百七十七話 強くなる
死を覚悟せねばならない程の窮地……というのを、
羽膳はそう何度も経験してはいない。
そもそももう何十年も太平の世が続いている。
楼京でも年に何人も喧嘩で死ぬ者が出るには出るが、
それだって殆どの場合は事故である。
最初っから殺し合い……殺すつもりで拳を振るう機会なぞはそうそうないのだ。
その必然として、こうまで怪我をしてもなお戦い続けた経験もまた無いに等しい。
だからこの両腕を封じられたも同然の状態で、
凪と鋼牙の攻勢を三度と凌げた事自体が驚嘆すべき粘りだと言っていい。
(逃げる事しか……出来ないのかっ!)
だとしてもそれは羽膳にとっては屈辱以外の何物でもない。
今さっきも鋼牙の回し蹴りをのけぞって躱しては地に倒れこんだ。
その地を舐めるような無様な姿を晒すのを分かっていたかのように
倒れた羽膳の喉元を狙って凪の矢が飛んでくる。
(よく当てる……忌々しいっ!)
最初に羽膳を撃ち落としたものを含めて、
凪の放つ矢が標的を外した事は今の所一度もない。
拘束魔術の影響かぎこちなくしか動かせない体を振り回すように転がして、
回転で付けた勢いと共に跳ね起きた。
羽膳を狙った矢が地に突き立ったのを見てゾッとする。
少しでも気を緩めればあれが自分の喉に突き刺さっていたのだと思えば、
いかに未然に防げたとはいえ気分のいいものではない。
「鋼牙! 奴はまだ余力がある、もっと振り回せ!」
「はいよっ!」
その指示を受けてか鋼牙の攻撃はとどめを刺すというよりかは
羽膳の体力を摩耗させる方向へと変わる。
まずは足元をすくうような爪撃……躱す為には跳び上がらねばならず、
傷は負わずとも体力を削られる。
次は頭を狙って拳が飛んでくる……狙いが雑だし避けられなくはない。
だがそうやって頭を大きく動かすと、普段ならばまだしも今の体力だと
頭痛に加えて眩暈に似た感覚に襲われてしまう。
(やる事がまぁ理に適っている!)
残り少ない体力が更に擦り減ってきている。
どうにかしなければならないとは思うが今の羽膳では攻め口が見つけられない。
普段の……いやせめてその半分ほどの力だけでも残っていれば
鋼牙を力押しで退けて凪の下まで迫る事は出来るだろう。
だが今の惨状だとそれも叶わない。
そのもどかしさが羽膳の思考力すらをも奪っていく。
(この調子で攻撃が続いたら、
そろそろ凪の矢を防ぐのも無理になってしまう……!)
分かっている。分かってはいるのにもう反射的に攻撃を躱すので精一杯だ。
今はまだ鋼牙の攻撃が分かりやすいからどうにか回避できている。
でも多分、それももう限界が近い……。
「ぐっ……!」
朦朧とし始めた羽膳の右頬近くを矢が通り過ぎた。
……外れたというよりは、羽膳がほぼ無意識に躱したのだ。
半ば気を失っていた。一体どれだけの時間そうしていたのかは分からない。
だが……改めて身体を確認すればあちこちに
つけられた覚えの無い傷が増えている。
……ほんの一瞬の間、という事はなさそうだった。
こうなってくると今生きてここに立っている事自体が僥倖と言える。
ここで羽膳は今回初めて恐怖を感じた。
勝ち筋を探るどころの話ではなく、
敗北と死がもうすぐそこにまで忍び寄ってきているのだと。
眼前にはこちらの窮状を察してか余裕の笑みを浮かべている鋼牙が。
その遥か後ろには今も矢を番えようとしてる凪が。
「ダンナ、そろそろ限界っぽいぞ!」
鋼牙が妙に嬉しそうに報告している。
そしてそれが羽膳を殊更にイラつかせる。
(そもそも……このような状況でなければ鋼牙などに……!)
『同族殺し』との戦い……あれならばまだ敗北に納得できる。
全力を出し切って、なおその上をいかれたのだから。
だがこの戦いはどうだ。凪の援護射撃に逆徒の拘束魔術……
これらが羽膳が全力を出す事さえ拒み、無情に窮地に追い込んでいく。
(鋼牙の攻撃などもう読んでくださいとばかりに予測できる。
凪の矢とてなまじ狙いがいいものだから読む読まないの話ではない。
見せた隙へと向けて正確に飛んでくるのだからな……!)
だから、意識がはっきりとすれば……そして体がもう少し速く動きさえすれば、
逆転だって難しくない……。
「もういいだろう、鋼牙! 可能ならば殺さずに捕らえろ!
そいつはまだ使い道がある!」
「おうっ!」
凪の指示を受け、鋼牙が突っ込んでくる。
それは勝利を確信したからか、
反撃などまるで想定していない隙だらけの突進。
(そう、例えばこの攻撃だ。
鋼牙は体勢を低くして間合いを詰めてから胴に拳を突き刺そうとする筈だ。
読めている、読めているのに……!)
