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【合縁奇縁】

 ――トイフェルラント生活一二九五日目。




 エアステンブルクへ派遣される聖職者は、ヴォルフラムの大聖堂を再建させたトレファン神官と、アッカーバーデンのウェスリー司祭に決まった。

 トレファンは、アーケロスの子亀によって壊滅したヴォルフラムを再建した苦労人だ。事件に巻き込まれずに済んでいた住人達をまとめ上げ、どうにか復興させたばかりなのだという。そのため、復興作業が手馴れていた分だけ、今回の災禍からの復興が早く終わっていた。

 故郷を壊滅させた子亀を斃していたのがリオだったことを知った住人達が、世話になっているトレファンの気分転換を兼ねて、エアステンブルクへ送り出してくれたとのことだ。

 ウェスリーは、恭一郎は初めて接触した集落の出身で、修道院を出た数日後に隕石が落下したという、九死に一生を得ていた若者だった。彼が留守の間に結ばれた縁で、集落が見違えるように豊かになっていたため、その恩返しに二つ返事で応じてくれた。

 連絡用の乗合魔導車に乗って、先にエアステンブルクに到着したのは、ウェスリー司祭だった。ウェスリーは猫人びょうじん族の青年で、ハナで見慣れた猫耳とは少し違い、耳の先半分がお辞儀をするように垂れ下がっていた。スコティッシュ系なのだろうか?

 出迎えた恭一郎と護衛のハナと一緒に、しばらくの逗留先となる寄宿舎へと案内する。ウェスリーは恭一郎がヒュッケバイン・リッターに乗って、故郷の集落をアクイラスから守ってくれていたことも知っていた。そんなこともあって、両者の出会いは非常に友好的なモノとなった。




     ◇◆◇◆




 オディリア製の建築ユニットと恭一郎の建てた和風大聖堂に、ウェスリーは驚きのあまり開いた口が塞がらなかった。

「ウェスリー司祭? 何か教義として禁忌なモノでもあったのですか?」

 しばらく動かなくなっていた若い司祭に対して、恭一郎は無自覚な失敗を犯していたのではないかと冷や冷やした。だが、それは取り越し苦労だった。

「素晴らしぃ~~~っ!」

 どうやら、ウェスリー司祭は感動のあまり、フリーズしてしまっていたようだ。まったく、脅かさないでほしい。

 ウェスリーは敷地内のあらゆるものに目を向けては、素晴らしいという言葉を繰り返して興奮している。

「素晴らしい建物でございます、恭一郎様! 聖域を分かつ木製の壁は、内外を見通せる融和の意思! 門扉は堅牢なれど一切の虚飾を廃し、誠実さを体現しておられます! 大聖堂まで続く道は清廉潔白! その道を飾る水の流れる庭園は、絶えず巡る自然の循環! その向こうに見える力強い草花が、命の輝きに見立てられている! しかも異国風の大聖堂は、魔神様の力強さを美しさで表現され、無骨な寄宿舎の存在が見事に調和しておられます!」

 ごめんなさい、意味が全く分かりません。誰か解説プリーズ!

 ウェスリーが恭一郎の理解の及ばない感性を持って、突貫作業で何とか仕上げた宗教施設を褒めちぎっている。

 敷地を囲う壁は、防犯上の理由で向こう側が見えるようになっているだけだし、門も和風建築に合わせて製作したモノだ。参道として整備した道は大理石で造った玉砂利を敷き詰めただけだし、山水庭園は魚はおろか水草すらない。花壇に至っては、丸投げしたので管轄外だ。大聖堂は別としても、寄宿舎は完全に理解不能だ。

 同行するハナに視線を送ると、同様に困惑している視線を返してきた。

「……では、内部をご覧いただきましょうか」

 対処に困ったので、この話題は強制終了することにした。まだまだ仕事がつかえているので、ここで時間を浪費したくはない。

 引き戸を開け、大聖堂の中に入る。メインホールの中には中央の通路の左右に、五人掛けの長椅子が規則正しく並べられている。この椅子も恭一郎が製作したモノで、アルトアイヒェ製だけあって重量がある。

