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さよならシスター

作者: 天水しあ

 パタッ。パタッ。パタッ。

 土曜日の早朝、人気のない古い鉄筋校舎を這うように上がってくる足音がある。正体はすぐに分かった。 だって耳慣れた音だから。

 そう、慣れた音のはず。なのに――。なんだろう。この、言いようのない、重苦しさは。

 このサンダルの音は間違いなくカナレさんだ。図書室に来るのは、二週間ぶりだよね。やっと帰ってきてくれたんだ。よかった。毎日の行き帰り、人目を憚りつつ、目を潤ませて図書室を見上げるカナレさんの姿を見るたび切なくて、胸が騒いでしまっていたから、ちょっと考えすぎちゃってたみたい。これで元通り、なんだよね。

 図書室は、本館四階の西つきあたりにある。西階段を上がって左を向くと、左手に司書室入り口、右手に掲示板があり、その十歩くらい先の正面に『図書室』のプレートがかかった白い引き戸がある。図書室前の空間には窓も蛍光灯もないから、図書室と司書室が無人で、それぞれの入り口にはめこまれた曇りガラスが辺りの薄闇と一体化していると、無性に淋しい空間になる。そんな淋しさが、ここ二週間ずっと続いていたのだ。あの、空しい日々がやっと終わる。

 私は、太い柱の陰になり、奥まった司書室の入り口に身を潜めるように立って、図書室の主・カナレさんを待った。

 足音が近づいてくる。だけど……やっぱり気のせいじゃない、何かが違う。

 元気がない、というか、重い足をどうにか持ち上げて、やっと上がってきているような。やっぱり、この二週間、大丈夫じゃなかったんだろうか。

 パタッ。パタ、パタ……階段を上りきって、目の前の角を曲がって来たカナレさんを見てギョッとした。ビックリするほど痩せて、いやヤツれていた。普段は綺麗な一つ縛りにしている髪はボサボサ、着ている白のセーターはデザインが古い上、毛玉だらけだし、紺のスカートはヨレヨレ、あるものを着てきました感が漂う。しかもあれだけそばかすを気にしていたのに、今日はスッピンだ。外は木枯らしが吹いて、季節はもう冬だというのにサンダルに素足。まるで生活に疲れたおばさんみたいだ。カナレさん、まだ三十前なのに。

 普段なら、掲示物が剥がれてないかを必ずチェックするのに、今日は掲示板に目もくれず、乱れた髪の隙間から血走った目で、ただ図書室の扉だけ睨みつけ、息を詰めた私の目の前を通り過ぎていく。私に気づかずに。そして、やけに手を震わせながら図書室の鍵を開けた。カチャリ……ひそやかな音。

 いつもはガラッと、威勢よく開かれる扉がそっと開く。文化祭翌日の今日、本館の廊下にも、それとクロスするガラス張りの渡り廊下にも、人影一つ見えないというのに、誰かに見つかるのを恐れるかのように、ひっそり。

 そういえば――カナレさんは土曜日お休みのはず。何しに来たんだろう。

 少し開いたままの戸から中を覗くと、入り口脇のカウンターから転がるように飛び出してきたカナレさんが、奥へと歩いていくのが見えた。縦横三列ずつ並ぶ閲覧机の間をフラフラ、奥の書架脇をヨロヨロ、あちこちにぶつかりながら、窓に近づいていく。

 シャッと、厚手の緑のカーテンと、遮光になっている白のカーテンが一気に引かれた。窓一枚分だけ。いつもなら全部カーテンを開けてしまうのに、なぜかそこだけ。

おかしい。南側になるあちら側の窓は、いつもなら厚手のカーテンだけしか開けないのに。よすぎる日当たりで背表紙が焼けるのを気にして、カナレさんは白いカーテンを絶対開けなかった。続いてガラッと窓が開く音が聞こえて、私はびっくりする。なにかの弾みで本が落ちたら大変だからと書架近くの窓は、ずっと施錠されてたのに。やっぱり、ヘンだ。

 薄闇の図書室、カナレさんと背後の書架だけがぼんやり明るい。見れば、円柱型のステップに立ったカナレさんが、開いた窓の桟に両手をかけ下を覗き込んでいる。何だかイヤな感じ。ねえ待って、ちょっと、まさか……。

 カーテンが、ふわり舞い上がった。

 ドンッ。鈍い音。

 「うわあああ」悲しいほど情けない男の叫び声が、老朽化した校舎を這い上がってきた。


―― ・ ―― ・ ―― ・ ――


 私立N高校の本館は築四十年を越える、いわゆるボロ校舎である。耐震強度問題が声高に叫ばれる今であっても、補強はおろか、破損箇所の修理さえ最低限にしか行われていない。掃除も手抜きなのか廊下や階段の隅にはホコリが目立ち、ボロさを際立たせている。南の新館と北の体育館に挟まれて日が当たりにくいこともあり、日中であっても陰鬱としていた。

今は寂れたこの本館だが、活気に溢れた時代もあった。N高校が、ここいらで唯一の私立高校だったころ、生徒数は年々増加し、ピーク時には教室確保のため、物置だけでなく、準備室という名の教師たちの溜まり場までもが、全て潰されるほどだった。

 だが昭和が終わり、平成の世になってから状況は一変した。新館を建てた途端に襲った不景気、かねてからの少子化問題、近隣に続々と新設される魅力ある私立高校の存在、さらに十五年前に起こったある『事件』の影響で、「壊滅的な内申でなければ、名前さえ書ければ確実に合格」以外、何らウリのないN高校は、あっという間に生徒数が激減した。今や新館に全てのクラスが余裕で収まるほどだ。そのせいなのか、いわゆるFランクの系列大学は、二年後の閉鎖が決まっている。

 そんな状況の中、本館には滅多に使われない特別教室しかなく、大量の空き教室は部室にと開放された。それでも使い切れず、四階には固く施錠された空き教室と、ただ図書室があるばかり。西階段を上がった右手すぐには体育館と新館をつなぐ渡り廊下が通っているものの、新館の四階にあるのは選択科目の教室で、体育館の四階はといえば人員不足で廃部確実の剣道部の根城・剣道場。なのでこの階の渡り廊下を使う人間はまず居ない。

 普段がそんな様子なのだから、期末テスト初日の平日午前、まして主を失くし、閉鎖になっている図書室前に人影など……。

「そこで何をしている!」

 いかつい声に、図書室前の薄暗い空間にたたずんでいた一人の男子生徒が、ゆっくりと振り返った。

彼は、振り向いた流れのまま優雅に身を返し、階段の上がり口で仁王立ちするパツパツの灰色スーツ中年男の方へと近づいた。薄闇から現れた彼の、フレームレスの眼鏡がキラッと光った。控えめな笑顔を見せながら小首を傾げると、柔らかそうな髪がサラリと揺れる。ダークグレーの制服も、指定の紺のダッフルコートも、まるで新品みたいにパリッとしていて、背の高い細身の体は背筋正しく、洗練された優等生という風貌。そんな彼が、手にした文庫本を肩口まで上げると、表紙が日差しに滑らかに反射した。

「コレを返して、別のを借りようと思って」

「図書室は今、閉鎖中だ」

 首と顔のラインが曖昧な男は、高圧的にそう言った。首にかけられた『N高等学校事務局長 田村浩』のネームプレートは、腹につかえて斜めになっている。こんなだらしない姿をしているくせして、自分を優秀な軍人だと勘違いしているような高圧的な物言い。

 対する彼は、「あー」と小さな声をあげると、眉間にわずかな皺を寄せて、

「もう二週間も閉まってるんですけど、いつから開くんですか?」

「分からん。あんな事件があったんだから仕方ないだろう。何ならその本は俺が預かる」

 伸べられた指の太く短い手を、彼は首を振ることでキッパリと拒否した。

「いえ、結構です。新しい本が借りられないなら、これを読み返したいので」

「なら早く帰れ。その赤ネクタイ、特進コースの二年生だな。期末テスト中だぞ。本なんか読んでないで、家でしっかり勉強しろ。さあほら、行くぞ」

 腕を掴もうとするやぼったい指を、彼は僅かに身を引いてかわすと、穏やかに微笑み、

「いえ。ここで待ち合わせをしているので」

 すると田村は腹を揺らして笑い、

「心霊ごっこでもする気か? 早く帰れよ」

「はい」

 彼の素直な返答に、田村は踵を返した。ドタドタと階段を下りて行く重い足音が、やがて聞こえなくなる。

 すると少年はクルリと身を翻し、再び薄闇の中へ戻って来た。そして。

「本『なんか』って……事務局長にあるまじき発言だよ、なあ?」

 話をしたことのない彼に突然話しかけられて、私はビックリしてしまった。イマドキ、知らない人間は目の前にいたって石コロ同然ってのが当たり前の世の中だっていうのに。 

だけでなく、彼は司書室の前で隠れるように佇んでいた私に向き直り、

「君も図書室の常連だったよな。よく見かけたから」

 私は彼をよく見かけてたけど、彼も私に気づいてたなんて……「君」なんて古風な呼び方もあわせて軽い驚きを覚えながら、答える。

「ええ、まあ」

 すると彼はふと、うつむいた。

「……信じられないよな。カナレさんが死んじゃうなんて。確かにちょっと抜けてたけど、本の整理をしてる時にヨロめいて、開いた窓から誤って転落って、漫画じゃあるまいし」

 それは…。何て間抜けな後付理由。

「ヨロめいて落ちるほど窓と書架は近くないと思うんだけど。窓だってさ、俺でさえ腰くらいの高さだからカナレさんだと胸の高さくらいだったろうし、うっかり落ちる高さじゃない。だいたい、あんな寒い日に窓なんか開けるか? というか、何かの拍子で本が落ちると危ないからって、カナレさん、書架近くの窓を開けたりしてなかったのに。『この距離じゃ落ちないって』ってみんなが笑っても、『絶対ないなんてありえないでしょ』って真面目に言い返してたくらいなのに。いや、窓どころか遮光カーテンだって開けなかったし! それに土曜日はカナレさん休みのはずなのに、わざわざ出勤して来て本の整理? 何かおかしい。なあ、そう思わないか?」

 あっさりめに整った顔立ちがわずかに歪み、切れ長な奥二重がじわっと潤む。彼も、私と同じ気持ちなのかもしれない。でもそれもそうか――だって、「彼」だから。

それなら言ってみる価値は、ある。

「カナレさんは、事故で死んだんじゃない」

「……それ、どういうこと?」

 事故死を信じられないと言ってた彼なのに、その目は不審を滲ませて私を見つめる。

 私は、彼の目をじっと見つめたまましばらく間を置いて、ゆっくりと口を開いた。

「カナレさんは、自殺した。私見たもの。カナレさんが自分で飛び降りるの」

 彼の顔が、驚愕で固まる。瞠目しながら、厚めの唇を震わせ、

「自殺? 何で? カナレさんが? 何で? どうして?」

「私、見たわ。カナレさんは、さっきの事務局長や図書室長たちに追い詰められていたの。三年も手塩にかけて整備していた図書室から、突然、無理矢理追い出されて」

「追い出されって……。入試で忙しくなるから、一時的な手伝いで新館の事務室に勤務してもらってるって、室長言ってたのに!」

「ぜーんぶウソ。だって去年はずっと図書室に勤務してたでしょ? 図書室長……あいつこそがカナレさんを追い込んだ張本人。お気に入りの女子生徒の言いなりになってカナレさんを事務室に追い出して、追い詰めたの。で、ここで生徒とやりたい放題」

