18
戦いは激化する。
その終局へと、一直線に。
神のいない世界の空で、雷神と悪神が鬩ぎ合う。
「おおおぉぉぉぉぉぉぉぉッ!」
【 あ あ ぁ ぁ ぁ ! 】
叫ぶ。
叫びながら、トールは雷光を宿した大鎚を振るう。
叫びながら、悪神は黒雷を纏った爪牙を振るう。
そこにあるのは、何処までも純粋な力の衝突だけだった。
技術や駆け引きといった、そういう小難しい理屈は存在しない。
どちらの方がより優れた神格であるのか。
どちらの方がより強大な神威であるのか。
両者の間で決められるべき事柄はそれだけであり、その為に必要なものはただ一つ。
力だ。ただ、相手に勝る力。
雷神は人々から託された祈りを束ねて。
悪神は世界から吸い上げた呪いに縛られ。
ぶつかる。
互いに譲れぬと叫びながら。
「ッ…………!」
絶え間なく全身を襲う衝撃に、トールは僅かに息を詰める。
丸太のように太い四肢から繰り出される鋭い爪。
肉を容易く引き裂いてしまう長い牙。
刃物のように逆立った毛皮と、それに覆われた巨体による突進。
闇を纏っていた時には見えなかった尾は伸縮自在で、こちらの死角を狙って叩きつけてくる。
そのすべてに呪いの黒雷が宿っており、トールを激しく攻め立てる。
それはまさに、狂った獣の戦い方だった。
全身を凶器としてぶつけ、獲物が絶命するまで決して緩めない。
死ね、と。憎悪に赤く燃える瞳が刻みつけてくる。
お前ではない。
お前は私を討つべき英雄ではない。
だから死ね。この身は災厄、触れた者は等しく死すべし。
憎悪が、殺意が、悪意が。
そしてもう何処へも行き場のない、誰かに向けたはずの愛情が。
すべて呪いと狂気になって、悪神に力を与える。
対するトールの戦いぶりも、傍から見れば常軌を逸するものだ。
両腕を覆う鉄手套で胸や頭などの急所だけは最低限守りつつ、後は一切ノーガード。
当然、防御していない場所は即座に切り裂かれて、肉はおろか骨まで抉られる。
トールはそれらの負傷は一顧だにせず、ミョルニールが持つ癒しの魔力で瞬時に再生する。
そして一撃、悪神の連撃をこじ開けるように雷霆を叩き込む。
ただ敵の息の根を止めることしか考えていない悪神を、稲妻はまともに貫く。
【 ぎ ぃぃ いぃ ぁあ ! 】
分厚い毛皮も肉も、その威力の前では殆ど意味を成さない。
肉体が芯から焼き焦がされていく苦痛に、悪神の口から悲鳴が迸る。
それでも悪神は止まらない。
苦痛も恐怖もすべて憎悪でねじ伏せて、ただ雷神を殺さんと猛り続ける。
トールと違って傷を癒すような力もないというのに、執念だけで焼かれた身体を振り回す。
「気合が入っとるなぁ………!」
トールは笑う。
その瞬間にも刻まれる傷は、当たり前のように激しい痛みを伴う。
傷自体はすぐに癒えて塞がるとはいえ、痛みだけは変わらない。
刻まれて、癒して、刻まれて、癒して。
間断なく続く苦痛の嵐を、トールは笑ってねじ伏せる。
悪神もまた、この程度のことは耐えている。
ならば自分に耐えられぬ道理はない。
「ははっ………!」
楽しい。
己の持てるすべてをぶつけ合うこの瞬間は、やはり心が躍る。
ヨルサのことや、村の者達のこと。正面から憎悪をぶつけてくる、悪神のこと。
そのすべてを呑み込みながら、トールは一人の戦士としてこの戦いを楽しんでいた。
もう間もなく、決着はつく。
雷神は勝利を誓った。今この時も、微塵も負けるつもりはない。
けれど結果がどうなるかは分からない。
その時に悔いを残してしまわぬようにと、トールは晴れやかな気持ちで戦い続ける。
【 あ ぎ ぎ 】
一方の悪神は、どうだろうか。
頭蓋を掻き毟る不快な声も弱々しく、沸き起こる激情だけがその身を戦いへと突き動かしている。
激しい憎悪も、呪いも、狂気も。すべて悪神の中で渦巻いている。
それを原動力に、名も無き悪神は雷神を滅ぼそうとする。
黒雷を放ち、爪や牙で肉と骨を切り裂きながら、悪神は止まらない。
けれど、悪神は自らの内に声を聞く。
