(3)
ぬいぐるみのように、とでも言うしかないくらい、ペンギンはじっとして、本棚に寄り添い、就活でつかって以来のスーツの下、息を殺してわたしを見ている。野性的なにらみ合いの状態かと思えば、思い切って体をななめにはずすと、ペンギンの視線は完全に流せて、勝手にわたしが緊張していただけだと気づく。なんだか拍子抜けして、負けたような気になって、なにか大きな音を出してびっくりさせてやろうかとも思ったけれど、それすらも見やぶられているような気がして、じりじりとペンギンから離れていた。わたしのことなど、まるで興味がないようで、そうでなければ、なんの害もない生きものだとなめられていて、とにかく、どうにかしてわたしの存在を認めさせなければ、いやだった。
動物独特の、土が雨にむれたようなすっぱいにおいは、少しずつ部屋のなかにこもっていたけど、ペンギンがいまここにいるという実感は、ながめているうちにも薄れていくばかりだった。対峙しているわけでもなく、視線をすかされて、わたしとペンギンの関係は対等よりも少しだけ分が悪い気がする。もっとシンプルに。単純に。わたしはわたしに言い聞かせるけれど、考えることをやめられない人間は、本当に弱く、怒ることはあっても笑うことのない野生の動物たちには、にらめっこしてもぜったいに勝てない。
なんで、そんなに余裕なの。
水族館の生きものが、特別にふてぶてしいだけなのか、わたしにはどうしても素直にかわいいと思えず、口のなかでひっそりと文句を言う。
ケープペンギンは、アフリカ大陸に生息する唯一のペンギンで、砂地に掘った穴や木の根もと、岩場のすきま、民家の軒下などに巣をつくります。夫婦交代で卵をあたため、子育ても協力して行ないます。夫婦の絆はとても強く、何年も同じ相手と同じ場所で営巣すると言われています。
携帯に打ったメモを読み返し、嘘をつけ、と思う。感情移入せずに、冷静な心でながめてみれば、ただひたすら最短距離で生きているだけで、それがケープペンギンの本能であり、ルールである、ということにすぎない。少なくとも、いまのこいつに、夫婦の片割れをなつかしむような、やさしい、かわいらしい気持ちはないと思う。呼吸すら節約して、いつものように、ただ突っ立って、わたしを無視するのが一番いいと思っている。実際、それはただしくて、わたしにはもう、これ以上こいつをどうにかすることができず、いつものペースでペンギンは、ただ、生きる。ふてぶてしく、お腹を突き出して、当然のようにわたしの部屋でじっとしている。
「なんで、そんなに余裕なんだよ」
ちゃんと口に出して言っても、言葉として通じないのはあたりまえだけど、なにかの雑音ほどにも反応がなく、置き去りにされたわたしは、いつのまにか、ペンギンのごきげんをうかがうような気持ちで、どうすれば動いてくれるのか、考えていた。
「死ぬ」
と言った。やっぱりちがった。無視された。同じことを、同じ場所で、少し前に言ったことがある。
「誰が」
セミは、それでも、こんなふうに聞いてくれたけど、ペンギンは、ぬいぐるみだった。
肩がこって、だるい。寝ても寝ても、眠い。こんなふうに言っても、わたしの本当のつらさは五分の一も伝わらない、と、知っている。死ぬほどだるい、眠い。そんなのでも、まだたりない気がして、死にそう、と言いかけた。口から出たときは、それが、死ぬ、になっていた。
「わたしが」
「なんで」
「具合が悪いの」
「え。病気」
「分かんない」
別の方向へ、話が流れていきそうだった。行き着くところまで行って、それから冗談にして、というまわり道をたどる以外に誤解をどうにかすることはできないから、わたしには、とめることができなかった。
「がん、とか」
「ちがう。そういうのじゃない」
「どうしたの」
「なんか」
不治の病から、自殺まで、まんべんなく心配されている。少しも心がこもっていない、ということをのぞけば、わたしは満足なのに、本棚に寄り添い、就活でつかって以来のスーツの下、携帯をいじりながら、死ぬ、という言葉の重さと軽さを持てあましている。
「なんか、なに」
「なんか、体が変なんだよ。死にそう。あんまりそうは見えないでしょ。でも、本当にだるい。いま」
「ちゃんと寝てる」
「寝てる」
どんな言葉を引き出したいのか、それすら見失って、ひょっとしたら最初からなにも考えていなかったのかもしれないけれど、どうしてこんなに伝える言葉にとぼしいんだろうと、もどかしくてならない。リアルな実感は、死ぬ、なんて言葉にはぜんぜんふくまれていなくて、動きたくない、ぼうっとしていたい、寝ても寝ても眠い、肩が痛い、特に左が痛い、正直に言ってしまえば、またどこか的をはずれる。セミは、本棚の文庫本をつまみ出して、きちんと一ページ目を開く。最初からじっくり読むつもりで、頬杖をついて、本に集中しようとしている。太宰治のなにかだったことはたしかで、現実に、こんなに深刻なわたしを前によくそんなのを読めるな、と思ったことを覚えている。ペンギンのような男、と、胸のなかで吐き捨て、それがあまりにも、いまのわたしにはしっくりときて、目の前のペンギンは、逆に、わたしの男にそっくりで、いまここにいることが、もう不思議ではなくなってきている。
