百九十八話 頑固
思い出す光景があった。
こうやって追いつめられた際には常に瞼の裏に映し出される光景が。
大きな建屋が燃え落ちようとしている。
空が赤々と輝き、辺りに熱風が吹き荒れている。
熱に煽られて巻き上がるは死臭……煙と焼け焦げた死体、それと血の匂いだ。
鹿野戸は横たわる少年をじっと見つめていた。
出荷間近とはいえまだ幼さの残るその少年は、
もうどうしようもなく傷だらけだった。
どんな奇跡が起ころうと、またあの優しい笑顔は見れないのだと……
そう、絶望するしかない身体だった。
だがそんな少年は……それでも、
傷の痛みに呻くでもなく鹿野戸にこう言うのだ。
「先生、どうして泣いてるんだ?」
鹿野戸を気遣うようなその優しい声に、本当に鹿野戸は泣きだしそうになる。
だが……涙など流れよう筈もない。
この時の鹿野戸はもう、流す涙など枯れ果てていたのだから。
「泣いてなどいない。これは血だ。先の攻撃でな、ちょっと目をやられた」
だから鹿野戸はそう返した。
右目を抉られた時の傷が……そしてそこから流れる血が涙に見えたのだろうと。
「でもさぁ……先生、左目からも涙が出てるよ」
少年はそう言うが、左目からも涙など流れてはいない。
だが今思えば、少年がこうまで言うのだから
やはり鹿野戸は泣いていたのだろう……涙など流さずに。
「泣かないでくれよ……。
先生はさ、約束をちゃんと守ってくれたじゃないか」
約束と少年は言う。
少年は願ったのだ、生きていたいと、死にたくないと。
食べられて終わりなど……あまりにも悲しいからと。
そして鹿野戸はその願いを叶えようとした。
そう約束したのだ。だが……。
「約束……? いや、俺は何も守れなかった……!
だからこうして……皆を死なせる事に……」
死んでしまった。鹿野戸が救いたいと願った子供達は……
その多くがここで死んでしまっていた。
もう守る約束など鹿野戸の中には残っていなかったのだ。
「違うよ。先生は俺達に人間として生きる機会をくれた。
だから皆は食べ物じゃあなくってさ、人間として死ねたんだよ。
先生は約束を守ってくれたさ……」
だけど少年は鹿野戸に言うのだ。
自分は人間として精一杯生きたのだから……だから、もうこれでいいのだと。
(これでいい筈がない! これで終わっていい筈が……!)
歯を食いしばる。胸に満ちるのは怒り……そして、それよりも深い絶望。
鹿野戸は信じているのだ。
全ては自分の力不足が招いた悲劇でしかなく、
もう少し知恵や力があれば他のやり方が有り得たのだと。
故にこの怒りの矛先は少年を殺めた魔族の戦士達のみならず、
自分自身へも向けられていた。
少しでも気を抜けば……額を石に叩きつけて自害しかねない程に
苛烈な怒りがこの時……そして、恐らく今もずっと鹿野戸の心を焼いている。
「なぁ……先生?」
少年の声が小さくなっていく。
そろそろ……この愛おしい声すらも奪われてしまうのだ。
「……どうした?」
だから鹿野戸は一言も聞き逃さぬように、その口元に耳を近づける。
「先生はさ、これからも……戦うのか?」
鹿野戸は戦うと返事した。
今更戦いから逃げる理由も、逃げる場所すらも残ってはいなかった。
「それじゃあさ……先生、俺だけは食べてくれよ……」
その小さな声がいつになっても忘れる事が出来ない。
「だ……だってさ、そうすると先生は強くなれるんだろ?
ならさ……俺を先生の力にしてくれよ。そうしてこの後も……
一緒に……戦わせてくれよ……」
この言葉を聞いたその時から、鹿野戸は運命付けられたのだ。
魔族と戦う運命を。
この世界の反逆者として……少年のように、
その命が尽きるまで戦い続ける宿命を。
だから鹿野戸は戦ってきたのだ。
戦って、戦って、戦い抜いて……。
そして恐らくは、命を燃やし尽くすその時まで……
鹿野戸は戦うしかないのだ。
それは本当に一瞬の間、
鹿野戸が瞬きをしたその瞬間だけの追憶だった。
「鹿野戸さん……どうするんだ?」
砕けた左手を差し出す界武が再度問うてきている。
この手を握って……共に生きようと。
「……界武君。一つ聞いてもいいかい?」
鹿野戸の声に冷めた何かを感じたのか、
界武は一瞬怪訝な表情を見せたがすぐこう返した。
「ああ……なんだい?」
「もし俺がその手を取ったとして……
君は俺に何をさせようというんだい?」
「何を……? 決まってるだろう」
界武の中ではもうとっくに決まっていることらしかった。
というよりは……恐らく、界武は何度も鹿野戸に言ってきたのだろう。
……鹿野戸が、それを覚えていなかっただけで。
「鹿野戸さんには戦いから退いてもらう。
それで……石英さんと一緒に子供達を守り育てる事に注力して欲しい。
場所はどこかに用意する。そこでこの子供達と……」
「一緒に……幸せに暮らせと、そう言うんだね」
界武の言葉を遮るように鹿野戸は続けた。
「……ああ、そうだよ。そうして欲しい。
鹿野戸さんはもう十分戦ったよ。だからさ……もう……
ゆっくりとさ、休んで欲しいんだ」
「……それを、毛人共が許してくれると思うかい?」
鹿野戸は微塵もそう思わない。
だからこそ……これまでずっと戦ってきたのだから。
だがその残酷な問いにすら、界武は悲痛さを微塵も見せずにこう返す。
「俺が認めさせる! その為にこれからもずっと戦い抜いてやる!
