16
歌が聞こえる。
それは聞こえるはずのない歌。
「っ………!?」
途切れることのない魔物の猛攻。
傷は幾重にも重なり、疲労は蓄積され続ける。
途切れそうになる集中力を無理やり繋ぎ留め、稲妻の大鎚を振り回す。
それで打ち倒した魔物の数は、百はとうに超えている。
二百や三百も通り越し、五百に届いているかもしれない。
それでも、半数を超えたかどうか。
千体以上の魔物の群れの、凡そ半数。
つまりまだ、五百以上もの魔物がそこに蠢いていた。
半分の仲間が焼かれて潰れたにも関わらず、彼らは怯む様子もない。
仲間は確かに減っているが、それ以上に標的もまた弱っているのが分かるからだ。
満身創痍。絶体絶命。
未だに反撃が続いていることこそ奇跡の類だ。
だからこそ、それは必然だった。
疲弊して狭まった視界の外から、偶然にも距離を詰めることのできたトロール。
思い切り振るわれた棍棒が、まともにトールの身体に直撃する。
致命的な一撃だった。
限界という崖っぷちでギリギリ持ち堪えていたトールにとって、それはあまりにも致命的だった。
「トール様っ………!」
ヨルサの悲痛な声が、死の山に木霊する。
細い肢体が風に嬲られる木の葉のように、為す術もなく地に転がった。
胸の奥からこみ上げてきた熱いものを、血反吐としてぶちまける。
もうどの骨が無事で、どの骨が折れているかも把握できない。
受けた傷の数は、大小合わせて百は下らない。
そこに受けてしまった岩をも砕く衝撃。
限界だった。
闘志は熱く燃え滾っており、心は決して折れない巌の如し。
けれど肉体の方が物理的な限界を迎えていた。
幾ら神とはいえ、人としての肉体を持っている以上、その物理的限界に縛られる。
どれほど意識を通したところで、身体のどこも自由になる場所はない。
諦めない。諦めることはない。
魂は諦めを拒絶しても、肉体がそれに応じることができない。
最早相手に動く余力さえないことを知り、残った魔物達はゆっくりとその包囲を狭めていく。
先ほどまでとは違い、一息に襲うことはない。
恐怖と絶望を十分に味あわせた上で、死という沼の底へと沈める。
それは悪神の意思であり、彼ら全体を突き動かす狂気ゆえの総意だった。
動け。
折れぬ魂はその器に命じるが、応答はない。
ミョルニールを振るうどころか、握ることさえままならない。
動け。まだワシは戦える。
猛ったところで、何も変わらない。
悪意と殺意をぐつぐつと煮えさせて、魔物達が近づいてくる。
ヨルサの悲鳴が聞こえる。
泣き叫ぶように、死に瀕した雷神の名を呼んでいる。
悪神の嘲笑が聞こえる。
動くことも叶わない雷神を、その無様な姿を腹の底から嘲笑っている。
動け。動け。動け………!
身体は傷だらけで、疲労は重い鎖のように指先まで万遍なく絡みついている。
力は根こそぎ絞り出した後で、もう何も残っていない。
雷はおろか、火花を起こすことすらできない。
もう無理だと、悪神は嗤う。
もう止めてと、ヨルサは嘆く。
絶望と恐怖がその場を支配し、降りかかる死から逃れる術はない。
ただ地に伏した雷神だけが、未だ諦めず、けれど現実の前では無力であり――――
「…………?」
声が、聞こえた。
聞こえるはずのない声が。
今まさに、暗闇がすべてを呑み込もうとした、その瞬間。
雷神の耳には、確かにその歌声が届いていた。
「トール! 稲妻の乙女、遥か遠い北の果てより汝は来たれり!」
細い指が弦を爪弾き、奏でられる音色に合わせて力強い歌声が響く。
村の酒場にて、道化の神たるロキが歌う。
この見知らぬ世界に落ちた雷神。
その威名を讃える新しい詩を。
「トール! その雷が轟けば、邪悪なるものは尽く逃げ去るだろう!」
すべて即興。すべて適当。
ロキはその場で思いつくままに歌っているに過ぎない。
「弱き民よ、雷鳴に祈れ! 勇猛なる稲妻の乙女は、必ずやお前を庇護する!」
しかしそれは神が唱える歌で、神が奏でる音だ。
人々の心に深く染み透り、感情に火を入れる。
「強き者よ、雷光に誓え! たとえ死しても、その名誉は乙女の威名と共にあらん!」
歌う。道化の神は歌う。
今まさに窮地に立たされているだろう盟友のために、魂の歌を。
「さぁ、その名を讃えるがいい! 雷を信ずる者達よ! 星を呑む暗雲さえも、その輝きは切り裂いていく!」
誰もが聞き入っていた。
悪神の恐怖に屈し、ただ諦めに心を弛緩させてしまっていた誰もが。
道化の神が熱く奏でる雷神の歌に、心を奪われつつあった。
「トール! 稲妻の乙女、その力は古の巨人さえも打ち倒す!」
歌うということは、語るということ。
ロキはその全霊で人々の心に語りかける。
できないことをしろとは言わない。
