百五十五話 悔い無き死
遠鬼が歩き出す。
それはまるで……寝る前、軽い運動がてらの散策のように。
ゆっくりと……ただゆっくりと。
その視線は確かに『山嶽王』を捕らえている。
だというのに……その視線には敵意はおろか戦意すらないように見えた。
身体といえば、これまで僅かながらにも纏っていた強化魔術の紅い光が
完全に消え失せている。
(強化魔術すら……使わない、いや……使えないって事なのか)
ほんの僅かでも強化魔術を使ってしまえばそこから『山嶽王』に意を読まれる。
だから遠鬼は凡そ戦士に必要とされる戦意に魔術……
そういったものを全て削ぎ落としてただゆっくりと間合いを詰めていた。
「あの状態なら、一撃でも受ければそれが致命傷になりかねない……」
驚嘆しているんだろう。ここに来て捨て身の攻撃を敢行する遠鬼の戦い方に。
羽膳のその言葉からはそんな思いが聞き取れる。
(そりゃあそうだ、言葉通りなら今の『山嶽王』は既に死んだも同然だ。
このまま遠鬼が何もしなければ、
それでそのまま『山嶽王』の老衰で決着がつく……)
普通ならそう考える。
少なくとも、ただこの戦いに勝利したいのならばそれでいい。
でもそんな勿体ない事を遠鬼がする筈がない。
遠鬼にとってはこの戦いの結果ですらどうでもいいんだろう。
勝とうが、負けようが……
その後で強くなれてさえいればアイツは満足なんだ。
そうであるが故に、遠鬼は無防備な体を晒してただ歩を進める。
多分……後三歩も進めば『山嶽王』の間合いに入る。
一歩……。
あまりの緊張感からか、もう誰も一言も発しない。
いや……言葉どころか呼吸すらも多分、誰もしちゃいない。
二歩……。
『山嶽王』は自然体のまま、静かに遠鬼を迎え撃つ。
遠鬼と『山嶽王』ではその攻撃の間合いの広さが違う。
だから遠鬼が後一歩も進めば、
『山嶽王』が一方的に攻撃出来る間合いとなる筈だ。
(なる筈だけど……)
もし、遠鬼が意を完全に消すという離れ業を身に着けていたのだとすれば、
そして……『山嶽王』の格闘術を完全に我がものに出来ているのだとすれば、
これまで『山嶽王』に一方的な攻勢を担保してきたその間合いが
そのまま『山嶽王』に牙を剥くこととなる。
三歩目……ついに、遠鬼がその間合いに入った。
だけど、『山嶽王』は動かない。
恐らくは遠鬼の意が読めないから。
迎撃しようにも手の出しようが無いのだ。
(いや……たとえ手を出したとしてもだ。
その攻撃しようとする意を遠鬼に少しでも読まれてしまえば……)
これまでの攻防は完全にひっくり返ることになるだろう。
遠鬼に迎撃されて……『山嶽王』が負ける。
四歩……。
遠鬼がなおも間合いを詰める。
だがそれでも……『山嶽王』は動けない。
でもこれじゃあ追い詰められていく一方だ。
遠鬼が後二歩も進めば『山嶽王』も遠鬼の攻撃の間合いに
完全にその身を晒すこととなる。
そうなってからだと……。
(遠鬼から先に攻撃したとして、
その迎撃が間に合うのか……?)
