一話 原始魔術
生きてるっていうのは思った以上に軽いことで、
いつの間にか人は当然のようにいなくなる……誰に、何の断りもなく。
それを知ってて知らないふりをし続けたことを、俺はどうしても許せなかった。
「おい、起きろ……!」
体が揺さぶられてる。それも遠慮もなしにだ。
当然床に背中やら頭やらをぶつけられて痛い。勘弁してほしい。
「起きるから……起きるから、止めてくれ、痛い!」
それを止めてもらいたくてまず言葉で制止する。
それからやっと目を開ける。薄暗い部屋の中、
俺をのぞき込む人間の子供が見えた。
「えっと……何故起こしたんだ?」
「俺の台詞だよ! お前、なんでこんな所で寝てんだ!?」
「こんな所って……どこだよ?」
「寝ぼけてんのか! 全牙さんの部屋だ!」
(全牙さん……さて、誰だ?)
分からない。どうやら言われた通りに寝ぼけているのかもしれない。
ただまあ……床に寝ころんだまま人と話すのも失礼かもしれないと、
俺はとりあえず体を起こした。
意識ははっきりしているつもりだが、どうにも体が上手く動かせない。
動かそうと意識してから少し遅れてようやく体が動き出すようで、
立ち上がるのにすら予想以上に時間がかかった。
目にしたものは結構衝撃的だった。
ここは木製の部屋の一室。
大きさは歩幅で縦に十歩、横に二十歩程度だろうか。
部屋の半分は畳が敷き詰めてあるが、残り半分は床板そのままだ。
畳のある場所には障子窓があり、外からの月光を受けてか淡く光っている。
ここまではいい。その次だ。
床板の場所には狼人族の死体が二つ。一つは胸に大きな穴が開けられており、
その周りが真っ赤に染まっている。もう一つは倒れた机の上に仰向けで、
首はへし折られ、口は引き裂かれ、自慢の牙も無残に砕かれていた。
「ひ……酷いな……これ」
折角立ち上がったばかりなのに、両足が震え今にも座り込みそうになる。
横にいた少年に支えてもらって、どうにか立ったままでいられた。
「おいこれ……どうなってんだ? 何が起こってんだよ?」
俺を支える少年に問う。
すると返事はその少年からではなく、横にいる人間の大人から返ってきた。
「お前がここにいたんだろう! 何があったか覚えてないのか!?」
「いや……覚えてないっつうか……」
そう、何があったか覚えてないというよりは。
「……俺、誰だっけ?」
記憶が全くない。いや……多分頑張って思い出せばいくつか残ってるのかも
しれないが、今のところは真っ白だ。何があったかは勿論、
俺自身が誰なのかも分からない。
「……馬鹿にしてるのか!?」
「いやちょっと待ってください、こいつ寝ぼけてるだけなんすよ」
まあこの状況で馬鹿にされたら大人でも怒るだろうが、
俺を支える少年が何とか宥めてくれた。
「もうすぐ鋼牙さんがやってくる。それまでにしっかり目を覚まして
おかないと……殺されるぞ!」
(いやちょっと待てくれ、鋼牙って誰だよ! 何で殺されるんだよ!)
