六十四話 一貫文
「へえ……じゃあこの猪は、界武君だけで狩ったんだ」
春夜さんの操る箸が焼肉を優雅に口に運んでいる。
意外と、というのは失礼な言い方かもしれないが、
春夜さんの箸使いは非常に上品だった。
その戦士とは思えぬほどに白く清らかな手が軽やかに箸を動かす様は、
何故か分からないけれど見ていて気持ちがいい。
ちなみに、俺が今まで見た中で一番綺麗な箸使いは勿論姉さんだった。
だからその姉さんに教わった俺もそれなりに綺麗に使っていたと……思う。
今は右手が使えないもんだから、左手でぎこちなく扱っているけれど。
「ああ、猪ぐらいならもう俺一人で十分っていうか……
むしろ遠鬼は前に大声出して逃がしてたりしてたからなぁ」
「ああ、この間言ってたっけ。
相変わらずコイツはそういう所不器用なのねぇ」
その俺と春夜さんの談笑に、遠鬼も月陽も乗ってこない。
遠鬼などは話題に出しておいたのに、我関せずと麦飯をあおっている。
遠鬼は肉もよく食べるが、それよりも麦飯が好きなようで
呆れるほどの量を食べてしまう。今も確かこれでもう三杯目だ。
そしてその箸使いは……普通かな? 誰に教わったんだろうか?
そして……誰にも教わらなかったと思われるのが月陽だ。
ここに来てからは俺が箸の使い方を教えてはいるが、
まだ摘まむ、という動作が上手く出来ない。
肉などはその切れ端を何枚も箸で刺して一気に頬張るのがお気に入りだ。
良くそのまま噛み切れずに難儀している姿を見る。
俺はちょっと苦手なのだが、月陽はあの脂っぽさがたまらないらしく、
放っておくと食事が終わってからも口をもぐもぐと動かしている。
その姿は愛らしくもあるが、同時に食事の作法について、
箸使いと一緒にこの後もしっかり教えていかなければと
思わずにいられなくさせてくれる。
そしてそんな月陽だが……この昼食ではあまり箸が進んでいない。
理由は透けて見えている。春夜さんを警戒してるんだ。
「月陽、春夜さんは今は敵じゃないって言ったろ?
そんなに警戒しなくていいぞ」
「そ……そうそう、月陽ちゃん。
界武君のお姉さんなら今は勿論、これからもずっと敵じゃないからね」
月陽ちゃん。春夜さんはそう月陽を呼んでいる。
そのぎこちない笑みで警戒を解こうと頑張ってはいるが、
月陽は相変わらずの仏頂面だ。
「ハハハ……ちょっと……人見知りなのかな」
春夜さんの徒労をそう言って慰めてはみたが、効果のほどは知れている。
引きつった笑みを浮かべたままの春夜さんが不憫だ。
「春夜、お前何かしたんじゃないのか? 俺にはあんな態度見せなかったぞ。
お前は普段から素行が悪いから……」
「あなたにだけは……あなたにだけは素行をどうこう言われたくない!」
そんな遠鬼と春夜さんの舌戦にも月陽は関心を示さない。
ただ俺の隣で小さくなりながら、その視線だけで春夜さんを牽制している。
(……このままじゃあ先が思いやられる。
何とかしてこの機会にこの二人の確執だけはどうにかしておかないと)
食事が楽しくないのは致命的だと、俺も解決に本腰を入れようと決意する。
「……月陽、そうまでして春夜さんを警戒する理由は何だ?
良ければ教えてくれないか?」
春夜さんの前では額当てと被衣さえ外さなければ警戒しなくて大丈夫、
とは伝えてある。それでもずっとこの態度というのなら、
これは人間として魔族を警戒する以上の意味がある筈なんだ。
だが月陽はその眼差しで不満を示すだけで何も話そうとしない。
「……月陽、頼むよ」
重ねてお願いする。それでようやく口を開いた。
「……あの春夜って女の人が界武君を見る目がイヤ。
熱っぽくって何か嫌らしい感じがする」
「なっ……!」
それを聞いた春夜さんが瞬時に顔を赤らめる。
何も言い返せない所を見ると、どうも思い当たる節があるらしい。
(ああ……遠鬼から聞いた鬼人族の女性の嗜好の話か。
害がない限りは見て見ぬ振りをするつもりだったけど……)
月陽としては弟を嫌らしい目で見る女性を頑張って牽制していたらしい。
こういうのは得意じゃないと、仕方なくどうしようかと遠鬼を見ると、
それを受けて遠鬼が呆れ半分嘲り半分といった態で春夜さんを睨んだ。
「ほら見ろ、お前が年甲斐もなく界武に色目を使ってるからだ。
もうその辺は諦めて戦士として生きろ」
後に続いた深いため息が、殊更に春夜さんの逆鱗を刺激したようだ。
「あっあっあっ……あなたのせいでぇ!