彼は、何も言わなかった。ただ、握りしめてる両手が震えてるのは、はっきり分かった。

私ほどではないけど、彼も結構な図書室の常連だった。授業数の多い特進コースだから時間はそうないだろうに、十分休みや昼休みなど合間を見つけてやって来ては、カナレさんとおしゃべりをしていた。だいたいは本のこと、たまに家族のこと、学校のことなど。時折ふざけたように、「姉さん」と、カナレさんに声をかけたりしてた。耳を赤くして。

彼みたいに、カナレさんとおしゃべりをしに図書室へ来るコは多かった。人のことは言えないけど、彼らは教室に少し息苦しさを感じているようだった。似たような境遇の彼らは、やがて学年・コース関係なく、カナレさんを中心に輪を作り、一緒に談笑するようになっていった。私はその輪に入っていけなくて、一人遠くから、ずっと羨ましく彼らを見ていただけだったけど。

入り口に目をやる。引き戸のガラス窓の下に無造作にかけられた「閉まってます。また来て下さいね」のメッセージの貼られたコルクボード。ポップな丸文字にハートの折り紙が散らされたカナレさんお手製。少しでも生徒が入りやすいようにと、百均で買ってきたパーツを駆使して作ったものだ。それを彼は唇をギュッとかみ締めて、睨みつけていた。何かをこらえるように。

私は、カナレさんが死んでしまってとても悲しかった。もう本を整理したり、笑顔で生徒と接したりする彼女が見られなくなるのが悲しかった。そして、次に抱いた感情は……。

「許せない……」

彼の眼鏡が、ギラリと不気味に光る。思ったとおりだ。思わず上がりそうになる口角を、私は必死に押さえつけた。そうして、

「じゃあ、どうする?」

 私はそっと声をかける。彼はじっと床を睨みつけたまま、

「復讐、する。カナレさんに替わって」

答えは予想通り。私が望んだもの。

 切れ長な目を濡らしたまま、彼が私をまっすぐ見据えてきた。だから私は頷いてみせる。  

すると彼も、力強く頷き返してきた。言葉はなかった。だけどそれが、私たちが同士になった瞬間だった。

 スマートな外見とは裏腹に、彼は左手で乱暴に眼鏡を外すと、固く握った右手の甲でゴシゴシと強く目元をこすり、

「こんなバカなことが許されてたまるかよ。連中の悪事の数々を、白日のもとに曝してやる、絶対! そうしてカナレさんの無念を、俺が晴らしてやる!」

 さすが本好き。古風なもの言いだなあと心の内で手を叩きつつ、

「それには証拠集めからね。まずはこの図書室を開けさせないと」

「それなら任せろ」

 彼はドンっと力強く胸を叩くと、

「学校宛に抗議メールを送っとく。学校の掲示板にも書き込んどく。それに親からも電話を入れてもらって……。叔母さんにも電話してもらうか。叔母さん大学教授で専門は教育だから、ここの連中を言い負かすなんてワケねーよ。生徒の顔色伺うことしか能のない連中なんて、すぐに言いなりだって」

 優等生の笑顔を見せてコワイことを言う。意外と口も悪いんだ。外見から淡白そうな人と思ってたけれど、実は熱血漢? 行動力のない私には、頼もしい限りだけど。

 「そうだ!」今度はいきなり手を叩いた。結構オーバーリアクションなコなんだなーと情報収集していたら、彼がいきなりグイっと身を乗り出してきた。近い。

「な、名前教えて? これから同志なワケだし。俺は二年A組の谷町……」

「湊くん、でしょ? 知ってる」

 彼は一瞬驚いたようだけど、すぐに納得した。同じ図書室の常連同士、そこには不思議な連帯感があるものだ。

 まして彼は、自他共に認めているだろう、カナレさん一番の信奉者。そしてカナレさんがもっとも頼りにしていた常連くん。

 これ以上、心強い味方がいるだろうか。 

「よろしくね谷町くん。私は二年K組の佐藤ナオ」

 私は、頬が痛くなりそうなくらい口角をあげて、にっこりと笑って見せた。握手も求めたいくらいだったが、それは諦める。

「佐藤ナオ、さんって言うんだ。名前は初めて知ったかも。だって全然話の輪に入ってこなかったしさ」

 彼は言い訳のように口ごもったけれど、私は別に気にしていない。だってそれは仕方ない。私は本当に、片隅から彼らを見守るだけだったんだから。私を認識していない子も少なくないはず。

「俺のことは湊でいいよ。俺もナオって呼ぶからさ。だって俺ら、同士、だろ?」

 大人びた顔立ちの彼が、子供っぽい顔でウインクする。

『同士』聞きなれない言葉が、耳にくすぐったい。なんだか落ち着かなくって、私はあわてて、 

「そういえば……、相手遅いね」

「何が?」

「待ち合わせしてるんでしょ」

「ああ、あれ」

 彼は面白そうに口元を歪めた。え? なんかヘンなこと言った? 戸惑いを見せる私に、

「そんなのウソに決まってるじゃん!」

「そうなの!」

「あ、いやごめん。ウソじゃない。そうだ、君と待ち合わせしてた」

 言いながら、屈託なく笑う。怒るに怒れないじゃない。そんな顔されたら。そんなの、言われたことないし。なんだか居心地が悪い。

洒落た眼鏡にスマートな容姿が落ち着いた雰囲気を見せるのだけれど、コロコロ表情が変わるのが、なんというか、見てて面白いかも、なんて思ってしまった。

 いきなり口元が歪みそうになって、あわてて横を見る。その先には図書室の入り口。長方形に切り取られたガラス窓の向こうに、ぼんやり浮かぶ白いモノが見えた。

 ああやはり『彼女』も、見ていたんだろう。

 まかせてカナレさん、きっとあなたの無念を晴らすから。そうしたら……。

 


 翌日。テスト二日目・火曜日。


「やっ、お待たせ」

 そう言って、湊は図書室前に姿を見せた。

 湊の言葉通り、図書室は開いていた。

 何の周知もされておらず、電気も点いていなかったが、「開いてます。お気軽にどうぞ」のコルクボードが吊られていた。一応開いてはいるものの、積極的に人を入れる気はない、というところか。

「ま、よけいな外野がいなくて好都合だよな」

 湊は昨日の文庫本を手に、ガラリと扉を開け放った。

 誰もいない図書室。湿って少しカビ臭い。カーテンも閉め切られた暗い空間のなか、湊は迷うことなく室内の電気をつけていく。

 入ってすぐ左手がカウンター。その奥にはガラス戸で仕切られた司書室。横長に広い室内は、司書資格のない室長の机と、応接セットが横並びに置かれていて、室長の机は、カーテンが閉められてなければカウンターからは丸見えである。カウンターの隣はカウンター内からしか出入りできない書庫になっていて、これのおかげで司書室の応接部分は、見えないようになっている。

カウンター内は二畳ほどのスペースになっていて、カウンターの裏側はカナレさんの作業机だった。そこには乱雑に積まれた返却本、装備しかけの新刊、書きかけの図書原簿が、トイレに立ったのかな? って思うくらい、いかにも作業途中という状態で放置されていた。ここを整理するヒマも与えられずに、カナレさんはいきなりこの場を追われたのだ。理不尽に。

ほとんど人の来ないこの僻地で、彼女は毎日毎日、重い棚を組み替えて本の整理をし、新刊を入れて装備し、特集を組み、図書室だよりを作り、一人で黙々と作業をしていた。なのにこの図書室に何一つ手をかけていない連中が、彼女を無慈悲に追い出したのだ。

「ねえ、見て」

 私は、沈痛な面持ちでカウンター内をぼんやり見ている湊に、机の脇に置かれたゴミ箱を示す。閉鎖中は本当に誰も入っていなかったのか、ゴミ箱は半ばほどまで埋まったままだった。赤く錆びついた円柱形のゴミ箱の中には、細かく千切られたしおりや帯やハガキらしき山の中に埋もれるように、無造作に丸められた白い紙くずが一つ。

 湊がそれを拾い上げ、中を開いた。

 やがて、その手がワナワナと震えだす。私は彼の手の内を覗き込んだ。それは、カウンターに置かれた新聞社のおまけメモ用紙に綴られた、見慣れたカナレさんの、力ない字。

【図書室長は、三年Ⅰ組の飯田由香の言いなりになって、心をこめて作り上げたこの空間から、理不尽に、私を追い出した。周りの連中も、上とコネクションのある室長の言いなり。絶対に許せない。一生恨んでやる!】

 パタパタパタ……そこへ複数の足音が上がってくるのが聞こえた。時々、女の甲高い笑い声が混じる。こっちへ来る。

「湊、こっち!」

 私が声をかけると、湊は、カナレさんの『遺書』を、ダッフルコートのポケットにつっこみ、かわりにカウンターの同じメモ用紙を一枚丸めてゴミ箱に投げた。そして急いでカウンターを出ると、閲覧机コーナーを抜けて、書架の奥に入る。これで入り口からは簡単には見えない。と、ガラリと扉が開く。けたたましく上がっていた笑い声が、突如止んだ。湊がワザと本を棚にあてて音を立てたからだ。

「誰かいるのか!」

 怒号、といってもいい声が飛んでくる。

 湊が、スッと書架から進み出た。

「何をしている!」

 声は、相変わらずの叱責口調。

「図書室が開いたって聞いて、本を返しに来たんですけど。それと、新しい本を借りようと思って。これ、借ります」

 そう、一冊の単行本を掲げた湊の目尻は、うっすら赤い。でも声はしっかりとしていて、見事な優等生ぶりがうかがえる受け答えだ。

「そうか。じゃあ借りて行っていい」

 男の声が少し、やわらいだ。これが諸悪の根源、図書室長。禿げ上がった頭に、垂れた細い目。中肉中背。一見、優しげなおじさんだが、人は見かけでは分からない。銀縁メガネのカナレさんは、冷たく澄ました感じの、一見とっつきにくそうな人だったけど、その実は柔らかい笑顔で迎えてくれる、温かい人だった。

 湊は書架を離れ、閲覧机の間を抜けてカウンターへと進む。

「これ返したいんですけど。手続きはどうしたらいいでしょうか」

「ん? ああ、借りた本はそこに置いといて。借りる本は……そうだな、そのメモ用紙にタイトルと君のクラスと名前書いといて。あとで手続きする」

メモに鉛筆を走らせながら、湊が何気ない様子で、

「……。カナレさん居なくなって、室長も大変ですよね」

すると室長は困ったような笑顔を浮かべ、派手なタメイキを一つつくと、

「本当になあ。残念だよ。カナレさんのおかげで立派な図書室になったのに」

 湊の手が一瞬止まった。顔を伏せているから見えないはずの彼の表情が、ハッキリと分かる。なんて白々しい。反吐が出そうだ。

「まあいい。早く帰りなさい。気をつけてな」

 その言葉で、室長の脇をすり抜けようとした湊は初めて気づいたように、室長の影に隠れている、青リボンの女子生徒に目を留めた。室長は、わざとらしい咳払いをすると、

「質問があるそうだ。何なら君もこれから一緒にどうだ? 日本史について」

「いえ結構です。俺の選択、世界史ですし。学年もですけど、コースも違いますから……」

 特進コースと普通コースを一緒にするな、と言わんばかりの湊の台詞に、女子生徒は明らかにムッとしていたが、湊はすまし顔だ。件の女子生徒はといえば、しっかり塗った顔にアイラインもバッチリ。明るい茶色に染めたミディアムヘアは、ゆるいパーマがかかっている。この学校、化粧とカラーとパーマは禁止のはずなんだけど。これでもか! とばかりに手をかけられた外見は、彼女の、女のイヤらしさを際立たせていた。

そのうえスカートは冬目前であるのにやけに短く、コートは色こそ似せてはあるものの、指定ものではない、トレンチコート風。前のボタンを留めてしまえば、そのまま夜の街へとご出勤できそうだ。

