タナロアの胸懐
俺は波の流れゆくまま、海に揺蕩う。
そうする事で、まるで海と一体になった気になるからだ。
男魚人として生まれた性なのか、この時間が何よりもの俺の幸せだった。
俺はその日、久しぶりに人魚国に立ち寄るべく海を泳いでいた。
すると、ふと遠くで唄声のようなものが耳に届く。
俺はそれが何となく気になり、その唄声に導かれるように、そちらに方向転換した。
近付くにつれ、その唄声がハッキリ聞こえてきた。
何とも澄んだ美しい唄声なのだと、心からそう思えた。
それは、海上から突き出た巨大な奇岩の裏から聞こえるようだった。
俺は気付かれないように、そっと裏手から唄声の主を覗き見る。
そこに居たのは人魚の少女だったーー。
長い髪が顔まで掛かり、顔を見る事は出来ないが、天を仰いで気持ちよさそうに唄っていた。
俺は暫くその唄声に酔いしれる。
少しすると、その唄が終わりを告げ、辺りには海の波音だけが流れた。
それでも俺はその場から動く事は出来なかった。
俺が唄の余韻に浸っていると、少女がつとこちらを振り向く。
俺とバチりと目が合う。
「ひゃわっ?!」
俺の存在に気付いた少女が、驚いたように奇声を発して海に飛び込んでしまった。
俺は慌てて少女に向かって謝罪の言葉を投げ掛ける。
「ご、ごめん!驚かせるつもりはなかったんだ!本当にごめん!!」
けれども、少女が海面から顔を出す事はなかった。
人魚国に行けば、もしかしたらあの少女にもう一度会えるのではと思ったが、終ぞ人魚国で少女を見付ける事は出来なかった。
仕方無しに、俺はあの例の奇岩に通い詰める事にした。
その間は、人魚国とその奇岩を行ったり来たりの毎日だった。
そして、何日かそれが続き、漸く念願叶って少女と再会する事となる。
少女はあの時と同じように、奇岩の平な部分に腰を下ろし、天を仰いでいた。
俺は、今度こそ彼女を驚かせないように、そっと声を掛ける。
「あ、あの~」
「……え?」
少女が俺の声に振り向くが、驚いてまた海に潜ろうとしたので、俺は慌てて彼女を呼び止めた。
「ま!待って!!俺はただ君と話がしたいだけなんだ!!」
何故こんなに必死になるのか自分でも分からなかったが、ここで彼女をまた見失えば、今度はいつ会えるか分からなかった。
俺のそんな必死さが伝わったのか、少女は海に飛び込もうとした体をピタリと止め、恐る恐るもう一度俺の方を振り向く。
「………………あたしと?」
俺は首が取れんばかりに頭を縦に振る。
それが彼女……セフィナとの最初の会話だったーー。
それから、俺達は何度かこの奇岩で落ち合うようになった。
セフィナは、かなりの人見知りらしく、人魚国で会えないのも、人の目に晒されるのが苦手で、滅多に出歩かないのだと言う話だった。
最初、セフィナはあまり話してはくれず、いつも俺が一方的に話すばかりだったが、何回か会ってる内に、少しずつではあったが、セフィナも話すようになってくれた。
それがとても嬉しかった。
このひと時が、海を揺蕩う俺の次の楽しみとなったのだった。
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俺は数ヶ月ぶりに人魚国に帰還しようと思ったが、その前にセフィナに会えるかと思い立ち、いつもの奇岩に向かってみた。
そこには思った通りセフィナが居たが、何やら落ち込んでいるように見えたので話を聞いてみると、驚くべき事を告げられる。
「え?人魚姫に選定された?」
セフィナが頷く。
「凄いじゃないか!!おめでとう!」
「…………ん。ありがとう。けど何で私なんだろう……もっと相応しい子なんて沢山居るのに……」
俺は素直に賞賛の言葉を投げ掛けたのだが、セフィナはあまり嬉しくはないようだ。
俺は「そんな事はない!」と言いたかったが、セフィナは極度の引っ込み思案なのだから、これは仕方が無いのかもしれない。
俺は、それでも何かを言わないといけないと思い口を開く。
「だ、大丈夫だよ!セフィナならきっとやれるよ!!」
俺はそんなありきたりな言葉しか言えなかったのだった。
それでも、セフィナは僅かに笑ってくれた。
それからは、セフィナは戴冠式の準備やらで暫く慌ただしい日々が続いてるみたいだった。
そして、一ヶ月ぶりに会った彼女は、少し雰囲気が変わったように見えた。
その日から、セフィナの話の中には、必ずある男の名前が出るようになったのだ。
そいつは、人族が魔王討伐の為に召喚した【セツナ】と言う名前らしい。
魔王の事は、俺でも小耳に挟んだ事はあったが、セフィナは世情には疎いので知らなかったようだ。
その男の話をする時は、いつもセフィナは楽しそうだった。
だからすぐに気付いた。
セフィナはそいつに【恋】をしているのだと……。
彼女はまだ気付いていないようだったが、いずれ自覚するのだろう。
セフィナがあの男が好きなのだと気付いた時、俺の胸が僅かに疼いた。