あなたが私の人生を滅茶苦茶にしたせいで!
私は花盛りの年月を復讐なんて不毛な行為で浪費する事になったのよ!
やっぱり死んで! 今すぐ死ねぇ!」
駄目だ、分かってたけどやっぱり遠鬼は駄目だ。
思うがままに火に油を注ぎやがった。
「遠鬼っ! 相手を慮って言葉を選べって言ったよなぁ!」
「……生半可な優しさは余計に傷つけるだけだ」
「それ今考えた言い訳だろっ!」
「ほら界武君! あの女、遠鬼に死ねって言ったよ! 悪い奴だよやっぱり!」
月陽が今にも噛み付かんという勢いで春夜さんを威嚇しだした。
ああ……もう滅茶苦茶だ。
「大体なぁ遠鬼! 春夜さんは全然綺麗じゃないか!
それを年甲斐とかどうとか……お前の目の方がおかしいだろ!」
遠鬼を窘めようとして出てきた言葉。別に変な事は言っていない筈だ。
その筈なのに……その俺の言葉の後に始まる唐突な沈黙。
「……えっと、どうしたんだ、みんな?」
誰も喋らない。視線が痛い。特に月陽からのは深々と突き刺さるかのようだ。
「……あ、ありがとう」
しばらくの沈黙の後、春夜さんは顔を真っ赤にしてそう言ってくれた。
年上の女性に対しての言葉ではないかもしれないが、ちょっと可愛い。
「……悪趣味な」
遠鬼らしからぬ小さな呟き。
「へえ……そうなんだ、界武君はあの女の味方をするんだ」
月陽、だから敵とか味方とかじゃないんだ。
頼むからその視線を止めてくれ。その眼力だけで殺されそうだ。
……結局、折角の昼食なのに碌に味も分からなかった。
昼食の後、俺は足早に蔵の中に逃げ込んだ。
遠鬼が言っていた、お金や武器防具が入っているという蔵だ。
入り口から差し込む陽光のみを頼りに埃舞う暗室を彷徨う。
そしてそれはすぐに見つかる。床に置かれた木箱の中に小さな金属片が
砂利のように敷き詰められており、
箱の横にはその金属片が紐に繋がれ束となったものがいくつか転がっている。
(……これかな?)
箱の中から一枚、その金属片を取り出す。
暗くてよくは見えないがそれは小さな円盤状であり、真ん中に四角い穴が、
その周りには何やら文字が書かれている。
今度は横に転がっていた金属片の束を取ってみる。
……重たい。そして持ち上げてみて驚く。
俺は金属片の束がいくつか転がっている、そう思っていたが、
これは金属片の束が更に幾つも紐で繋がれて一つになっている。
纏めるにしろ、どうしてこんな変な纏め方をしたのだろうか……。
「その一貫文がどうかしたのか?」
入り口からの光が急に淡くなったと思いきや、そんな声が掛けられる。
……遠鬼だ。遠鬼が蔵の入口からこっちを窺っているんだ。
「えっと……一貫文ってこれの事か?」
手に持つ金属片の束の束を掲げて聞いてみる。
「そうだ、金の単位が文。そして一貫が千文の価値があるとされている」
「あるとされている……?