 メインホールの最奥にはアルトアイヒェ製の祭壇が一段高い場所の上に置かれている。ご神体は明日中に到着すると連絡が入っているので、まだ祭壇には何も供えられていない。

「おぉ! 内部は天井の梁だけで、天井を支えるための柱を必要としていないのですね!?」

「アルトアイヒェ製ですから、重量にさえ目を瞑れば、この程度の屋内空間は十分に確保できます。もっとも、加工には一〇日も要してしまいました」

 トイフェルラントの常識で言えばとんでもない早業なのだが、以前に製作した温室が五日で組み上がったのと比べれば、二倍の時間を要する大仕事である。

 それはされ置き、祭壇の裏側に作った階段で天井階へ上る。

「この扉の外が、バルコニーになっています。荒天時に雨戸を閉まられるようになっています。扉の内側は、キャットウォークです。窓の開閉をする場合は、こちらから行います」

 天井階は採光能力を高めるため、柱と梁以外は殆どが窓となっている。窓は二枚一組で重ね合わせるように開閉できるようになっている。雨戸は北側に大きな戸袋を設置して、そこから蛇腹状に引き出されるようになっている。

「祭壇だけではなく、ホール全体が優しい光に包まれています! パープストヒューゲルに勝るとも劣らない、美しいホールです!」

 ウェスリーから合格点を貰い、恭一郎は一安心だ。それから寄宿舎へ案内をして、オディリア製の家財道具の説明を行った。




     ◇◆◇◆




 ウェスリーへの対応を終えた恭一郎へ、ミヒャエルから連絡が入った。先日のアイリスに続き、ティファニアがトイフェルラントへ静養に来るらしい。なんでも、アレスの蛮行という大スクープを密着取材に起用した部下達が独占的に手にいれてしまったことで、他の報道機関への対応に追われる事態になっていたようだ。

 そしてとうとう限界を迎え、ティファニアは仕事中にデスクで吐血して病院へと運び込まれた。そこにたまたま居合わせたアイリスが処置を行い、秘密を共有するシズマに相談して、トイフェルラントへ後送される運びとなったという。

 恭一郎はティファニアに対して、トイフェルラントに招待する旨の口約束を交わしていたため、むしろもっと早く呼ぶべきだったと反省した。




 恭一郎は護衛のハナと空港詰めのマナ、看護師代わりのリナを伴って、オディリアからの連絡機を出迎えた。機内から出てきたティファニアは、コレラ患者の域にまでやつれ果てていた。一人で立って歩くことも厳しいようで、若い女性の肩を借りながらの登場だった。

 ティファニアの惨憺たる姿に衝撃を受けたのもつかの間、その肩を貸している人物に全員が身構えることになる。テロリストとして国外退去処分にしたはずの、アスカ・ルーだったからだ。それはつまり、凶人イスカの再臨を意味する。

「私から説明するから、彼女を攻撃しないでほしい」

 今にもハナをけしかけそうな恭一郎に対して、ティファニアが弱々しく自重をするよう呼びかけてきた。

「実は先日、とあるチャリティーイベントの抽選会が開かれた。そのチャリティーイベントというのが、オディリアからトイフェルラントへ、建築モジュールを寄付しようというモノだ」

「それじゃあ、まさか……!」

「その、まさかだ。新品の寄付をしたモノの中から、厳正な抽選の結果、このアスカ・ルーが当選してしまった。そのため、こうして連れて来ざるを得なかった。アノ事件は表向き、無かったことになっているからな……」

 この事態を招いた責任は、欲を掻いてトイフェルラント観光を餌に新品の建築モジュールを要求した、恭一郎にあった。完全に敵対する前とはいえ、対話の門が開かれていた時のことだ。アスカ・ルーがトイフェルラントの心証を良くしようと、建築モジュールを寄付していたとしても不思議ではない。