今『山嶽王』が感じている焦りは相当なものだと思う。
何しろ……多分『山嶽王』もここまで意を消せる相手と戦うのは初めて。
そして、こうまで間合いを詰められたのも初めてだろう。
五歩……。
後一歩で遠鬼の拳が届こうかというその間合いで、
遂に『山嶽王』が動いた。
焦りに勝負を急いだか……
それとも今の間合いならばまだ勝算があると踏んだのか。
『山嶽王』の攻撃の過程を全て吹っ飛ばす神速の正拳突きが繰り出された。
その巨大な右拳が……遠鬼の顔面に叩き付けられる直前に空へと跳ね上がる。
右肘。いつの間にか振り上げられていた遠鬼の右肘が、
『山嶽王』の右腕をかち上げたのだ。
その遠鬼の迎撃は『山嶽王』の右前腕の骨をへし折った。
元々骨と皮だけが残るばかりに痩せ細った『山嶽王』の腕が、
ただ皮の一枚だけをを残して肘から先が切り離されたのだ。
遠鬼の勝ち……誰もがそう思っただろう。
勿論俺だってそう思った。
だから『山嶽王』の奥の手……左拳による打ち下ろしには、
その一撃が遠鬼の顔を捕らえるその瞬間まで全く気付く事が出来なかった。
『山嶽王』は遠鬼が自分と同等の格闘術を身に着けたと
直感したその時にはもう、右手を捨てるつもりだったのだろう。
迎撃されると分かっているその一撃を敢えて放ち
遠鬼の攻め気を誘ったのだ。
そしてその攻め気さえ読めてしまえば次の手が打てる……。
迎撃をさらに迎撃するという『山嶽王』の離れ業にて、
遂にこの勝負の決着がついた。
「……楽しかった」
噛み締めるように、遠鬼は言った。
「一つ、聞いてもいいか?」
へし折られた両腕をだらんと下げて尚倒れない『山嶽王』が言う。
「何をだ」
「左の一撃は、読めていたのか?」
「……いや」
読めているのならこの流血は無かったと、
額から流れる血を拭ってから遠鬼は言葉を続けた。
「読めたのは最初の右だけだ。
左は……何というかな、体が覚えていた」
「体が……か」
「そうだ。『山嶽王』……お前は少し俺を殴り過ぎたな。
反射的に手が出る程度には、慣れてしまっていた」
「反射……か」
悔しそうに……それでも少し嬉しそうに『山嶽王』は笑う。
「なるほど、反射であればそこに意は無い。
私にもそれは流石に読めん……」
そこでようやく、『山嶽王』は膝を付いた。
「お前の勝ちだ。『同族殺し』」
「『山嶽王』様……」
月が輝く夜空の下、石英さんの膝を枕に『山嶽王』は倒れていた。
その瞳にはもう何も映っていないのかもしれない。
その耳にはもうどんな言葉も届かないのかもしれない。
それでも……それでも何度も石英さんは優しい声でそう呼び掛けていた。
その永遠に続くかとも思った呼び掛け……
それに小さく応える声が聞こえた。
「……聞こえている」
「さ……『山嶽王』様……見事な戦いでした」
石英さんはそれだけ言うと、感極まったか項垂れてそのまま黙ってしまった。
勿論、その石英さんを囲む俺達も黙るしかない。
「……石英よ、ここにはまだあの『鬼人族のガキ』はいるな?」
もうその命数も残り僅かだというのに、
『山嶽王』は石英さんでも遠鬼にでもなく、
その『鬼人族のガキ』に言葉を残したかったらしい。
「え!? えっと……あの、はい。ここに控えています」
そして涙ぐむ石英さんの瞳が俺に向けられたのを見て、
その『鬼人族のガキ』が俺の事を指すのだと知った。
「えっと……何だよ、『山嶽王』」
まさか俺に声がかかるなんて思ってなかった。
しかも……『山嶽王』は、人間と知っている俺へと向かって
『鬼人族のガキ』と言ったんだ。
「……お前が鬼人族として生きるというのなら、
それは想像を絶する程の過酷な生となる筈だ。
覚悟は……あるか?」
人間が魔族として生きるというのは並大抵ではないぞ、
『山嶽王』はそう言っているのだとその朧げな眼を見て悟る。
「覚悟は……分からないけど、まぁ……頑張っていくよ」
百近くまで生きた『山嶽王』が想像を絶するとまで言うのだ。
