットで、ぽつり、ぽつり、通りすがったみたいに増えていって、A4の紙が埋めつくされるまで、わたしはぼうっとながめていた。ふと、親指のあたりに目をやって、そろそろ、爪の先をずらしていくと、水、水族、水族館、の字が見える。とたんに、メダカは消えた。
行かなきゃ。
全部すっとばして、結論だけが来た。2×2は4、みたいに、そこにたどり着く道すじを説明するのはむずかしい。だけど、どうしようもなく事実で、しょうがなくて、そのどうしようもなさに腹が立つほどだった。
「わたし、思うんだけど」
水族館に行かなきゃ。いますぐ。
由紀になにかを言おうとしている。口を開いてみれば、次から次へとあふれて、頭のほうが追いつかないくらいだった。
「聞いてたらさ、水族館は、ふたり、ふたり以上で行くもんだと、あんたは思ってるでしょ。そうでもないよ。写真とりに来たり、絵を描いたり、そういう人もけっこういる。あんまり、そういう人のことを想定してないでしょ。別に、水族館はカップルで行くものとは決まってません。純粋に魚が好きで、観賞するのが趣味の人だっているし。わたしは、どれでもないけど、水族館にひとりで行くよ。分かんない。よく行くけど、なんで行くのか考えたこともなかった。なんでだろ。毎日、見張ってなきゃいけないような感じ。わたしが見てないと、じっとしてるペンギンが、わたしのいないときに動きだしそうで、なんか、落ち着かなくて。じゃなくて、動くところを見たいの。いつ、がまんしきれなくなって、ペンギンが動いてくれるか分かんない。だから、見に行って、わたし、待ってなきゃいけないの」
だから、だから、だから、と、次の言葉が自然に出てくれるまで口を閉じないように、何度も繰り返したけれど、そこから先は、言葉じゃなかった。音にすれば、シンバルを思いっきり打ち鳴らすような感じで、もしもクレヨンか絵の具でも手渡されたら、わたしは幼稚園児みたいに、魚を、ペンギンを、ぐじゃぐじゃに描きなぐる。
由紀が酒を飲んでいる。わたしの手から、A4をひったくる。なんて顔してるんだろう。鼻の頭を中心にてかてか光って、目がすわって、ぎざぎざした歯が、にゅっと裂けた口からのぞいている。わたしは、何度も般若というあだ名で、こいつを呼ぼうと思ったけれど、しかえしにひどいあだ名をつけられるのがこわくて、そのたびに断念する。由紀は、わたしをイグアナと呼ぶだろう。わたしと由紀と、イグアナと般若で、何度かかけひきがあって、傷つけ合うのはやめようと、無言のうちに約束したはずなのに、わたしは、人間以外の名前で呼ばれたがってる。だめだ。水槽のなかで、片膝立てたわたしが、携帯を見てる。コール音を聞きながら、わたし、死んでる。