四話 魔族の掟
首を掴む鋼牙の腕が俺の顔を固定するせいで、
鋼牙から目を逸らす事が出来ない。不思議ともう怒りの感情など
宿っていないその目が、俺には余計に怖く見えた。
(これはもう手詰まりか……?
恐らく目を逸らすとか言葉が詰まるとか……
とにかく、嘘の兆候を少しでも出してしまえばこの首が
ギュッと締まっちゃうっていう余興だろう)
この状況で平常心を保ちつつ堂々と嘘をつく度胸は流石に持ち合わせてない。
俺はもう観念して、全てを正直に話すと決めた。
結果生きるか死ぬかは分からないけど、とにかく今はその選択しかない。
そうしていざ口を開いたその時だ。
「何だこれは? お前達は何をやってる?」
威圧感のある低い声が俺を取り囲む群衆の方から聞こえた。
その言葉が鋼牙の注意を引いてくれたようで、視線が俺から外された。
「誰だ……テメェは?」
鋼牙は俺の首を掴んだまま、群衆の方を向いて何者かを威嚇する。
一番大事なところで邪魔が入ったんだ。かなり機嫌を悪くしており、
威嚇の表情にも鬼気迫るものがある。あの顔で睨まれたらなら、
俺は逃げ隠れするのも躊躇いはしないだろう。
だけどその声の主は威嚇をまるで恐れていない。
足音が徐々にこちらに近づき、ついには俺の横辺りまで来て止まった。
流石に気味が悪かったんで、鋼牙の腕に逆らって固定された首を何とか捻る。
煤けてボロボロの黒い袴。仕立ては良さそうだったが、
今はもう見る影も無くくたびれた上着。その肌は浅黒く、体は凄まじい筋肉質で、
至る所に大小問わずあらゆる種類の傷跡が残る。
髪は日の光を浴びて血のように紅く輝き、その額には二本の角。
(あれは……鬼?)
鬼。それは鬼人族の俗称だ。実際に見たことは無い筈だが、
牧場でも怖いもの、強いものの代名詞として知られてた。
そしてその男の紅い目が、何故か俺を見据えている。
「ただの貧弱な小僧にしか見えんが……」
俺から外れた視線は、次に俺を羽交い絞めにしている蜥蜴男に向かう。
「それを大人二人で痛めつける……。醜悪に過ぎるが、お前等自覚があるか」
腹を立てる風でもなく、失望を滲ませるでもなく、
何というか、淡々とそう言った。
「何だとぉ……テメェこそ一体誰だ!?」
鋼牙は俺から手を放し、鬼を正面から睨みつける。
「黙れ」
だが鬼はその敵視を全く恐れない。その一言で鋼牙の問いを封じる。
「恥を知るなら、せめてお前一人で戦ったらどうだ?
掟と共に誇りの所在も忘れたか」
「お……掟だぁ? さっきから一体何を言ってやがる?」
「魔族の掟だ。知らぬだろうから教えてやる。二度と忘れるな」
鬼は小さなため息をついてから言葉を続ける。
「一つ。魔族は力こそを求めよ」
「二つ。勝負から決して逃げるな」
そこで一息つく。
「そして三つ。弱き者に勝負を挑むな……以上だ」
(……何だこれ? この鬼は一体何を言ってんだ?)
俺は自分の状況も忘れて呆気にとられた。鋼牙も多分同じ気持ちだろう。
「中身まで詳しく知らねぇが、その魔族の掟って確か、
魔王様が統治する前の魔族が信じてた掟だろうが!
そんなものはもう無くてな、今は魔王様の敷いた法があるんだよ!」
鋼牙の言葉に続き、俺を羽交い絞めにして宙にぶら下げる、
蜥蜴男からも声が上がる。
「そもそも誰だよアンタ。事情も知らん馬鹿がどうして口を出す!」
鋼牙以上に手が早いこの男は、言葉の後にはもう有無を言わさずに、
その太い尻尾を鬼に叩きつけた。バシンと重く響く衝撃音が俺の耳にも届く。
「……お前は俺に挑むんだな?」
その一撃が痛くないとでも言うのか、打たれる前とまるで変らぬ声色の鬼。
いつの間にかその左手は蜥蜴男の尻尾を捕らえていた。
「なっ……!?」
「ならば掟に従い勝負を受ける」
次の瞬間、俺は空を飛んだ。俺の陰鬱な気持ちと裏腹の澄み渡る夏空が
視界いっぱいに広がり、全身で感じる浮遊感が心を湧き立たせた。
だがまあ、この心は次の瞬間から始まる落下の恐怖で一気に萎み、
委縮して丸めた体が着地の衝撃で跳ねた。
打った背中をさすりながらも俺は体を起こす。
目にしたのは白目をむいて大の字に倒れる蜥蜴男。その尻尾をあの鬼が
今もずっと握っていることから察するに……
(この鬼、尻尾掴んで蜥蜴男を俺ごと投げ飛ばしたのか!)
