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 戦いは激化する。

 その終局へと、一直線に。


 神のいない世界の空で、雷神と悪神が鬩ぎ合う。


「おおおぉぉぉぉぉぉぉぉッ!」


【 あ あ ぁ ぁ ぁ ! 】


 叫ぶ。

 叫びながら、トールは雷光を宿した大鎚を振るう。

 叫びながら、悪神は黒雷を纏った爪牙を振るう。

 そこにあるのは、何処までも純粋な力の衝突だけだった。

 技術や駆け引きといった、そういう小難しい理屈は存在しない。


 どちらの方がより優れた神格であるのか。

 どちらの方がより強大な神威であるのか。


 両者の間で決められるべき事柄はそれだけであり、その為に必要なものはただ一つ。

 力だ。ただ、相手に勝る力。


 雷神は人々から託された祈りを束ねて。

 悪神は世界から吸い上げた呪いに縛られ。

 ぶつかる。

 互いに譲れぬと叫びながら。


「ッ…………!」


 絶え間なく全身を襲う衝撃に、トールは僅かに息を詰める。

 丸太のように太い四肢から繰り出される鋭い爪。

 肉を容易く引き裂いてしまう長い牙。

 刃物のように逆立った毛皮と、それに覆われた巨体による突進。

 闇を纏っていた時には見えなかった尾は伸縮自在で、こちらの死角を狙って叩きつけてくる。

 そのすべてに呪いの黒雷が宿っており、トールを激しく攻め立てる。


 それはまさに、狂った獣の戦い方だった。

 全身を凶器としてぶつけ、獲物が絶命するまで決して緩めない。

 死ね、と。憎悪に赤く燃える瞳が刻みつけてくる。

 お前ではない。

 お前は私を討つべき英雄ではない。

 だから死ね。この身は災厄、触れた者は等しく死すべし。

 憎悪が、殺意が、悪意が。

 そしてもう何処へも行き場のない、誰かに向けたはずの愛情が。

 すべて呪いと狂気になって、悪神に力を与える。


 対するトールの戦いぶりも、傍から見れば常軌を逸するものだ。

 両腕を覆う鉄手套(ヤルングレイプル)で胸や頭などの急所だけは最低限守りつつ、後は一切ノーガード。

 当然、防御していない場所は即座に切り裂かれて、肉はおろか骨まで抉られる。

 トールはそれらの負傷は一顧だにせず、ミョルニールが持つ癒しの魔力で瞬時に再生する。

 そして一撃、悪神の連撃をこじ開けるように雷霆を叩き込む。

 ただ敵の息の根を止めることしか考えていない悪神を、稲妻はまともに貫く。


【 ぎ ぃぃ いぃ ぁあ ! 】


 分厚い毛皮も肉も、その威力の前では殆ど意味を成さない。

 肉体が芯から焼き焦がされていく苦痛に、悪神の口から悲鳴が迸る。

 それでも悪神は止まらない。

 苦痛も恐怖もすべて憎悪でねじ伏せて、ただ雷神を殺さんと猛り続ける。

 トールと違って傷を癒すような力もないというのに、執念だけで焼かれた身体を振り回す。


「気合が入っとるなぁ………!」


 トールは笑う。

 その瞬間にも刻まれる傷は、当たり前のように激しい痛みを伴う。

 傷自体はすぐに癒えて塞がるとはいえ、痛みだけは変わらない。

 刻まれて、癒して、刻まれて、癒して。

 間断なく続く苦痛の嵐を、トールは笑ってねじ伏せる。

 悪神もまた、この程度のことは耐えている。

 ならば自分に耐えられぬ道理はない。


「ははっ………!」


 楽しい。

 己の持てるすべてをぶつけ合うこの瞬間は、やはり心が躍る。

 ヨルサのことや、村の者達のこと。正面から憎悪をぶつけてくる、悪神のこと。

 そのすべてを呑み込みながら、トールは一人の戦士としてこの戦いを楽しんでいた。

 もう間もなく、決着はつく。

 雷神は勝利を誓った。今この時も、微塵も負けるつもりはない。

 けれど結果がどうなるかは分からない。

 その時に悔いを残してしまわぬようにと、トールは晴れやかな気持ちで戦い続ける。


【 あ ぎ ぎ 】


 一方の悪神は、どうだろうか。

 頭蓋を掻き毟る不快な声も弱々しく、沸き起こる激情だけがその身を戦いへと突き動かしている。

 激しい憎悪も、呪いも、狂気も。すべて悪神の中で渦巻いている。

 それを原動力に、名も無き悪神は雷神を滅ぼそうとする。

 黒雷を放ち、爪や牙で肉と骨を切り裂きながら、悪神は止まらない。


