四十七話 名前
牧場の隅には井戸があり、
洗濯なんかはその場で済ませる事になっていたから、
いつ行っても大体誰かがそこにいた。
とりわけ、毎朝の水汲みは八歳以上の子供の仕事とされていたからか、
朝は出荷間近の子供達でごった返す。勿論桶を持って水を汲みに来ているのだが、
他にも強制されていた訳ではないが、皆がしていた事がある。
水浴びだ。
十歳程度の子供達が男女問わず裸になって、汲んだ水をかけ合う。
冬は正直嫌だったが、夏はこれが楽しかった。
そこで騒ぎ遊んで水浴び前より汚れて怒られるのは、誰もが一度は経験した筈だ。
だけど、姉さんがあそこで水浴びをする姿は一度だって見た事が無い。
いつも水を汲んでは家の近く、自作の衝立の裏に隠れて一人水を浴びていた。
どうしてだろうと一度覗きに行ったことがあるが、あの時は随分と怒られた。
「あのね、女の子の肌はみだりに見ちゃいけないの!
それは恥ずかしい事なの……分かる?
もう一回してみなさい。そうしたらもう何も教えてあげないから」
その怒りが本物と知り、何度も泣いて謝ったものだ。
それが確か……八歳ぐらいだっただろうか?
ただ姉さんと一緒に水浴びを楽しみたかっただけだったんだろうが、
女の子の肌を見れば酷い事になると、更にそれは恥ずかしい事だと思い知った。
……それなのにだ。
少女は上半身はだけたまま抱きついてきた事を、何とも思ってないようだった。
俺ばかりが変に少女を意識して、無駄に精神を摩耗させていたという事だ。
……納得が、いかない。
四人で遅い朝食を食べている。
俺は両手が使えないからと、黙々と魔術の腕で食事を続けてる。
魔術の腕は箸を扱えるほど器用じゃないんで手掴みで食べてるようなもんだけど、
まあ……魔力は多分清潔だろうから問題は無いと思う。
俺はこんな感じで食事自体に難儀していたのに加え、
抱きつかれた時の恥ずかしさがまだ残っていたのでぎこちなく言葉少なだった。
そんな俺の代わりに少女に相槌を打つのは、遠鬼と延老さんの役割となっていた。
「それで、牧場では白いのってずっと呼ばれてたの。
酷くない!? 私が嫌だって言ってもずっと白いののまま……!」
「まあ……確かに、白いですからねぇ」
「酷い……おじいちゃんも酷い!」
「おじいちゃん……ですか」
そんな風に呼ばれた事も無いのか、延老さんは不思議な顔で
『おじいちゃん……』と繰り返し始めた。
「白いのが嫌なのか?」
麦飯を頬張りながら遠鬼が聞く。
「嫌だ! 私だけ白いからって、ずっと一人きりだった!
みんなみたいな黒い髪が良かった!」
「そうか……? 俺は綺麗だと思ったが」
「え!? えっと……そうかな? 遠鬼は私の髪、好きなんだ」
「好きというか……月の色だ、綺麗じゃないか」
「月かぁ……そうなんだぁ……どうしよう、困ったなぁ……」
そうは言うがどう見ても困ってる風ではなく、嬉しそうだ。
そのにやけた顔で一目瞭然だった。
「界武くんはどう思う? この髪……好き?」
何故そこで俺に話しを振るのか。
俺の感想なんてどうだっていいじゃないか。
そう思ってもそのまま口には出来ない。
「えっと……嫌いじゃない」
「好き!?」
「どちらかというと……そう、す……好き」
「そっかぁ……じゃあ、私も好きになったかも!」
俺の曖昧な評価なんかを参考に嗜好を変えないで欲しい。
多分それが青でも赤でも同じ返事をしたと思うぞ。
「だがそうなると、何か名前を考えた方がいいな」
遠鬼の尤もな意見。だがそうなると……懸念すべきは今の面子だ。
(この四人で……この子に相応しい、いい名前が考えられるのか?)
女の子の名付け親には間違いなく不向きな三人の男に当の本人。
駄目だ……嫌な予感しかしなかった。
「人間の名前となると、魔族のそれとは付け方が違うでしょうからねぇ。
私にはちょっと思いつくものはありませんね」
早々に延老さんが考えるのを放棄。ある意味賢い選択だと思う。
「字が書けないそうだから、簡単な文字がいいだろう。
書きやすい奴だ」
遠鬼、その観点は大事かもしれないけど、
そういうのは候補を絞り込んでから考えるべきじゃないか?