文句は言いたいがそれよりもまず記憶を漁るのが先だ。
俺の中にどんな記憶が残ってるか、それをまず確認しなければ。
(えっと……何でもいいからまず自分の事……)
最初に思い浮かんだのは姉さんの笑顔。
あの人はちょっと変な所があって、実際に生まれた日を
誕生日と言って祝ってくれた。年を取るのは皆年始めなのにだ。
そしてあれは俺の十二回目の誕生日だったか……。
収穫時にこっそり取り置いた里芋を、二人でふかして食べたんだ。
「俺……十二歳だったわ」
なんとなく横の少年に言ってみる。
「まだ寝ぼけてんのか。早くしてくれ、でないと……」
「兄貴ィ!」
後ろから聞こえる大声。どうやら誰か来たらしいが、
その言葉を聞いた人間達の顔が一斉に青くなったのが印象的だった。
「あっあっ……兄貴! どうなってんだよ、おい!」
後ろから現れた狼人族が床に倒れている男の方に駆ける。
しばらくその死体に声をかけたり、抱き起そうとしたりしていたが、
暫くして言葉少なく俯き、兄の体を抱きしめ、ただ嗚咽を漏らすようになった。
(兄さん、だったのか……)
この男が多分鋼牙と呼ばれてた奴だ。その狼人族に同情したくなったが、
それとは別に何となくだが状況が見えてきた。
(この狼人族は多分偉い奴で、その兄貴が殺されて、その場に俺が寝ていたと)
そうなると当然俺が何を知っているかはとても重要だろう。
すいません忘れました……とか言おうものなら確かに殺されかねない。
「おいお前ら! ここで何があった!」
悲嘆から復帰した狼人族の男が、この場にいる三人の人間に叫ぶ。
「すいません鋼牙さん。俺達がここに来た時にはもうこんな状態でして」
まずは大人が返事をする。
「それで、こいつがここに倒れていたんです」
今度は俺を支える少年。
鋼牙の視線が俺に突き刺さる。怖い、怖いが……
はたしてどう答えたものか。
「お……俺も、俺が来た時にも同じくこの状態だった。
倒れてたのは……その、あまりに怖くて」
多分、これが一番安全な回答だろう。
俺だけに責任を押し付けられたらたまらない。
他の二人と同じ状況だという事にしてしまおう。
不幸になる時はみんな一緒だ。
「……クソッ! もういい! 誰か連れてここに戻って来い。
兄貴を殺した奴を捜さないといけねぇ」
そう言って鋼牙は俺達を廊下に放り出した。
少年の支えが無くなってややふらつくも、倒れ込まずには済んだ。
「大丈夫か、おい……って何だお前、首筋怪我してるぞ!」
少年が俺の後ろ首にある怪我に気付いたようだ。
だけど何故だろうか、俺はそこから特に痛みは感じない。
そう思って後ろ首を右手でさすってみたが……なんだこれ?
俺の後ろ首は、痛みはおろか、触った感触すら全くない。
更に……何故か、右手も手首から先が全く動かない。
「すまん、俺の体おかしくなってるわ……」
動かない右手を顔の前まで持ってくる。
後ろ首をさすった際に着いたのか、指先に薄く血が付いている。
何となくブラブラとその手を揺らしてみるが、まるで動こうとしない。
「ちょっと見せてみろよ……って、何だこれ!?」
俺の首筋を見て驚く少年。もしかして、俺には見えないその傷が、
深刻なものだったりしたのだろうか。
「お前……何で服従印が破れてんだ!?」
(ん? 服従印って……何だ?)
体の部位にそんなものがあるなんて知らない。
後ろ首にあって、破れたりもするらしいが……やっぱり分からない。
「うるさいぞガキ共! さっさと誰かを連れてこい……って、何だと!?」
未だ廊下で駄弁っている俺達を急かそうとした鋼牙まで、
俺のその傷を深刻なものだと捉えているようだ。
「……おいガキ! 後ろ首よく見せてみろ」
今度は鋼牙に捕まえられ、首の後ろをじっくりと観察される。
「……ガキ、お前服従印が破れて、何故まだ生きてる?」
どうやら、服従印とやらの傷は命に係わるものらしかった。
ただ、鋼牙の声からは痛みを気遣うような優しさなど微塵も感じない。
俺は何が何だか分からない内に乱暴に体を回転させられ、
鋼牙と向かい合う姿勢になった。
「……まさか、さっきのは嘘か! おい、ここで何があっ……
い、いや……お前、何をやった!?」
まさかの嘘の露見である。これは拙い。更にあらぬ疑いまで掛けられている。
俺は必死に言い訳を考えたが、とっさに出たのは正直な返答だった。
「な、何もやってない! 本当だ!
