六十九話 圧力
「さぁさ、お待ちかねのベルヌーイの定理のお話なんだけど……」
「いや、特に待ってないけどさぁ……
あれでしょ、空を飛ぶのに必要な奴でしょ?」
姉さんが屋根から空を飛ぶ、なんて奇天烈な事を言い出した時に
そんな話をしていたのを思い出す。
「う~ん……まあ空を飛ぶのにも大事な話なんだけど、
ベルヌーイの定理自体は今まで学んできたような
エネルギー保存則と似たような話でね」
「ああ、位置と運動えねるぎー……」
「それそれ。いろいろややこしい事抜きに説明するとね、風とか川とか……
とにかく何かが流れている場所では、
そこに圧力エネルギーというのが加わるのね、圧力」
「圧力って確か……面を押す力だっけ?」
「そうそう、その圧力。つまりは……流れているものがあって、
その流れのどの場所を調べても、その三つのエネルギーの和が……」
姉さんの話は大抵前提が長いが、今回は特に長かった。
翼の上下の圧力差で揚力が発生して空を飛べるという話まで辿り着くのに、
それはそれは長い道のりだった。
「それで……確か揚力の公式がこれ……だったと思う」
『L=1/2ρSV2CL』
書かれた公式とやらは、やはりさっぱり分からない……
いや、話の流れからLが多分揚力の事なんだろうし、
色んな公式に出てくるVが速度の事というのだけは分かるか。
「ρは空気の密度の事。上空に行けば行くほど空気が薄くなったりはするけど、
あまり気にする必要はないかな。Sは……翼の大きさの事だと思えばいいよ。
翼が大きければ大きい程揚力も大きくなるって訳。で、Vは……」
「速度だよね。何というか、速度は二乗になる事が多いね……」
「おお、分かってきたねぇ……。
で、CLは確か、揚力係数……翼の形や角度とかで決まる数値で、
式を見れば分かるようにこれが大きければ揚力も大きくなる。
鳥の羽みたいなのはね、この揚力係数を大きくするために
あんな形になってるという事だと思う」
「という事は……その係数が良い大きな翼を持って、
思いっきり速く走れば俺も空を飛べるようになる?」
「人間の体は重たいからねぇ……。
もし本気で空を飛ぼうと思ったら、そりゃあ大きな翼が必要になるし……」
それに、物凄い速さで走らないとね、と言って姉さんは笑った。
目を覚ます。
一番最初に気付いたのは心配そうな月陽の顔。その後ろには木の天井が見える。
……ここは何処だろうか?
「あ、界武君!? 気が付いた!? 大丈夫、身体は痛くない……!?」
「月陽……? 痛いって……何だ?」
言われて身体を確認するが、痛い所は何処にもない。
だから大丈夫だと答えようとしたが……違う、何かが違う。
身体は確かに痛くはない。怪我があるかもしれない事を考えれば、
月陽の治癒魔術のお蔭だと思う。だが……何故怪我をしている?
そして……どうしてこうも心が猛っているんだ?
まるで、ついさっきまで戦っていたかのように……。
「……あの野郎は何処だっ!?」
跳ね起きる。
月陽を驚かせてしまったかもしれないが、それどころじゃない。
「あ……あの野郎って、誰!?」
「羽膳だ! 羽膳の野郎は何処に行きやがった!?」
思い出した。あの羽膳の野郎から吹っ掛けられた勝負、
その真っ最中だった筈だ。
そしてその場を見回せば……確か、ここは宿の一室。
新坂に着いてから、このあざみ屋という大きな宿を借りていた。
この一部屋で確か一泊八十文。春夜さんが言うにはかなり高い宿らしい。
遠鬼が根城から持ってきたお金で払うものと思っていたら……。
「『閃刃』の紹介で来た。一部屋用意して欲しい」
そう言って支払いを延老さんに押し付けやがった。
宿の主人も貼り付けた笑顔の裏で怯えきっているのか、
唯々諾々と一部屋用意してくれた。
その部屋の中で、俺は何故か眠っていた。
その直前は草原で羽膳と戦っていたのにだ。
つまりは……。
(羽膳が何処かに行ったんじゃなくて、俺がここに運ばれたのか……!)