少女に相応しい名前にするのがまず第一なんだから。
「私ね、界武くんと同じ名前がいい!」
違うんだ、ちょっと嬉しいけどそもそも名前ってそういうもんじゃないんだ。
俺達二人並んでいた時、どう呼べばいいか他の人が混乱するだろ?
(やっぱ駄目だ……俺が何とかしないと……)
「俺の名前は止めとこう。ほら、武の字とかは厳ついというか、
ちょっと似合わねぇよ。もっとこう……綺麗な感じの奴がいいよ」
「綺麗?」
ちょっと嬉しそうな表情。
なるほど、やっぱ綺麗な方がいいか。その辺を中心にまとめよう。
「ほ、ほら……さっき遠鬼が言ったじゃないか。髪が月の色で綺麗だって。
だからさ、月に関係する感じの名前にするのはどうだ?」
「月……か。うん、だけど……」
気に入ってくれると思ったが、それを聞いた少女の顔が少し曇った。
「どうした……? 月は気に入らないか?」
「そうじゃなくて……えっとね。わたし、髪が白いのもそうだけど……
目が赤いのも嫌がられてたの。それでね、月って……赤い部分が無いでしょ?」
(……もしかして、この子は自分の容姿が原因で孤立してたせいか、
それに全く自信を持ててないのか)
それなら確かに髪の色を好きと言われてあれだけ喜んだのも納得だ。
もしかしたら、名前よりもその自分の容姿を好きになってもらう方が
先だったのかもしれない。
「目が怖がられていた? 変だな、俺はそれも綺麗だと思ったが」
「えっ……ホント!?」
「ああ、そっちは太陽の色だ。綺麗じゃないか」
「そ……そっかぁ! お日様の色なんだ……!」
先程にもましての喜びように、俺の懸念が吹き飛んだ。
やっぱこの天然鬼、普段は酷いが偶にいい仕事をする。
(ん……待てよ? 月と太陽か……)
これなら、今の少女なら気に入ってくれるかもしれない。
「それならさ、月と太陽でつきひっていうのはどうだ? 月陽。
それでいいなら書き方は後で教えるけど、そんなに難しくも無い筈だ」
「つき……ひ……」
噛み締めるような言葉。
実際まだ口に残る猪肉を噛み締めてたのかもしれないけど、
そんな事はどっちでもいい。気に入ってくれるだろうか……。
「それがいい。私、その名前が好き。月陽……! うん、月陽がいい!」
満面喜色の少女。
「いいですね、この子には相応しいのでは?
ではこれからは月陽君と呼びましょう」
そう言う延老さんはよく見ればあまり箸が進んでいない。
傷が痛むという風でも無いし、今は会話の方を楽しんでるんだろう。
「ならそれで。じゃあ月陽……さっきから肉ばかり食っているが、
麦飯も食べたらどうだ?」
その遠鬼の言葉で月陽の皿を覗いてみれば、
確かに焼肉ばかりが取り置いてあった。意外と食い意地が張っている。
「え~、麦飯はいつも食べてたし。肉の方が美味しい!」
「食べ慣れてない物を食べ過ぎると腹を壊すぞ。界武も一回やった」
「よくもそんな昔の事を……。でもまあ、確かにあの時は辛かったな。
月陽、そういう訳だから程々にしといた方がいいぞ」
「であれば、煮物にしてはどうですか?