 けれど、悪神は自らの内に声を聞く。

 トールが振るう雷に打たれ、再び死の淵を覗いた時から、その声もまた止まない。


『母よ。母よ』


 何故、嘆くのか。何を嘆いているのか。

 わからない。怪物に堕ち、今や悪神と成り果てた身では、何もわからない。

 わからぬままに、ただ雷神を滅ぼさんと吼える。

 嘆く必要はない。何も嘆く必要はない。

 この身は禍いであり、望む英雄以外には決して討たれない。

 相手が眩き雷神であろうと、この闇は屈しない。


『何故。何故、貴女が』


 嘆くことはない。

 身体を幾度目かの雷霆に撃ち抜かれながら、悪神は咆哮する。

 限界は近い。相手もそうだ。

 悪神の身体は半ば以上炭化しており、雷神もまた傷は癒せても消耗は激しい。

 どちらが先に力尽きるのか、それはお互いにもわからない。


「だが、勝つのはワシだ………!」


 己の誓いを声にして叫び、トールは右手のミョルニールを振り下ろす。

 悪神の放った黒雷と激突し、空に閃光が弾ける。

 それは凄まじい衝撃も伴って、両者の身体も大きく吹き飛ばす。


「ちっ………!」


 トールは自らの魔力で、空中にも関わらず即座に体勢を立て直した。

 そして瞬時に自分の状態を把握する。

 度重なる雷撃と、治癒の行使。ミョルニールの最大威力は、あと一発が限度だろう。

 つまり次の一撃で、この戦いは決するのだ。

 トールは改めて、その右手で愛用の神器を握り締める。

 全身から力をかき集めて、それをメギンギョルズが倍の力に増幅し、ヤルングレイプルが無駄なく制御する。

 以前ほどの力は出せずとも、トールは現時点での最大をミョルニールに込める。

 先の激突で距離の開いた悪神を遠くに見据え、それを解き放つ機を狙う。


 星のない夜空を、はらりはらりと光の欠片が舞い散った。

 二つの雷が弾けた破片が、涙のように散っていく。

 悪神はそれを見ていた。

 相変わらず、雷神に向ける憎悪は闇の中で渦巻き続けている。

 それと同じ―――いや、それ以上に、声が響く。

 光と共に降り落ちる、嘆く誰かの声。


『私は、こんなことを望んだわけではない』


 何故と。どうしてと。

 声。嘆いている。誰の声。誰?わからない。

 わからぬままに、崩壊しつつある悪神の内に生じたのもまた、嘆きで。


『私はただ、貴女が幸せであるならば、それで良かったのに………!』


 母よ。どうして、こんなことになってしまったのか。

 泣いている。大切だったはずの誰かが。

 怪物に堕ち、悪神と成り果ててしまったこの身には、その面影さえ残っていないけれど。


【 あ 】


 呪いと狂気の原点を、悪神は思い出していた。

 幾度となく雷に焼かれて、最早滅びは避けられぬ身で、死の淵からその欠片を掬い取る。

 舞い散る光は、落ちてくる星のようで。

 泣いている。あの子が泣いている。

 自分の命よりも大切だったあの子が、泣いている。


【 あ あぁ ぁあ ぁ 】


 大鎚を構えた状態で、トールも悪神に起こった変化に気づく。

 気づいたところで、悪神の姿が弾けた。

 先ほどまでのように、強烈な殺意のままに雷神に襲いかかった――――わけではない。

 むしろその逆だ。トールに背を向ける形で、悪神は空を駆けた。

 逃げるつもりかと、一瞬ならず考えたが、違う。

 悪神は最早、雷神のことを見てはいなかった。


 呪いも、狂気も。焼け焦げて、焼け落ちて。

 間近に迫る死と共に思い出した面影を探して、名も無き悪神は夜空に啼く。

 それは不気味な鳥の声にも聞こえ、夜道に惑う幼子の嘆きにも聞こえて。

 悪神は駆ける。

 悪神に成り果ててしまった、もう誰でもない誰かは必死に駆ける。

 何処にいるのか。大切だったあの子。

 泣いている。泣いていたのだ。私が泣かせてしまった。

 嘆かないで。嘆くことはない。

 私はただ、貴方が幸せであるのなら、それで良かったのに―――――。


「……………」


 悪神が何を思い、何を嘆いて夜に啼くのか。

 トールには何もわからない。

 わからないからこそ、やるべきことは一つだけ。

 戦の高揚は過ぎ、あとは勝者の義務として幕を下ろさなければならない。

 故にトールは弓を引き絞るように、右手のミョルニールを構えた。


「さらばだ」


 その一言だけを、手向けにして。