それは許せない。あんな奴にやられっぱなしで終わらせる訳にいかない。
「あの鳥の人はどこ行ったか知らない……。
でももう夜だよ? 会いに行くにしても明日にしようよ……」
「……そんな訳に行くか。
俺がやられた分だけアイツをぶん殴ってやらないと……!」
「うるさいぞ、落ち着け」
俺の声が外に漏れていたのだろうか、引き戸を開けて遠鬼が入って来た。
「……丁度良かった。遠鬼、羽膳って奴は何処に行った?
お前の護衛をしてるんだろ? だったらそう遠くには行ってない筈だよな?」
「さっきまでこの辺に居たが、用事とかで関の方に歩いて行った」
「関だな、分かった……!」
心配そうな月陽の視線を振り切って、
俺は今さっき遠鬼が入ってきた引き戸に手を掛けた。
「今から行って、勝てるのか?」
それを止めるでもなく、遠鬼はただ勝算を聞いてくる。
(……勝てるか? 俺は、羽膳の奴に勝てるのか……?)
その言葉に俺の手が止まってしまう。
……遠鬼の言わんとしている事は分かる。
確かに冷静に考えてみればだ。今の怒りに任せて殴りかかったところで、
その拳が羽膳に届く気がしなかった。
(……少なくとも、あの防壁魔術。あれを破る術を考えておかねぇと、
昼の勝負の二の舞か……!)
そこで遠鬼を一睨みする。いつもの何にも考えてなさそうな表情で、
遠鬼はただ俺を見下ろしていた。
「……そう言えばあの羽膳って奴、防壁の魔術を破ったのは
衛蒼だけだって言ってたな」
勝ち筋が無いとは言えない。だけど勝算があるとも言えない俺は、
話題を逸らす事にした。
「……言ってたな」
「それじゃあ遠鬼、お前でもあの防壁破れねぇのか?」
「破れる。そう難しい事じゃない」
「破れるのかよ……って、アイツはさも難しい事のように言ってたぞ」
そこで遠鬼は俺から視線を外し、そのまま月陽の側に腰を下ろした。
未だ注がれている月陽の心配そうな視線が辛い。
(……月陽を心配させないように、
俺もそこに座って話を聞けって事か)
流石に少し落ち着きつつあった。
俺は月陽の視線に引っ張られるように近づき、そのまま二人の正面に座る。
その俺の顔を見て、ようやく月陽に笑顔が戻った。
(……そういえば、治癒魔術のお礼すら言っちゃいなかったな)
その月陽の笑顔に自責の念がこみ上げてきた。
……うん、これは俺が悪い。それを認められたら後は言葉に出せばいい。
「月陽……魔術、ありがとう。身体の方はもう大丈夫だ。
心配させて……ごめんな」
「そっか、それなら良かった!」
月陽はそう返事をしてから、手を伸ばして俺の頭を撫でてきた。
……年下扱いは止めて欲しいんだけど、
それでもこのくすぐったさは悪くなかった。
「それじゃあ遠鬼、お前ならあの防壁、どう破るんだ?」
月陽が気の済むまで俺の頭を撫でまわした後だ。
俺は気恥ずかしさを誤魔化すように強い口調でそう聞いた。
「どうもこうもない。難しく考えるな、あんなのはただの壁だ」
「えっと……つまり?」
「力任せにぶん殴れば破れる」
「またそれか……。
でも俺の銀の原始魔術じゃ破れなかったぞ!」
「単に力が足りない」
「えねるぎーが足りねぇってのか。
それじゃあいつもみたいに石持ってぶん殴れば良かったのか」
銀の魔腕の威力が強烈だから良く忘れてしまうが、
それでも原始魔術に重さ自体は殆ど無い。
先程の羽膳との戦いでも右手の重さを乗せて振り回していただけだから、
確かに石を掴んでいればそのえねるぎーは何倍にも膨れ上がっていただろう。
「それで破れるかもしれん。だが、もしそれでも駄目なら武器を使え」