「いってぇだろうが! 捕まってる俺まで一緒に投げる奴があるか!」
苦情を入れる。もしかしなくてもあの鬼の軽挙で予期せず助かった俺だが、
それでも背中の痛みは無かった事に出来ない。
要するに……とっても痛い。
「……ああ、それは確かに俺が悪いか。許せ」
意外と話が分かる鬼だった。
謝ってもらえるなどとは思ってなかった俺はやや面食らう。
(あれ……もしかしたら、こいつ俺を助けるためにこんな事を……)
そんな希望的観測を抱いた俺は、ついでにこの鬼に聞いてみる。
「許してやるからさ……ここから逃げるのに協力してくれたり……しない?」
「……何故だ? お前もさっき掟を聞いただろう。俺は勝負事からは逃げん」
いまいちこの鬼は融通が利かない。
というか、どうして一緒に逃げる事になってるのか。
俺だけ逃がしてくれればいいというのに。
「いや、お前じゃなくて俺が……」
「ちょ……ちょっと待ってくれよ! なにしてくれてんだよ、この鬼人族が!
まずよ、テメェはこのガキがどうして捕まってるか知らんだろ!?」
俺の言葉が鋼牙によって遮られた。
この意味不明な状況に戸惑うばかりだった鋼牙がようやく我に返ったか、
何とか話を整理しようと試みだしたんだ。
「知らん」
初めて期待した回答を得られたからか、
鋼牙は更に落ち着きを取り戻して言葉をつづけた。
「ならまず聞いてくれよ。このガキはな、
俺の兄貴と同僚を殺したかもしれねぇんだよ」
「それで?」
「あ、ああ……それでだ、逃げ出したのを何とかして今捕まえたんだよ!
恥とか掟がどうとかいう話じゃねぇんだよ!」
「馬鹿か?」
「……え?」
「こんな小僧に殺されたのならそれこそ魔族の恥だ。
お前の仲間はどれだけ弱いんだ?」
「そ、それは多分隙を突かれたとかで……。
い、いや、そうじゃなくても、兄貴を殺した奴を知ってる筈なんだ!」
「そんな事はどうでもいい。知りたい事があるにしろ、
仲間の恥を雪ぎたいにしろ、どうして徒党を組んで襲う?
相手はただの人間の小僧だぞ?
魔族の戦士としての誇りがあるなら、堂々と正面から打ち倒す以外無い。
この戦力差ならそれ以外の勝負は結果を問わず恥しか生まん。
そんな事も分からんから馬鹿と言った」
(あ……あれ?)
何かおかしな方向に話が整理されていく。
どうやらこの鬼は俺を助けたいわけではなく、鋼牙が嫌いな訳でもなく、
単に恥ずかしくない勝負をしろと諭しに来ただけだそうだ。
(……分からん。この鬼の考えてる事は分からん。
でもまあ、蜥蜴男が倒されたんで包囲に穴が開きっぱなしだ。
鋼牙と一騎打ちとかいう訳分からん状況になる前にさっさと逃げよう……)
幸い鋼牙とあの鬼人族は話に夢中で俺に注意を向けてない。
だからまず後ずさりで距離を稼いでみるが、周りの群衆も含めて、
俺の意図に誰も気付いていなさそうだ。
だけど、さあいざ逃げようと踵を返したその時だ。
「こ、鋼牙さん! 気を付けてください! あいつ逃げようとしてます!」
鋼牙が連れてきた人間の子供が、俺の意図に気付き注意を促しやがった。
(……何だよ、最後は人間に邪魔されるのか……!)
不思議なほど強い失望があった。よくよく考えれば牧場にいた人間も
鋼牙の手下みたいな感じで、決して俺の仲間ではなかったんだけど、
裏切られた、と感じた。
でもまぁ仕方がないと、俺は後ろを振り向く。
今逃げ出しても身を隠す前に捕まるだろうから。
「なんだよ、昨日逆さに吊るして投げたのは謝っただろ?
見逃してくれてもいいじゃないか?」
あの少年に恨み事の一つも言っておこう。
もし俺が殺されでもしたら、責任を感じてもらわないといけないし。
「何変な事言ってんだよ! 何でお前は出荷される前に牧場から
出ていこうとするんだ! そんな事……許されてないだろう!?」
「えっと……変なのはお前だよ。さっき聞いただろ?
俺達は食べられる為に育てられてるんだと!
そんなの御免だってお前も思わないのか!?」
何かがおかしい。あの少年だって鋼牙の言葉を聞いた筈だ。
それなのにまだあの忠誠心……もう狂気すら感じる。
「そんな風に考える事は許されてないんだ!
だからさ、もうお前も無理するな! 一緒に牧場に帰ろう!」
(何だこれは……あの少年は、この期に及んで……
親切心から、俺に帰るのを迫ってる……!)