「恥ずかしながら、恭一郎様のトイフェルラントに帰ってきてしまいましたわ」

 何の因果か、数奇な星の巡りあわせか、凶敵が客人となって舞い戻ってきた。アスカ・ルー自身もこの運命の悪戯に、心底対応に困り果てている。

 想定外の事態だが、いつまでもこの要注意人物にかかずらわっている暇はない。今の最優先事項は、目前に迫っている亜人達の結婚式の準備作業だ。

「お二人の入国を歓迎します。ただし、アスカ・ルーは、二度目は無いことを肝に銘じておくように」

 困り果てて頭を掻きながら、恭一郎はそう言って釘を刺した。





 ――トイフェルラント生活一二九七日目。




 トレファン神官が、ベルクドルフから到着した。恭一郎と護衛のハナ、それにウェスリー司祭を加え、トレファン神官の出迎えを行った。

 トレファンは、ネズミの特徴を持つ鼠人そじん族の男性だった。丸い耳が、舞浜を思い出させる。

「遠路遥々、ようこそお出で下さいました」

「陛下の要請に応え、参上いたしました」

 簡単な挨拶の後、恭一郎はトレファンと握手を交わした。その手はとても固く、ヴォルフラム復興の難事業を雄弁に物語っていた。




 寄宿舎へ案内する道すがら、トレファン人となりに触れることができた。

 パープストヒューゲルと呼ばれていた魔神教の教皇庁において、トレファンはかなりの地位まで登っていた。そこでライバル達がタイグレスやアクイラスの素材を手に入れたことで、大きく溝を開けられてしまい、壊滅したヴォルフラムへと左遷されてしまった。

 初めのうちは腐っていたトレファンだったが、故郷と家族を失ってマイナスの状態の生き残りの住人達と行動を共にすることで、神官としての矜持を思い出した。

 それからは自ら斧や槌を手に取り、ヴォルフラムの復興に尽力することになる。瓦礫を解体し、新しい家を建て、簡素ながら仮の聖堂も手作りした。

 この頃になると、ヴォルフラムの復興の噂が流れ始め、行商の商隊が姿を現すようになった。その商隊で最も早く来てくれたのが、リオのヒュアツィンテ商隊だった。

 表向きは隣村の出身だということで、噂を聞いて様子を見に来たということになっていた。しかし実際は、噂を流していたのはリオとハナで、最初からトレファン達の支援目的でヴォルフラムを訪れていたのだ。

 やがてリオ達の流した噂を聞き付けた有志が集まってきて、ヴォルフラムの復興は順調に進んで行った。

 ヴォルフラムに新しい大聖堂を完成させ、教皇庁もトレファンの功績を無視できなくなった頃、隕石が全てを引っくり返した。結果的に、トレファンを蹴落としたライバル達は誰もいなくなり、トレファンだけが生き延びた。

 こうしてトレファンは、生き残った神官の中でも五指に入る立場の高位神官となっていた。




     ◇◆◇◆




 トレファンもウェスリーのように大聖堂を絶賛し始めたので、一緒になって盛り上がっているウェスリーに、トレファンへの各種説明をお任せすことにした。

 早々にエアステンブルクから退散した恭一郎は、オディリアのトイフェルラント駐在武官事務所へと移動した。静養しているティファニアの見舞いである。

 リナの付き添いで安静にしていたティファニアの体調は、来訪時よりもよくはなっていた。ピエニーから料理の武者修行に来たアントニー・ハントシェフの作る食事も、ティファニアの回復に貢献しているようだ。

 自宅にあった料理の本を進呈してしばらくした頃、シズマからの紹介状を携えて乗り込んできたアントニーの料理の腕前は、さすが本職と目を見張る上達速度だった。

 とはいえ、こんな数日で半死半生の人間が復活することはない。魔法を使えば別なのだが、親交があるとはいえ他国の人間である。リオには治癒魔法の使用を命に関わること以外、使用を控えるようにお願いしてある。リオの負担ということもあるが、病気や怪我の治療目的で魔法を頼られてしまっては、オディリアの医療従事者の多くを敵に回してしまうからだ。

