百三十六話 延老と澄 その一
界武に遠鬼、月陽の三名と別れてから一日。
延老は馬車を東へと走らせている。
鹿野戸が潜んでいるとされる国境の関所へと向かう為だ。
そして馬車の速度を考えれば、
そろそろ国境に着いてもいい頃合いだった。
「澄君、そろそろ関所に着きますが……準備はよろしいですか?」
延老がそう荷台へと声をかけると、
暫くしてか細い声で返事が聞こえた。
「うん……あ、はい……分かりました」
何故言い直したのかと延老は思うが、
これが今の延老とこの澄という少女の間にある壁なのだろう。
一応、何度か畏まらずとも良いとは伝えてみたのだが、
効果の程は今聞いた通りだった。
そして、準備が出来ているかと問うた後というのに、
荷台から特に荷造りの音などは聞こえてこない。
大丈夫だろうかと後ろをちらりと振り返れば、
少女は荷台にて後ろを向いて座ったまま微動だにしていない。
(これは……先程のは空返事だったのですかねぇ)
この澄という少女、牧場で育てられた後に
鹿野戸の手で救助されたまでは聞いている。
そこから何があったかまでは深く聞いていないが、
少なくとも延老のような魔族と一緒に旅をした事などないだろう。
(とすれば、緊張からの気疲れで
周囲に気を配れてすらもいないのだろうな)
戦場で新兵がよく罹る病の一つだ。
ああやって戦う前から疲れ果て、
いざ戦う段になっては浮足立って何も出来ずに倒される……。
そんな同胞を嫌になる程見てきた。
「……澄君?」
「……あ、は、はい! 何ですか……?」
「そろそろ日が落ちます。
今日はこの辺りで一休みしましょう」
「え? で、でも急いでるんじゃ……」
「いいのですよ。
ゆっくり休んで、それから関へと向かいましょう」
延老は手綱を絞める。それで馬車がゆるゆると止まり、
ようやく澄が延老の方を振り向いた。
「えっと……あの……」
急いでいる筈の延老がどうして関所を目前にして
休憩を取ろうとするのか、それが分からず困惑顔をしている。
「さ、野営の準備を手伝って頂けますか?」
ようやく合った目に、延老は笑顔で応えた。
焚火を挟んで向かい合う延老と澄。
互いに麦飯の器を持っているのだが、
延老のそれは既に器の底が見えているのに澄のそれには
まだ麦飯がたっぷりと残っている。
お腹がすいていない訳ではないのだろう。
ただ、緊張で食事が喉を通らないのだ。
(恐らくは、魔族への憎しみだけを目的として
生きてきたのだろう。
それを失った今、食事をとる事すらままならないと……)
「そういえば……鹿野戸、あなたが言う先生からは
我々についてどのような事を教わったのですか?」
それは鹿野戸の考え方を探ろうとしての言葉ではなく、
澄の緊張を解すきっかけになれば、と思ってのものだった。
「我々って……毛人の事ですか?」
「そうです。どのように学んだのですか?」
「えっと……それは……」
鹿野戸は魔族の事を余程悪し様に言っていたのだろうか。
澄が言葉を選ぶ様はまるで延老に怯えているかのようだ。
「ああ、言葉を選ぶ必要はありませんよ。
言われたままを教えて頂ければ」
……一応満面の笑顔でそう言ってみたのだが、
澄の表情は暗いまま晴れる事はなく、当然その口も固く閉ざされたまま。
流石に少し傷つきもしたが、それを非礼ととらえる訳にもいかない。
「そ、それでは……そうですな。
この老人の昔話でも聞いてもらえますかな?」
「昔話……ですか?」
「はい。私が丁度あなたと同じぐらいの歳の話です……」
そして延老が語るは自身の少年時代の話。
人間が今より遥かに強く恐ろしかった時代の話。
人間に仲間を殺されて、それでも人間の技を盗んで戦い抜き、
そして最後には友情にも似た気持ちを抱えたまま
好敵手の最期を看取った若き剣士の話だった……。
「それで……人間の反乱は終わっちゃったんですか?」
澄は寂寥感を帯びた声でそう聞いてくる。
「そうですね。散発的に小さいのは幾つか起きましたが、
大きいのはあれで最後です。
そして、私が人間と刀を斬り結んだのもあれが最後でした」
「そう……ですか……」
幸いにも澄はその話を最後まで興味を持って聞いていてくれた。
少女故にか血生臭い話には眉を顰める事はあったが、
欠伸の一つもせずに、しっかりと延老の話に耳を傾けていた。
「それじゃあ……それからは何をしていたんですか?」
「それから……ですか? 次は魔族の大反乱が起きましてねぇ。
相手が人間から同じ魔族へと変わりはしましたが、
私のする事は変わりませんでした。
最前線で、敵を斬る……それだけです」
「毛人を斬るのに抵抗は無かったんですか?」
「いささかも。というか……
今となっては我々人間以外の種族を魔族と一括りにする考え方が
一般的になっておりますが……そもそもそれとて初代魔王様が
人間から取り入れたものでして」
「私達から……?」
そこまでは鹿野戸に教わっていなかったのだろうか。
驚く澄を見た延老は少し微笑んでから話を続けた。
「そうですよ。あなたが言う毛人がまさにそれです。
人間は竜人族に、鬼人族……とにかく、
どの種族を見ても自分達以外を毛人と呼ぶものですから……。
それで初代魔王様がそういう事なら毛人同士協力し、
人間を追いやろうと声をかけたという事らしいです」
「……そうなんですか」
「ただ当時は毛人という言葉自体を忌み嫌う者が多かったのです。
それで代わりに魔族という言葉を作ったのもまた初代魔王様です。
で、魔族の王だから魔王だと仰り、
自分の通り名を『魔王』としたそうです」
「それじゃあ……もしかして、魔王を生み出したのは人間、
なんですか?」
(人間が魔王様を生み出した……?
