八話 皆無
俺の眠りを妨げる不届き者は意外とすぐ現れたようだった。
けたたましく響く地鳴りと風圧に起こされて目を開けてみれば、
俺の倒れる崖下の砂地のすぐ近くに、いつからか黄金の塔が建っていた。
その塔から迫る風圧にたまらず顔を上げると、塔の上には人の影がある。
その人影がみるみる近づいてきたと思ったらそのまま地面に墜落し、
いつの間にか黄金の塔も消えていた。
「出来なくはなかったが……これはもう一度やる気になれんな」
そんな緊張感のないぼやきを吐きながら、
落ちてきた人影が唖然とする俺の前でのっそりと起き上がる。
既に陽が落ちて薄暗くはあったが、あの巨体に聞き覚えのある声。
それが誰かを間違える筈もなかった。会うのはこれで三度目か。
「やっぱり生きてたか。だろうと思った」
赤髪の鬼だ。追手の中で一番やる気のなかった筈のこの男が、
あの崖を飛び降りてまで俺を追ってきたんだ。
「……何だよテメェ。そんなに俺を食べたいのか?」
左足と右肩の負傷に加え、この鬼には魔術の腕も届かない。
だから今は交渉で切り抜けようかと口を開いたが……。
「食べる? お前を? どうして?」
本当に意外とでも言いたげな顔だ。
じゃあ一体何しに来たのか。意図が全く掴めない。
「……いや、俺に聞くなよ。じゃあなんで来たんだよ」
「お前を追っていた奴等に、お前が勝ち誇りながら崖から落ちて自殺した、
と聞かされてな。信じられなかったんで確かめに来た」
「えっと……それだけ?」
「そうだ」
なんて迷惑な奴だと思った。だけど……確認が済んだならもう帰って欲しい。
流石に今は戦える状態じゃない。
「しかし……小僧、お前は生きて逃げ切った。確かにお前の勝ちだ」
迷惑そうな俺を尻目に、その鬼が言葉を続ける。
「やるな、小僧」
しかも何故か褒めてくれた。意図は相変わらず不明だが……。
「そりゃあ……どうも」
一応感謝だけはしておく。まあ……ちょっとだけ、嬉しかったし。
「で、いつまでこんな所でいる?
夏とはいえ裸で地べたで寝てれば体調も崩すぞ」
「そりゃ分かってるけどさ、疲れ切ってるし全身怪我だらけだ。
少しは回復しないと動けもしないんだよ!」
裸と言われたが一応猿股は履いている。とはいえ、
確かに言われた通り体は冷え切っていて気を抜けば歯がガチガチと鳴る。
「それなら今から火を熾す。こんなに暗いと怪我の様子も見て取れん」
そんな俺の様子を知ってか、何故かあの鬼は、そんな事を言い出した。
何故だろうか。俺は流されるままに焚火に当たって熱を取り戻すと、
言われるままに治療を受けた。ああ……右肩は有無を言わさず
強引にはめられて非常に痛い思いをした。苦情を言ったら
左足の治療はそれなりに丁寧だった。
それで……治療が終わった今、何故か俺は鬼と一緒に飯を食っている。
「正直な、普段ならそこまで美味しいもんじゃないと思うんだ、これ……
何だっけか?」
枝に刺さった丸い何かを齧り付きながら俺は聞く。
「一度炊いた雑穀を丸めたものだ。固くなる前ならこうやって
枝に刺して焼いて食える。水があったら入れて雑炊にする」
「そっちの食い方が良かったなぁ……まあ、今なら何食っても美味いわ。
もう一本くれ」
「……この後の事もある。あと一本にしておけ」
「おう」
焚火の前に刺さっていた枝を魔術の腕を伸ばして抜き取り、手元に置いた。
「器用だな」
「ん? お前は出来ないのか? 牧場だと大抵の人間が使えたんだが」
「お前のようにか?」
「それは無理だな。多分原始魔術が一番上手かったのは俺だ。
……まあ、理由があって誰にも教えてなかったけどね」
「そうか」
そこで俺はふと気づいた。相手の名前を知らないと、
お互いずっとお前呼ばわりでどうにも会話が面倒くさい。
「……というかさ、ずっとお前呼ばわりで話しにくい。名前はなんだ?」
俺も自分の口からこんな言葉が出るとか、この時まで思わなかった。
人を食う魔族の名前を知ってどうしようというのか。
言葉を交わした次の瞬間には食べられてるかもしれないのに?
