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「米を食べるとき、たまに思うの。ごはん炊くのを発見した人って、すごいよね。それが正解とはまさか思わないでしょ」
「思わないね」
「あとね、草が伸びるのって、すごいと思うの。伸びるんだよ。土に生えてて、水やってれば大きくなるんだよ。わけ分かんないよね。光合成してるんだろうけどさ。大変だよ、人間が水だけで大きくなったら。いろいろ考えてた、子供のころ。小さい犬とか、動くのが不思議だった。いまも、不思議だけど。大きかったら、まだ分かるの。チワワとか、あれで動くんだよ。鼻もいいし。すごいと思うんだよ」
グラスの五分の一くらい残っていたウーロンハイを、ぐっと飲み干し、由紀は一瞬前の文脈を思い出すように、変な間を置く。素直に由紀の疑問につきあうと、いくらでも一緒にはまりこんでいける気がした。禅問答のようだった。わたしは、うまいことを言って、軽く乗り切ろうとしているが、なにも思いつかない。なんだか分からないことを言ってしまった、という反省がいまこみあげてきたらしく、由紀は落ちこんでいるんだか、後悔しているんだか、やたらと枝豆の皮をもてあそんでいて、わたしとしては、このままだまって、新しい話をあらためて自然にはじめられるくらいの時間をかせいでやる、というのが、一番やさしいフォローなのかもしれなかった。わたしの観察があたっているのかどうかも、自信はなくて、寝不足でぼんやりした頭に、安い焼酎が別の部分をさらににぶらせている。目の前のお茶づけを見て、米を炊くということを連想するなんて、言われたってむずかしくて、草、チワワ、それから、電気、飛行機、電話、ティッシュ、キャベツ、由紀の疑問はやっぱりつきず、たぶん、本当に不思議がっているのだと思うけれど、わたしが思い浮かべる映像は、雑なCGのようで、まるで精気がなく、かくかくしていて、動きだけはやけになめらかに、ぐるぐるその場でまわっている。
左の肩が痛い。わき腹まで筋が全部つながっているのがよく分かる。わたしの理論では、酒で血行をよくすれば、肩こりはよくなるはずだったのだけれど、心臓が伸び縮みするたびに、はりつめたゴムひもみたいな筋肉が、ぎしぎし、きしむ。ぎゅっ、ぎゅっ、と、まるいのをにぎると、カエルが飛びあがる、あのおもちゃを思い出す。
「注射したら痛いって分かるじゃない、たとえば。なんで分かんないのかね」
「はあ」
「ふつう、あ、痛いだろうな、って覚悟するのに、注射されるでしょ、そしたら逆にさ、ちょっと痛かったんですけど、って怒りだすみたいなね。羊水から出たばっかりなんだよ、たぶん。本格的に人間はじめたの、今年くらいからでしょ」
「なにが。誰が」
「わたし」
「ああ」
なにが、そんなに痛かったんだろう。どうでもよかった。悪いけど、恋愛とかの話をしてる場合じゃない。いま、ここで、わたしの体が求めているのはアルコールよりも安らかな睡眠のほうだとうすうす分かってきて、わたしは、なにしろそれにしたがうのがただしいのだろうと思う。昨日の夜、眠くてしょうがないのに、だから、眠りたいのに、頭も体も裏切って、なにかがわたしを眠らせず、死ぬほど眠いだけの、拷問のような時間が永遠のように続いた。ラーメンをつくって、食べてみた。お腹いっぱいになったら眠れるんじゃないかと思ったのに、腹が張って、よけいに苦しくて、たぶん五時くらいにやっと意識がなくなった。三時間ごとに目を覚まし、あとは、いくらでも眠ることができた。汗に溶けた、髪のにおいは、人間そのもののように生々しくて、だんだん、べとついて、七時半に駅で由紀と会うからというので、七時にようやく体を起こしたけれど、のどはからからで、気持ち悪いくらい目はさえているのに、体のしんはまだ眠りたがっていて、顔を洗うのもおっくうで、すっぴんのままマスクして出てきた。わたしの体感的には、昨日の夜がそのままつづいているようで、このだるさだけがわたしの時間と肉体の感覚を一貫している。
「出てみない。どう」
また話が飛んでいる。
「なにが」
「だから、わたし、台本書くから、出てよ。役者として。秋くらい」
「ああ」
「やっと沈黙をやぶるよ。一年ぶり以上だけど」