「こんにちは飯田由香さん。三年F組の」

 湊の呼びかけに、本人も、室長も明らかに動揺していた。

「何で知ってんの?」

 しっかり描かれた眉が、きっちりと寄った。声には大いなる不快と少々の不安が滲んでいる。湊は穏やかな笑顔を見せると、

「よく、ここでお見かけしましたから。お互い常連ですもんね。あ、でもすっかりイメチェンされたんですねー。別人かと思いましたよ。それじゃ失礼しまーす」

 そう言って軽やかに二人に一礼。すると。

「ちょっといいか?」

室長が湊を手招きし、外を指さした。

 カウンター前で向かい合う三人からそっと後ずさりながら、私は先に廊下に出た。ほどなく、奥まった司書室の戸の前で身を潜めていた私の前を、湊と室長、二人が通り過ぎていく。「あの掲示物、古くないですか?」と室長の目線を反対側に向けさせつつ、湊は私にウインクしてきた。余裕だ。頼もしい。

 本館の廊下も渡り廊下も一望できる階段前まで湊を連れ出した室長は、開口一番、

「学校に図書室のことで意見してきたのは、お前か?」

 おっといきなりストレート。しかし湊は、

「……何のことですか?」

 眉を上げ、ちょっと大袈裟な困惑顔で室長に答える。

「いや君だから話すけど、実は昨日、学校に抗議の電話とメールが入ったんだ。『図書室を使わせないなんて、子供の学習の機会を奪う気か』といった内容のな。ああいう事件があったから、安全面とか、色々考慮しないといけないだろ? 学校としても閉めたくて閉めてるわけじゃあないんだよ」

「そうですよね。でもこの不景気に、安くない授業料を払ってる親からしたら、学校施設が満足に使えないなんて許せないって思う人もいるかもしれないですね。その分の学費を返せって声もでるかも。金にがめつい人って、なにかにつけて粗探しするものですし。いやー怖いですねー。モンスターペアレンツって」

「本当になあ。君だから話すけど、最近の親はおかしいのが多くってな」

「みたいですねー。よくニュースになってますし。給食費払わない親とか、劇の配役に文句言う親とか。この間は中学生を買春した人も捕まってましたよね。あ、あれは先生だったか。不惑過ぎて娘ほどの相手に何やってるんだか、呆れますよね。でもよかった。この学校には、生徒に手を出すような頭の悪い先生がいなくって」

 あははと快活な笑い声。うわあの、室長の顔、ひきつってるよ。いっそう怖い。

 その後どうでもいい世間話をして、「じゃあ失礼しまーす」の元気な湊の声で、話は終了。湊の足音が新館に向かって遠ざかると、室長は踵を返した。今まで笑顔で話していたのがウソみたいな無表情。室長がわき目もふらずにまっすぐ向かってきた入り口には、件の女子生徒・飯田由香が険しい表情を見せていた。

「何?」

「いや、何でもない」

 室長は飯田由香の肩を慣れた様子で室内に押しやると、コルクボードをひっくり返して「閉まってます」表示にし、中から戸を閉めた。カチリ、施錠の音。

 私はそっと司書室の前を離れる。図書室を背に数歩歩くと、ガラス張りの渡り廊下、本館と新館のちょうど中間地点で、湊が東側の柱に背を預けて、くしゃくしゃの白い紙に目を落としているのが見えた。彼の頭上にある電子時計板が、十二時五分に変わる。

いきなり、湊が眼鏡を外した。ポケットのハンカチで慌ててそれを拭っている。ついでに目元も。さっきまで堂々と室長と渡り合っていたのに……。なんか乙女……いや、感情家さんなんだなあ、やっぱり。

 私の目線に気づいたか、湊は慌ててハンカチをポケットにつっこみつつ、はにかんだ笑みを浮かべると、照れ隠しなのかうつむいて、足早にこちらへと戻ってきた。

 開口一番。

「なあ、見た? 例の、窓のところ」

驚いた。彼にも見えていたんだ。ああでも、見えるかもしれない。彼なら。

「白い『気』みたいなのが、凝り固まっていた。あいつらが入ってきたら、いっそうはっきりして――あれってカナレさんの無念が、張り付いているだよな。やっぱ」

 湊は、いつしか明かりの消えた図書室の戸を睨みつけている。かわりにその左、司書室のガラス窓が爛々と光っていた。私はその光を辿り、

「そんなカナレさんの目の前で今頃、二人はゆっくり……って感じなんでしょうね……」

 私の声に、湊の肩がピクリと揺れた。それを見た私はさらに続ける。

「湊は七限まで授業があるから放課後に図書室来るの、遅かったもんね。夏休み明け、からかな。放課後になるとアイツ室長目当てに毎日のように図書室に来るようになって。でも室長って、やれ会議だ来客だって、なかなか図書室にいないじゃない? だから室長が来るまでアイツ図書室で待ってるんだけど、携帯でしゃべりまくったり、雑誌の写真撮ったりとかかなり非常識で、カナレさんが相当注意してた。室長が来ると、生徒の出入りが許されていない司書室に堂々と入っていちゃって。帰りも一緒だったから、他の常連生徒たちはヘンな顔してたわ」

「そうだったんだ……。でも俺もあの顔、覚えある。名前は、あのメモ見るまで知らなかったけど。夏休み前くらいだったと思うんだけど、本を読んでるふうじゃないのに、やたらカウンターに張り付いてたヤツだろ? 今と雰囲気違って、こう、ツインテールして、永遠少女みたいな雰囲気の。ナオは覚えてない? カナレさん目当てかと思ったけど、なんかしゃべってるわけでもないし、でもカウンターに近づくヤツがいてもどかないし。カナレさんも知らん顔で作業してて、そんな調子なのに閉館までずーっといてさ。なんかヘンなのって思ってた。カナレさんに訊いても『うーん、ちょっとねー』って困り顔で言われるだけで、つっこめなかったし。でさ、カウンターに張り付いたアイツから逃げるように出てきたカナレさんと俺たちが本の話で盛り上がりだすと、すっげえ恨めしげに睨んできたんだよね、俺たちのこと。なんか面白いから、アイツが絶対読まなそうな本の話ばっかりしちゃった。夏目漱石とかジッドとか」

「ジッド……私も好き」

 意外な言葉にひっかかってしまった私の呟きに、湊が勢いよく身を乗り出してきて、

「うわすっげ俺も一緒! 同好の士に初めて会った。なんか嬉しい。カナレさんは『田園交響楽』が好きって言ってたな。あっちの方がまとまりいいとは思うんだけど、でも俺は『狭き門』が好きでさ。特にアリサがジェロームに別れを告げる場面なんて……」

 嬉しいという言葉どおり、やや興奮気味に語りだす湊の勢いに、私が目をパチクリしてしまっていると、はたと言葉を止めた湊は、照れたような笑みを浮かべると、

「ごめん、初同好の士だったから、ついハイテンションになっちゃって……」

「いやでも、うん、分かるよ。私も、結構嬉しいし。私も『狭き門』が好き。確かにあの場面は号泣ものだった。マタイ福音書も、読んじゃったし……」

 夕暮れの中、涙を流しながらページをめくっていた自分の姿が、目の裏に鮮やかに蘇った。ずっと忘れていたのに、まるで昨日のことのように、ハッキリと。

「あの『狭き門より入れ。滅びにいたる門は大きく、その路は広く、之より入るもの多し……』ってヤツだろ。分かる、俺も調べた! ――って、ダメだ、話が逸れる。よしっ、この続きは全部終わったらするってことで」

「そう、ね」

 復讐が果たされたら――彼の言葉に、知らず口元が、笑んだ。私は続ける。

「で、飯田由香ね。覚えてるよあの張り付きオンナ。ツインテールなんか平気でしてる頭お花畑みたいなコだったよね? あれあのコだったんだ、今じゃすっかりおミズのオンナオたいだもんね。あーゆー頭悪そうなのが室長の好みなのかしら? ああ、あのコなら間違いなく純文学とか読まなそう。足元に鞄を広げてたから何度か中が見えたけど、ゴスロリ系っての? の漫画とか雑誌がいっぱい入ってた。全然カナレさんと、っていうか、この図書室とは趣味違いそうなのにね」

「だよな。そもそもしゃべらないのにあんだけ張り付くって、なんだったんだろ」

「そっか。それで話が繋がった」

 私が腕組みすると、湊は「何が?」と真剣な面持ちで私に問いかけてくる。

「夏休み明けだったと思う。あのケバ女になった飯田由香が室長にへばりつくようになったのは。で、決定的な事件は一ヶ月前の午後。アイツ昼休みが終わって、授業が始まろうとしてるのに『次の授業はここにいるから』って動こうとしなかった。だからカナレさんがきつく叱ったの。『授業に出ない生徒は保健室か、帰宅か、どっちかしかない』って。そこへやって来た室長が『いいから』と司書室に入れちゃって。あとでカナレさんが、『一人を特別扱いしたら、他の生徒に示しがつかない』って室長にくってかかったのよ。室長は無言で、イヤーな顔してた。何も言わないで図書室を出てったわ。そしたら数日後、カナレさんは事務室へ異動になって、図書室への出入りを禁止された。カナレさんがワケを聞いても、『生徒への対応に問題があったから』って。『せめて最後に整理をさせて』という願いも認められなかった。室長から預かっていた合鍵も取り上げられた。文字通り『むしり取る』って形で、カナレさん泣いててかわいそうだった。その後はカナレさんを退職に追い込もうと、連日事務局長やら校長やらがカナレさんを呼び出して、シツコク言葉尻を捕らえては責め上げて……、カナレさん、いつも本館の四階を眺めては泣いてたわ」

「それホントの話? 作り話じゃなく?」

「ええ、本当よ」

 頷く私の目の前で、湊の頬が青白く強張る。

「そんな馬鹿なことがあっていいのか? 授業をサボる生徒が認められるなんて。いくらお気に入りだからって、正しい人を罰するなんて。室長ありえないだろ!」

「カナレさんも仕事に真面目だから、普段から室長にも『生徒に示しがつかないので、図書室内での携帯利用は止めて下さい』と口うるさかったからね。それと室長はここに滅多に人が来ないのをいいことに、他の先生や業者とアレコレ密談してたみたいだけど、その時も常にカナレさんは居るからね。目障りだったんじゃない?」

 私の言葉に、湊は何度も頷き、

「確かに……よく専門学校の先生とか、来てたよな。そうすると意味ありげに司書室のカーテン閉めてさ。応接スペースなんて見えやしないのに、怪しいったら。室長、理事長の親戚筋とかで、みんな頭が上がらないって話は聞いたことある。確か今年の夏も、教室はまだエアコンつかない設定になってたのに、図書室だけはついてて……カナレさんが、『室長は権力者だから』って。室長の授業があるクラスだけはエアコンがついてるっていう話しも聞いた」

「そういうこと。だから、あの日だったんだと思う。文化祭翌日の土曜日早朝。特進クラスの補講も部活も休みで、警備員以外はほとんど出勤していなかった。そこで職員室から図書室の鍵を持ち出したのね」

「警備員はカナレさんのことは知ってても、トラブルがあったなんて知らないだろうからな。だって警備の人って派遣とか、だよね?」

 湊の言葉に、私は一つ頷いて見せた。

「きっとそうね、警備の人はヨソモノ扱いだから、そんな事情は説明されてなかったんでしょう。それにしても随分ひどい暴君よね、室長は。みんなが顔色伺って何も言えないのをいいことに、やりたい放題。そんな人間の下で、ここの教師たちはみんな、ヤツに取り入るか、見て見ぬフリをすることしか考えず、人一人を死に追いやっても、何にも感じない非人間になりさがったのね。寒気がするわ」