 そのような考えもあり、ある程度動き回れるようになるまで回復した頃合いを見計らって、シュムッツ高原の温泉施設へ湯治目的でティファニアを連れて行こうと考えていた。

 冬の足音が聞こえてきた晩秋のトイフェルラントは、日中でもかなり寒くなっている。標高の高い温泉施設では、その寒さは身を切るほどだ。その対策として、脱衣所の暖房設備を最新の魔導具に交換しておいたので、寒さで体調を崩す心配は少ないだろう。

 万一の事態に備えて、リナも一緒に連れて行き、恭一郎は送迎にのみ関わるようにしている。リオの湯治とは、状況がかなり違うからだ。

 その序でという訳だが、アスカのトイフェルラント観光も一緒に済ませるつもりだ。客人として滞在を認めてはいるが、アスカは恭一郎達に拳を振り上げた前科のあるテロリストの一味だ。諸事情により不問にされてはいるが、その罪が消えたわけではない。

 仕方がないので、ハナを監視兼護衛として帯同させて、ノイエ・トイフェリンに放り込んでおくことにする。アスカを温泉に浸からせないのは、恭一郎達の私有財産だからということもある。おめぇに浸からせる温泉はねぇ! である。

 そんな事情を抱えながら、この日の午後にティファニアの湯治とアスカの観光は実行に移された。

 ヒュッケバイン改でセナの支援を受けながら、湯治と観光に向かう四人を乗せた窓付きの観光用ゴンドラを引っ提げて、トイフェルラントの空を駆ける。とはいっても、いつものように飛んでしまっては、アスカはもとより、ティファニアも命の危険がある。そのため、遊覧飛行に近い速度での移動となった。




 ――トイフェルラント生活一二九八日目。




 トイフェルラントの結婚には、結婚指輪という文化は存在していなかった。その代り、金品や品々を送り合う結納は、ある意味名古屋圏もびっくりの豪華さだった。新婚夫婦が最低でも半年間は食べて行けるだけの物品を用意するといえば、その物量は想像できるだろう。

 問題となるのは、その物量をだれが負担するのかという話だ。本来ならば、実家や親兄弟に親戚筋までが総動員されて然るべき案件なのだが、亜エステンブルクの住人達は身寄りを失くしたり大怪我をして保護された者達ばかりだ。無い袖は振りようがない。

 そこで恭一郎は、特例的に結納を免除して、代わりとなる結婚指輪を用意することにした。自宅の食料貯蔵庫を空にすれば、結納の品は賄える。だがそれでは、非常時に持ち出す食材を失ってしまうことに繋がる。それは非常によろしくないことだ。

 さて、恭一郎の用意する結婚指輪だが、材質はミスリル銀製となっている。魔法によって銀の魔力との親和性を高める加工を行うことで造られるミスリルは、加工の手間により高価な素材となっている。

 同様の加工は他の金属でも試してみたが、ミスリル程の費用対効果は上げられなかった。白金と金は魔力との親和性を持たせるのに膨大な魔力を必要としていて、完成した素材の加工にも高い技術力と魔法による補助が必要だった。銅や鉄などは銀程の親和性を持たせることができず、貴金属とは逆方向で加工するのが面倒臭かった。

 とはいえ、性能の向上が認められたこれらの金属は、魔力強化金属アマルガムと名付けられていたことが分かった。以前に回収した魔導エンジンの構成素材が、このアマルガムの一種だったのだ。

 その中でも、非常に高い魔力親和性を獲得した金は、オリハルコン。てん性とえん性と耐腐食性と硬度が恐ろしく向上した白金は、アダマンタイト。と名付けられた。これは、リオのような規格外の魔力と恭一郎達の技術があってこそ開発できたものであり、これまでに存在が確認されていない物質だった。とはいえ、あまりにも製造コストが青天井であるため、魔法院に登録はしても誰も再現できていない。

 結果として恭一郎は、魔導具にしたミスリル製の結婚指輪を制作することにしたのだ。魔導具の効果は最低限に止め、効果は装着者の治癒力と免疫力を一割強化する程度に抑えている。もしも免疫系の病気になってしまったら、割増しで病状が酷くなってしまう可能性があるからだ。

