百六十九話 桔梗
守護屋敷には何度か行った事がある。
だから当然場所も覚えているし、道に迷いなんてしない。
……それでも、いざその荘厳だった筈の門構えの前に立った時、
果たしてここが本当にあの守護屋敷なのかと目を疑うしかなかった。
「……どうしてこんなに壊れてんだ?」
屋敷を取り囲む塀、その門の周辺部分が大きく破壊されている。
門構えは言わずもがなの惨状で、
子供の目からは巨大な壁にしか見えなかった大扉も
中央で二つにへし折れて地に捨て置かれている。
(鹿野戸さんが潜入してきた時ここで何かあったんだろうけど……)
一体何があればこうなるのか……。
まず、鹿野戸さん一人ならばこうまでこの門を破壊する必要は無い筈だ。
つまりは別の誰かがここを破壊したという事になる。
俺は恐る恐るといった体でその破壊された門から屋敷を覗き込む。
門の惨状とは裏腹に、屋敷は以前見た時と変わらずの立派なものだった。
ただ……町中で見かけたあの麻布、服従印が描かれたあれが
門から屋敷へと続く石畳の上にばら撒かれているという違いはあったが。
(人の気配は……しないな)
羽膳が言うには結構な数の役人がいる筈なんだけども、
ここからはそんな感じはしない。拘束魔術で動きを縛られているからか、
それとも本当に誰もいないのか、ここからは分からない。
(警戒した方が……いいのか?)
何をといえば、門を破壊したと思われる誰かを、である。
鹿野戸さんがこの屋敷に居ないのは間違いない。
恐らく今は子供達からの伝言を受けて関からここに向かっている頃だろうか。
だから俺は守護の服従印を破壊するのに何の障害も無いものだと思っていた。
だけども……敵の本拠地も同然のここ新坂に潜入するのだから
鹿野戸さんとしても戦力を出し惜しみする余裕は無い。
とすれば、俺も知らない鹿野戸さんの隠し持った戦力が
ここに投入されている、そんな可能性という奴も
考慮しておかなければならなかったんだ。
(羽膳の奴は……まだ、ここに来ていないな)
一人で屋敷に侵入するのを怖いと感じてしまったからか、
たまらず辺りを見渡して羽膳を探してしまう。
残念ながら……その影すら見えやしない。一体何をやっているのか。
(もしここに誰か敵がいるのなら、戦いになる事も避けられない。
だけど……だからといってここで足を止めていれば
今度は鹿野戸さんが来てしまう)
羽膳の到着を待つ余裕は無かった。
……何が待ち構えていようと俺一人の力で押し通るしかない。
そう覚悟を決めて石畳の上を駆け、俺は屋敷の中に飛び込んだ。
屋敷の中は想像以上に人が多かった。
勿論……その誰しもが拘束魔術の影響を受けているんだろう。
気を失って昏倒している人なんかはまだ幸せな方で、
中途半端に抵抗力のある人は息をするのも難儀しているのか
倒れたまま苦しそうに喘いでいる。
彼等がこうまで苦しんでるのもだ、
この屋敷の中に惜しげもなくばら撒かれている麻布のせいなのだろう。
町中にはちらほら見かける程度だったあの布が、
ここにはもう……本当に気持ち悪いぐらいの数が目に映っている。
(数が多ければいいってもんじゃあないだろうに……)
それでも鹿野戸さんにとってはここが敵の牙城には違いなかった。
だからこそこうまで念を入れて麻布をまき散らしたんだろう。
(そしてその牙城の主が既に敵の術中にあるとも知らずに、
この人達は必死に働いていたんだろう……)
そう思うと苦しそうにしている役人達が哀れにも思えてしまう。
だからと俺はその内の一人、
廊下に倒れている男の横に膝を付いて声をかけた。
「大丈夫……俺の後ろにいる間は拘束魔術の影響が無くなる筈だから。
ゆっくり息を整えて……そして、魔力の霧を出すんだ……出来るだろ?」
俺の背には今も魔力のおむすびがフワフワと浮いている。
これが屈折させる魔力はなにも俺への命令に限らない。
この役人の男へと届く筈の魔力も捻じ曲げている筈だ。
その男も拘束魔術の影響が弱まったのを感じたのだろうか、
それともただ藁にも縋る気持ちでいただけなのか、それは分からない。
だけど素直に俺の指示に従って息を整えた後、
何とか魔力の霧を展開したみたいだった。
それで今すぐ立ち上がれる程ではないだろうが、
この男はどうにか会話が出来る程度には回復したらしかった。
「……君は、見た事があるな。