円満にお断りするにはどうしたらいいのか分からない。ひまだし、それに、やってもいいんじゃないかと迷いかけているのがまずい。引き受けたら後悔するにちがいない、という、予感だけがこちらの事情で、それでも、妙に確信があり、まだくわしい話もなにも聞いていなくて、なんの根拠もないのだけれど、いまここで、この段階で、わたしはわたしの予感を裏切るわけにはいかない。
「バイトが」
「週何日」
「週三」
「なに。コンビニ」
「もっと入れたい。鉄板焼き屋さん」
「じゃ、それに合わせる」
「なんか、最近、体が変でさ。稽古やるのが、たぶん、つらい。二月くらいからずっとなんだよね、考えてみたら。寝ても寝ても眠いの。目もつかれて。ピントが合わないし、ぼやっとするし、本も読めない。ぼうっとしてると、一番楽。寝ても寝ても眠いの、本当に。いまのわたしは、つかいものにならないと思うよ」
ししゃもが来た。飲みものも来た。巻いた金髪をふたつ結びにしたバイトが、お待たせしました、と、鼻にかかった声で、テーブルの端に置いていく。討ち死にしたような小皿、コップたちのていたらくで、ししゃもは二匹きり、世界が終わったあとに降り立った最後のカップルのようで、まんまるに見開いた目は、テーブル上の惨事に言葉をなくしたようで、わたしと由紀の残酷さを責めるようで、裂けた腹から卵をはみださせて、じっとどこかを見つめたまま死んでいる。死んでいる、と思うのは、水族館の魚たちがいまだに頭のなかで残っているからで、ししゃもという名前じゃなくて、毒があったり、凶暴だったり、長生きだったりしたなら、こいつらも十分、水槽のなかで飼われる権利があったはずで、わたしは、もうお腹がいっぱいで、こいつらを口に入れる気がしない。
「いま、お金ためてるし」
食い散らかしたニワトリや、じゃがいもまでは、わたしの慈悲は届かなかった。由紀が、マヨネーズをつけて、頭からししゃもを食っている。
「風邪」
ウーロンハイでししゃもを流しこみ、由紀はなんのためらいもなく、二匹目に手をつける。
「熱はない。ただ、ひたすらだるい」
「うつじゃないの」
「ああ。でも、やる気がないとかじゃない。やらなきゃいけないことができないし、やろうとしても中途はんぱになって、腹が立つんだけど。うつならうつでもいいけど、それって、どうやったらなおるの」
「カウンセリングとか。まあ、ちがうかもね」
もう二ヶ月近い、この体調不良は、原因は分からないなりにはじまった日は確実に覚えていて、二月の二十一日、バレンタインから一週間だという話をしていたから、まちがいなかった。わたしは、その日、半年ぶりくらいに彼氏ができた。事後承諾みたいなもので、どこの時点で目をつけられたのか知らないが、閉店の十一時をすぎても、しつこく店長と飲んでいて、しめて、あがるときには二時くらいだったと思うけれど、店長と、そいつと、わたしと、三人、一緒にお店を出るようなかたちになった。なにかの密約が、わたし以外のふたりのあいだであったのか、どうか、それも知らない。まだ聞いていない。たぶん、あったのだと思う。わたしも、おごりだからというのでけっこう飲んでいた。どういうなりゆきで、わたしの部屋にあがりこんだのか、思い出すことができないくらい、わたしは馬鹿になっていたし、そいつもやたらうまかった。ふたり、コンビニに寄って、カクテルとかチューハイを何本か買って、つまみはなかった。髪をさわられ、いいにおいだと言われ、肩にふれられる。うしろから抱きついてきて、ごろんと倒れたら、あとは簡単で、男には顔も性格もなくて、抽象的なただの男で、こちらにもそれが都合よくて、ひとりで思うぞんぶん声をあげてやった。AV女優のような、わたしも、抽象的な体をしていたのかもしれず、それだけに、かつてないくらいに感じていた。後悔するぞ、と、警告する、経験のなかにいるわたしを無視して、となりの部屋の歯科衛生士のお姉さんと顔を合わせるのが気まずいくらい、馬鹿みたいに、声をあげた。恋人ごっこのごっこをしてる、と、ちょっと客観的なわたしを殺せば、わたしは、けっこうかわいくも思える。かなしい、せつない、と変換できなくもない気分は、わたしをまた酔わせる。