というか、そもそも何も覚えてないんだ!」
「ふざけるな! まさか……テメェがこれをやったのか!」
鋼牙はもう聞く耳など持っておらず、肩を掴む手に遠慮なんて無い。
爪は深く食い込み、骨が悲鳴を上げている。
「い……痛い! 手を離してくれ!」
悲鳴を上げるも勿論拘束は解かれない。
さっきまで冗談交じりで殺されるなどと言われてたが、それが現実になりそうだ。
喉を食いちぎられ、腕をねじり切られる自分が容易に想像できる。
何とかしてその手を振り払おうとするが、左手はまだ動くものの、
右の掌はだらんと垂れ下がるばかりでその腕を掴むことすらできやしない。
いや、そもそも掴んだところであの太い腕をどうにかできるわけがない。
俺の胴回りほどは太い、あの狼人族特有の筋肉質で剛毛に覆われた腕は、
俺が押したり叩いたりしたところでびくともしない筈だ。
(駄目だ! これは何もしなかったらこのまま殺されかねない!)
抵抗をしなければ……だが、こんな細くひ弱な腕では駄目だ。
狼人族の腕に勝るとも劣らない、太く強く、立派な腕が要る!
そんなものは無い……? いや違う、俺にはあった。
「その力はね、絶対に他の人の前で使っちゃダメ」
その力を初めて姉さんに見せた時、そう言って固く禁じられた。
その時は、他の人間は使ってるんだから、
俺だけ隠しても意味がないと抗議したと思う。
だって、この力が強ければ強いほど周りが良く扱ってくれる。
逆に使えないとなれば、この牧場での肩身が狭くなるんだ。
姉さんが周りからどう扱われてるか見ればそれが良く分かる。
「でもね、魔力が強いと早く出荷されちゃうよ。それは嫌でしょ?」
姉さんと離れるのが嫌だった俺は、その言葉に渋々頷いた。
でもその後も、その力を扱う訓練は一人でずっと続けてた。
はたして、それは何の……いや、誰の為だったんだろうか。
とにかく、その力を解放するのは今しかない。
秘めた魔力を解放し、狼人族の剛腕に勝るとも劣らない太い腕を思い描く。
(この腕で……あの顎をかち上げてやる!)
思い描いた通りの腕が、半透明のそれが、俺の腹から生えてきた。
勢いをつけ、その腕で男の大きな顎を下から突き上げた。
「どうなんだガハッ……!」
大きく開けた口を意図せず閉じられたことで舌を噛み悶える。
あの大きな口は獲物を噛み砕くには都合がいいんだろうが、
懐が死角になってしまうんだろう。
鋼牙にとって重い打撃ではなかったかもしれないが、
不意の一撃に俺を掴む手が緩む。
その一瞬を見逃さず後ろに飛んで、どうにか鋼牙の腕から抜け出した。
「落ち着いて、話を聞いてくれ! 俺は……本当に何も覚えてない!
とにかく何も分からないんだ! せめて何か思い出すまで時間をくれ!」
無理かもしれないが、まずは説得を試みる。
こじれてしまったかもしれないが、俺にとって一番いいのは鋼牙との和解だ。
「お……お前ら! そのガキを取り押さえろ!」
殴られた顎をさすりながら鋼牙が叫ぶ。するとそれまで俺達をハラハラと
見ていただけの少年と大人が、一変真剣な表情となって掴みかかって来た。
(やっぱり説得は……無理か!)
それなら今度は透明な腕を二本。腰から伸ばして迫る二人の足首を掴む。
「ひえっ……!」
「うわっ……!」
大人の方はそのまま引っ張って転倒させる。
少年の方は重くなかったからそのまま足を持って宙にぶら下げた。
「こ……これ、もしかして原始魔術か!?」
足に絡みつく何かに気付いた大人が叫ぶ。
「お前……魔力全然無かった筈じゃないのか!?」
宙に逆さになって浮かぶ少年は俺に問う。
「無かったんじゃなくて、隠してたんだよ。
理由は……そっちで考えてくれ」
(さて、交渉決裂した以上、俺は逃げるか殺されるか、
それしか無いか……?)