「――このままで、すませるかよ」

 湊の目に、新たな光が宿る。復讐者の目だ。

「そうね。だけど証拠がないと」

 私の声に、湊はぼんやりと光っている司書室の入り口を睨みつけたまま腕組みしてる。

「あそこには今、ヤツらを追い落とす証拠がたっぷりあるんだろうにな……」

 そちらを睨みつけたまま、忌々しげに湊が吐き出した。

 黙って立っていれば、人のよさそうな学級委員長といった秀才イメージなのに。やっぱり人は分からない。

「あんなヤツらがのうのうと生きていて、カナレさんみたく純真でいい人が死ななきゃいけないなんて。そんなの、絶対に許してたまるかよ」

 目を司書室に向けたまま、湊が呟く。私はあわてて顔を伏せた。知らず笑ってしまった口元を隠すために。



 翌日。テスト三日目・水曜日。



二限テスト終了時に図書室で待ち合わせは、やはり正解。見事に誰も居ない。

「ジャン!」

 そう言って、閲覧机を挟んで向かいに座る湊が私の眼前に置いたのは、黒いペン。ちょっと高級そうだけど、そう珍しいものではない、と思う。

「ジャンって、普通にボールペンだよね。これがどうしたの?」

「うん。一見ボールペン。でもこれは、実はICレコーダー」

「あいしぃ?」

 湊は続ける。

「三年Ⅰ組の飯田由香って、どっかで見た名前だな~と思ってたんだけど、昨日、ナオと別れてから思い出したんだよ。部室――あ、俺こう見えて放送部員なんだけど――に置いてあった漫画研究部の部誌にヤツの原稿が載ってた。実名付きだったから覚えてたんだよ。あんなおミズで漫研ってのが意味不明なんだけど。しかも絵、超下手だし」

「湊、部活に入ってたんだ」

「まあね。とはいっても、放課後にちょっと顔出すだけで、たまに昼の放送手伝うくらいしかやってないんだけど。部室はここの一階、図書室の真下。だからカナレさんが落ちた所に捧げられた花束が、部室の窓から見えてた」

 湊の声のトーンが一気に下がる。そうかそれで……。合点がいった。それではなおのこと、彼は彼女を忘れられないだろう。

 湊は小さく咳払いをして声を改めると、

「で、その部誌に、彼女わざわざ自分のブログやらツイッターを紹介していたわけ。さっそく拝見させてもらったけどさ、自己顕示欲が強いんだろうな。ご丁寧に制服姿でポーズとった勘違い写真を何枚も載っけてたわ。ツインテールで小首傾げてさ。あれでカワイイって思ってるんだぜ、もうイタ過ぎる。おまけに学校生活をこと細かに記入しててさ、『室長にご飯連れてってもらった』とか『図書室に二十冊の漫画シリーズ買ってもらった』とか。生徒のリクエストは一人十冊で、漫画は購入禁止なのに、これ明らかなヒイキだろ?」

 見てみる? 言いながら、湊は鞄から青色のスマホを取り出した。ココに来る生徒はみんな、必ず一度は携帯を取り出すものなのに、彼がそうするのを見たことがなかった。持っていないんだと思ってた。借りてる本も古典的なのが多かったし、(いにしえ)を愛しているのかと思っていたけれど、ちゃんと現代っ子だったんだ。

 湊は、慣れた手つきで画面を指で叩いたり滑らしたりしてから、私の前にそれを突き出した。画面には、「え、これ日本語?」と言いたくなる文字っぽい記号と絵文字にしかめっ面になる私に解説を加えながら、湊はどんどんと画面を滑らせていく。

「ホラこの写真とか。チューリップ畑でお嬢様座りとか、周りどんな目で見てたんだか」

 言いながら、画面の上で親指と人差し指を開いた。

「わっ、拡大した!」

「ナオ面白いその反応。――で、これがその漫画ね」

「ホントだ。でもこんな漫画、見たことないんだけど」

「多分、カウンター脇の書庫にあるんだと思う。カナレさん、先生からエラソーに寄贈された不要本、受け入れだけしてみんな書庫につっこんでたから」

「ああ、ゴミ箱捨てろよみたいなボロい本ね」「そうそれ。多分それと同じ扱いしてると思う。話戻って、こいつのブログだけど、記事はしっかりコピらせてもらったぜ。だけどあそこまでアケスケに日常晒して、ヘンなヤツに気に入られたらどーすんだろ。家の最寄駅まで書いてあったから、待ち伏せされても知らないよーって感じ。一回痛い目に遭えばいいのに。この学校に来てから日記代わりにブログ書いてるみたいだけど、時々ゴッソリ記事消してるっぽい。きっと頭の悪い、ヤバイこと書いてんだろうよ。書く前に気づけって思うけど、書かずにはいられないんだろうなー。先生にヒイキされてるとか、バイト先の妻子もち店長に迫られてるとか。自分凄いんです! って言いたいのかね? 後から慌てて消したって魚拓とられてたら終わりなのにさ。室長はといえばカナレさんの遺書をゴミ箱に放ったままとか、疑惑の図書室の鍵だけ開けてどっか行っちゃったりとか……。あの二人、ヒトデナシなだけでなくて、頭悪いところも同類だよな」

 憎しみを吐き出すように早口で語る彼の言葉はところどころ聞き取れないくらいだったけれど、何らかの証拠を掴んだのは確からしい。昨日は打つ手なし、とばかり悩んだ様子だったのに。

「よく調べたわね。凄い、びっくりしたわ」

「俺、色々調べ上げること好きなんだよね。相手も抜けてたから助かったけど。その気になればヤツの住所も携帯も調べられそう」

 「どうだ」とばかりに胸を反らせるのがなんだかかわいらしくて、思わず笑ってしまう。彼が言うように、その気になれば飯田由香の個人情報をあらかた調べ上げてくるんだろう。 

でも――飯田由香とカナレさんの本当の関係までは、分からないよね……。

「でさ、ブログをコピーしてて思いついたんだ。二人の司書室でのやりとりを録音すればいいんだって!」

「それはいいアイディアだけど……。テープが回ってる間に都合よい展開になるかなあ」

「なければないで、やりようはある」

「それにテープどこに置くの? 目に付くところに置いたらバレちゃうけど、隠してたら音が録れないし」

「やだなあナオ、いつの時代の話だよそれ。今の時代はこれ、ICレコーダーだって。しかもこいつは結構なスグレモノで、どう見てもペンのくせして最長半日は録音できる。しかも無音のときは動かないという素晴らしさ。動いてる間にヘンなランプもつかないし、充電は半日持つし、PCに繋いでデータも取れる。室長の机のペン立てアホみたいにぎゅうぎゅうだから、そこに混ぜとけば気づかないって。実際に書けるから、使ってもらっても問題なしだし。室長、PCがフリーズすると電源引っこ抜く機械オンチだってカナレさんが言ってたから、絶対気づかないだろうし。あー笑える。ちナオにこれ、出張中の親父のを勝手に拝借してきちゃった。へへっ」

 彼が饒舌になるのは、怒ってるときなんだと思う。面白おかしく語りながら、心にドスンと重く蟠る負の感情を、どうにか紛らわせようと必死になっているのだ。感情で突っ走らないように、自分を律している。彼は冷静に、そして確実に、カナレさんの仇を討ちたいのだ。

 だって新館の東つきあたり一階にある特進クラスは、ここから一番遠い教室だ。なのに部活も補習もあってただでさえ時間のない中、毎日のように図書室にやってきていた彼。「こういうの好きだから」と本の装備や返却本の書架戻しを積極的に手伝っていた彼。そうして「姉さん」って冗談ぽく、でも優しい目をしてカナレさんを呼んでいた彼――。

 思い出したら、なんだか胸が痛い。

「なるほどねえ。今はそんなのあるんだ。知らなかった」

「……まあ、フツーの高校生は知らないか」

「そうよねー。だっていわゆる盗聴でしょそれ? フツーしないよねー」

 私が冷ややかに笑ってみせると、彼は悪さを咎められた子供みたいに肩を竦めてみせた。

「で、本題。今日、三年だけがテスト三限までなんだ。だからこの後絶対、飯田由香はまたここに来る。その前に、これをしかけとく」

 そう言うと、彼は立ち上がって無人のカウンターに入っていく。私も慌てて後を追った。

 ガラス戸をくぐった室長の机、確かにペン立てはぎっしりで、机周りも本やら書類やらが乱雑に積みあがっている。机の脇、廊下側の壁に固定された本棚にも、何故か平積みされた本が無造作に、棚いっぱいに突っ込まれている。棚の高さと本の高さが合わないんだろうけど、カナレさんがやってたみたいに、棚を組みかえれば入るのに……と思っていたら、背後から湊の声。

「よかった。室長が綺麗好きじゃなくて」

 声に振り返ると、彼がニヤリと笑う。「そうね」と私が返したら、とたんに彼の表情が固まった。

「危ない!」

 え? 思ったと同時、背後から不穏な気配。

 バサバサバサっという音とともに本が、文字通り雪崩落ちてきた。分厚いハードカバーが、足元で重たい音を立てて重なっていく。

 やがて――落ちるものが尽き、ようやくの静けさ。こらえていたように彼が声をあげた。

「いーってー」

 いつしか固く閉じていた目を開けると、すぐ目の前に伏せた湊の顔があった。私の両耳脇に両腕をついて、私に覆いかぶさるように立っていた。彼の周囲には、乱雑に散った本の塊。肩越しに振り返ると、ぎっしりだったはずの棚の上二段がスカスカに空いていた。

「だ、大丈夫!」

 事態をハッキリ把握した私は、思わず声を張り上げた。何度も首を振る湊の髪が、私に触れる。彼の温度が、こちらに伝わってくるかのよう。だからなのか、胸が騒がしい。

「ダイジョブダイジョブ。コート厚いし、頭には当たってない」

 ゆっくりと、彼の体が離れていく。怪我が気になるのに、なぜか彼に目を向けられない。

「眼鏡無事だ、あーよかった。――ったくよー、もうちょっと整理しろよな、ホント」

「これ戻さなきゃ。もうじき三限終わるし」

「いいよナオは、危ないから下がってて。俺がやるから。テキトーに突っ込んで、ヤツがいるときに雪崩れるようにしてやる」

 怒り口調でそんなことをいいながら、足元の本を適当に積み上げ、それをどんどんと棚に突っ込んでいく。あっという間に足元の本が綺麗になくなった。しかし。

「うっわマジかよ」

 本と一緒に、埃も落ちたらしい。赤いカーペットが本棚の周りだけ白っぽくなっていた。

「ああもう、めんどうだ」

 湊はブツブツいいながら、足で埃を散らしていく。相変わらず見た目を裏切る豪快さ。

白っぽさがなんとなーく辺りと同化したあたりで、湊は「よし」と小さく頷き、

「これでいいだろ」

 と胸に挿していたペンを取り出し、再び室長の机に向かった。

 手にしているペンのクリップ部分を下にスライドさせる。カチリと小さな音。すると湊が目配せしてきた。それで録音開始らしい。

 湊はペンたてにそれをそっと突き刺すと、私に先に行くように手だけで促し、自分もその後に続いてきた。

 慎重に司書室のガラス戸を閉め、カウンターを抜け、私たちはそのまま揃って図書室を出た。「はーっ」同時に息が漏れて、私たちは顔を見合わせて、えへへと笑った。

「……あなただけは敵に回したくないわ。味方で本当によかった。心強いわ」

 私が心から思った言葉を言うと、「やめろよ恥ずかしい」と湊は口元を歪めて、照れた笑みを浮かべた。心から照れているようだ。

「あれ? そういえば湊、鞄は?」

「あっ、やばっ椅子に置いたままだ。ちょっと待ってて」

うん、私が頷くと、湊は笑い返してきて、そっと図書室の戸を開けた。消したばかりの電気はそのままに、だけど迷いなくまっすぐさっきまで座っていた閲覧机へと進んでいく。

「鞄忘れるとか、あり?」

 思わず笑ってしまった。ひとしきり笑って、ふっと振り返った。そうして階段口までゆっくりと歩いていく。

 目の前の廊下にも、渡り廊下にも人影はいっこうに見えない。階段を上がってくる足音も聞こえない。半月前までは、テスト期間でもここを目指してやってくる生徒がいたのに、今は全く人影がない。本当に――。