「……おい鋼牙! これはどういう事だ! 何が起きてんだ!?」
さっきまであの鬼人族に気圧されてたからだろうか、
この俺の怒気にまで鋼牙はビクッと身を震えた。
「な……何も起きてねぇよ。服従印が破れてない人間ってのはこうなんだよ。
おかしいのはお前だ! 分かったらとにかくそこを動くな!」
服従印……。どうやら俺達人間は、その変な何かに縛られて、
食糧としての身分を疑う事なく享受しているという話らしい。
最低だ。心の底からそう思った。
こいつら魔族っていう奴等は、俺達の意志を封じ、
尊厳すら踏みにじり、食べられる事を名誉と刷り込ませ、
それを愉快と笑いながら食肉に加工しては舌鼓を打っているという訳だ。
「ふざけるなぁ! 人間を馬鹿にするのもいい加減にしろ!」
もう沢山だ! 逃げるのは後回しだ!
まずはこの怒りの一撃を、あの鋼牙の顎にぶち込んでやらなきゃ気が済まない!
俺は湧き出る怒りの全てを瞳に込めて鋼牙を睨む。
その闘気に気付いたか、鋼牙が構えを取る。
怒りに震える頭脳で、それでも俺は考える。鋼牙に見舞う一撃と、その手段を。
まず、待ち構える鋼牙の一撃は壁を粉砕する威力で、
まともに食らえば間違いなく殺される。
だが俺の原始魔術の長所は文字通り、その長さだ。
俺はあいつの手足が届かぬ位置から魔術の腕を伸ばして
あの顎を打ちぬく事が出来る。だが、多分それでは威力が心許ない。
俺の一撃は、一度だって魔族の意識を奪うほどの威力が出せていない。
(威力のある一撃……! なにかそれを打つ手段はないか!?)
「運動えねるぎー?」
姉さんの変な癖の一つに、綺麗な木版などといった、
書きこめそうなものを拾ってきては、そこに何やら書き込んで取っておく、
というものがあった。
ちなみに、そういった木版はもう何百枚もあったりする。
「そうそう、運動エネルギー。この世界で役に立つ事は無いと思うんだけどさ、
折角学校で覚えた公式だから、忘れない内に何処かに残しておきたくて」
そう言って姉さんは新しい木版に何やら傷をつけていった。
「えっと……確か……こうだっけ?」
そして書かれた文字はこう。
『K=1/2 mv2』
(……いや、これはもう文字ですらないな)
「えっと……姉さん、これは何が書いてあるの?」
「物理の公式。えっとね……簡単に言うとね。
こう……例えば、誰か悪い奴をやっつけたいと思った時にね、
威力のある攻撃をしたいと思ったら、重たいものを、
速く動かしてぶつければ凄い強い威力が出るよって話」
「分かるような……分からないような……」
ある意味体感で理解出来るような話ではあったけど、
姉さんがこうやって書いて残すって事は、それ以上の意味があるんだろう。
「う~ん、これはね……運動エネルギーが質量に比例して、
速度の二乗に比例するっていうことで……つまりさ、
重さもそうだけど、速さは威力にとってもっと大事って意味で……」
威力を求めた俺の脳裏に浮かんだのは、そんな姉さんとの記憶だった。
「速さだっ!」
その声を皮切りに俺は鋼牙に向かって走る。鋼牙は一応原始魔術を警戒したのか、
急所を守るための構えを取る。
鋼牙から五歩ほども離れた位置から、俺は走る動きに混ぜて振り上げた右腕で、
手前の何もない場所を思い切り殴りつける。
その手が伸びきる前に右手首から作り上げた半透明の腕が、
一直線に鋼牙の顎に向かって伸びた。
その一撃に加えたのは俺の走る速さに殴る手の速さ。
後は多分俺の拳の重さも乗ってると思う。
これならあの鋼牙の意識を奪える威力の一撃を、鋼牙の予測を超えた速さで、
その構えた腕が止めるより一瞬早く、
あの大きな顎にもう一度下から突き上げる事が……。
右手に衝撃が伝わる。そして俺は見た、鋼牙の顎が跳ね上がるのを。
その鋼牙の膝が地に付き、崩れ落ちるように顔から地面に倒れこんだ。
「……俺の勝ちだよな?」
あの鬼人族に聞いてみる。なんとなく、審判してくれそうだったから。
「そうだな」
素っ気ない一言。だけどそれが余計に勝利の実感とやらを湧き立たせた。
その高揚が怒りの感情を上回った時、俺は不思議と冷静さを取り戻せた。
「じゃあ……俺はこれから逃げるから。後の事はよろしく」
そう伝えて俺は堂々と、その場から歩いて逃げた。
行く先はまた森の中。この世界が魔族に支配されているというのなら、
もう誰かがいる場所になんか逃げられないのだから。