トールが振るう雷に打たれ、再び死の淵を覗いた時から、その声もまた止まない。
『母よ。母よ』
何故、嘆くのか。何を嘆いているのか。
わからない。怪物に堕ち、今や悪神と成り果てた身では、何もわからない。
わからぬままに、ただ雷神を滅ぼさんと吼える。
嘆く必要はない。何も嘆く必要はない。
この身は禍いであり、望む英雄以外には決して討たれない。
相手が眩き雷神であろうと、この闇は屈しない。
『何故。何故、貴女が』
嘆くことはない。
身体を幾度目かの雷霆に撃ち抜かれながら、悪神は咆哮する。
限界は近い。相手もそうだ。
悪神の身体は半ば以上炭化しており、雷神もまた傷は癒せても消耗は激しい。
どちらが先に力尽きるのか、それはお互いにもわからない。
「だが、勝つのはワシだ………!」
己の誓いを声にして叫び、トールは右手のミョルニールを振り下ろす。
悪神の放った黒雷と激突し、空に閃光が弾ける。
それは凄まじい衝撃も伴って、両者の身体も大きく吹き飛ばす。
「ちっ………!」
トールは自らの魔力で、空中にも関わらず即座に体勢を立て直した。
そして瞬時に自分の状態を把握する。
度重なる雷撃と、治癒の行使。ミョルニールの最大威力は、あと一発が限度だろう。
つまり次の一撃で、この戦いは決するのだ。
トールは改めて、その右手で愛用の神器を握り締める。
全身から力をかき集めて、それをメギンギョルズが倍の力に増幅し、ヤルングレイプルが無駄なく制御する。
以前ほどの力は出せずとも、トールは現時点での最大をミョルニールに込める。
先の激突で距離の開いた悪神を遠くに見据え、それを解き放つ機を狙う。
星のない夜空を、はらりはらりと光の欠片が舞い散った。
二つの雷が弾けた破片が、涙のように散っていく。
悪神はそれを見ていた。
相変わらず、雷神に向ける憎悪は闇の中で渦巻き続けている。
それと同じ―――いや、それ以上に、声が響く。
光と共に降り落ちる、嘆く誰かの声。
『私は、こんなことを望んだわけではない』
何故と。どうしてと。
声。嘆いている。誰の声。誰?わからない。
わからぬままに、崩壊しつつある悪神の内に生じたのもまた、嘆きで。
『私はただ、貴女が幸せであるならば、それで良かったのに………!』
母よ。どうして、こんなことになってしまったのか。
泣いている。大切だったはずの誰かが。
怪物に堕ち、悪神と成り果ててしまったこの身には、その面影さえ残っていないけれど。
【 あ 】
呪いと狂気の原点を、悪神は思い出していた。
幾度となく雷に焼かれて、最早滅びは避けられぬ身で、死の淵からその欠片を掬い取る。
舞い散る光は、落ちてくる星のようで。
泣いている。あの子が泣いている。
自分の命よりも大切だったあの子が、泣いている。
【 あ あぁ ぁあ ぁ 】
大鎚を構えた状態で、トールも悪神に起こった変化に気づく。
気づいたところで、悪神の姿が弾けた。
先ほどまでのように、強烈な殺意のままに雷神に襲いかかった――――わけではない。
むしろその逆だ。トールに背を向ける形で、悪神は空を駆けた。
逃げるつもりかと、一瞬ならず考えたが、違う。
悪神は最早、雷神のことを見てはいなかった。
呪いも、狂気も。焼け焦げて、焼け落ちて。
間近に迫る死と共に思い出した面影を探して、名も無き悪神は夜空に啼く。
それは不気味な鳥の声にも聞こえ、夜道に惑う幼子の嘆きにも聞こえて。
悪神は駆ける。
悪神に成り果ててしまった、もう誰でもない誰かは必死に駆ける。
何処にいるのか。大切だったあの子。
泣いている。泣いていたのだ。私が泣かせてしまった。
嘆かないで。嘆くことはない。
私はただ、貴方が幸せであるのなら、それで良かったのに―――――。
「……………」
悪神が何を思い、何を嘆いて夜に啼くのか。
トールには何もわからない。
わからないからこそ、やるべきことは一つだけ。
戦の高揚は過ぎ、あとは勝者の義務として幕を下ろさなければならない。
故にトールは弓を引き絞るように、右手のミョルニールを構えた。