「時間が経つのって、淋しいね」


 いつだったか、遊びに来た卒業生を入り口で見送ったカナレさんが、ポツンと呟いた言葉。

 毎日図書室に遊びに来ていた常連は、卒業後もここへやって来た。

 だけどその頻度が、一週間に一回から、一ヶ月、三ヶ月となり、やがて来なくなる。

 その中には、「卒業して終わりって、そんなの淋しいじゃん。これからもずっと……」なんて、「ねえそれって」とつっこみたくなるほど熱く訴えてた生徒も含まれていた。

親元を離れてずっと一人暮らしを続けていたというカナレさん。まとまった休みに旅行や帰省していたということもないようだった。司書希望のコたちに「司書になりたかったら、公務員か学校の正職員にならなきゃ食べてけないよ」と言ってたところをみると、かなり薄給だったのだろう。「ボーナスって何だろうね?」って、差し入れを持ってきた事務のおばさんと笑ってたのも見たし。最近新聞の見出しでもよく見た『ヒセイキコヨウ』ってヤツだったんだろうな。いつでもお払い箱にされる、お手軽な労働者。

だからきっと彼女は――。

「お待たせ」

 横から湊の声。大仕事を成し遂げた達成感からか、緊張感からか、急いでいたからか、心なしか頬が上気している。

「やだ湊、右手、擦り切れてる」

「あ、ホントだ。いーよこんなの、舐めときゃ治る」

 言葉どおり、湊は右手の甲をペロリと舐めた。ちょっと何その、子供みたいな仕草。私はなんだか慌ててしまって、

「ごっ、ごめんね。私をかばってくれたからだよね、それ。ホントごめんね」

「ナオが謝ることないよ。あんな無茶苦茶な本の入れ方する室長が悪いんだし。――つーか、かばってくれてごめんなさいより、かばってくれてありがとうの方が、テンションあがる」

「そう、なの?」

「うん。同じことならさ、謝られるより感謝される方が、より嬉しいじゃん」

「じゃあ――かばってくれて、ありがとう」

「どういたしまして」

 本人が言ったとおり、湊はとても嬉しそうに笑った。それを見て、私も嬉しかった。嬉しさは連鎖するんだ。今さら知った気がする。

 そこに三限終了を告げるチャイムが、高らかに鳴り響いた。遠くから、生徒たちが一斉に立ち上がったことが分かる、椅子を引きずる音が盛大に、次々と聞こえてくる。

「うまくかかるといいな」

 呟くように言う湊の言葉に、私はどうにか頷いた。人気のないこの空間、いるのはただ私たちだけ――そう思ったら、なんとも言えず切ない気持ちになっていたから。



 翌日。テスト四日目・木曜日。



 今日は全校一斉にテストは二限終了。今は誰も居ない図書室だけど、いつ室長と彼女が表れるかは分からない。

「今日も録るよ。昨日うまく録れてるか分からないしな。入れ替えしてくる」

 湊は随分焦った様子で、胸ポケットから昨日のものと同じペンを取り出した。「こっちは自腹。来月発売のゲームはお年玉まで待ちだよ」とかなんとか言いながらカウンターに入り、司書室のガラス戸を空けて室長の机脇に立つ。私は、なんとなく廊下に出て、見張り番をしていた。やはり誰も来ない……と思ったら。

 ペタペタペタ……のっぺりした足音が上がってくる。

「湊っ!」

 私は、慌てて図書室に駆け込み、司書室に声を投げる。

「分かった!」

 緊迫した湊の声。焦ってるのかぶつかったらしい。ガタガタと机が派手に鳴った。足音はどんどん近づいてくる。足音がこんなに聞こえるなら、今の音も聞こえるんじゃ……。司書室と廊下、馬鹿みたいに交互に見比べながらハラハラする。こんなに焦ってるの、どれくらいぶりだろう。

「ごめん、お待たせ」

 散らばしたものをどうにか片付け、湊がカウンターから出てきたのと、室長が階段を上がってきたのはほぼ同時だった。

 戸の影から伺っていたら、僅かに開きっぱなしの戸に眉をひそめた室長が、足早に図書室に入ってきた。

「また君か」

「こんにちは」

 ここまで戻ってくるのが精一杯だったのだろう、机に積まれていた返却本から抜いた文庫本一冊を手に、湊は涼しい顔をとりつくろってカウンターに立っていた。

「まだテスト期間中なのに読書とは、随分余裕だな」

 湊に目を向けながら、室長はカウンター内に入る。口調が完全にイヤミだ。ちらりとカナレさんの机に目を向けたので、ドキッとしたけれど、特に何も気づかなかったらしい。

「気分転換って大事じゃないですか?」

 のんびりとした湊の声に、室長が足をとめてこちらを振り返った。

「それはそうだが。だったら学校じゃない方がいいんじゃないか? 他に行くところがないのかね、君は」

「――テスト期間中に図書室利用を制限する先生なんて、初めて聞きました。他のガッコは、テスト期間中は開館時間を延長してまで生徒に勉強させてるみたいですけどね。ここの先生たちは、生徒の成績どーでもいいんですね。ま、進学率とかうるさく言われるのもウザいので、ありがたいですけど」

 みるみる、室長の顔が険しくなる。おおらかそうに見えて、実は子供っぽい人ようだ。きっと思い通りにならないこともあるってこと、忘れてるんだろう。

「――何か借りたい本でもあるのかね? だったら早く手続きをしてくれ。これから客が来るから、外して欲しいんだが」

「俺のことは気にしないでください。もうちょっとでこれ読み終わりそうなんで。あ、どーしても気になるようでしたら、司書室にどうぞ。入り口カーテン閉めてもらってもかまいませんよ。いつもどおりに」

「おい!」

 それは教師の怒鳴り声だった。大きな声を出せばいいと思ってる、典型的なダメ教師の常套手段。

 その声に、ゆっくりとカウンターから離れ、大げさに溜息をついてみせると、

「そんな大きな声を出さなくても聞こえてますよ。僕らしかいないんですから。てか来るたび怒鳴られるんですけど、図書室使っちゃいけないって決まりでもあるんですか? 鍵開いてたし、コルクボードも開いてる掲示になってたから入っただけなんですけど。――入っちゃいけないなら、そう掲示しといてください。紛らわしいので」

 ピキッて音が聞こえた気がした。

 湊は何も気づかないように文庫を鞄に入れると、にっこり作った笑顔を室長に向け、

「確か図書室は通常開館なんですよね。苦情が来たから。連日は早閉まりはさすがにないですよね? また苦情が来ますから。じゃあ本は明日ゆっくり来ることにします。では、失礼しまーす」

小ばかにしたかのような軽い口調でそう言い、湊は図書室の戸をピシャリと閉めた。

「ばーか」

 口中で呟く声が聞こえた。「まったくだよねっ」私も思わず同意する。

 そこへ足音が上がってくる音が聞こえてきて、二人の間に緊張が走った。

「飯田由香?」

「でも、ちょっと音が違うくね? なんか、それより重く感じるんですけど……」

「確かに。スリッパだよね、この音」

 そうこう言っているうちに、足音がどんどん近づいてきた。やがて小走りに。そして。

「ああ生徒さんか、びっくりしたあ。こんにちは」

 階段口に出た私たちは、紙袋を手にした、細身のスーツ男に遭遇した。

「こんにちは」

 足を止めた湊が、硬い声で会釈する。「失礼します」やはり男は図書室へと入っていった。

「今のって……確かJ専門学校の人、だよな」

 男を見送り、階段口で足を止めた湊の問いに、私は頷くことで答える。

 湊の額には、じんわり汗が滲んでいた。その手には、昨日しかけたペン型のICレコーダーがしっかりと握られている。

「録れているといいね」

 これだけ色々調べて、オトナたちに嫌味を言われて、自腹まで切って頑張ったんだから……私の声に、湊は大きく一つ頷いた。真剣な顔で。まるで何も知らない、無垢な子供みたいに。だから私は、思わず口にしていた。

「私、もっと早く、湊と知り合いたかったな」

「え? ごめん、聞こえなかった、今なんて?」

 湊に訊かれたけれど、私は「なんでも」と笑って誤魔化した。そうしてひそかに呟く。

「そしたら私、きっと――」

 


 そして翌日。期末テスト最終日の金曜日。



 三限目にはテストは全て終了し、HRが終わった昼前の学校は、解放感からか何となく賑わいを見せている。

 それでもここ本館四階、図書室。ここだけはその賑わいから切り離されたかのような静けさ。そんな中で、湊が聞かせてくれたのは、一昨日しかけたICレコーダーの『成果』。

 図書室の一番奥、あのカナレさんの窓の一番近くにある閲覧席の真ん中に置かれた、これまた私が知ってるのより随分とスマートになったウォークマンから流れる会話を、私たちは向かい合って座り、それを聞いた。こんな大胆なことができるのは、開いていない図書室の鍵をもらいに職員室に行き、室長が帰宅したという情報を得ていたからだ。

 外に出れば寒いのだろうけれど、窓越しの空は晴天。差し込む光はとても温かだった。寒がりだという湊も、今はコートを脱いでいるほどだ。

 二人して机の上で腕を組み、そこに顎を載せて耳をウォークマンに向けて、聞こえてくる声に耳を澄ます。盗聴というからもっと聞こえにくいものかと思っていたけれど、意外としっかり聞こえるものだった。

なんとなく足を伸ばしたら、湊の足をすぐ近くに感じて、慌てて足を戻す。誰もいない図書室で向かい合い、日差しで温もる閲覧机に顔を伏せている私たち。聞いているのは盗聴物。ハタから見たら、ヘンな風景だよなーと漠然と思っていたら、飯田由香がゲラゲラ笑い出し、湊が慌てたように頭をあげ、ウォークマンに手を伸ばした。つられて顔を上げ、そちらを見ると、窓に背を向けている湊の髪が、日に透けて輝いて見えた。真っ黒い髪だと思っていたけれど、今は明るい栗色をしている。黒髪が似合うと思っていたけれど、この色もいいかもしれない。

「ごめん、ちょっと待って」

 湊が机の上のウォークマンを手に取った。小型の携帯みたいなそれは、綺麗なメタリックブルー。彼の傍らには、スマホとペン型ICレコーダーが二本。室長不在なので、今日しかける意味がなくなったのだ。

すぐ横のスチール製の書架も、今座っている閲覧机も、そもそもこの図書室すべてが、デザイン的にはもちろん、あちこち歪んだり傷付いたり煤けたりしていて年代を感じさせているのに、彼だけが何もかも新しくて、異質の存在だった。だからなのかもしれない、彼が、ひどく眩しいのは。