そうだ、治療をしに来てくれた少女と一緒にいた……」
「そうそう、その時ここに来た鬼人族だよ。
界武っていうけど……あの時におじさんもいたんだな」
男は頷く。そしてどうにか上体を起こすと壁に寄り掛かった。
「……今、何が起こってるんだ?」
その男の疑問は当然のものだろうと思う。
だけど、俺の方にはそれに暢気に答えている余裕は無かった。
「後で……時間があればちゃんと説明するよ。
だけどそれよりも先にさ、
守護……守護様はこの屋敷の何処にいるんだ?」
ここで俺が守護を助けに来たんだと判断したんだろう。
自分の疑問は一旦置いて、男は俺の問いに答えてくれた。
「この廊下を真っ直ぐ進んで……二つ目を右に曲がれ。
……桔梗の花が描かれている襖がある。
それを開けて突き当りの部屋が守護様の寝室だ」
「分かった、ありがとう。
……暫く耐えてくれよな。守護を助けて、
それで全てが片付いたらまた助けに来るからさ」
先程の長台詞で体力を使い切ったのか、
男はその俺の言葉にただ頷きだけを返してから、ぐったりと項垂れた。
(……この花、キキョウって名前なんだな)
花の装飾を施された襖を開けながら思った。
俺は花の名前ですら碌に知りやしない。
俺の知らないものなんて、本当にこの世界には一杯あるんだろう。
それを見たり知ったりしながら仲間と一緒に旅をする……
なんてのは本当に素晴らしい経験になるんだろうと。
俺も鹿野戸さんも……本当はあの子供達にそんな経験をして欲しいんだ。
そこは絶対に間違ってない。だというのに今のこの惨状は何だ。
憤りや悲しみの混じった……悔恨に近い感情が沸き上がる。
でもまだだ。感傷的になるにはまだ早すぎる……。
……襖を開けてから後に続く細い廊下を進む。
そういえば屋敷の門を破壊したと思わしき誰かとはまだ出会えない。
ひょっとしたらもうここにはもう居ないのかもしれない。
そんな風にも思ってしまうぐらいに人の気配が希薄だった。
(だとしたら……俺の仕事もやりやすくなる。
誰の邪魔も入らないんなら、このまま守護の所まで行って
服従印を破壊すればいいだけだ)
そして……見えてきたのはこれまた華美な装飾が施された襖だ。
そこにもまた綺麗な花が描かれているが、
生憎と桔梗とは違うもののようでその名前は分からない。
そうして俺はその襖の前に立つ。
(ここを開ければ……守護がいるのか)
何度か聞いた事はあるが、その守護の名前は厳容という。
守護としての評判はいいらしく、また延老さんの友人でもあるとの事で
やっぱりその為人は悪くはないんだろう。
(だけど……ひょっとしたら、月陽を食べていたかもしれない人だ)
未遂で終わったそれを咎める気はない。
ただ……全く、完全に、微塵もないとも言い難かったらしく、
俺はどうしてそんな奴を助けにこんな所まで来ているんだろう……
この期に及んでそんな事を考えてしまう。
(それでも……俺はやると決めたんだ)
澄に向けて言った言葉を思い出す。
戦いたくない、戦っちゃいけない人達の為に代わりに戦うんだと。
だから俺は躊躇わずに襖を開けた。
部屋の中を見て最初に覚えた違和感はこうだ。
そこにいた人が誰かまるで分からなかった。
俺はその厳容って人と会った事は無い。
だけど……負傷したその人が屋敷に運ばれていく姿をチラリとは目にしてる。
酷い姿だった……半身が包帯にくるまれて、
そしてその包帯も血塗れだったと記憶してる。
そんな姿を記憶していたものだから、
てっきり厳容はまだ傷だらけなのだとの先入観があった。
だけど……今眼前にいる小柄な男は、その身体に傷らしきものが殆どなかった。
「……ここに誰かが来るといった話は聞いていないのだが」
鼠人族、そういう名の種族らしい。魔族らしい濃い体毛に覆われた、
小さな獣人、ともいうべき容姿だった。
怪我人を装う為か柄の無い灰色の袴を着てはいるが、
床にも臥せずに座布団で胡坐をかいている。
その口調もはきはきと歯切れよく、怪我の影響などまるで感じない。
そんなだから、記憶に残る怪我人の姿と目の前の男が一致しなかったんだ。
「……誰かな、君は?」
その厳容が尋ねてくる。
「え、ああ……」
何と答えるか決めていなかった。
この襖を開けるまでは床に臥している男の首に破壊印をあてて魔力を流すだけ、
そんな風に考えていたものだから、準備がまるで出来ていなかった。
