(4)
京都の女は、赤ちゃんのような笑顔を、わたしの鼻先につきつける。もう遠近感が馬鹿になっている。脂と汗で、わたしのまゆ毛は欠落しているだろう。そのほか、わたしの顔のさまざまな欠陥を、この距離で、隠しようもなく、それが相手に不快でさえなければ、わたしのほうは、もう、どうでもよかった。
フロントガラスごしに、明かりがちらちらした。信号が点滅していた。赤の点滅だった。さっきしたあくびの涙に、たよりなく、ふるえている。雨のような景色が、ぎゅっとまぶたをしぼると、なんの変哲もない池袋で、魔法でもない、夢でもない、わたしは、いつものようにただ眠い。
「遅いね」
「そう」
「迷ったかな」
「うん」
「眠いわ。寝ていい」
「いいよ」
京都の女は、笑って、なにがおもしろかったのか、つばを飛ばして、のけぞるようにシートに背中を投げだす。
「眠そうな声で言うから」
「ああ」
「そんな眠そうな声で、寝ていいとか言われても。そろそろ帰ってくるんじゃないかな。なんて言ってたっけ。トイレ行くって言ってたっけ。なんか、コンビニ行くみたいなことだった気がするけど、滑舌が悪くて、なに言ってるのか聞きとれへんかった。怒ってなかったよね。突然出ていったから、どういう流れだったのかも覚えてない。あのまま帰るとかじゃないよね。車置いて帰んないよね」
パグ、リス、ブルドッグ、ヒラメ、わたしは中途はんぱななまりのある声を聞き流しながら、目の前の相手のあだ名を考えている。どうやら、イメージは分かった。だけど、これというのが、まだない。どこかの時点で、自己紹介はされていたはずで、名前は聞いた。だけど、覚える意思もなく、むこうもそれから主張するわけでもなく、相手の男が、本当にわけも分からず去ってしまったあとは、名前を呼んでくれる人間もいないので、イントネーションに残るくせで、出身地の京都は覚えているというだけ。
わたしは、今夜の夢のことを考える。残尿感は、トイレを探しまわる。肩が痛いのは、なにかを運んでいるか、誰かの、知っている人もいるし、知らない人もいるのだけれど、不条理な暴力を受ける。酒を飲んだら、吐くし、外を歩けば、知らない町に迷いこむ。わたしが起きているときの経験は、忠実に夢のなかで変換されて、わたしの脳は、一日を振り返らないではいられないらしい。だいたい、肩の痛みがベースで、あとは、トイレを探して見つかるか、見つからないか、見つかったら、そのトイレはきれいかきたないか、あとは、どのくらい知っている人が出ているか、という加減のちがいくらいで、だいたい展開も順列組み合わせで予測できないものはない。夢にまで体の不調が入りこんだのは、覚えていないけれど、比較的最近のような気がする。わたしには、なにもかも受け入れる準備ができていて、具合が悪いのが普通の状態だと悟っていたが、まだまだ、あまかった。わたしは、悪夢を見るくらい、だいじょうぶ、死にはしないと思うのだけれど、だけど、寝ているときのわたしの脳みそには、いちいちそれが新鮮な悪夢で、わたしの覚悟とは無関係に、わたしの精神をささくれ立たせる。精神は精神で、心がいくら病んだって、やっぱり死にはしないだろうけれど、本当に悟らないかぎり、わたしがこんなに苦しみながら生きていく必要を感じない。ひたすら苦しむことが、生きることだと、宇宙的な、神のような視点で、わたしを見下ろしてみるとする。どうして、わたしだけが、なんて、考えることもめんどうになっていて、もうあきていて、そのあたりだけは、たしかに、なにかの悟りはある。さっき、焼肉を食った。牛が出るだろう。出るだけなら害はないけれど、通りかかってながめる以上の関係性があるとやっかいで、追いかけられるのか、押しつぶされるのか、それは分からない。車のなかで、うとうとしている。このまま寝たら、この場所もきっと夢の舞台に影響する。ナスの色をしたワンボックスは、クジラの子供にも似ていて、わたしはどこかの時点で、一度、そういう感想を持ったことを覚えているから、わたしはクジラの腹のなかでトイレを探しまわるのかもしれない。