「どした?」

 声にハッとする。見れば、湊が不審げな目をして私を見ていた。私はあわてて顔を伏せる。湊は、「へんなの」と言いつつ、ウォークマンを元の場所に戻し、顔を伏せた。

 しかし……聞けば聞くほど眉間に皺が寄ってくる。そうこうしている内に、録音が終わったらしい。なんの音もしなくなった。

 ふう、タメイキが重なる。顔を上げるタイミングが湊と一緒だった。すぐ目の前に湊の顔。近すぎて驚いてしまったけれど、眼鏡を外してる湊には見えてないのか、なんら動揺は見られない。笑顔で、「体勢きつかったよな」なんて声をかけてくる。

 「だねー」と言いながら私は慌てて目を逸らしかけて……思わず吹き出した。

「やだちょっと湊、右の頬に跡がついてる!」

「え、うそマジ? どーしよ」

 言いながら慌てて頬をこすってるサマがやけに微笑ましい。デキるヤツっぽいけど、意外と抜けているところもある。そのギャップを見ちゃった人は、彼を微笑ましく思って近づいてくるのかもしれない。思い返してみたら、図書室の常連たちが作るどの輪の中にも、彼は溶け込んでいた。

「そのうち取れるって。そんなにこすっちゃダメだよ」

「だ、だよな」

 頬をこすっていた手を慌てて離して、行き所をなくしたそれを、思い出したようにウォークマンに伸ばした。

 私は彼の手元を見つめながら、 

「……。別にいちゃついてはいないみたいね」

「そうみたいだな」

 私の困惑気味の問いかけに、湊はさらりと答えを返してきた。私はなんだか不安になってしまう。これで復讐できると思ってたのに……なんとなく、湊の肩越し、青空の広がる窓に目を向ける。

 カナレさん、聞こえてた? 不安を殺して心で問いかけるけど、もちろん反応はない。

「大丈夫」

 声の主を見ると、私と同じ方向に目を向けていた。 

「俺に考えがある。見ててよ、カナレさん」

 肩越し振り返っている彼の表情は見えない。だけど静かな声に、確かな決意が滲んでいた。

 湊がそう言うなら、大丈夫だよね。

彼は、この図書室で妙な存在感があった。それは本の知識によるものだと思っていたのだけれど、それだけじゃないって、ここ数日で分かった気がする。彼は、なんの見込みもないことは口にしたりしない。大変な人には思わず手を差し出してしまうし、納得できないことなら、オトナにも毅然と立ち向かうことができる人だ。

カナレさんが彼を頼りにしてたのが、分かる気がする。

 いきなり湊が立ち上がった。

「さー、今晩読む本を借りていこうっと。どうせ室長は何もしてないし、昨日カナレさんの机の上の本を勝手に持ち出したの見ても何にも言わなかったんだから、手続きなんかいらないよね」

 そう言って鞄を手に取ると、そのまま窓際の書架に入っていく。

「カナレさんは見てるよ」

「そういやそうか。でもダイジョブ、カナレさんなら許してくれる。堅苦しい人だったけど、情に訴えると聞いてくれたから」

「そうなんだ」

「うん。俺、週末に全十二巻のシリーズ本をどうしても一気読みしたくってさ。でも貸出って十冊までじゃん? 月曜の朝返すから! ってダメもとでお願いしたら、カナレさん意外とあっさり『いいよ』って言ってくれて。『そうだよねーシリーズって一気読みしたいよねー。分かるよ』って……」

 語尾が弱くなったことには、気づかないフリをした。

 その列の半ばほどで足を止めた彼は、いつものように本を手にとってはめくり、また戻す。いつもながら真剣に、本を選んでいる。今日はだけど、なんだか怖いくらいに真剣だ。

 その背後の大きな窓ガラスには、相変わらずの影が凝り固まっている。『彼女』には今、どう見えているんだろうか。私は。

 本を選んだ湊が戻ってくる。机に置いたままのスマホやウォークマンなんかを片付ける彼の手元をぼんやり見ていた私は、何となく口にしていた。

「青、好きなんだね」

 ん? という目をしたけれど、私の目線に気づいた湊は小さく笑い、

「あ、そっか。スマホケースも青いもんな。うん、青好きだよ。ナオもそうでしょ?」

「え、なんで分かったの?」

 全てを鞄にしまい、湊が机を回りこんできて私の背後に立つ。そして、

「だってホラ」

 彼が指指したのは、私の後頭部。

「いつもつけてるそのバレッタ。すっごく綺麗な青」

 思わず後頭部を両手で覆う。いつもつけてるって……私はひどく焦って、

「うん、すごくお気に入りなの。一目ぼれして、高かったけど、かなり頑張って買った」

 夏の、雲ひとつない青空みたいな色がグラデーションになってて、筆で刷いた雲みたいに薄くて白い筋が何本も走っている。時期外れになっても値引きされなくて、でもどうしても、どうしても欲しくて、残ったお金をかき集めて、足りない分はあの母親に何度も何度も頭を下げて、そうしてやっと買ったのだ。

「すっげえ一目ぼれっぷり。でも大正解。よく似合ってるよ。俺も好きな感じだし、これからもずっとつけててくれていいから」

 そういう彼は、やはり眩しい。


「じゃあな」

「うん、また」

 私たちは揃って図書室を出た。いつもどおり階段口で別れて、渡り廊下を進んでいく湊を私は見送る。 

 私は、カナレさんに替わって復讐してやりたかった。そうして彼女の無念を晴らしたかった。そのための優秀な協力者として彼を選んだ、はずだった。

 だけど――。

 いつもどおり、湊は途中で一度振り返って、私に手を振ってきた。手を振り返す私は、いつも笑顔だった。

 それに気づいたとき、私、笑えるんだ……って、信じられない思いだった。笑うことを私はとっくの昔に忘れていた。驚いたり慌てたりする感情も、号泣したはずの本も、台詞も、人が喜んでいるのをみることの喜びも、私はとっくに手放していると思ってた。だけどそれが私のずっと奥深くで眠りについていただけだ、ということを、彼が教えてくれたのだ。

こんなふうに誰かと近づいたことなんかなかった。まして私なんかをかばってくれる人なんて、誰もいなかった。

 彼みたいな人が、この世にいたなんて……。



 そして月曜日。



『みなさん、こんにちは。三週間ぶりのお昼の放送です。午後のひととき、いかがお過ごしですか? 月曜日はリクエストディです。みなさん、どうぞ最後までお楽しみ下さい』

 軽快な音楽と共に湊の声が、校内に流れる。

 今、目の前で湊が一人、マイクに向かい、機材を動かしている。スマホやICレコーダーの今にしてみれば、骨董品みたいな古い機材だ。多分十年以上前のものなんだろう。私でも扱えそう。

 本来ならば二人一組で行う昼の放送なのだそうだけど……。

(谷町くん、本当にいいの? 一人で昼担当するなんて)

(ダイジョブ。仕方ないよ、鈴木さん『見える』人だもんね。何か出そうっての分かる。まあ、俺は全然霊感ないから平気だけど。いつも助けてもらってるから、たまには任せて)

 ほんの十分くらい前。私は湊と一緒に放送室に入った。イチオウ隠れてて、という湊の言葉に従って機材の影に隠れて様子を伺っていた私。入り口に立った湊の肩越し、赤リボンのショートカットが、廊下から心底気味悪げに室内をキョロキョロ見回していた。

(本当に大丈夫? 何か、いやーな空気ただよってんだけどココ。いるんじゃない、今)

(やめてよ、鈴木さん。せっかく再開するお昼の放送なんだから、怖いことは言わない! とりあえず今日は、俺一人でやるから。ダイジョブだったら、次からは一緒にやってね。やばっ、もうこんな時間。始めなきゃ。じゃあ、閉めるね)

(ごめんね。じゃあ頑張って。あ、これ顧問から。今日のリクエストCD)

 そうしてガチャン! と扉は閉められた。

「さあ、いよいよだ」

 そういよいよ、私たちの復讐劇が始まる。


『それでは本日の一曲目はペンネーム“如月”さんからのリクエストです』

 湊の声でバックミュージックが止み、しばらくして新たな曲が流れ出した。若い女が、世の不条理を高らかに歌い上げている。

 湊は薄い笑みを浮かべて、流れる歌声を小さく後追いしながら、頬杖をついていた。

 突然。

 音楽が途切れた。湊がニヤリと笑う。

「よーし、第一部スタート!」

『ねえー室長。明日のテストって何が出るのお? 教えて!』

『仕方ないな。じゃあ教科書の204p~205pをよーく読んどけ。あとこの前配ったプリントの三枚目、ⅢとⅤを順番変えて出すから、そこ覚えとけ』

『わー、ありがとう室長。これでテストバッチリだわ』

『頼むからⅠ組の平均下げないでくれよ。で、次はいつ飯食いに行く?』

『テスト終わってから? バイトもあるからまたメールするよ♪ てか邪魔者居なくなってよかったよね。 あのメガネババアがいなくなったおかげで、いつでも気楽に室長に会えるモンね。自殺してくれて、ホーントよかったよね』

『全くだな』

『じゃあ、これでテスト対策はおしまい!』

「あ、ここからは俺の編集ね」

 湊が楽しげに言った。

『じゃあ今から、お楽しみタイムね……』

 声が消える。少しずつ大きくなるそれが、女のヤバイ声だと分かるのには少々時間を要したが、それがいっそう生々しい。

「うわーいいねいいねー」

 頬杖をついた湊が、顎を載せた左の手で、リズムを取るように自分の頬を軽く叩く。ひどく嬉しそうだ。

 室内には粘っこい男女のカラミが聞こえる。よーく聞くと明らかにあの二人の声ではないのだが、放送だともっと音は散ってしまうんだろうし、この展開でそれを疑う人は、まあいないだろう。

 湊は口元に笑みを浮かべながら、その音に聞き入っている。その背中の後ろに立ちながら、なんというか、私はとても複雑で……。

――こんなエロ声を聞きながら、男女で二人っきりって……。

いきなり湊が振り返った。あ、私の存在覚えてたのね、と思うと同時、ひときわ大きくなった女の声に、なんだか頬が火照る。

「いい感じ~。編集バッチリっしょ」

 湊にはこの妖しい声は、単なる音でしかないらしい。それだけ復讐にまっしぐら、ということか。

「うん、バッチリだね」

 私は笑顔で頷いてみせた。

 そのまま音がフェイドアウトしていく。

「ここからは第二部!」

『いや室長先生。ウチの専門学校にたくさん生徒さんを送り込んでいただいて、本当にありがとうございます』

『いえとんでもない。まあウチの生徒は自分でモノが考えられないヤツばかりですから。僕が将来を示してやるくらいじゃないとダメだからね』

『本当ありがとうございます。少ないですがこれ……』

『いつもありがとう。教師なんて給料安いから、全くやってられないよ。ああでも、こっちも無理を言って申し訳ない。出席日数足りないのに無理に推薦通してもらって。願書締切も過ぎてたよなあ、確か。あいつ就職するって言ってたのに、急に気を変えたみたいで』