「武器?」
「そうだ、普通に壁を壊す事を考えろ。手で押して無理なら殴りつける。
それでも壊れないなら楔でも打ちつければいい」
……普通の人は壁を壊そうなんて思わないし、思っても実際に壊さないと思う。
だが確かに、遠鬼の言う事は単純故に分かりやすかった。
「……なるほど。確かに圧力は面積当たりにかかる力だ。
面積を絞って一点集中すればいいって訳だな!」
「……よく分からんが、そういう事だ」
言ってる事は伝わってないようだが、俺の自信だけは伝わったらしい。
遠鬼は俺の返事にそう言って頷いてくれた。
「……よし! それじゃあ羽膳ぶん殴ってくるわ!」
「え!? もう夜だよ界武君!?」
慌てて外に出ようとする俺を止める月陽。
だが遠鬼は止める気はないらしく……。
「……一刻経って帰って来なかったら一応迎えに行くが、
面倒だから早めに殴って来い」
逆に応援? してくれた。
「おう!」
それが嬉しくて、勇んで宿を後にした。
「……殴りに行って……いいんだ」
そんな界武達を見て月陽が学んでしまった。
喧嘩友達とは、昼夜問わず殴りに行っていいのだと。
昼はこんなに魔族がいるのかと驚いた新坂の大通りだが、
流石に夜には殆ど人が歩いていない。
だから人混みに邪魔される事もなく、あっという間に関には着いた。
だが……何かおかしい。新坂の入口である大きな関所から、
異常な喧騒が流れてくる。
幾つもの松明が右往左往と動き回っており、
その内に役人の一人が何かを担いで走って来た。
(……何だ? 何を担いでいるんだ?)
街明りにぼんやりと見えたその荷物は……血塗れの男だった。
俺の横をさっと通り過ぎた、その時にちらりと見えただけだ。
それでも分かる。止血にと巻かれた包帯がほぼ左半身を覆っていた。
その包帯の色は殆どが黒。もしここがもう少し明るければ、
その赤黒さがはっきりと見えた事だろう。
死体など見慣れてしまっていた俺でも、
そのあまりの怪我の酷さに、全身に走る悪寒を止められなかった。
(……あれは、生半可な怪我じゃない!
まるで殺すためじゃなく……ただ痛めつける為の傷の様な……)
ただ人を殺すのなら首を刎ねればいい。
喉を潰してもいいし、心臓を貫いてもいい。
……生きたまま、半身を血塗れにする必要は無い筈だ。
「何が……何があった!?」
関に走り込んだ俺に最初に気付いたのは、よりにもよって羽膳だった。
「界武!? お前がなぜここにいる!?」
「テメェを殴りに来たんだよ! それが何故かこの騒ぎだ!
一体何があったんだよ!」
驚く羽膳を叱り飛ばし、俺は詳細を聞こうと掴みかかる。
その俺の後ろをまた人が何かを担いで走り抜ける。
……それが何かは充満する血の匂いで見なくても分かる。
「……左衛門佐様を呼んで来い。それから仔細を話して……」
「呼びに行くにも理由があるだろうが!
いいからさっさと話しやがれ!」
その俺の剣幕に舌打ちを返し、羽膳は胸倉を掴む俺の左手を振り払った。
「……丹波国守護、厳容様が旅の途上で人間達に襲われた。
護衛が数人殺されて、厳容様も含め……逃げ延びた者も怪我人だらけだ」
(人間が……魔族を……襲う!?)
逆じゃないかと思いはしたが、春夜さんから聞いている。
そんな事が出来るかもしれない男が、この丹波国に潜伏しているかもしれないと。
「……『偏愛逆徒』か?」
「だろうな。こちらが動きを見せた途端にこれだ。
正直、油断していた……!」
自責の念に唇を噛むその男を、流石に殴る訳にはいかなくなった。