できることが見当たらなくて、それで無力に嘆く気持ちも分かる。
だから今は、この歌を聞け。
無力で戦う術も持たないお前たちに、できることを伝える。
聞いて、祈れ。そして讃えろ。その名を。
お前たちを守るために戦う、お人好しの雷神の名を。
「トール!」
「「「トール!」」」
ロキの歌声に、村人達の声が重なる。
今も遠くで戦う、猛々しき雷神の名を呼ぶ。
「稲妻の乙女、その雷を振るったならば、如何なる敵も逃げ去るだろう!」
その様に、ロキはにやりと笑う。
視界の端では内気な少年さえも熱の篭った様子で声を上げている。
それでいい。たったそれだけのことが、力になる。
神の名を呼び、讃えろ。その祝福を祈れ。
それが必ず力になる。
雷神トールが、どんな障害も打ち砕く力に。
「トール!」
「「「トール!」」」
「天を裂く雷よ、申し子たる乙女よ! 我らに加護を与えんことを!」
トール。稲妻の乙女。
闇を切り裂き邪悪を打ち払う、雷の申し子。
人々はその名を叫び、心から祈る。
最早悪神によって刻みつけられた恐怖は何処にもない。
誰もが胸の内に灯された火を猛らせて、その名を高らかに呼ぶ。
トール。稲妻の乙女。
遠き地より我らを守るために現れた勇猛なる戦士。
弱き我らに戦う術はなく、故に歌と共にその名を讃えよう。
トール。稲妻の乙女。
見知らぬ地より来た、優しき守り手。
ロキの歌は続く。即興で、適当で、出鱈目に。
聴く者達の心を熱く駆り立てて。
その歌声が、呼び声が、気づけば村中に響き渡っている。
酒場に集まらなかった者達も、何事かと集まりだして、同様に人々の輪に加わっていく。
声が重なり、より遠くまで響いていく。
響いて、響いて――――それは届くはずのない場所まで届く。
力を失い倒れ伏した、雷神の元へと。
その歌声が、確かに届いた。
「…………は」
肺から空気が漏れ出すように、笑みが溢れる。
これが策か、道化の神よ。
確かにこれは、胸を張って言えるほどに上等なものではないだろう。
だがお前らしい、形振り構わぬ情熱に満ちた一手だ。
「ふ……ははっ」
今や手を伸ばせば触れるほどの距離まで詰め寄った魔物達。
彼らは怪訝に思ったことだろう。
無力に打ち拉がれているはずの相手が、何故か笑っているのだから。
疑問に思うが、それだけのこと。
雷を振るう力もない以上、これですべてが終わりだ。
魔物達は手にした武器や鋭い爪を振り上げた。
今まで自分達を容易く蹴散らしていた相手を、今度はこちらが容易く引き裂く。
そこにたまらない歓喜を見出して、魔物達は一様に嗤う。
悪神も嘲笑い、ヨルサだけが健気に悲鳴を押し殺している。
「………まったく………」
トールの目には、すべてが緩やかな動きで見えていた。
右手を握る。こぼれ落ちそうになっていたミョルニールの柄を、確かな力で握り締める。
戻ってきている。失ったはずの力が。
いや、違う。戻ってきているどころではない。
ヨルサの祈りが、ウルルの願いが。
そしてロキの歌声に乗せられた村人達の思いが。
今、トールの身体に失ったよりも大きな力を与えていた。
「お前は最高の悪友じゃなぁ、ロキィ………!」
叫び、トールは漲る力を爆発させる。
すべての動きが緩やかに見えるのは、末後に訪れる時間感覚の延長などではない。
単純に、トールの肉体が持つあらゆる速度が加速しているのだ。
トドメを刺そうとしていた魔物達は、誰も反応できなかっただろう。
一瞬で最高速度にまで達したトールは、その勢いで右手の大鎚を横薙ぎに振り抜いた。
雷光。雷鳴。
稲妻の威力もまた、追い詰められていた時の比ではない。
十を超える魔物が消し炭となり、数十という魔物がその余波だけで蹴散らされる。
「ハッハッハッハッハ! ワシ、復活………!」
笑う。これが笑わずにいられようか。
こうなれば魔物の群れなど、物の数ではない。
メギンギョルズは全身に宿る力をさらに倍加させ、両腕を覆うヤルングレイプルでそれを制御する。
加速する。雷の神の名を示すような疾風迅雷。
何が起こったのか理解できていない魔物達を、文字通り一蹴する。
ただの蹴りの直撃でトロールの巨体が浮き上がり、砲弾の如く弾け飛ぶ。
それに巻き込まれて、何体もの魔物が押し潰される。
雷神の反撃はその程度では終わらない。
ミョルニールを投擲し、魔物達の頭上に雷霆を落とす。
直撃したものは吹き飛び、そうでないものも意識をそちらに奪われる。
そうして瞬時に右手へとミョルニールを引き戻すと、隙だらけな魔物達に至近距離からの雷撃を叩き込む。
縦横無尽。電光石火。すべてが文字通りの意味で魔物達を襲う。
先ほどまで嘲笑っていた悪神も、その光景に言葉を失っていた。