『ああ、飯田由香さんのことですね。いえ、大丈夫ですよ。あとで問題にならないように、自己推薦文も出してもらいましたし……』

「こっちは編集なしね。とんだ拾い物だった」


 バタバタと近づく足音。湊は楽しげに、

「おっ、来た来た。もう少し早いかと思ったのにな~」

 そう言いながら、目の前のマイクを少しばかり動かして、ゆっくりと立ち上がった。パイプ椅子が、ガタリと鳴る。

「おいっ、開けろ!」

 ドンドンドンドン! 扉を激しく叩く音。

 湊はというと、ゆったりと伸びをしてから、ゆるゆると扉に向かった。扉の鍵を開けると、もの凄い形相をした室長と事務局長が雪崩込むように放送室に入り、

「またお前か! 一体何を流してるッ!」

 睨みつけてくる室長に対し、湊は眉間に縦じまをクッキリと刻んで困惑を装いながら激しく首を振り、

「俺、知りません! 顧問の先生から渡されたリクエストCDかけてるだけです!」

 いっそすがすがしいくらい、大げさな声をあげる。その間にも、放送は続いた。

『まあ飯田由香はああ見えて、なかなかやりますから。見た目はちょっとヤンチャですけどね。よろしく頼みますよ』

『室長先生は、彼女がお気に入りですねえ』

 「だから本当に知らないんです」湊が必死に首を振る間にも、間抜けな放送はどんどん進んでいく。

「とりあえず室長、放送止めないと……」

「そうだ、おい、お前どけ!」

「わあッ!」

 ガタガタッ! 湊はパイプ椅子と、机の上の備品を巻き込んで、派手に床に倒れこんだ。

「湊!」

 駆け寄る私に湊がコソッと耳打ちする。

「俺、中学の時は演劇部だったんだ。あーでも、ここまでか。もうちょっとなんだけどな、残念……」

 ところが、だ。

「何だこれは。止まらないぞ!」

 私たちの頭上で、室長と事務局長が必死に機材をいじくりまわしている。


『でもあれですよね、室長。飯田由香さん結構かわいいですよね。ウチの娘と同い年ですが、いやー、並べるのが気の毒になるくらいですよ。かわいそうに、私に似てしまって』

『いやいや、父親似なら、きっと愛嬌のあるお嬢さんでしょうよ。飯田由香はねえ……かわいいというより、あれは水商売顔だろ。母親もそうだし。蛙の子は蛙ってところかね。三者懇談に来ていた母親も、年の割に綺麗だったねえ。派手目でさ。だから外見を母親似にさせたら、もう文句なし。あんな子供みたいな二つまげよりよっぽど似合う。いい女になったよ飯田由香は』

『あれえ? 先生、今からお手つきされてるんですか?』

「ここはちょっと編集した」

 起き上がり、私に向かい合う形になった湊が小さくウインクしてきた。


 機械音痴の二人が色々触っているうちに、ボリュームを上げたらしい。「耳痛い!」言いながら両手で耳をふさいでしゃがみこんだままの湊の腕を、焦った室長が乱暴に掴む。

「おいお前、早く止めろ!」

「イタッ! ちょっ引っ張るなって!」

 悲痛な叫び声を上げながら、無理矢理立ち上がらされた湊。

 顔を歪ませながら、のろのろと立ち上がり、渋々ストップボタンを押しかけて……。

「えっ! 止まらない? どうして!」

「おい何をやってる!」

「本当に止まらない、押せないんです!」

 湊必死の訴え。何度もボタンを押しているのに、何も変わらないのだ。ならばと赤く光る電源ボタンに室長が手を伸ばすが、押してもランプは赤いまま。

これも演技? 湊に目を向けたけど、彼は真剣な表情で機材を触りまくっていた。

じゃあ――私は室内を見渡す。

奇声をあげながら室長が機材のコンセントを引っこ抜く荒業に出たが、それでも音はやまなかった。

湊が、ふと目線を投げた。窓際にかけより、厚手のカーテンを引く。窓の向こうに、花壇のブロック。そこにそっと置かれた花束が。

それは――。

「カナレさん」

「ナンだって?」

 血の気の引いた湊が振り返り、室長ににじり寄りながら声を張り上げた。

「カナレさんが居る。これは図書室の、あなたたちに殺されたカナレさんの呪いなんじゃ! ほらそこに……髪を一つ縛りにした女の人が。銀縁の眼鏡を掛けて……カナレさんだ。カナレさんが居る!」

「何馬鹿なこと言ってるんだッ! もういい、どけ!」

「うわああっ!」

 室長にちょっと押された湊が、またしても派手に転ぶ。パイプ椅子や周囲の機材までも巻き込んだので派手な音が上がった。床に投げ出された湊の眼鏡は、見事に割れた。「室長、やりすぎですよ」事務局長が慌てて声をかけるが、「お前は黙ってろ!」室長の怒号がそれに被さる。

「血が!」唐突な湊の叫び声。見れば、彼の左の掌が真っ赤に染まっている。彼が自ら割れたレンズを握りしめたのを、私は見た。そんなこととは知らない事務局長が青ざめて、「君大丈夫か?」と慌てて駆け寄ってくる。

放送室の外が何だか賑やかになってきた。「お前たちどけッ!」という荒っぽい声と共に、複数の教師が放送室に踏み込んでくる。

「室長先生、声、流れてます!」

「何だと?」

「今の、谷町とのやりとりが、流れています、全部!」


『まあ、あんな生徒と親からいただいたお金で我々が潤うわけですから、かわいいもんです。馬鹿な生徒もね。親もね、生活保護でも水商売でも、金さえ持って来てくれればなんだっていいんですよ、僕はね』

『いやあ室長先生はご立派です』

 下品な笑い声が、虚しく校内に響き渡った。

「ざまあみろ」

 狭い室内で騒ぎあう大人の輪の外で、湊はそう言って笑った。声は、喧騒に掻き消されて誰にも聞こえない。私以外には。

「俺が本気出せば、こんなものよ」

 達成感からなのか、彼は肩を震わせ笑っている。ホント、大の大人大勢が、彼一人の思い通りになって――。

でも湊、あなたが知らないこともある。

 

たとえば飯田由香のこと。


飯田由香は、担任である室長を待ちながら、よくカナレさんと喋っていた。次第に室長がいないことを知りながら、わざと図書室にやってきて、カナレさんと喋っていたことを、あなたは知らない。彼女がカナレさんを「お姉ちゃん」と呼んで、母子家庭の苦労や、将来の不安、中学時代のいじめ経験などを延々と語っていたこと。やがて彼女がカナレさんを独占したがって、他の生徒を近づけないためにカウンターに張りつきだしたこと。注意しても決して離れようとしない子供っぽい彼女の振る舞いに、カナレさんは呆れ、ウンザリして、きっぱりと彼女を見切ったこと。そしてあてつけのように湊や他の生徒と、飯田由香が入ってこれないマニアックな話題を選び、楽しそうに話をしてみせていたこと。恨めしげな飯田由香の視線をも、カンペキに無視していたことも。

そして、あなたは知らない。あなたが純真でいい人だというカナレさんのこと。

「カナレさん、俺、あんたの仇とったからね」

 湊は笑いながら、静かに涙を流していた。

 でも――カナレさんの本当を知っても、あなたはこうやって泣けるのかな?


 それから――の展開は速かった。


 学校の裏サイト? や、LINE? ツイッター? など学校関係の至るところに飯田由香のブログが貼り付けられ、室長との行き過ぎた親密関係が暴露された。するとネット上や学校内で、「図書室で本を探してたら、カナレさんが『つまらん仕事しかしてないくせに』と事務局長にいびられて泣いてるのを見た」とか「図書室の女の人が事務局長に、キーホルダーを引きちぎられて、図書室の鍵を無理矢理取り上げられて泣いていた」とか「部活帰り、渡り廊下を歩いてたら図書室とっくに閉まってる時間なのに電気がついてて、女のヤバイ声が聞こえてきた」とか、どこまでがホントでウソか分からない話がまたたく間に広がっていった。また学校中に、カナレさんの遺書のコピーが貼り付けられると、騒動はさらに大きくなった。しかも件の放送は校外にも流れており、近隣住民から苦情や問い合わせが相次いだ。ネット上でも騒動になり、マスコミにこの話が取り上げられると、さらに匿名の中傷電話も加わって事務室の電話は鳴りっぱなしになった。関係者の名前がネット上で晒されたらしく、「室長を出せ」、「飯田由香を退学させろ」と言った電話やメール、FAXが大量に送りつけられ、対応に追われた事務員は次々と退職、休職し、教師が事務作業をするハメになった。またインタビューである男子生徒が吐いた、「ホンッと、腐った学校っすよ。ここは」の台詞は、様々な凶悪ニュースに追われるマスコミが引き上げた後でも、流行語として校内のあちこちでクチにされた。

 事務局長は、閉校目前の系列大学に異動になった。

 室長は意味不明な病名で入院しているが、近く辞表を出すだろうとのこと。二度目の奥さんは神経衰弱になり実家に帰ったらしい。小学生の息子は、登校拒否になっているとか。

 また飯田由香は、推薦入学を取りやめたそうだ。辞退したのか、合格取り消しになったのかは、本人が学校に出てこないため不明。このままでは進学どころか、卒業も危ういという。ネット上には彼女が晒していた自身のイタイ写真と共に本名や住所まで出回ってるそうで、家を出るどころか、いることもできないだろうよ、とは湊の弁である。


 ―― ・ ――・ ―― ・ ――・――


「三学期から新しい司書の人が来るんだってさ」

 騒動がおさまりを見せた二学期の終業式、人気のない本館。掌の包帯が痛々しい左の人差し指で鍵をクルクル回しながら、湊はゆっくりと階段を上がってきた。私に並んで。

 司書と室長を立て続けに失った学校図書室は、今は三学期まで閉鎖、となっている。さすがにこれに異議を唱える生徒や父兄はいないらしい。

 あの騒動以来、学校のあちこちで「カナレさんの亡霊を見た!」というデマなんだか真実なんだか分からない話が飛び交い、閉鎖中にもかかわらず図書室前を肝試しにとウロウロする生徒があとを絶たなかった。だからずっと、落ち着いて湊と話をすることができずにいた。当事者たちの末路とか、「実は前に作った眼鏡で壊れてもOKのヤツだった」という、あの日砕け散った湊の眼鏡は、学校側からランクアップして弁償されたとか、あの騒ぎで、湊が用意していた件のCDが、なぜか機材の中でバッキリ割れ砕けていたとか……騒動の顛末をちょっとづつ聞くことだけしか。

だけど今日、この図書室にやってきたのは、この湊だけ。

 教師に理不尽な暴力を振るわれた悲劇の生徒・湊の、「図書室の鍵を貸して下さい」という願いを拒否するオトナは、もはやこの学校には誰もいない。「ここの教師は生徒の顔色を伺うことしか能が無い」と以前に湊が言っていたけれど、まさにその通りだった。 

「そっか。じゃあもうこんなふうに、好きに入り浸れるのは、最後だね」

 パタパタと、湊がゆっくりと階段を上がる音が響く。正面には、踊り場の大きな窓。綺麗な青空だ。あの日と、おんなじ。 

「本当言うとさ」

 白い息を吐きながら、おずおずと湊が切り出してきた。その、いつにない重い様子に隣を見ると、うつむいた彼の表情はサラサラの髪と光る眼鏡に隠されていて、よく見えない。

「カナレさんが事故死したって聞いたときは『ありえない』って思った。でも――自殺って聞いたとき驚いたけど、どこかで『やっぱり』とも思ったんだ。まさかそんなトラブルを抱えていたとは、知らなかったんだけど」

「それは――どうして?」

 私の問いかけに、湊はさらに顔を伏せた。白い息が細く流れて、彼がふうっと息をついたのが分かった。

「カナレさん、みんなと話すときは笑顔なんだけど、話の輪から出てカウンターに戻ると、フッと、なんてゆーか、凄く淋しそうな顔してて。さっきあんなに楽しそうだったのにな―って、いつも思ってた。でもさ、最近思うんだ。一人で一生懸命図書室のことをやりながら、誰の言うことも笑顔でうんうん聞いてて、元気の無い生徒を励まして、間違ってると注意して――それって本当にありがたくて、俺自身何度も救われたんだけど、でも、そんな人っている? そんな教科書みたいに正しいコトができる人って。いくら大人だからって、『みんなの笑顔が私の活力』なんて、安いドラマじゃないんだから。――なんか室長からもバカにされてた感あったし。『バイトだし』って言ってたの聞いたことある。あんな図書室にいても仕事何にもしないで寝たり密談したり勝手に帰ったりする室長が正職員で給料バカスカもらってて、頑張ってるカナレさんは安い給料だっていうんだから、馬鹿馬鹿しくもなると思う。もっとうまく上の人に取り入ったりしたらよかったかもだけど、そういうの下手そうだし。立ち回りうまくないっていうか。生きていくのが辛そうな人、なんて思ったことはあるよ」