俺が! 今よりずっと強くなってさぁ……それで! 魔王に認めさせてやる!」
その言葉を現実を知らぬ子供の絵空事と笑えはしない。
実際に界武はその言葉の示すままに戦い続け……
そして、その力は屈強な戦士である岩童すらも退ける程に高まっているからだ。
「……そうか」
だからそれを聞いて、鹿野戸は安心した。
(界武君は……きっと、俺のようにはならない。
希望を砕かれて絶望に打ちひしがれて……
こんな、破滅的な反逆を企てるような馬鹿な男にはならない筈だ)
ならばそれでいいと思った。
界武はきっとこの約束を果たしてくれるだろうと信じられた。
だから……もう、鹿野戸には残す未練など残ってはいなかった。
「それを聞けて、良かった」
鹿野戸はそう言って界武が差し出す左手に右手を近づけ……
そして、その手を押し戻した。
「俺は、その手を取れない」
この期に及んで断られるとは思っていなかったか、
界武は思わず声を荒らげる。
「何故だよ!? もう鹿野戸さんの奥の手は破綻してるだろ!?」
「ああ、そうだよ。というよりもね……界武君が石英を味方に付けた時点で
もう俺の謀略などはとっくに破綻してるんだ。
謀略なんてものは暴かれてしまえばそれでおしまいなんだからね」
これ以上の戦いなどは無意味だと鹿野戸もよく分かっている。
「じゃあ……それじゃあ鹿野戸さんはこれからどうしようってんだ!?」
「君の言ったもう一つの選択肢を取るまでだ。
この町を道連れに……破滅する」
一人でも多くの魔族を殺しつくしてから……戦って死ぬのだと、鹿野戸は言った。
「そんな事をする意味が、どこにあるっ!」
「意味を求めての事じゃあないんだよ、界武君。
ああ、でも勿論……ここにいる子供達は界武君に託すよ。
君達が逃げる時間ぐらいは俺が稼いでみせるから」
二人の口論に不安を募らせていた子供達を安心させるように、
優しい声で鹿野戸は言った。
「そんなのは……そんなのは俺がどうにかするよ!
適当に羽膳と管領様をだまくらかして皆を逃がしてやるって……!」
「いや……それは俺の仕事だよ。
俺にやらせてほしい。いや……俺が、やるしかないんだ」
「やるしかないって……鹿野戸さん、どうしてアンタはそう頑固なんだよっ!」
頑固……その言葉をあの少年からも聞いた事を鹿野戸は思い出し、
悲しそうに笑った。
「頑固……そうなんだろうね。俺は頑ななんだろう。
でもね、界武君……一度、君にも話した事がある筈だ。
俺がこの戦いを始めた理由を……」
思い当たるものがあるのだろう。
界武は悩む事もなくすぐに返事をする。
「牧場での……反逆の話か。誰も守れなくて……
それで、鹿野戸さん以外の全員が死んでしまったっていう……」
「そうだ。あの時の事はいつだって鮮明に思い出せる。
というか……もう二度と、忘れる事なんで出来ない」
鹿野戸の胸の中に今も渦巻くこの意志が、戦いを止めようとしない。
「分かって欲しいとは思わない。分かってもらえるとも思わない。
でもあの時からずっと胸にあるこの怒りこそが俺の真意、
この絶望こそが俺の真願なんだ!」
悲痛さを隠そうともせず鹿野戸は叫ぶ。
「俺の計画が破綻したところで、それが消える訳じゃあないんだよ、界武君。
だからね……俺はここで死ぬまで戦う。
ここの住民全てに自害しよとでも命令を送り……そして、
後は槌を振るって最後の抵抗といくよ」
その言葉がどれだけ馬鹿げたものであろうとも、
界武はそれを咎める事など出来なかった。
投げやりになっての言葉ではないからだ。
ここで死ぬ覚悟を決めた者の遺言……そう受け取るしかない、
鬼気迫る迫力があったからだ。
というよりも……そもそも鹿野戸はとうの昔、
あの牧場での悲劇からその覚悟を定めていたのだ。
それが今更……たとえその敗北を認めたとしてもだ、
戦いから逃げる選択肢だけは鹿野戸が選べる筈がなかったのだ。