よく知らないとなりの女は、どんなかたちで出演するのだろう。どういう経緯で、水族館でデートしていたカップルと意気投合したのか、思い出すことができない。わたしは、きっとまた閉館寸前まで、ぼんやりミズダコか、ケープペンギンの水槽をながめていたと思う。初対面で一緒に焼肉を食いに行くなんて、ふつうでは考えられない気がする。これを、どうでもいい、と片づけるかどうかで、わたしの明日からの生活がまた変わる。
「おもしろかった」
と、カニが聞く。わたしは、覚えていない。
「ふだん、なにしてはる人」
バイト、と言いかけて、フリーターとこたえる。案のじょう、バイトの内容までは興味がないようだけれど、ひょっとすると、わたしは露骨にめんどくさそうな顔をしている。京都の女は、今夜、カニ役で出演するにちがいない。たぶん、水族館のタカアシガニ。わたしには、そう見えてしまった。その年で、といっても、わたしはこの人の年を知らないけれど、だいたい三十をすぎていないということはないと思う、にきびとは言わせない、顔のあばたは化粧をすかして赤黒く目の下に点綴している。その目が、うすく、横に長い。ぐちゃっとつぶれたきたない耳は、ぴんと立って、のびてきて、きっとハサミか足だろう。
頭の後ろを、救急車が通った。うー、うー、うー、と、サイレンでこんな変な夜をまたかきまわし、ぐねらせて、金魚のふんみたいに尾を引いて、ドップラー効果という言葉を思い出させて、まだ、遠くで響いている気がする。
「え、事故」
「さあ」
「だって、遅いし」
「はあ」
「ちょっと待って」
カニは、ごそごそ、バッグをかきまわすような気配だった。携帯でも探しているのだろうと思った。
「見てこようかな」
「どこを」
「ちょっとそのへん」
「はあ」
ひとりにしてくれるのだろうか。五分あれば、わたしは寝る。ひとりきりで。また夢を見るのがこわくなる。いまが、夢とうつつのちょうど国境あたりで、ここからあともどりすることは、たぶん、むずかしい。
人が通る。この平日に、大学生の飲み会だろう。手ごたえのない、やすりがけした声が、窓ガラスごしに耳を打つ。クジラのワンボックスは、まるっこい水槽にも似ている。カニが出ていったら、このなかで、わたしはひとり、人にひどいあだ名をつけておいて、夢で、いったいどんな生きものになるのだろう。
「あ、帰ってきた」
帰ってきたのか。わたしは、もう、目を閉じているにちがいない。
「なにしてた」
「だから、コンビニ探してた」
なんか話してる。
「けっこう、池袋、あると思うけど」
「いや、だから、見つからなくて」
「なにが」
「は。なに言ってんの。花火」
「花火」
「だから、花火、買ってこいって。おまえ」
噛み合わない会話が、そこに落ち着くとは思わなかった。まるでカニのほうがねだったような男の口ぶりだけど、わたしはそういうやりとりがあったのかどうか知らない。どちらもゆずらない。たぶん、半分ずつ本当で、カニがぽつりと言ったことを男が拾って、言った本人はすぐに忘れて、男もそれを聞いてすごく花火がしたいと思ったから、あとは、男が買いに出かけるだけだった。五月に、よく花火があったと思う。あったのだろうか、結局。
「え、見つかったんだ」
「うん」
かさかさ、ビニールがよじれる。そうか。よかったね、と、思ってやる。