内心しまったと思いながらも、出した言葉は引っ込められなかった。
「トオキ。遠い鬼と書いて、遠鬼」
だけどこの鬼もあっさりと自分の名前を口にした。
ご丁寧に漢字までしっかりと。
「とーき……」
口に出してみる。何だろう、もっと勇ましい名前だと
勝手に思っていたが、そんな感じでもない。
「小僧、お前は?」
「何が?」
「名前だ名前。牧場にいた人間でも、名前か……もしくは、
お前を他の奴らに認識させるための呼び方的なものは無かったのか?」
名前。俺の名前。そういえば記憶にない。
いくつか思い出せた姉さんとの会話でも、やっぱり俺は名前で呼ばれてない。
牧場にいた他の人間も、俺の事はお前とかあいつ呼ばわりだった。
(あれ……? そういや俺にそもそも名前ってあるのか?)
「ちょっと聞きたいんだけどさ、牧場の人間って名前付けられたりするのか?」
「知らん。多分管理者によるんだろ」
「なるほど……」
あの牧場の管理者は鋼牙……かな? もしくは殺されたっていうあいつの兄か。
どの道、その鋼牙が俺をガキ呼ばわりしてたんだ。つまりはそういう事だろう。
「じゃあ俺の場合は、皆無だな」
自嘲混じりに呟く。
「カイムか、どんな字を書くか分かるか?」
(え……何だ? 皆無の字?)
さっきまで雑穀が刺さっていた枝を手に取って、地面に『皆無』と書いた。
「カイム。それは全く無いとかいう意味の言葉だ。お前の名前の字じゃないだろ」
(あ……もしかして、カイムって俺の名前の事だと思ってるのか)
そうじゃないかと思ってたが、この遠鬼はかなり天然が入っている。
「確か……どんな字だったっけ?」
枝で変な模様を描きながら言葉を濁す。
「自分の名前の字が分からん? そんな訳はないだろ」
(ああ……何か訂正するのも馬鹿らしくなってきたな。
もうカイムでいいや、どうせ無いんだし)
遠鬼の天然にあてられてか、俺はちょっと投げやりになった。
「あ、思い出した! 確かこんな字だった!」
それっぽい字を頭の中であてがったので、地面に書いた。
『界武』
(こんな感じで……いいか)
「こうだな、これで界武」
「世界の界に、武力の武……。あ、いやちょっと待て界武」
「ん、何?」
「お前、字の読み書きが出来るのか」
「え? 出来るけど……」
(あれ? 読み書きが出来るのは普通じゃないのか?)
俺の場合は確か姉さんに教えられた筈だが、
そういや姉さんは他の人間には文字を教えてなかった気がする。
「文字を教わるのは魔族じゃ普通じゃないのか?」
「出来なくても普通に生きる分にはそこまで困らん癖に時間がかかる。
必要な者以外は教わらん。俺も必要だったから教えられただけで、
周りは殆ど出来なかった」
「そうか。俺は姉さんに文字を教わった。
だから一通りの文字は読めるし書ける」
「……その姉さんとやらはどこで教わったんだ?」
「さあ。俺と同じずっと牧場から出た事ない人の筈だけど、
何故か色んな事を知ってた。俺にはそれが当たり前だったから、
そういう人も偶にはいるもんだと当たり前に思ってたけど……」
「人に教える事が出来るほどに文字が分かる人間……? 不思議な話だ」
「あ……そうだったのか」
姉さんの存在は不思議なものだったそうだ。とは言っても……。
「まあ……その不思議な姉さんも、もう出荷されてる筈なんだけどな」
「……そうか。それは、悪かった」
何故か謝る遠鬼を変に思った。こいつだって人食いの魔族の筈だ。
人間を当たり前に食べてきた筈だ。悪いだなんて思うものか。
「悪いも何も、今までお前が食った人間の中に、姉さんがいたかもよ」
ここまで世話になっておきながらも、この言葉は敵意を隠す事が出来なかった。
(そう、やっぱりこの鬼も俺の敵だ。隙を見てぶん殴ってやる)
その視線を受けて、遠鬼はばつが悪そうに頭を掻いた。
「俺は人間を食った事がない。その必要が無かった」
「食ってない……? というか、人間を食う必要って何だ?」
「魔族が人間の肉を食うと、その魔力を吸収できるとされてる。
それで人間の肉は珍重されるが、俺はそんなもの食わずとも十分強かった。
だから食った事はない」
「へぇ……そう」
言い訳臭い言葉だったけど、疑う気にはなれなかった。
遠鬼は恐らく嘘を言っていない。本当に人間を食べた事はないんだろう。
そして……何というか、今の会話の雰囲気が俺には面白くなかった。
俺が食われる側だというのを逆手に取って、遠鬼に引け目を感じさせてるような。
(馬鹿馬鹿しい! そもそも俺は食われる側ってのを認めた事なんて無い!)
「まあそんな事はどうでもいいよ。俺も正直実感無いし」
「……そうか」
「そうそう。それより……あれだ。飯、ありがとな」
魔族に礼を言うなんて、変な感じだと俺は思った。