 この指輪も魔法院に登録しておいたので、将来的にパテントを生み出すことになるかもしれない。

 ちなみに、この加工は将来の自分達用の練習にもなっている。リオに贈る指輪の素材には、オリハルコンかアダマンタイトを予定しているからだ。特にオリハルコンは赤味の混ざった金色なので、リオとの相性が非常によろしい。魔力親和性もミスリルを上回るため、非常用の魔力供給源としても期待できるだろう。

 そんなこんなで、これから結婚する一〇組二〇名分の結婚指輪を制作する。ミスリルは元が銀であるため加熱することで加工がし易く、各人用に用意したスケールに合わせて大きさを調整することが容易だった。それを最終加工前に指に嵌めてもらい、問題の有無を確かめる。

 そして最後の行程として、表面には夫婦に因んだ造形の彫刻を施し、裏面には夫婦の名前を彫刻し、神聖魔神語の魔法コードをマイクロサイズで刻印した。

 この指輪が結婚式の時に、指輪交換で新郎新婦の指に輝くことになる。自分達用の練習だからと言って、一切の手加減はしていない力作だ。価値としては結納品どころの金額ではなくなっているのだが、今回は特別ということにしておく。




 ――トイフェルラント生活一二九九日目。




 明日に迫った結婚式の料理の最終仕込みを開始する。今回は聖職者達の滞在日数の関係上、一〇組合同での結婚式となっている。その中には肉料理を好まない種族も多く含まれているため、肉と魚は料理の中に含まれていない。

 今回は人手が欲しかったので、ヒナと料理の得意なエアステンブルクの住人の有志二名、オディリアから助っ人にアントニーを招集している。

 結婚式に提供する料理の基本的な方針は、精進料理を参考にしたコース料理としている。前菜、汁物、揚げ物、食事、蒸し物、甘味の六品だ。前菜と揚げ物と蒸し物は式当日に用意することになるため、汁物と食事と甘味の仕込みを行う。

 汁物は、野菜を大量に煮込んでスープが透明になるまで濾したコンソメスープだ。野菜の旨味が複雑に絡み合ったスープは、数日前から大量に仕込んでおいたものだ。不純物を濾し取る作業を繰り返すことで、黄金色の液体が完成しつつある。

 食事は、縁起を担いでうどんを提供する。式参列者が三桁近くもいるので、麺は事前に用意しておき、茹でて提供するだけの状態にしておく。うどんの最高の味を提供できないのは残念だが、大人数のうどんを打ちながら他の料理を用意することは無理筋だ。汁は自家製醤油と昆布風海藻から作ったなんちゃって関西風。付け合せは明日料理する根菜のかき揚げと油揚げだ。

 甘味は当初、定石通りのウェディングケーキを考えていた。しかし、一〇個の大きなケーキを作るとなると、クリーム用の牛乳がまったく足りなかった。飼育しているクラインの乳は非常に美味しくて栄養価が高いのだが、その乳量は非常に少ない。低温殺菌して冷蔵庫に保存しておける量にも限界があったため、縁起物のバウムクーヘンに切り替えていた。これなら使用する牛乳が、大幅に節約することができたからだ。余った牛乳は添え物のクリームにしてしまえば、見た目にも華やかさが出る。

 あとは明日の作業工程を省くため、根菜類の洗浄、蒸し物用の豆類の水漬け、食材の小分けなどを行う。これを恭一郎の指示で各自が分担して行うことになった。




 恭一郎が各指示を出し終り、バウムクーヘンの制作を開始した。バウムクーヘンとは、切った見た目が樹木の年輪のように見えることから名付けられたケーキの一種だ。ケーキの生地を薄く焼きながら重ねていくことで、幸せを重ねるという意味の縁起物として、引き出物などにも使われている。

 ケーキの生地が完成し、自ら制作した大型の焼き器を食堂で準備していると、来客を知らせるインターフォンが鳴った。ハナが対応に出てからしばらくすると、ハナがローザを連れて食堂に現れた。ローザの手には大きな籠があり、白色の液体で満たされた瓶が大量に入っている。