どうだろうか? ただ、鋼牙は今は頭に血が上っているだけで、
時間が経てば俺の言う事も聞いてくれるかもしれない。
勿論、俺自身信じられない記憶の喪失というこの状況を、
信じてもらえる保証はないけれど。
(じゃあまずは逃げる。その後の事はそれから考える。そうすると逃げ道は……)
後ろに逃げるのは難しそうだ。あの鋼牙が俺より足が遅いなんて、
甘い考えは捨てた方がいい。であれば……。
そこでふと、鋼牙の後ろの障子窓を見た。
(あの障子窓……恐らく、俺が抜け出るのが精一杯って程度の大きさ。
あそこから外に出られたら、少なくとも鋼牙は俺を追うのに
迂回するしかないかもしれない)
鋼牙が動揺から回復するまでが勝負だ。
俺は吊り上げていた少年を鋼牙にぶん投げる。
「ごめんよっ!」
一応謝っておいたが、少年には聞こえただろうか。
悲鳴を上げて飛んでくる少年を鋼牙はのけぞりつつも捕まえる。
その隙に鋼牙の脇をすり抜け部屋の中に入る。
そして二つの死体の横を走り抜け、畳の上もひた走り……
障子窓に勢いよく頭から突っ込んだ。
外は夜。ほのかな月光だけが頼りの暗い世界だった。
急に暗くなった視界に戸惑いつつも、着地して走ろうとしたが……
(ここ……二階だ!)
この家はまさかの二階建てだった。これは全く想定外。
このままでは頭から地面に突っ込む事になる。
俺は慌てて肩から生やした二本の腕を、斜め後ろに伸ばす。
その腕が何かを掴んだ感覚を頼りに、自分の体を思いきり引っ張り上げた。
尻もちをついた場所はその家の屋根だった。
しっかりした木製の屋根は俺の重さぐらいは何ともないようで、
軋みも上げてはいない。
(た……助かったぁ)
今日だけで何度命の危機を感じた事か。
だが、残念ながら今日という日はまだ終わっていない。
屋根の上で身を隠して、飛び出てきた障子窓の辺りを観察する。
(予想じゃあ、あの窓から鋼牙の顔が出て来てから、
抜け出すのを諦めて迂回するんだけど……)
さてどうなんだろうと思っていたら……障子窓のあった壁が吹き飛び、
そこに開いた大きな穴から鋼牙が飛び出した。
そして、近くに俺がいない事を確認すると、その先にある深い森の中に
あっという間に駆けていった。
(うわぁ……)
どうやらあの立派な腕は、木製の壁なんぞは軽くふっ飛ばせるらしい。
それを知らなかった俺は、あのまま運良く着地できたとしても、
鋼牙に捕まってしまっただろう。
図らずも屋根に避難した事で、鋼牙の追跡を免れたんだ。
(はは……ざまぁ見ろだ)
この後の鋼牙の徒労を思い、少しいい気味だと思った。
なにせ掴まれた時の肩の痛みがまだ残っていて、
爪が食い込んだ場所などは、服が血で滲んですらいる。
これだけ俺が痛い思いをしたんだから、
鋼牙も少しは報いを受けてもらわなければ。
壁が砕かれた大きな音が辺りに響いたからか、
この大きな家の付近にある長屋のような建物からも
何人もの人間が出て来てこちらに向かってきていた。
(あの中に姉さんは……いないな)
はっきりと覚えているわけではない。ないけど……
姉さんがこの牧場から出て行ったという事実だけが、
俺の記憶の中に残っていた。
今ならあの人間達に紛れてここから離れることも出来るだろう。
そう、鋼牙が駆けていった反対側からこの牧場を抜けるんだ。
「悪いな鋼牙、暫くその森を探しててくれ。
俺は……これから姉さんを探してみるよ」
半月が照らす昏い屋根の上で小さく呟き、俺は姿を隠した。