つまり、こいつはその一文のお金が千枚繋がれているって訳か?」
「いや……確か九百六十枚だ」
「え? いやでも一貫って言ったじゃないか」
「俺もよく分からんが、九十六文あればそれを百文として数えるらしい。
で……その九十六文の束が十個繋がれているから、
それを一貫文、と呼んでいる」
「……どうしてそんな訳の分からない数え方をしてるんだ?」
「それは人間に聞いてくれ」
その言葉で察する。どうやらお金はおろか、
その纏め方や数え方に至るまで人間が使っていたままらしい。
「ああ……いつものか。人間の使ってたのを流用してるのか」
「そうだ。金に至っては確か意匠もそのままの筈だ」
相変わらずのいい加減っぷりだ。
その意匠の意図するところも魔族の繁栄などとはかけ離れているだろうに、
それを気にも留めずにそのまま使っているという訳だ。
「ちなみに……この一貫文でどれぐらいのものが買えるんだ?」
「そうだな……米なら二俵。
雑貨程度ならお前が数年は不自由しない量が買える筈だ」
「……そんなにか」
雑に扱ってしまっていた。それだけのものなら丁寧に扱わないと。
そう思い一貫文を静かに元あった場所に戻す。
「それじゃあ……このお金と糧食、それに服を何着か持っていけばいいか?」
「そうだが……界武、他に何か持っていく物は無いか?」
「他に? 例えば何だ?」
「武器」
そう言われて蔵の中を見回せば、
物騒な形状の長物や、棍棒や短刀等がいくつかある事に気が付いた。
「武器ねぇ……でも俺は右手が使えねぇし、左は利き手じゃないから
武器を上手く扱える気がしねぇよ。
それなら格闘術に絞った方がまだ良く戦えるってもんだ」
「原始魔術の腕があるだろう。あれで武器を持ったらどうなんだ?」
「……いや、あれこそ武器は必要ねぇんだ」
原始魔術に足りないものは重さだけだ。
そしてそれとて路傍の石を拾えば事足りる。
その形状すらも自在に操れつつある今となっては、
形の変えられない武器を魔腕に持たせる意味が無い。
「そうか」
ならばと蔵に入ってきた遠鬼は、お金の入った箱だけを持ち上げて運び出す。
結構な重さの筈だが、それを軽々と担いでそのまま出ていこうとした。
「あ……ちょっと待て遠鬼!」
「何だ?」
「よくよく考えたらさ、お前の服……ボロボロじゃないか」
会った時からそうだったんで特に気にならなかったが、
左衛門佐を名乗るのならばもうちょっとまともな服にしておいた方がいい筈だ。
幸いにも、この蔵の中なら上物の衣服の類はそれなりにありそうだった。
「服は……どうせすぐにこうなる」
「そうかもしれねぇけどさ、
少なくとも新坂に行ったら偉い人に弁明しないといけないんだろ?
なら服装だってちゃんとしておいた方がいい」
「そういうものか?」
「……だと、思う」
「なら後で適当に着替えよう。
……界武、それなら月陽にもここからいくつか服を見繕ってやれ」
「あ……いやえっと……それは……」
あの月陽の視線が怖くてここまで逃げてきたようなものなんだ。
だから今すぐ月陽に会うとなるとちょっと躊躇う気持ちがあった。
「どうした?」
「月陽はさ……まだ怒ってるかな?」
「家に戻って不貞腐れていたぞ。
さっきみたいに上手い事言って機嫌を直してやれ」
(……いや、別にさっきも上手い事言ったつもりはないんだけどな)
それでもだ、春夜さんはあれから妙に機嫌が良かった。
だから多分……多分だけど、悪く考えないでいいんだろう。
だがこれは何だろう。
遠鬼の弁明の付き添いとはいえだ、これからこの世界を
揺るがしかねないという大事件に飛び込もうとしている筈なのに、
目下俺は女の子のご機嫌に頭を悩ませている。
この馬鹿らしい状況に思わず笑ってしまった。
「……何がおかしい?」
急に笑った俺を奇妙に思ったんだろう、遠鬼がそう聞いてくる。
「いやなに、結構な大事件に関わろうって時に、
月陽のご機嫌が一番怖いっていうのも変な話だなってさ」
そう言った後もまだクスクスと笑う俺。
それを遠鬼がどう思ったのかは分からない。
だが次の遠鬼の言葉はそんな俺の腑抜けた雰囲気を吹き飛ばしてくれた。
「……界武、俺は『偏愛逆徒』なぞ会った事も無いし、
そいつが百人の人間を使って何を企んでるかなど想像する事も出来ん」
「ん? あ、ああ……そうだろうな」
「だがあの馬鹿野郎の事なら少なからず知っている」
「馬鹿……ああ、衛蒼って人の事か」
「そうだ。あの男は鼻がいい。
楼京では揉め事が起こるとすぐあの男が顔を出した。
そしてその対応もそつがなかった。
まるでその揉め事をどう対処すべきか既に知っているかのようにな」
「なんだ、馬鹿野郎だと言ってた割には妙に褒めるな」
「そういう男だからだ。そしてその男が新坂にやって来る。
それがどういう事か分かるか?
長門国の反乱絡みで忙しいだろうに、
こっちの事件を優先する判断をした訳だ」
遠鬼の声は抑揚が無く感情を読み取りづらい。
だがここまで聞けば流石にその心情まで聞き取れた。
遠鬼はこの状況を警戒しているんだ。それも、かなり強く。
「……つまり、これから起こるかもしれないっていう事件、
絶対に酷い事になるっていうのか」
「俺はそう思っている。界武も覚悟はしておけ。
そうやって暢気に笑える日は……多分、今日からしばらくお預けだ」
「……そっか」
それならもう月陽と会うのを躊躇っている場合じゃない。
遠鬼を追い越し蔵を出て、月陽が拗ねているという家に走っていく。
月陽に遠鬼……それに多分、春夜さんもだ。
この三人を守るためになら、
どんな相手を前にしても戦い抜こう……そう、その意志を固くした。