俺のこの先の人生はどれほど酷いものなんだろうか……。
結局俺はそれを知るには若すぎるんだ。
だからそんな曖昧な返事しか出来ない。
今死にゆくという老人が折角掛けてくれた言葉に対して、
それはどうにも情けない返事だと俺自身ですら思う。
だけど……それを聞いた『山嶽王』は、満足そうに笑った。
「そうだな。頑張るしかあるまい……。
それが分かっているのなら、もう何も言わん」
そして、こう言ってくれた。
「ありがとう。お前のお陰で悔い無く逝ける」
……結局、それが『山嶽王』の最後の言葉だった。
大罪人だったのだという。
その傲慢なまでの剛力で数々の争いを引き起こし、
人間魔族を問わず、何人もの人を不幸にしてきたのだと思う。
そして……勿論、人間を食らう事に躊躇いの無かった男だ。
その長い人生の中で俺のようなのを食べた人数も……
多分、両手の指じゃ全然足りないんだろう。
そんな男が逝った。
ならば俺はざまあ見ろとでも思った方が良かったんだろうか。
死んで当然だと、むしろもっと苦しんで死ぬべき男だったと……。
(でもなぁ……俺はさぁ、『山嶽王』が悔いなく、
安らかに逝けた事を嬉しいとしか思えないんだよなぁ……)
周りの子供達にしてもそうだ。
泣いて悲しむ子すらちらほらといるぐらいで、
この中にざまあ見ろ、だなんて思っているのは誰一人といないだろう。
(いや……もしかしたら羽膳の奴なら……)
羽膳は多分、『山嶽王』を捕らえにやって来たんだと思う。
それがこうして死んだのを見て、よかったと思っていても不思議じゃない。
(それに……ここ丹波国の守護を襲撃したのも『山嶽王』、だからなぁ)
羽膳にしてみれば同僚や上司の仇ぐらいの存在だ。
「……羽膳、そういや『山嶽王』の事、どうするんだ?」
「どうするとは……何だ?」
問い返してくる羽膳。その態度に敵意こそ感じれど、
不思議と悪意は無いように思えた。
「いや、『山嶽王』を捕らえなきゃいけない立場なんだろ、お前。
それがこうやって遠鬼に倒されたとなるとさ……」
「ああ……そういう事か」
俺が『山嶽王』の処遇について聞いているのだと知ると、
羽膳は少し考えてからこう言った。
「捕まえられなかったのは惜しい。
逆徒の事について聞きたい事はいくらでもあったからな。
だが……戦士として戦って死んだとあればこれ以上俺に出来る事は無い。
『山嶽王』の戦士としての誇りまでは汚す事は出来んからな」
「何だよ、それ。じゃあ結局どうするんだ?」
「分からないのか? まあ……つまりはだ、
『山嶽王』の首を刈って新坂に持っていくような事は出来ん。
こうなってしまえば丁重に弔うしかあるまい」
「へえ……」
少し羽膳の奴を見直した……ような気がしないでもない。
でもそれは一時の錯覚だと思うけど。
「界武……さん?」
そうやって羽膳と小声で話をしていた俺に掛けられた声。
その優しい響きは石英さんのものに違いなかった。
つい先程まで『山嶽王』に膝枕をしていた筈だが、
その『山嶽王』の頭を静かに地に降ろし、
いつの間にか俺のすぐ近くまで来ていた。
「ああ……石英さん。『山嶽王』の事は……」
たった今大事な人を無くした女性にどう声をかけていいのか、
それが分からないまま視線を彷徨わせていた俺に石英さんが頭を下げた。
「私からも……ありがとうございます。貴方と遠鬼さんのお陰で、
『山嶽王』様は戦士として悔い無き死を遂げられました」
まさか頭を下げられるなんて思ってなかった。
だけど……言われてみれば、もともとそんな話だったような気がする。
(『山嶽王』のもう一つの戦い方を引き出して戦うように仕向ける。
そしてそれと引き換えに鹿野戸さんを裏切るって……)
俺自身忘れてしまっていたが、確かにそういう約束だった。
「えっと……それじゃあ石英さん?」
「はい。私は今から貴方の下に付きます。
私に出来る事であれば何なりと仰ってください。
また……私の知る事であれば包み隠さずにお話ししましょう」