「さらばだ」
その一言だけを、手向けにして。
雷霆は解き放たれる。真っ直ぐに、夜の闇を切り裂きながら。
それはさながら、一条の矢の如く。
狂い啼く悪神の身体を、静かに貫いた。
【 】
最後に散った言葉は、誰に向けてのものだったか。
闇は消えて、奇妙な獣の肉体もまた雷によって砕ける。
星も月もない夜の空に、キラキラとその欠片だけが輝いて。
最後の瞬間。
トールは、天へと上る一人の女性の姿を見た気がした。
「………ぅ、ぁ………?」
「おぉ、ようやく起きたか。寝ぼすけな娘だのう」
いつの間にか、気を失っていたようで。
ヨルサが目を覚ました時には、東の空には太陽の光が差し込んでいた。
暗い夜は過ぎ去って、ようやく朝が訪れたのだ。
「トール、様?」
「おうさ。全部終わった。もう大丈夫だぞ」
その細くも力強い腕で少女をしっかり抱きかかえながら、トールは満面の笑みで応える。
全部終わった。そう聞かされて、ヨルサは改めて周囲に目を向けた。
「ぁ…………」
そして、驚きに小さく息を詰める。
美しい朝焼けの空と、ゆっくりと陽光に照らし出される緑なす大地。
そう、緑だ。腐敗した地面も、立ち枯れた木々もそこにはない。
すべてが等しく癒されていた。
汚泥のようだった大地は瑞々しく潤い、緑の葉を茂らせる木々には活力が漲っている。
奇跡だ。文字通りの奇跡が、ヨルサの目の前に広がっていた。
「すごい………」
「出来るかどうかはわからんかったが、まぁ上手く行って良かったわ」
「これも、トール様が?」
「おぉ、ワシのミョルニールで癒しといた。流石にまだ動物はおらんが、少しずつ戻ってくるだろうさ」
かつて死の山と呼ばれた地を見渡しながら、トールは満足そうに一つ頷く。
ヨルサはただ、羨望と共にその表情を見上げた。
本当にこの人は凄い。まるで夢物語の中にしかないようなことを、笑いながらやってのける。
凄くて、強くて、心の底から信頼できる人。
母が教えてくれた、雷の祈りに応えてくれた人。
ヨルサの胸の内にはまた、かつての母の言葉が去来する。
―――あの輝きに、祈るのよ。きっとあなたを、守ってくれるはずだから。
そう笑う母はその後にもう一つ、何かを言っていた気がする。
確か、そう。それは。
―――少し抜けてるところもあるけど、頼り甲斐のある、私の自慢の雷だからね。
「…………!」
「ん? どうかしたか、ヨルサ?」
はっと自分を見つめる少女に、トールは小さく首を傾げる。
問われたヨルサは、すぐ我に返った様子で首を振り。
「い、いえ。すみません。何でもありません、大丈夫です」
「そうか?それなら良いが………」
一晩の出来事とはいえ、少女はまさに嵐の渦中にあったのだ。
その上ろくに寝てもいないとあっては、疲労も隠しきれないだろう。
トールはそう判断し、自分の内で納得を得る。
思い出と共に得た疑念に、ヨルサは声に出さず唸った。
母は、何をどこまで知っていたのだろうかとか。
雷とは、どういう意味だったのかとか。
疑念は尽きず、また様子を伺うようにトールの美しい横顔を見た。
記憶の中の母と何処となく似た、赤毛の女性の横顔を。
………まさか、ね。
曖昧な苦笑いで、ヨルサはその疑問に蓋をすることにした。
考えたところで仕方がないし、トール自身に聞くのも何だか失礼な気がする。
だからそれはそれとして、ヨルサは置いておいた。
トールに向けた信頼に、そんなことは無関係だと断言できるから。
ヨルサは笑って、自分を抱く腕へと素直に身を委ねた。
「トール様。私、すごく疲れちゃいました」
「奇遇だな、ワシもだ。流石に大仕事だったからなぁ」
互いに笑い合い、頷き合う。
少し冷たい朝の空気を胸いっぱいに吸いながら、トールはゆっくりと足を踏み出した。
「帰るとするか、ウルルも待っとるはずだ」
「ええ、帰りましょう。トール様」
暗い夜の闇を越えて、黎明を迎えた美しい空の下。
雷神と少女は帰途に着く。
吹く風も穏やかに、世界は優しき神の祝福に満たされていた。