こんな相手であれば『山嶽王』ならば容易く迎撃出来ているんだろうなと……
そんな風に思いながら、羽膳は迫ってくる鋼牙を見つめていた。
「ぐあっ!」
何かにぶつかって鋼牙がのけぞる。
ただ何かにぶつかっただけだからそこまで痛い訳でもないが
それでも機先を制されたのは確かだ。
「なんだぁ……!?」
自分と羽膳の間には何もなかった筈だ。
だというのに何にぶつかったのかと視線を羽膳の方に戻せば、
ボロボロに傷つき両腕をだらりと下げて棒立ちだった羽膳の右足が
いつの間にか腰の高さまで上がっていた。
「なんだぁ……蹴りっていうか、何の拍子かちょっと上げた足に
顔がぶつかっただけかよ……」
多分そういう事だろうと鋼牙は考える。
そもそも足を上げた羽膳自身が自分が何をしたのか分かっていないようで、
朦朧として視点も定まらぬままゆっくりと右足を下ろした。
「まぁいいや……次はちゃんとやるぜ」
後ろで凪が見ているからこんな恥ずかしい姿はこれ以上は見せられない。
警戒を強め改めて間合いを詰める。
今度は同じように上がった足に当たらないように体勢を高く保ったまま
頭に横から手刀を叩きこむつもりだった。
再度の突進……今回は油断は無い。
半死半生とはいえ、それでも羽膳は強者には違いないのだからと、
その僅かな挙動も見逃さないように鋼牙は警戒しながらも突っ込んだ。
だがその手刀が届くよりも前に左側頭部に強い衝撃。
何をされたかも分からぬままにその突進は横に逸れ、鋼牙は地に転がる。
「なっ……何だよ!?」
痛む側頭部をさすりながら跳ね起きて後退。
そうして鋼牙が見たのは……蹴りの姿勢で右足を高く上げている羽膳だった。
「羽膳……テメェ、まだそんな事が出来んのかよ!」
その蹴られた鋼牙の抗議には答える事もなく、
羽膳はゆっくりとまた足を下ろすとただこう言った。
「躰々の先……なるほど、こうやるのか」
「たいた……何だ、そりゃ?」
聞いてもやっぱり答えない。
鋼牙の声が聞こえていない訳ではないだろうが、
羽膳は何を聞いてもただ薄く笑うだけだった。
「鋼牙っ! まだ終わらないのか!?」
後ろに控えていた凪もこの不穏さに気が付いたらしく、
鋼牙に報告を求めてくる。
「ダンナっ! もう一回援護頼むわっ! 羽膳の奴……なんか変だ!」
鋼牙としてはこうなったら恥も外聞もない。
とどめを待つばかりの羽膳ではあるが、
それでも凪の助力が必要だと考えるしかない。
……同じ頃、守護屋敷でも奇怪な事が起こっていた。
「何故だ……何故、当たらねぇ!?」
岩童は両手で持つ巨大な旗を振り回す。
最初の突きは何故か横に逸れた。だからと横薙ぎに振ると次は短すぎた。
それならと一歩踏み込んで縦に振り下ろす……。
今度は射程も十分。だというのに……当たらない。
界武は振り下ろしたその先には既にいなかったからだ。
「界武っ……一体何をしてやがるっ!」
吠えたその声の先には……赤銅色の魔力を纏う界武の姿があった。
その魔力、一目で強化魔術の迸りだと気付いたが……ただの強化魔術ではない。
界武の体中を駆け回る稲光にも似た魔術の奔流……それは。
「瞬発力……の、全強化だとぉ!?」
瞬発力に特化して全身を強化する強化魔術の絶技。
そんなものを満身創痍の小さな少年が使っていたのだ。
その表情は猛々しいまでの笑み。拳を砕かれた直後だというのに、
戦うのが楽しくてしょうがないと言わんばかりに笑っている。
「なるほどなぁ……。
遠鬼の奴はこれを使って『山嶽王』と戦ってたんだな。
あの戦い、しっかり見といて良かったわ」
界武はそう言うと構えをとりなおす。
今度の構えはこれまでのものと少し違う。
右足を少し前に出して肩幅程度に足を開くと
手首から先が動かない右手、拳が砕かれたままの左手両方を胸元まで上げる。
界武の言葉から察するに……それが『同族殺し』の構えなのだろう。
「そこまで……『同族殺し』の真似が出来るってのか!」
「……真似? いやぁ……俺じゃあアイツの全てを真似るのはまだ無理だよ。
でもなぁ……」
界武の方から間合いを詰めてくる。
それは瞬きよりも早く……まさに稲光の如し。
左脛を蹴り上げようとする動きにかろうじて反応した岩童は、
標的となった左足を少し下げると界武がいる場所に旗を突き刺す。
だがそこに界武はおらず……右の内ももに走った衝撃に思わず膝を付く。
「うあああああっ!」
たまらずがむしゃらに旗をブンブンと振り回すが、手応えは当然ない。
界武は蹴りを入れてすぐに間合いを離し、
元居た場所の近くに澄ました顔で立っていたからだ。
「岩童、お前と戦える程度までならどうにかなんだよっ!
分かるかっ!? 俺に勝てねぇようなら遠鬼になんて夢のまた夢だっ!
それを今思い知らせてやるよっ!」
そう吠えると界武はまた笑う。
そして……誰に聞かせるでもないほどの小さな声でこう言った。
「わりぃな羽膳……俺はまだ強くなるぞ……!」
「悪いな界武……俺はまだ強くなる……!」
奇しくも同じ時、鋼牙の三度目の突進を前蹴りで弾き飛ばし、
凪の放った矢を軽く首をひねるだけで躱した羽膳もまた、
そう言っては小さく笑ったのだ。




