四十六話 解除
声を失うという事が少女にとってどれほどの事だったのか。
屋内に戻って来てからも泣きじゃくる少女を見て、
俺は共に喜んでいいのか、それとも怒っていいのか、よく分からずにいた。
逃げ込んだ家は荒い補修の後は散見されるものの立派な土間があり、
かまどでは食事の用意でもしているのか火が焚かれていた。
……そういえば、朝食を食べていない。
あれだけ激しい運動をした後という事もあり、随分と空腹だった。
「濡れましたな。ひとまずは、火にあたって服を乾かしては?」
同じく避難していた延老さんの言葉に従い、声も無く泣いている少女と共に、
かまどの前でしゃがんでいた。いつになっても泣き止まないその子に、
なんて声を掛ければいいのか悩みはしたが、結局何も出来なかった。
「界武、包帯と添え木だ」
助け舟という訳でもないが、そんな微妙に居心地の悪い沈黙を
遠鬼が破ってくれた。
「ああ……それじゃあ俺はどうすればいい?」
「痛くないのならただ腕を出せ。適当に巻いておく」
「……じゃあそれで」
適当にはして欲しくなかったが、左腕を差し出した。
魔術のお蔭で腫れは引いている筈だけど、それでも赤く充血する自分の腕を見て、
傷の深さを心中で嘆いた。
その赤い腕に添え木が当てられ、包帯がグルグルと巻かれていく。
遠鬼は適当とは言ったが、この不器用な男なりには
丁寧に巻いているように見えた。
「泣いてるな」
「え!? あ、ああ……この子な、さっきからずっとだ」
包帯を巻きながらの雑談に遠鬼が出した話題は、隣で泣く少女の事だった。
「……どこか痛いのか?」
「いや……そういうんじゃ……」
「じゃあ嫌な事でもあったか?」
「そんなんでも……ねぇと……思うけど……」
「じゃあなんだ?」
「えっとなぁ……服従印が解けるって教えたんだ。
多分言葉を喋れるようになるってな。それからずっとこうだ」
「……そうか」
念入りに包帯を巻きながらも、遠鬼は視線を少女に移し声を掛けた。
「おい、娘」
それを聞いて、ぐずつきながらも少女が顔を上げる。
……ああ、随分と泣いて擦ってしまったからか、目が真っ赤だ。
「落ち着いたら服従印を解く。そしたら喋れるようになるから、
まずは名前を教えてくれ。いつまでも娘だと困る」
その言葉に、少女が困惑気味の表情を返す。
「『閃刃』は無いと言ったが、実際のところどうなんだ?
牧場では何か呼び名的なものは無かったのか?」
少女は変わらず難しい顔だ。はいともいいえとも言えないような
返事をしたいのだろう。
「遠鬼、多分だけどさ……呼び名的なものはあるんだけど、
それを名前と呼ぶのかは微妙って所じゃないか?」
少女が俺を見て何度も頷く。
どうやら推測が当たっていたようだ。
「そうか……ならば娘、文字は書けるか?」
俺の左腕の包帯を巻き終えたか、
遠鬼は土間の地面に指で字を書きだした。
『界武』
「……こいつの名前だ。これでカイムと読む」
それを聞いた少女が俺の顔を見る。
「そうだな、これでカイムっていう……俺の名前だ。
ひょっとして……変だったりするか?」
ちょっと不安だった。何せ適当に付けた名だ。
少女はブンブンと首を振る。
(……良かった。この子は俺の名前が変だと思ってなさそうだ)
ひとまず、この子に悪く思われてないのであれば、
改名する必要は無さそうだ。
「で……こういった文字が書けるか?」
その遠鬼の質問に、少女は首を振って返す。
「そうか。じゃあまずは服従印を解くか」
少女の呼び名を確認するのを諦めたらしい。
そう言うと遠鬼は俺に包帯を巻く作業に戻った。
今度は右手に白い布が巻かれていく。
「えっと……遠鬼? 服従印を解くのっていつになるんだ?」
「巻き終わったらすぐしてもいいが」
「じゃあそれで……っていうか、お前がやるのか?」
「誰がやってもいいが……それなりに魔力を使う」
「いや……重罪じゃなかったのか?」
そういう事ならと、俺がやろうと思ってた。
だけど魔力が入り用だそうだから、僅かしか魔力が残ってない俺じゃあ無理。
延老さんにさせるのも良くないしで……確かに今は遠鬼が適任か。
「重罪? どうでもいいな」
「相変わらずだけどさ、それでいいのかよ……」
……まあいいか。罪がどうこうは遠鬼にとっては今更な話だろう。
「それじゃあお前に任せるけどさ……失敗とかは絶対するなよ」
「失敗……? まあ……大丈夫だと……」
包帯を巻く手が止まる。
「どうなんだよ……」
「やった事が無いからな。まあ全力は尽くす」
その全力という言葉に、俺は余計に不安になったが、
そんな俺達を見て、少女は何やら嬉しそうに笑っていた。
自分の事を言われてるのは分かってると思うんだが、
当の本人がこうではいまいち緊張感が無い。
ただ……ようやく泣き止んではくれたようで、それは少し助かった。
ずっと泣かれっぱなしだと、怖くて服従印の解除なんて出来やしないから。
解除印というのを初めて見た。
一辺が一尺より三、四寸ぐらい長い四角い麻布に、
蛾の羽模様よりも気味が悪い絵が描かれてあった。
「こんなので解除できるのか……」
こんな布切れ一枚で解除できる程度のものに、ここまで難儀させられたのか。
「それで……これをどう使うんだ?」
延老さんと遠鬼に話を振る。
「聞いた話ですと……この布を服従印に張り付けて魔力を使えばいいとか」
「俺が昔聞いた話も大体そうだ。
確か、この模様と重なる個所が服従印にあるそうだ。
そこに重ねて魔力を込める」
(ん……? 何で遠鬼の説明の方が詳しいんだ?)