だけどそうやって言い淀んだままでいるのも不味い。
相手の意識があるのなら、不信感を持たれるのは困るのだ。
「えっと……界武っていうんだ。
鹿野戸さん……先生から何か聞いてないか?」
だから俺はまず名前を伝える事にした。
ひょっとしたら鹿野戸さんから何か聞いているかもしれないと思ってだ。
「カイム……そして、先生というのはあの人の事……ですか。
貴方のような鬼人族の子供が仲間にいるとは聞いていないのですが」
その返事から察するに、俺の事は詳しく聞かされていないようだった。
それでも俺が鹿野戸さんの関係者、仲間か何かではないかと判断したその時から
厳容の口調が露骨に変わっている。
こういう所からも鹿野戸さんの服従印の効果の怖さを知れる。
「いや、俺は鬼人族じゃあないんだ。これは角が付いてる額当てで、
これを付けて人間だっていうのを隠しているだけでさ」
「ほうほう……そういう事でしたか。
して、先生から私に何か伝言でもあったのでしょうか?」
人間の子供がここに来た理由として思い当たるのがそれだったんだろう。
厳容は俺を鹿野戸さんの使いだと誤解してくれている。
ならばそれを利用するしかないと思い、俺は適当な嘘をでっちあげる。
「そう、伝言があるんだ。
先生からアンタを連れて来いって言われていてな。
それで……一緒に新坂の関まで来て欲しいんだ」
咄嗟に出た言葉がそれだった。
服従印を破壊する為に俺は厳容に近付いて、
その服従印に手をあてなきゃいけない。
だけど何の理由もなく近付いていけばまず不審に思われてしまうだろう。
そうならずに厳容に近付くにはどうすればいいのか。
(答えは簡単で、向こうから近付いてもらえばいい……)
こう伝えておけば、厳容は疑問も持たずに俺へと近づいてくれるだろう、
そう考えての嘘だった。
「……新坂の関までですか。
ちなみに理由を聞いてもよろしいですか?」
「俺も……理由までは聞いてないんだ。
だからそれは関についてから本人に聞いてくれよ」
「……分かりました。そういう事でしたらそのように致しましょう」
厳容はすっくと立ち上がり、スタスタとこっちに歩いてくる。
その歩調は怪我人のそれじゃあない。
となるとやはり傷はもう完治しているんだろう。
(そういえば石英さんも見た目には酷い怪我になるよう調整した、
みたいな事を言ってたっけな……)
つまりは、元々大した怪我じゃなかったという事なのだろう。
そんな事を考えながら厳容が来るのを待つ。
守護様の寝室とはいえそこまで広い部屋じゃないから
厳容はすぐに俺の手が届く距離まで近付いてきた。
鼠人族は小柄な種族らしく、こうして並ぶと俺と殆ど背丈が変わらない。
(軽く手を伸ばすだけで後ろ首に届きそうだな……)
そう思って懐に左手を入れる。
忍ばせておいた破壊印を握り、それを押し付ける隙を窺おうとしたその時だ。
俺の隣に並ぶ厳容が急にその左手を振り回す。
裏拳として鼻先に襲い掛かってきたそれを、俺はとっさに上げた右腕で防ぐ。
……その小柄な体躯とは裏腹の強烈な打撃。
俺の身体は簡単に吹き飛ばされ、
さっきまで厳容が座っていた座布団の辺りで尻餅をついた。
「……嘘だな」
座り込む俺へと冷たい視線を向けて厳容が言う。
「……どうして?」
何処で……俺の嘘がばれてしまったのか。
「……先生に仕えていた人間の子供達を何人か見たが、
指示に従う以外の考えなど持たない子達だった」
「俺もそんな感じに振る舞ってたんだけどなぁ……」
俺はそう愚痴りながらも腰を上げる。
「違うぞ。お前は何を聞いてもまず自分の頭で考えていた。
指示に従えばいいだけの者とは反応がまるで違っていた」
つまりは、会話の内容とかそういうものではなく、
俺が僅かに見せた自分で考える素振り、そこに不信感を抱いたらしかった。
「改めて問うが……お前は何者だ?
先生の従者でもないのなら、どうして今の新坂でそのように動けるのだ?」
「どうしてって言われてもなぁ……」
こうなったら仕方がない。というかどうせこうなるんだったら
下手な嘘など付かずに最初からこうすればよかった。
そう思って俺は格闘術の構えをとった。
「俺が、お前を倒して鹿野戸さんの企みを止めるからだよ!
悪いけど意識が無くなるまでぶん殴らせてもらうぞ、守護様よぉ!」
服従印を破壊するにはもう、それ以外の選択肢が無かった。