月陽君、こちらの方が多少はお腹にいいと思いますよ」
延老さんから猪肉の煮物の差し入れ。
だが月陽はそれを受け取らず、何というか……感極まったかのように
体を震わせていた。
「……凄い、名前って凄いね!」
嬉しくてしょうがないといったようなその声色に、男三人、共に首を傾げる。
「えっと……どういう意味だ、月陽?」
代表して俺がその言葉の意図を聞く。
「ほら……今もそう! 月陽って呼ばれる度に、凄い……凄い嬉しくなるの!」
その表情は今にも泣きそうなほどだ。
名付け側としては……そこまで気に入ってもらえて嬉しかった。
ただ……それがどんな名前だったとしても反応は同じだっただろう。
自分に名前があって、それを呼んでもらえる。
本当にたったそれだけの事なのに……
少女にとってはあれほどに素晴らしい事なんだ。
「ありがとう、おじいちゃん!」
そう言って延老さんから煮物を受け取る。
どういたしまして、と笑う延老さん。
「じゃあ……界武くん、代わりにこの焼肉、食べて?」
そう言っておずおずと差し出される月陽の取り皿。
「ありがと。丁度肉が食いたかったんだよ」
その皿から魔術の腕が肉片をいくつか摘まんで俺の口の中に入れる。
冷めてはいたが十分に美味い。
「みんなでご飯食べるのって……凄い楽しいね!」
その月陽の言葉に俺は笑って賛意を示す。
そう……その楽しさの為に、俺は命を懸けたんだ。
「では、私はこれで新坂に向かいます」
朝食の後、荷台に荷物をまとめた延老さんは、そう告げて御者台に乗った。
雨は小降りになりつつも止んではいない。まだここにいた方がいい筈だ。
「もうちょっとゆっくりしてもいいと……」
だからそう言って引き留めようとした。雨の事もそうだけど、
四人揃っての食事がたった一回限りなんてのも、ちょっと寂しい気がしたからだ。
「あんまり守護様を待たせるわけにはいきませんからね。
何しろ月陽君が奪われてしまったので、少しでも心証を良くしたいのですよ」
荷台の上には、勿論月陽は乗っていない。
それで苦しむ事ももう無い。服従印は解けたんだ。
「で……守護にはどう報告するつもりだ?」
遠鬼が気にするのはこれからの事だ。
報告の仕方によっては俺達が追われかねない。
「そのまま報告しようかと思います。
界武君と戦い負けて、少女を奪われてしまったと。
ああ……勿論界武君が人間である事は伏せておきますよ。
私も嘘が上手ではないので、その辺りが精一杯ですね」
「えっと……それは……」
良くない結果になりはしないだろうか?
そんな危惧を抱いた俺に延老さんは笑う。
「大丈夫ですよ。卑怯な手で奪われたのであればともかく、
正々堂々と勝負をして私は負けたのです。
そして、私自身がその結果を受け入れている。
ですから、守護様がそれに異を唱える事はないでしょう。
まあ、万が一それでも少女を奪い返すように命じられたのならば……」
「ならば……?」
「守護といえど斬って捨てます。戦士の勝負はそれほどに重いのです」
ちらりと現れた戦士の猛々しい笑み。
うん……間違いなくいつもの延老さんだった。
「そういえば……こうなると遠鬼殿との勝負はまた延期ですかね?」
延老さんは遠鬼がここに留まる事を知っている。
だからここでその事に気が付いたようだ。
「それでいいが、勝負の方法は穏やかなものにしよう」
「それは……何故ですか?」
「界武に怒られる」
それを聞いて延老さんは哄笑した。
そうして、俺達はこの老練なる剣士と別れたのだ。
「おじいちゃ~ん、またね~」
月陽の声がまだ聞こえる。あの少女はあんなにも大きな声が出せるのかと、
延老は今更ながらおかしくなった。
(本当に……私は彼等人間の事を何も見れてなかったのだな)
耄碌したと遠鬼は言った。本当にその通りだったと延老は思う。
左近衛中将の職を辞し、後は朽ちるのみと道楽として刀を振っていた。
延老にとって刀とは、剣術とは、師から受け継いだものであった筈なのにだ。
これは耄碌してもしょうがない。
(人間か……)
王都でちょっと耳に挟んだ話があった。
『勇者』と呼ばれる、長門国の反乱の首謀者。
その人間は……凄腕の剣士であるそうなのだ。
引退した自分にはもう関わりの無い事と聞き流してしまったが、
今の延老には、界武との勝負を経て新たに芽生えた欲があったのだ。
(戦って、みたい。もう一度……その剣技の限りを尽くして、
武士と斬り合いがしたい……!)
丹波国守護、厳容への報告は速やかに済ませよう。
文句を挟ませる気はない。あの勝負にケチなど付けさせない。
(そして……王都で今一度鍛え直そう。
それから長門国へ向かうのだ。遠鬼殿には後から伝えよう。
延期された勝負は、先に『勇者』を倒したものの勝ちとする、と)
急がねばならない。延老が勝手に始めた勝負とはいえ、
いや……だからこそ今度は負ける訳にはいかなかった。
手綱を握る手に無意識に強く力が入るのを感じ、延老は笑った。