「シャワーだけで、風呂に入らないとか、よくないらしいよ。ちゃんとあったまって、よく寝るといいらしい」
「そう」
「一日ごはん抜くつもりでさ、じっと寝てるんだよ。胃で消化するにもエネルギーいるだろ、だから、体力つけるのにいっぱい食えって言うけど、結局損なんだよ。そのエネルギーを治すのにつかうっていう感じ。おれは、そうする。それでなおる」
ケープタウン沖でのタンカー座礁事故による石油流出被害や、エサとなる魚の乱獲、また、二〇一〇年の記録的な寒波などにより、個体数は減少しています。現地では「南アフリカ沿岸鳥類保護財団(SANCCOB)」などのボランティア団体が、油まみれの鳥類たちを保護し、自然にもどす試みを行なっています。また生息数の調査や繁殖地の保護保全のためのいろいろな取り組みが行なわれています。
「死ね」
これも、ちがう。あのときのわたしか、いまのわたしか、声を出したのがいつのことやら、はっきりとは分からなくて、記憶のなかのできごとなら、一般的な体調不良にして、ただの知恵袋みたいなことしかおしえてくれない、考えてくれないセミに対してだし、いま、ここでつぶやいたなら、それは、ペンギンにということになる。死ねばいい。
死ねばいい。油まみれになって、エサがなくなって、寒波が来て、それでペンギンが死んでも、わたしはなにもこまらない。死んでしまえ。馬鹿。ひたすら生きること、それだけを目的にただ生きる、こいつらを生かしておいても、生きているだけで、わたしに感謝してくれないし、それどころか呼吸まで節約して、カメラをかまえて待っている子供たちを前にして、水槽のなかで動きもしない。
それでも、と、最後の最後でつけたして、言いすぎた、と、嘘にしようとする。そのわたしは、もちろん、動物愛護主義者なんかじゃなくて、たぶん、ひきょうでもない、びびってしまったわけでもない。それでも。最後の最後で嘘にする、そこまでが、全部、本当のことかもしれず、この嘘はひっくりかえらなくても、そのまま、どこかで本当の色になる。グラデーションみたいに、きれぎれの虹のかけらみたいに、ひとつのものだと思うのは、やっぱりわたしに言い訳をしているだけなのだろうか。それでも、それでも、それでも、わたしは必要としている。たれ流す汚物に、きたねえよ、と言ってくれる誰か。顔をしかめるだけでもいい、わたしは、苦笑いしながら、なにか言い訳しながら、やっと腰を上げて、きれいにそうじしようと動きだせる。
「なんか、食うか」
ペンギンは、だまっている。わたしは、缶詰でも用意しようと思う。わたしは、たぶん、ドMなのだろうけれど、ペンギンにつかわれるのを願ったことは一度もない。あ、死んでる。わたし、いま、死んでる。考えようとしているのに、考えちゃいけない、と、わたしでわたしを殺している。髪をかきあげ、角質化したかかとの皮をぼりぼりかいて、口唇をかんで、目をこすって、いたましいほどにわたしを殺そうと努力しているわたしに、なんだか、いとおしいような気がしてくる。死ぬ、死ね、そうか、肉体的にも精神的にも、わたしはもうぼろぼろで、こんなふうにでも言うしかなく、でも、やっぱり、言ってしまえば少しずつずれて、死ね、とわたし自身に言い切ってしまえるほど、わたしは勇気がない。かといって臆病でもない。なにより、そんなことを言われる理由が、分からない。分からないなりに、なにかはあるかもしれず、だから、きっと、小学生のけんかのようなあどけないものにはならないのだと思う。
部屋にただよう空気に、おもしのようにのしかかって、時間をとめる、ペンギンに、わたしはどのタイミングで決心したのか思い出すこともできず、気がついたら、足もとに水とさんまの缶詰を置いていた。ペンギンは動かない。こいつを、なんとかしてやろうという気持ちから、こういうものだと受け入れようとしはじめている。わたしは、肩をさすって、右を下にして、そのまま寝に入る。寝て、起きたらどうにかなっているだろう、という、一番安直なかたちにおさまり、わたしらしいだらしなさに、つくづく嫌気がさす。全部が、頭のなかでぐちゃぐちゃになって、起きたときにどうなるかといえば、パンが焼きあがるわけでもなく、一面雪景色になっているわけでもなく、ちゃんとぐちゃぐちゃなままに決まっていて、肩は痛いし、眠いだろうと思う。寝返りをうてば、ペンギンがわたしの部屋で、あいかわらず突っ立ってやがるんだ。