何故、などと考えても、狂気に濁った思考では理由までは分からない。
分からず、故に混乱する。
先ほどまでは、悪神と雷神の力関係は明白だった。
あの眩い雷の神は、恐怖と絶望に塗れながら死んでいくはずだったのに。
何故。何故。なぜ。どうして。
ざわりと、闇が蠢く。凪いでいた水面が波立つように。
その時、悪神が抱いた感情は如何なるものか。
「……………」
ヨルサもまた、その光景に目を奪われていた。
けれどその意味合いは、悪神のそれとはまったく異なる。
安堵と、歓喜と。言葉で表現することの難しい、万感の思い。
決して、自分だけのものではない。
トールにそれが聞こえたように、ヨルサにもその声は届いていた。
誰もが諦めてしまっていたはずだった。
ヨルサの心が折れなかったのも、その雷の輝きが祈りに応えてくれたからだ。
けれどその輝きも、深い暗闇に呑み込まれてしまいそうになって。
もう駄目だと、止めてと、弱い心が悲鳴をあげて。
そこに、歌が届いた。
ロキが奏でて、村人達が声をあげるその歌が。
諦めていなかった。誰もが、屈したままでいることを良しとはしなかった。
無力で抗う術などなくとも、その声がトールの力になった。
ヨルサにはそれが、たまらなく嬉しかった。
【 あ ああ あ 】
悪神は震える。その闇が揺らめく。
トールが村で味わったものと同じ感覚を、今度は悪神が味わう番となっていた。
その身に溜め込んだはずの力が、明らかに弱まっている。
この理由は考えるまでもない。トールの時と同じだ。
信仰。悪神がもたらした、恐怖という名の糧。
ヨルサを含めた村人達は、トールの雷やロキの歌によって恐怖を打ち払った。
それだけではない。
悪神にとって最も大きな力の源となっていたのは、従えている魔物達だ。
彼らは腐敗した大地より生まれ、悪神の力と狂気によって支配されていた。
恐怖と畏怖を供物として主に捧げ、他の生命すべてに主の供物となる恐怖と絶望を振り撒く。
それが今、大きく薄らいでいる。
【 かがやき いかずち 】
トールだ。
雷神トール。眩き戦いの神。
今や魔物達の畏怖も恐怖も、あの荒ぶる戦神に奪われつつある。
悪神も、言われたトールさえも知らぬことだが、こうなることもまた道化の神は予見していた。
恐怖による支配は容易い。
与えることもそうだが、ただ力を振り回すだけでも広げることができる。
だがそれは、同時に奪うことの容易さも意味している。
恐怖で支配された者は、更に強大な力が目の前に現れれば、簡単に感情の向ける先を変えてしまう。
ロキがトールに対し、いつも通りに突っ込めばいいと言ったのはそれが理由だ。
ヨルサ達の信仰を取り戻したトールならば、あの悪神の恐怖ぐらい苦もなくひっくり返すだろうと信じていたから。
【 あ ああ あ ああああ 】
悪神は戦慄に身を震わせる。
このままでは拙い。
このままでは、この闇はあの輝きに吹き散らされてしまう。
信仰を取り戻さなければ。恐怖と絶望と、死の気配をこの身に纏わなければ。
悪神の眼は、すぐ傍へと向く。
己の足元、希望に満ちた瞳で雷神を見つめる一人の少女を。
【 ひ 】
これだ。極上の餌を、自分は攫ってきたではないか。
もう贅沢を言っていられるような状況ではない。
だから悪神は、その爪を振り上げる。
雷神の勇姿に目を奪われている少女は、それに気づかない。
好都合だ。気づかず、希望を胸に抱いたまま、そこに死へ至る傷を刻まれたならどうなるか。
その瞬間の絶望は、甘露となってこの闇を潤してくれることだろう。
【 よ こ せ 】
その輝きを。生命を、魂を、そのすべてを。
悪神は嘲笑う。希望なんてものは、こんなにも簡単に砕けるのだと。
笑って、その鋭い爪を振り下ろす。
「――――おい」
けれどそれは、少女の命に届くことはなかった。
闇が掴まれている。
雷神の五指は、形を持たぬはずの闇を、しっかりと捉えていた。
その声は怒りに満ち、大気はおろか蹴散らされた周りの魔物達も震わせる。
「舐めた真似してんじゃねぇぞコラ――――ッ!」
怒号と共に放たれる一撃。
ミョルニールの打撃をはじめてまともに受けて、闇が吹き飛ぶ。
呆然と見上げるヨルサを守るように立ち、トールは地に落ちた悪神を見下ろす。
「そら、来いよ。名も無き悪神。ワシとお前、どちらが強いか。決着をつけようぜ」
そう言って、輝きと力に満ちた雷神は笑う。
【 ぎ い いいい あああああ あ !!! 】
それに対し、闇と狂気を纏う悪神は吼える。
まだ息のある魔物達は、その戦いがもう手の出せる領域でないことを悟り。
祈り続けるヨルサも同様に、その戦いを見守る。
雷神と悪神の、最後の戦いが始まった。