ケープペンギンは、アフリカ大陸に生息する唯一のペンギンで、砂地に掘った穴や木の根もと、岩場のすきま、民家の軒下などに巣をつくります。夫婦交代で卵をあたため、子育ても協力して行ないます。夫婦の絆はとても強く、何年も同じ相手と同じ場所で営巣すると言われています。
馬鹿。ひばりが丘あたりの、くさったアパートに帰って、おまえら、ガスコンロで線香花火でもするんだろう。カニの甲羅みたいなあばたづらをしかめて、煙にむせる。花火は、それっきり。その先は知らない。だけど、おまえら、どうせ一発やるんだろう。くさった巣のなかで、さぞ、絆は強くて、なかよしなんだろうけど。この水槽のなか、もう、おまえらは見られている。わたしは、エサなのかもしれない。どうでもいいけど。説明書きには、なんて書かれるのだろう。でも、おまえら、いくらいちゃいちゃしてたって、悪いけど価値がない。ペンギンみたいに、かわいくないから。だから、かわいいペンギンなら、突っ立ってるだけでも、夫婦の絆はとても強く、何年も同じ相手と同じ場所で営巣すると言われています。こう書かれていれば、納得できてしまうけれど、おまえらは、どうなんだ。いいよ。見たくもないよ。
「ぜんぜん動かない」
「え、生きてんの」
「剥製とかじゃないよね」
「なんで水族館に剥製だ」
「動かなさすぎでしょ」
「てゆうか、なんで、水族館にペンギンいるんだろ。魚類じゃないし。鳥類だし」
「鳥類か。飛べないくせに」
「蛇とか、虫とかいるけど」
ペンギンの水槽の前で、ふたりは、腕を組み、指をからませ合って、馬鹿な話をしていた。恐竜が鳥類だとか、ダチョウだって空を飛べないとか、ペンギンのたまごはうまいのか、ゆでるのか、焼くのか、生か、焼き鳥にしたらうまいか、なんて、遠まわりするだけ遠まわりして、それで最後に、
「かわいい」
「かわいい」
と、しめくくる。
指をからませ合って、それが、むこうの変な毒のあるクモとかさなって、手のひらで交尾しているようだった。
ふざけるな。かわいいだけで、ゆるされてたまるか。たとえわたしがゆるしても、わたしはゆるすけど、あんたたちは、ぜったいにゆるしちゃいけない。あんまりだ。これから一発やるのは、なんのためだ。無表情で、作業みたいな、行為そのものでしかない、ペンギンのようなセックスが、かわいくもなんともなくて、ただただグロテスクなだけで、吐き気がする。種、とか、類、とか、そんなあいまいなもののために、子孫を残すのが目的なんじゃなくて、もっと大事なものがあるんじゃないですか。ケープペンギンは、かわいい。だけど、だけど、それじゃ、のたうちまわるわたしが救われない。まっさらな死体になって、セミに電話するたびに、愛してる、愛してる、わたしはこいつを愛してる、と言い聞かせて、わたしはわたしを愛に飢えている、人を愛したがっているのだということにしているのに、それだけが、わたしの価値で、ガラスばりの見せものになったら、わたしとセミの水槽なんて、誰も足をとめず、きっとペンギンはふたりならんで立っているだけで、全部のお客さんをかっさらっていく。
「ペンギンって、たまごから生まれるの。いや、そうだろうけど、なんか想像できないよね。大きさとか、かたちとか。なんか、そのまま産みそうじゃない。猫みたいに」
「ああ」
「え、分かる」
「分かる。たまごだったら、しましまがありそう。白と黒の」
くやしいけど、わたしにも分かった。たぶん、そのとき、わたしはペンギンを盗みだしたいと思った。
「寝てはる」
カニが男に言った。
あとの会話は、こそこそ声で、なにを話しているのか聞きとれなかった。つんとした、粘膜にびりびりくるにおいが、ふいに鼻に飛びこんだ。本当に馬鹿。家に帰るのが待ちきれず、車のなかで花火をはじめやがった。