午後の一時まで寝て、三時ごろ、インドカレーのお店でランチタイムぎりぎりの食事をして、夜はどうしようか、というあたりで、帰っていった。
「ずっとねらってた」
たしかに、ねらっていた、という言葉で、その日のどこかのタイミングで告白された。悪い気はしなかったので、とにかく好意的に解釈したことはまちがいない。駅まで送って、部屋まで帰るのに、本屋、ラーメン屋、ドラッグストア、楽器屋と、やけに寄り道をした。このあたりから、体調不良の自覚が徐々に出てきて、部屋のカギを開け、玄関先で最初の山をむかえる。靴をぬごうとしゃがんだら、変に頭が重く、片足を残したまま膝をついてしまう。次に、左の肩の痛みを感じたら、眠くなっていた。いまごろ昨日の酒がまわってきたか、ひさしぶりに男とふたりで緊張していたのかな、と、強引に理由づけもできて、コートを着ていたし、暖房はつけっぱなしだったし、わたしはその眠気に逆らわず、スリッパをまくらに、ドアに足をつっぱって、胎児のように体をまるめて、素直に眠ることに決めた。起きたのは、次の日の朝の八時ごろだった。つま先から溶けていくような、力の抜けていく心地よさと、支えきれなくなった体の重みに、自然と目が開いた。二十四の大人として、女として、わたしは少なくとも二度ほど死にたかった。玄関で、わたしは、おしっこをもらしていた。あわてて、まず履きものを救出しようとしていたが、お尻の下で被害にあったブーツは、どうやっても外に出す気にはなれず、かといって高かったので捨てられず、いまでもげた箱の奥に隠している。失禁、おもらし、おねしょ、その他、わたしはこの事件をどう呼んだら適切なのか、いまだに分からず、だから人にも話したことがない。体がおかしくなって、まず表面にあらわれた変化だということはまちがいなく、いまでも残尿感は肩こりとならんで、わたしをなやます重大な症状のひとつだった。
「病院行ったの。ちゃんと診てもらって、薬もらったほうがいいよ」
二匹のししゃもは由紀にたいらげられ、マヨネーズとパセリが、むなしく皿の上に残されていた。
「行ったよ。抗生物質もらった。いいかげん、やばいと思って、一週間前。五日分もらって、切れた。まったくよくならないね。熱もないみたいだし、本当に、なにがなんだか分かんない」
「そんなにつらそうにも見えないけど」
「そうなんだよ。いっそ四〇度くらいの重病人だったら分かりやすいんだろうけど。昼間はけっこう動けるし、中途はんぱに体調不良だから、そこがつらい。安静にしとけばいいものを、昼にいろいろやっちゃうから、朝と夜がしんどくなる。肩こるし、眠いけど、がまんしたらできてしまう。言い訳にもなんないし。だから、いま、あんたが納得しないだろうな、と思ってる」
はじめのとき、性的な対策はせず、まず、わたしはそっちの病気をうたがった。ウィキペディアくらいのレベルでしか調べなかったけど、わたしの体の状態に合う病気は見あたらなかった。
二ヶ月も続けば、生まれてからずっと背負ってきたのと同じで、そういうものだと思えば、割り切れないこともない。割り切ることでしか、毎日を生きていけず、夜の感じで、だいたい次の日の覚悟ができるようになる。腰のまがったおじいちゃん、おばあちゃんも、ひょっとしたら、こうやって外の世界と自分の体、折り合いをつけながら生きているのではないかと思う。悟りというのはこういうものか、と思う。
「お酒を発明した人って、すごいよね。すごいというか、全世界で、たぶん酒の文化がない国ってないでしょ。米を食わない国があっても、酒はあるよね。それって、どういうことなの。酒があったら、居酒屋ができるし、酒が好きすぎてアル中になる人もいるでしょ。なんなの。お酒って、うまいの。酔っぱらうのは気持ちいいけど、わたし、ビールのうまさはいまだに分かんない」
むかつくバイトが、また来る。皿を片づけていく。空虚なテーブルに、わたしは肘をつく。そのまま、くずれ落ちて、両腕のなかに顔をうずめて、それでも話は聞こうとしている。由紀は、かまわず話している。いまの由紀の目には、世界のなにもかもが疑問なのだろうけれど、わたしは、すべて、そういうものなんだと受け入れることでしか、わたしの今日の生活を成り立たせることができないでいる。