「――そうなんだ」

 その言葉を聞いて、なんだか心がホッとした。カナレさんをそういう目で見ていた生徒がいたなんて――彼女に教えてあげたいくらいだ。

だって彼女は誰にも知られてないと思ってる。

授業中、たった一人の図書室で、もはやもっと生徒に来てもらおう、そのためにもっと図書室をよくしようという意欲は失われ、書架整理もほどほどにカウンターにこもりがちになっていた彼女。新刊を装備しながら、「死ねばいい」、「殺す」なんてヒトリゴトを言い続けていた彼女。本に挟まっていたしおりやパンフレットに呪いの言葉を書き込み、シャープペンシルで突き刺し、奇声を漏らしながら千切り、捨てていた彼女。

 そんな自分をうまく隠しながら、人前では常識的な人間でいれていると思っていた彼女に。

「あのさ、ちょっと訊きたいんだけど……」

 控えめな声が、背後からかかった。並んでいたはずの湊がいつのまにか、私の一段下、踊り場にいる。

「地縛霊って……人を、連れて行くんだよな?」

 スウッと冷たいものが身体を通り過ぎる。さすが湊。何でも調べ上げてくるんだ。

「いつ気付いたの?」

 私は自然に笑ったつもりだったのに、湊の表情がたちまち凍りつく。彼は、隠せなかった自分の感情を取り繕うように、硬い笑顔を浮かべて、

「最初の、自己紹介の時、かな。ナオはK組って言ったけど、今の二年はH組までしかないから、おかしいって思ったんだ。考えてみたら、ナオの姿は確かに図書室で何回か見たけど、『あれ、いつ入ってきたんだろう』って思うことが何回もあって。だからK組があったのがいつかを調べてるうちに、十五年前、ここから飛び降りた生徒がいるっていうウワサに行き着いて――」

「そっか。何かヘンだと思ってた。金曜日、いつもと違う棚の本を見てたもんね。窓際の。あそこ、心霊系の本があるところだったね。気づかなかったなあ」

 ゆったりと笑う自分を感じていた。だったら、私をかばう必要なんかなかったのに……。そう考えると、なんだかおかしい。でも立ち止まった湊は、真剣な表情に怯えを滲ませながら、私をじっと見つめている。

 私は彼に微笑みかけ、再び階段を上がった。

 そう、私は死んだ。十五年前の冬、この本館の屋上から飛び降りた。

 仲の冷え切った両親、兄弟も無く一人耐える私、連日続く言い争いに疲れて、クラスのコたちの良好な家族関係を聞くのが辛くて、私は次第に中学から足が遠ざかった。出席日数と内申点が明らかに足りない私が不本意ながら入ったのはこの学校。周りは派手なコばかりで、引っ込み思案な私はハッキリと浮いていた。だからいじめのターゲットになるのに、そう時間は要らなかった。ものを隠され、聞こえよがしに悪口を言われ、無視され、お金を要求され……次第にエスカレートしていくいじめ。「何でも相談しろ」と言った担任は、「お前に弱い部分があるからつけこまれるんだ」といい、形ばかりにいじめる側の生徒を呼び出したが、それは更なるいじめを招くだけだった。そうなると担任は「忙しい」を連発して、私を避けまくった。家では、リコン、イシャリョウ、コロス、という単語が私の頭上で行き交う。学校でも家でも私は存在していない。誰か誰か誰か……呼び続けたけど誰もこたえてくれなかった。なにもかもが恨めしかった。

やがてこの気持ちを、怒りをぶつけてやりたいと言う思いは、日々薄れていった。ずっと書き綴っていた親や教師への恨みと、いじめっこの実名と受け続けた陰湿ないじめを並べ書いたノートは破り捨てた。もうどうでもいいと思ったからだ。私はただ消えたかった。

 ある日、いつもどおり図書室へ逃げようと階段を上がってきたら、踊り場の窓に広がる空が、信じられないくらい澄んだ青色をしていた。涙が出るくらいに綺麗な冬空だった。そしたら突然、明日も、明後日も、明々後日も、ずっと今日の延長なんだと悟った。

そうして私は飛んだのだ。屋上、図書室の真上から。

「なあ、俺も連れてく?」

 声は、随分後ろからだった。

 振り向くと、湊が踊り場で立ち止まったまま、私を見上げていた。唇をキュッとかみしめて、ひどく真剣な、だけどとても澄んだ目をして。背後からさす、窓からの穏やかな日差しが、彼の細い輪郭を白く縁取っている。 

やっぱり、眩しい。

 私はつい、笑ってしまった。

「おい、何で笑うんだよ! 今、俺のこと『ガキ』って思っただろ!」

さっきまであんなに怯えてたのに……今度はムキになっちゃって。怒りに任せて勢いよく階段を上がってきた。ホント面白いコ。

「湊って、何でこの『腐った学校』に来たの? 第一志望じゃないよね」

 隣に並んだ湊は、今度は大いに慌てて、

「違うって、ただの滑り止め! 受験日が一番早かったから、『受験慣らし』のつもりで受けたのに。なのに……なぜか他全部落ちちゃって……。でもいいんだよ、大学で取り戻すから! 今度は第一志望の大学に行って、『ウチの学校初の快挙だ』って言うここの馬鹿な連中に『先生方からは、何も教わってませんよ』ってニッコリ笑って言ってやるんだよ!」

「あはははっ」

 私は大笑いした。止まらなかった。いつしか足は止まり、目には涙まで浮かんでいた。

 ――私は、世界はここだけしかないと思い、自分の図書室はここだけだと思ったカナレさんもまたしかり……。

でも湊、あなたは違うのね。

湊は私の一段上で足をとめ、振り返った。

「ナオといた時間、すごく楽しかった。こんな、ちゃらけた俺だけどさ、でも『生きるのって面倒だな』って思うこと何度かあった。『誰か連れてってくれないかな』って。だからこのまま、ずっとナオといるのもいいかなって、思ってた。だけど――」

 私はニヤリと笑うと、湊の目の前を横切り、再び階段を上がり始めた。

 私が見えたのなら、言うとおり、湊にも私に惹かれる心があったということなのかもしれない。でも、やっぱり彼は違う。やりたいことも、思い残すことも、まだたくさんあるのだから。

 でもカナレさんは……きっと今回の件はきっかけでしかない。埋められないものを抱えてこの世を生きてきた彼女は、遅かれ早かれ、こういう道を辿ったことだろう。彼女は多分、湊が言うように純真で、いい人だったのだ。だけどそこにつけこみ、利用され、粗雑に扱われた。そして誰にも心を許すことができなくなった。いつも一人で、淋しかったのだ。

だからこそたくさんの生徒に寄り添って、必要とされることに満たされ、やがてそれが故意でもそうでなくても単なる利用でしかないことに気付き、どんどん失望に沈んでいく。それでも彼女はみんなの理解者になろうとしていた。だけどそれは、自分の本当の理解者をこそ探していたのだ。

私は見た。あの遺書を、カナレさん自身がゴミ箱に放り込んだのを。彼女が窓の桟をまたいだとき、きっと誰の顔も思い浮かばなかったに違いない。私のように――。

 やがて聞こえてくる。ためらいがちについてくる湊の足音。

 四階に上がった私たちは、揃って角を曲がる。湊が図書室の鍵を開けるのを、私は隣で見守っていた。

 ガラリと戸が開く。

 外は晴天。厚手のカーテン越しに入る陽光が、室内をほんの少しだけ、明るくしている。

 その中に、明らかに特異な白い光が、書架の間に浮かんでいた。

 髪は一つ縛り、上は綺麗な水色のアンサンブルニット、下はプリーツのきちんとついた紺スカート。ストッキングで控えめに光る足には黒のバックストラップサンダル。そして、銀縁のメガネ。どれも地味だけど上品で、身なりに気を配っているのが、分かる。

「カナレさん……」

 湊の呟きだった。

 私にも見える。彼女が生前と同じように、図書を整理している。番号順に、きちんとまっすぐに、時々中を開いて読みふけり、ふと思い出したようにそれを棚にしまい……心から楽しげに、優しい笑顔を浮かべながら。

それは三年前、念願の学校司書として、意気揚々と図書室にやってきたカナレさんの姿だった。まだ自分の将来に何の憤怒も悲哀も感じず、「生徒と本の架け橋になる!」と熱い使命を胸に抱いて、毎日毎日地味な作業を楽しげにこなし、心から生徒と接していた、あの日の。

ふと、カナレさんの動きが止まる。そしてゆっくりと、こちらを向いた。

「一人? ここに入るのは初めてかしら」

 カナレさんの目は、確かに私を捉えていた。私だけを。

「カナレさん、カナレさんだ……」

 隣の湊は、うわごとのように彼女の名を繰り返す。震える声で。

「湊」

 私の声に、湊は私を振り返った。何かを恐れているかのような彼の口から、声が漏れた。

「――俺、夏目漱石だと『こころ』が好きだ。ナオは?」

「『Kが私のようにたった一人で淋しくって仕方がなくなった結果、急に所決したのではなかろうかと』の件は、胸に突き刺さった」

「ああやっぱり。俺たちってホント気が合う」

「そうだね」

 全部終わったら――その約束を、彼は覚えていたのだ。そう思ったら、なくしたはずの体温が、胸の辺りにじわりとわきあがった気がする。

「これから、読むたびに思い出すんだろうな」

 ふと呟かれた声は、ひそやかに耳に染みていく。あなたは最後まで、私を同士だと思ってくれているのね。こんなに嬉しいことって、ない。だから私は、笑顔で言うことができた。

「さようなら、湊」

 動揺を隠せない濡れた目が、切なく私を見つめてきた。本当に、なんて可愛い人。

 彼と過ごした時間が脳裏に流れる。照れたように笑った顔、室長に立ち向かう姿、本を真剣に選ぶ姿、ドジ踏んで慌てふためく姿、私をまっすぐに見つめる真剣な眼差し――こんなに人と向き合ったことって、私にあっただろうか。こんな時をあの頃に持つことができていたら……ううん。それはもう、言っても仕方のないこと。それに。


 もう欲しいものは、手に入れたから。


 私は書架へと歩き出した。湊を残して。私の行く先では、本を手にしたカナレさんが、優しい笑みをたたえ私を待っている。

パタパタと、軽い足音が遠ざかっていく。それがふと止まった。

「――さよならっ」

 明るいそれは、涙声だった。うん、さようなら湊。楽しかったよ。本当に。

 やがて背後で扉が閉まり、鍵がかけられた。これで私たちの邪魔をする者は、いない。

「どんな本を探してるの?」

 最後に見たときとは違い、彼女は菩薩のような穏やかな笑みをたたえていた。優しいカナレさんの声。私は高鳴る胸を押さえながら、口を開いた。

「私、ジッドが好きなんです。『狭き門』とか」

「ジッド? その年で渋いわねえ。私は『田園交響楽』が好き。そうだ、じゃあこれ読んだ? 『狭き門』が好きなら、きっと気に入ると思う……」

 隣に立つカナレさんが、私だけを見て、笑顔を見せてくれる。

 私はただずっと、この時を待っていたのだ。

「もう淋しくないですね、私たち」

 カナレさんは静かに笑った。


【終わり】 


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