 今日の分のクラインの乳を届けてくれとようだが、明らかにいつもと量が違う。まさか、エアステンブルク用の分まで持ってきたのではあるまいか。

 そう疑った恭一郎だったが、その疑いはすぐに晴れた。

「実は、カールさんとの子供を授かったことで、お乳の出が以前よりもよくなってしまいまして。飲んでくれていた子も離乳食に切り替わっていたので、何かのお役に立てないかと持って来てみたのです」

 そう語ったローザが重たそうな胸を揺らしながら、母乳の入った瓶の入っている籠を手渡してきた。地球でも乳の出の悪い母親のために、母乳を提供することがある。衛生的な問題もあるようだが、発想としては自然なことだ。

 記憶に無い赤ん坊の頃は怪しいが、少なくとも恭一郎は今まで、母乳を飲んだことがない。そんな好奇心も手伝って、恭一郎は受け取った母乳を軽くコップに注ぎ、味を確かめてみることにした。

「……優しさの味がするな」

 それは、衝撃的だった。甘くて美味しいクラインの乳とは異なり、甘みは感じるのだが、その後味がすっきりしているのだ。

 生物は住んでいる環境によって、子供に与える母乳の成分が大きく異なる。特に海生哺乳類は、水中で生活するのに必須な皮下脂肪を付けさせるため、脂肪分とそれを分解吸収させる酵素を多く含んでいるという。

 対するローザの母乳は、雑味が比較的少ない。おそらく、たんぱく質がクラインのモノよりも少ないのだろう。それが飲みやすい味の正体だ。この母乳を毎日たくさんの子供に与えていたのだから、ローザの母性は恭一郎が惚れてしまうレベルだ。

 そんなローザに母乳の有効活用をお願いされては、恭一郎に拒否する選択肢はあり得ない。母乳を味見した恭一郎の脳細胞が、現実的な手段と方法を導き出した。

「分かりました。この母乳は、責任を持って明日の料理に使用します」

 恭一郎の頭の中では、バウムクーヘンを焼き終わった後にするべきことが決まった。この母乳に残りのクラインの乳を混ぜ、そこへオディリアで手に入れたバニラのような甘い実を細かく砕いて香料として混ぜる。それを撹拌かくはんしながら凍らせるのだ。つまりは、バニラ風味のアイスクリームだ。

 素材の糖分が十分に高いため、加糖して甘みを調整する必要もないだろう。問題は撹拌と凍結の方法だが、少々荒っぽい手法で作れる。アイスクリーム溶液を大きな鍋の中に入れ、それを食料貯蔵庫の冷凍室で混ぜながら凍らせるのだ。防寒装備の魔導エンジンの試作品を流用して撹拌機を制作すれば、大量のアイスクリームを製造できるはずだ。

 ぶっつけ本番で失敗しても、アイスクリームがシャーベットやかき氷になるだけだ。それをバウムクーヘンに添えれば、甘味としての完成度が上がることは間違いない。

 こうして恭一郎は、想わぬ偶然からアイスクリームを手に入れた。その出来栄えは上々で、試食させたお手伝いメンバーに高評価を得た。




 その夜、ローザの母乳からアイスクリームを作ったことを知ったリオが、非常に複雑な顔をした。なんでも、母性に弱い恭一郎が、母性の象徴たる母乳に心奪われてしまうのではないかと、以前から懸念していたというのだ。

 一部の男性は、母乳へ強い憧れを抱くことがあることも知っていて、その母乳で恭一郎を寝取られではなく吸い取られてしまうのではないか、と考えていたようだ。

 非常に倒錯的な論理の飛躍であったが、逆にこのリオの発言が、恭一郎の心に火を付けてしまっていた。

 リオが母乳を出すようになったら、絶対味見をさせてもらおう。

 リオの懸念は、ベクトルの違う形で現実のものとなってしまったようだ。この事実をまだ、リオは知らない。

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