俺もまた、セフィナに恋をしていたのだと知る。
でも、告白するつもりはない。
こんなに幸せそうに笑うセフィナは初めてなのに、態々水を差すつもりはない。
何より俺の願いは、セフィナが幸せでいてくれる事だから……。
けれど、それから少し経つと、男は魔王討伐の旅に戻ってしまったらしい。
セフィナは見るからに落ち込んでしまっていたが、男の「また来る」と言う言葉を信じ、それまで人魚国の姫として頑張ってみると意気込んでいた。
俺はそんなセフィナを心から応援すると決めたのだった。
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それから更に月日が流れ、いつの間にか魔王が討伐されたかと思うと、今度はあの男は、奴隷制度廃止の為に働いていると聞く。
流石はセフィナが好きになる男だと感心したものだった。
男にとって、この世界の事など所詮は他人事だと言うのに、あの男はまだこの世界を救ってくれると言うのだから脱帽する。
恋敵……などと俺が思うのは烏滸がましいかもしれないが、その心意気には頭が下がるばかりだ。
そして、とうとうその日がやって来てしまった。
セフィナがあの男に告白したのだと……。
そして、その告白は成功したのだと……。
俺は覚悟をしていた筈だったが、それでもやはりセフィナの口から実際に聞かされると、何かが込み上げて来る思いだった。
それでも俺は、努めて平静に「おめでとう」とお祝いの言葉を口にした。
セフィナは本当に幸せそうに「ありがとう」と言ったのだった。
それから俺は、暫くは人魚国には近付かなかった。
セフィナの幸せを心から願っているのは本当だが、それを間近で見続けられる程、俺は強くはなかった。
それでも、どうしてもセフィナの顔が見たくなった俺は、約三年ぶりに人魚国へと帰還してみた。
そうして、いつもの奇岩に向かう。
声を掛けるつもりはなかった。
遠くから顔が見れれば良かった。
けれど、そこに居たセフィナの顔が沈んでいるように見えて、俺は思わず声を掛けてしまったのだ。
「…………セフィナ?」
「……あ、タナロア?久しぶりだね」
「うん……その、何かあった?」
「んー…………あのね……」
セフィナは少し躊躇いながらも、ポツポツと話始めた。
先日あの男が来て、異世界に戻るのだと言ってきたと……。
ああ…………俺は何て馬鹿だったんだろう。
あの男は、元々魔王討伐の為に勇者召喚された異世界人だったと言うのに……。
帰還する可能性など幾らでもあった筈なんだ。
それでも俺は、その話を聞き怒りがフツフツと込み上げてきた。
どうせ異世界に戻ると言うなら、何故セフィナの気持ちを受け取る事などしたのか!!
あまりにも軽率ではないか!!
もし遊び半分でセフィナを弄んだとするなら、俺は決してあの男を許さない!!
だから俺はセフィナに言ってやったんだ。
「そんな男の事なんて忘れろよ!自分の恋人を置き去りにして行くような薄情な男なんだろ!!俺なら……!」
「セツナを悪く言わないで!!」
「っ?!」
セフィナの今迄に無いその強い口調に、俺は言いかけた言葉を飲み込む。
「あ…………ご、ごめん」
俺が驚いた顔をしていると、セフィナが慌てて謝る。
「けどね、セツナはすーっごく悩んでくれたんだよ?この世界が大好きで、私達が大好きで、この一年間本当に一杯悩んで悩んで悩んで悩んで…………結果、帰還を選んだの。セツナはとても人一倍優しいから、沢山苦しんだと思うんだ」
セフィナが空を仰ぐ。
きっと、その瞳には今も尚、あの男しか映っていないのだろう。
俺の胸がまた疼く。
「セツナは言ってくれたんだ。自分の事は忘れて幸せになって欲しいって……けど、あたしが無理なの。例え何十年経っても、これから沢山の男性と会う事になっても…………この先もきっと、セツナ以外好きになれない」
ああ…………セフィナはそこまでそいつの事を…………。
「セツナはね、この一週間ずっとあたしの傍にいてくれたんだ。あたしの我侭を、嫌な顔一つせず何でも聞いてくれた。沢山の思い出をあたしに残してくれた」
そう言って、セフィナは左薬指を愛おしそうに撫でる。
そこにあったのは…………指輪だった。
「それ、は……?」
俺の声が掠れる。
聞かなくても、その答えは分かりきっていた。
でも聞かずにはいられなかった。
「……セツナがくれたんだ。最後の日に…………永遠の愛の証として」
やっぱりかと思った。
これからもきっと、セフィナの心の中に俺が入り込む隙間なんて無い。
本当は既に分かっていた筈だったのに、現実を突き付けられた気がした。
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それから、俺はまた人魚国に戻る事もなく、海を放浪し続けた。
けれど、いつも頭に浮かぶのはセフィナの事ばかりだ。
風の噂で、セフィナは立派に姫を務めていると聞く。