 雷霆は解き放たれる。真っ直ぐに、夜の闇を切り裂きながら。

 それはさながら、一条の矢の如く。

 狂い啼く悪神の身体を、静かに貫いた。


【        】


 最後に散った言葉は、誰に向けてのものだったか。

 闇は消えて、奇妙な獣の肉体もまた雷によって砕ける。

 星も月もない夜の空に、キラキラとその欠片だけが輝いて。


 最後の瞬間。

 トールは、天へと上る一人の女性の姿を見た気がした。





「………ぅ、ぁ………?」

「おぉ、ようやく起きたか。寝ぼすけな娘だのう」


 いつの間にか、気を失っていたようで。

 ヨルサが目を覚ました時には、東の空には太陽の光が差し込んでいた。

 暗い夜は過ぎ去って、ようやく朝が訪れたのだ。


「トール、様?」

「おうさ。全部終わった。もう大丈夫だぞ」


 その細くも力強い腕で少女をしっかり抱きかかえながら、トールは満面の笑みで応える。

 全部終わった。そう聞かされて、ヨルサは改めて周囲に目を向けた。


「ぁ…………」


 そして、驚きに小さく息を詰める。

 美しい朝焼けの空と、ゆっくりと陽光に照らし出される緑なす大地。

 そう、緑だ。腐敗した地面も、立ち枯れた木々もそこにはない。

 すべてが等しく癒されていた。

 汚泥のようだった大地は瑞々しく潤い、緑の葉を茂らせる木々には活力が漲っている。

 奇跡だ。文字通りの奇跡が、ヨルサの目の前に広がっていた。


「すごい………」

「出来るかどうかはわからんかったが、まぁ上手く行って良かったわ」

「これも、トール様が?」

「おぉ、ワシのミョルニールで癒しといた。流石にまだ動物はおらんが、少しずつ戻ってくるだろうさ」


 かつて死の山と呼ばれた地を見渡しながら、トールは満足そうに一つ頷く。

 ヨルサはただ、羨望と共にその表情を見上げた。


 本当にこの人は凄い。まるで夢物語の中にしかないようなことを、笑いながらやってのける。

 凄くて、強くて、心の底から信頼できる人。

 母が教えてくれた、雷の祈りに応えてくれた人。

 ヨルサの胸の内にはまた、かつての母の言葉が去来する。


 ―――あの輝き()に、祈るのよ。きっとあなたを、守ってくれるはずだから。


 そう笑う母はその後にもう一つ、何かを言っていた気がする。

 確か、そう。それは。


 ―――少し抜けてるところもあるけど、頼り甲斐のある、私の自慢の()だからね。


「…………!」

「ん? どうかしたか、ヨルサ?」


 はっと自分を見つめる少女に、トールは小さく首を傾げる。

 問われたヨルサは、すぐ我に返った様子で首を振り。


「い、いえ。すみません。何でもありません、大丈夫です」

「そうか?それなら良いが………」


 一晩の出来事とはいえ、少女はまさに嵐の渦中にあったのだ。

 その上ろくに寝てもいないとあっては、疲労も隠しきれないだろう。

 トールはそう判断し、自分の内で納得を得る。


 思い出と共に得た疑念に、ヨルサは声に出さず唸った。

 母は、何をどこまで知っていたのだろうかとか。

 ()とは、どういう意味だったのかとか。

 疑念は尽きず、また様子を伺うようにトールの美しい横顔を見た。

 記憶の中の母と何処となく似た、赤毛の女性の横顔を。


 ………まさか、ね。


 曖昧な苦笑いで、ヨルサはその疑問に蓋をすることにした。

 考えたところで仕方がないし、トール自身に聞くのも何だか失礼な気がする。

 だからそれはそれとして、ヨルサは置いておいた。

 トールに向けた信頼に、そんなことは無関係だと断言できるから。


 ヨルサは笑って、自分を抱く腕へと素直に身を委ねた。


「トール様。私、すごく疲れちゃいました」

「奇遇だな、ワシもだ。流石に大仕事だったからなぁ」


 互いに笑い合い、頷き合う。

 少し冷たい朝の空気を胸いっぱいに吸いながら、トールはゆっくりと足を踏み出した。


「帰るとするか、ウルルも待っとるはずだ」

「ええ、帰りましょう。トール様」


 暗い夜の闇を越えて、黎明を迎えた美しい空の下。

 雷神と少女は帰途に着く。



 吹く風も穏やかに、世界は優しき神の祝福に満たされていた。




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