この子はまた、面白い考え方をするものだ)
少なくとも延老はそのように考えた事など無かった。
だが言われてみればそういう風にとらえられない事もない。
かつての人間の傲慢が他種族の結束を生み、
その結束の中から魔王が生まれた……
そう考えれば今の魔族の世がある原因の一端が
人間自身にもあるのかもしれなかった。
「そういう考え方もあるのかもしれませんが、
その辺りは当時生きていた方々の話を聞かない事には
何とも言えませんねぇ……。
勿論、皆様既にこの世界にはおりませんが」
延老も老いてはいるが大戦が終わってから生まれた世代である。
大戦前の話については当時の大人から色々聞き齧ってはいたものの、
今澄が言ったような問いをぶつけた事はなかった。
だから結局……延老とて答えようがなかった。
「まぁ、話を戻しましょうか。そんな理由であの頃はまだ、
自分の種族以外の者を同胞とする考え方に馴染めていなかったのです。
だから同じ竜人族ならば同胞とも思えたのですが、
それ以外の種族となると……正直人間を相手にするのと変わりませんでした」
そこでまた澄は眉を顰める。
だがそれも一瞬の事。すぐに食い入るような表情に戻り更に延老を問い質す。
「あの頃は、って言い方だと……
そうすると、今は毛人を斬る事に抵抗があるんですか?」
「それは勿論。今は私もどの魔族を見ても同族だと思えます。
そして、もう咎無き魔族を斬るなんて事は出来はしないです。
ですが、だからこそ……」
「だからこそ……?」
「そのような咎無く弱き者を己が欲望に任せて
傷つけようとする者に対してならば、
それを斬り捨てる事に一切の呵責はありません。
そしてその為に、私はこうまで老いた今も刀を捨てないのです」
そう言って鞘に入った刀を見せる。
これまで使っていた長刀と違い、脇差と呼ばれる短い刀。
その短さを物足りなくも思いはするが、
利き腕が使えない以上はこれを愛刀として戦っていく他はない。
その脇差を見て澄は何を思ったか、
目尻に涙を貯めてはすぐに俯いた。
「……羨ましいです。私もそんな風に……強く、なりたかった」
なりたかった、とその少女は言う。
それがもう叶わない夢でしかないかのように。
もう自分には先が無いのだと嘆くように。
「……なれますよ。今からでも」
だから延老はそう言って脇差を差し出した。
向けられた刀の柄を見て、澄は顔を上げ目を見開いて延老の方を向く。
「まず器と箸を置いて。そして刀を抜いてみなさい」
その言葉に急かされるように、麦飯の残る器が地面に置かれる。
そして澄の震える手が脇差の柄を掴む。
カチカチと鳴る金属音。それは澄の手が震えながらも
しっかりと脇差を抜いているからだ。
そうして遂に光り輝く刀身が現れる。
焚火の光を浴びて煌めくそれを澄は魅入られたかのように凝視している。
「振ってみなさい」
言われるままに澄は立ち上がり、
両手に強く握った脇差を大きく振り上げる。
想像以上に重たかったか、振り上げた勢いに体勢を崩し……
だがそれでも澄は刀を離さず、尻を付く事もなく、
崩れた態勢のまま刀を振り下ろした。
「あああああっ!」
その甲高い掛け声とともに虚空を切り裂いた刀は、
その剣先を地に叩きつけて動きを止めた。
初めて刀を振るった興奮からか、
澄は柄を握ったまま、息を荒らげて立ち尽くしている。
「……なかなか筋がいい」
延老はその剣筋をそう言って褒めた。
「本当……ですか?」
「ええ、私は刀に関しては嘘など付きませんよ」
「じゃあ……私、強く、なれるんですか?」
「なれますとも」
その言葉に安堵したか、澄はようやく刀を離した。
「さあ、では強くなる為にもまず、ご飯を食べてしまいませんか?」
「え、あ、あの……」
立ち尽くす澄に差し出されたのは、先程地に置いた麦飯の器。
「まずはしっかり食べて、気を落ちつけてましょう。
それからでないと強くはなれませんよ」
その延老の笑みに、澄も今度は笑みを返せたのだった。