今では、初めて会った頃が嘘のようだ。
セフィナが頑張る理由が単に、今は居ないあの男の為だと思うと、未だに複雑な心境ではある。
それでも元気にやってるのなら、それに越した事はない。
そんなこんなで、あっと言う間に十年の歳月が流れた。
俺は今も何もする気が起きず、ぼーっと空を眺めながら波に揺られていた。
自分でも、いい加減諦めろと言わずにはいられないが、そう思えば思う程、余計セフィナの顔ばかりが思い出される。
「……セフィナ」
俺は想い人の名前を口にする。
別に返事が返ってくるのを期待して言ったわけではない。
ただの独り言だ。
誰も居ないと分かっていたから呟いた…………筈だった。
「それは、君の彼女の名前?」
「っ?!」
俺は咄嗟に上半身を起こして、声のした方を振り向く。
そこには少年が立っていた。
勿論、ここは海のど真ん中だ。
俺は魔法には詳しくないから分からないが、何かしらの魔法で海に立っているのだろう。
俺はそれに不快感を覚えた。
海は泳ぐものだ。
それを海の上を立つなど言語道断だった。
俺がよっぽど不機嫌な顔をしていたからなのか、その少年は少し困った顔をして言った。
「そんな顔をしないでよ。僕、実は泳げないんだよ」
「え……?あ……そうなの?」
「うん。でもどうしてもこの先に用事があってね、海を渡る必要があったから」
そうか……それなら仕方が無い。
皆が皆泳ぎが得意と言うわけではないのだから。
俺はその説明に納得する。
「それより、君何か悩みでもあるんじゃない?何か苦しそうに見えたけど?」
「…………いや、何でもない。大丈夫」
初対面の相手に話す事ではないだろうと思い、俺は少年を軽く遇う。
それでもこの少年は、何故か俺の話に興味があるようだった。
「本当に?僕、こう見えて相談役みたいな事やってるから、話くらいなら聞くよ?それに、こう言うのは溜め込むよりも、案外誰かに愚痴った方がスッキリするものだよ?」
「確かに…………」
少年の言っている事も一理あると思った。
ちょうど、いい加減諦めなければと考えていた所だったのだ。
俺は、少年に導かれるままに、これまでの経緯を話して聞かせた。
この時、何故俺は見ず知らずの少年にこんな話をしてしまったのか、今でも良く分からない。
もしかしたら、俺自身限界だったのかもしれない。
決して実る事など無い想いを一人で抱え続ける事に…………。
俺が話終えると、それまでずっと黙って聞いてくれていた少年がいきなり怒り出した。
「何それー?そいつ酷くない?!救世主の話は僕も聞いた事あるけどさ!そんな奴だったなんて幻滅だよ!!」
「そ、そうだよな?やっぱり最低な男だよな?!」
俺の言葉に、少年がうんうんと頷いてくれる。
それだけで、俺の溜飲が少し下がる気持ちだった。
本当は、俺自身も誰かに共感してほしかったのかもしれない。
すると、少年が何かを思い出したように、ポンと手を打つ。
「あ!そうだ!僕、良い物持ってるんだ!」
「……良い物?」
そう言うと、少年はどこからともなくある物を取り出すと、俺に手渡してきた。
「………………石?」
それは琥珀色の石だった。
「うん!それは、【どんな願いも叶う魔法の石】だよ!」
「……………………」
「わーーー!!そんな目で見ないでよ!僕もこの名前はどうかと思うけどさ!」
俺が胡散臭そうに見ていると、少年が大慌てで弁解してくる。
「で、でもさ!効果は保証するよ!騙されたと思って、その石にお願い事してみてよ」
俺は半信半疑ながらも、少年の促すままにこの石を握りしめて願う。
ただの気休めだ。
そう思っていたのだが…………唐突に石が光りだしたのだ。
「何っ?!」
俺はその眩さに、咄嗟に瞼を閉じる。
すると、胸元辺りに何やら強烈な熱さを感じた。
「ぐっ……」
俺は恐る恐る目を開ける。
胸元を見てみると、先程の琥珀色の石が、まるで皮膚に根でも生やしたように張り付いていた。
「な、んだ……これは……何なんだよ!!これ!!」
俺は必死にその石を取ろうと躍起になるが、一向に取れる気配がない。
何が起こっているのか全く理解出来なかった。
俺はパニックに陥っていた。
そうしてると、今度は誰かがまるで俺の頭の中で囁くように声が響く。
力だーー。
力さえあれば彼女は君の物ーー。
これで彼女を手に入れる事が出来るよーー。
誰にも邪魔は出来ないーー。
彼女を幸せに出来るのは君だけだーー。
彼女もきっとそれを望んでいるーー。
「そう、だ……きっと待ってる……迎えに行かなきゃ…………セフィナを俺が救うんだ……あんな男には渡さない…………」
俺はゆっくりと、人魚国へ向かって泳ぎ始めた。
「……沢山人魚姫を困らせてよね。くすくす」
後ろで何やら声がしたが気にしない。
今俺の心を占めているのはただ一つ……。
セフィナをめちゃくちゃに壊してでも俺のモノにする事だけーー。
そこで、俺の意識は途切れた。