てっきり延老さんの方が詳しいと思っていたが、予想を裏切られた。
相変わらず変な事に詳しい男だ。
「じゃあ解除するからそこに立て」
少女にそう指示して、棒立ちの少女の後ろに遠鬼が立つ。
俺と延老さんはその更に後ろだ。
どうするのかと凝視していると、遠鬼が何の前触れもなく少女の服をはだけた。
少女の帯から上が完全に露わになる。
その背中に目を奪われる。服の上からは大樹のようだと思っていた模様だが、
こうして見ればその木のような模様の他にも細かいひびの様なものが
沢山描かれている。その模様の形もそうだが、何よりも禍々しいまでの深紅が
目に焼き付いた。
「これさ……解除されたら消えるのか?」
そうあって欲しいと思った。
その白く綺麗な背中にはあまりにも似合わない。
(ん……綺麗?)
何だろうか、ちょっと気恥しくなって目を逸らした。
「消えはしないが目立たなくなるそうだ」
「ですね。薄くなると聞いてます」
「そ、そっか……」
それを聞いて少し安心する。
だがそうなると、あの背中が更に綺麗になる訳だ。
……駄目だ、妙に緊張してきた。
「遠鬼殿。この辺りが似たような模様ではないですか?」
「そうだな……いや、こっちも似ている気が……」
大人二人は俺のように動揺する事は全く無く、
ただ冷静にどの場所に解除印をあてるか話し合っている。
俺は背中を凝視する気になれなかったから、
二人を信じて目を閉じて成功を祈る事にした。
(しかし……重罪だとか言ってた割に、延老さんも随分と乗り気だな)
滅多にお目にかかれない服従印解除の瞬間だ。
ただ物珍しいだけなのかもしれないけれど、もしかしたら
それが延老さんが少女を認めつつある証なのかもしれないと、
俺は少し嬉しくなった。
「あ……ここだな」
「そう……ですね。模様が一致してます、ここでしょうな」
どうやら張り付ける場所を見つけたようだ。
「界武、どうだ? ここで合ってるか?」
「えっと……大丈夫、二人がそういうなら俺はそれを信じるよ」
結局目を開けられなかった。早く服を着て欲しい。
「……分かった、じゃあいくぞ」
その言葉の後に、瞼の下からでも分かる程に赤い光が放たれた。
その光に不安が増して、結局俺は目を開けた。
服従印から深紅の光が迸っている。
少女の背中に巣くっていた悪しき化生の類が浄化されていくような、
そんな印象を抱かせるほどに神々しかった。
その光も瞬きを繰り返す度に落ち着いてくる。
十は瞬きをする頃にはもうぼんやりと光る程度に小さくなり、
背中を見れば確かに禍々しき大樹は薄紅色程度に薄くなっていた。
遠鬼はその背中に乗せていた手を放し、右掌に張り付いていた解除印を
剥がして丸めた。
「これで……いい筈だ」
その遠鬼の言葉を信じ、俺は少女に声を……掛けられなかった。
どう声を掛けても傷つけてしまいそうな気がしていた。
それほどに服従印が目立たなくなった背中は、ただ小さかった。
遠鬼と延老さんもその俺の気持ちを共有してくれでもしたのか、
犯しがたいような沈黙が訪れる。
その雨音だけが響く空間に、聞いた事の無い……高くか細い声が鳴った。
「かいむくん……そこに、いるの?」
想像していたよりも一段階高い声。間違いなく少女の声だ。
それに急かされ返事をする。それは……気の利かない凡庸な一言。
「いるよ、後ろにいる」
「わたし……しゃべっていいんだね?」
「いいよ。むしろ喋ってくれ。
実は……ってほどでもないけどさ……ずっと、聞きたかった」
その言葉が契機となったか、少女がこっちを振り向いた。
ああ……また、泣いている。さっき泣き止んだばかりだというのにだ。
(いや……というか……これは拙い)
服の、帯から上をはだけたまま、こっちを振り向いたのだ。
「かいむくんっ……!」
抱きついてくる少女。
グルグルに包帯を巻かれた両腕でそれを止める事は出来ず、
俺は胸で少女を受け止めた。
俺の胸の中で泣きじゃくる少女。
かいむくん、かいむくん……と囀るように響く声。
その時俺は初めて少女に君付で呼ばれていた事を知ったが、
そんな事はどうでもよくなった。
「喋ってもいいけどさ……!
ちょっと、服、服だけはちゃんと着てくれぇ……!」
感極まる少女の耳にその俺の言葉が届くには、
それからかなりの時間が必要だった。




