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 思い出されるのは、遠い日の記憶。



 それは酷い嵐の夜のこと。

 風も雨も轟々と唸りを上げていて、星や月は暗雲に呑まれて姿が見えない。

 時折、その闇の中を蒼白い光が閃いたかと思うと、耳を叩くような激しい音が響き渡る。

 幼いヨルサには、それがまるで世界の終わりのようにも思えて。

 恐ろしくて恐ろしくて、ただ震えながら母の膝に縋り付いていた。


「ヨルサは怖がりね」


 膝の上で震える娘の背を、母は優しく撫でる。

 腰掛けた椅子が小さく軋む。

 母一人と、子一人。それとまだ一人分には満たない重さに。

 

「あなたはもうすぐお姉さんになるんだから、しっかりしないと」

「だってぇ………」


 そう言ってる間にも、また少女の世界が音に揺さぶられる。

 ひっ、と小さな悲鳴が喉の奥で弾けて、視界は涙で滲んでしまう。

 風は怖い。強く吹き抜けるそれは、まるで遠くで獣が吠えているようにも聞こえるから。

 雨も怖い。大きな粒が家中を叩くと、まるで得体の知れない何かに取り囲まれてるように思えるから。


 けれど、そんな恐怖さえ吹き飛ばしてしまうものがある。

 幼い少女の心を、より強く震え上がらせるもの。


「きゃぁっ……!」


 風も雨も、押し潰すような闇でさえも。

 その輝きで切り裂いて、その轟音で踏みしだく。

 雷を、ヨルサは何よりも恐れた。


「大丈夫だよ、ヨルサ」


 そんな娘の恐れを和らげる、母の声。

 撫でる手に込められた愛情が、震える心を落ち着かせてくれる。

 ヨルサの記憶の中で、母はとても綺麗な人だった。

 自分もウルルも似なかった赤い髪は、まるで夕焼けを映したように美しかった。

 幼心にも、そんな母の髪が羨ましくて事あるごとに何度も触らせて貰った。

 今もそう。母の膝の上で、長い髪に頬を寄せて。

 

「好きだね、お母さんの髪」

「うん……だって、綺麗だから、落ち着くの」

「お母さんは、ヨルサの髪も好きなんだけどなぁ」


 笑って、母は娘の亜麻色の髪を―――母曰く、「お父さんによく似た」色の髪を指で梳く。

 父親の記憶は、幼いヨルサの中には何故か殆ど残されていない。

 優しい人だった、という記憶はある。

 けど、それ以上のことは何も覚えていない。

 一度だけ母に、父がどんな人だったのかを問うたことはある。

 けれど聞かれた母は曖昧に微笑んで、娘の身体を黙って抱きしめるだけだった。


 母は強い人だった。

 少なくともヨルサの記憶の中では、母は涙を見せたことがない。

 幼い娘に不安を与えてしまわぬようにと、気丈に振舞っていたかどうかは分からない。

 元々そういう人であった気もするし、強く見せていた部分もある気がする。


 思い返してみても、ヨルサは自分の母について多くのことは知らなかった。

 ただ、綺麗で強い人で、厳しくも優しい母だった。


「………ね、ヨルサ?」

「?」


 名を呼ばれて、ヨルサは伏せていた顔を上げる。

 その指先で、母は娘の頬を撫ぜる。

 乾いた涙の跡を拭うように触れながら、母は優しく笑った。


「もうすぐお姉ちゃんになるヨルサに、お母さんから特別なおまじないを教えてあげる」

「おまじない?」

「そ。怖いものからヨルサを守ってくれる、そんなおまじないよ」


 止まない風雨に怯える少女は、そんな母の言葉に目を輝かせた。

 怖いものから自分を守ってくれる、母のおまじない。

 幼い頃に教えられてから、今もずっとヨルサの心を守ってくれている、大事な祈り。

 ただこの時は、母が「特別」なんて口に出して言うほどだから、何か不思議な呪文でも教えて貰えるのではないかと。

 ヨルサはそんな子供らしい期待に胸を躍らせていた。


「なに、どんなおまじない?ね、早く教えてっ」

「こらこら、落ち着きなさい」


 また雷が落ちて泣いてしまう前に、おまじないを教えて欲しい。

 そんな風にせっつくヨルサを、母は軽く窘める。


「これはとても大事なことだから、しっかり覚えなきゃダメよ。いい?」


 優しいけれど、そう言う母の声はいつになく真剣で。

 その雰囲気に少しだけ飲まれながらも、ヨルサはそれに黙って頷いた。

 母の言葉が近くて、風雨の音は少しだけ遠く感じる。


「そんなに難しいことじゃないから、大丈夫よ」

「特別なのに、難しくないの?」

「ええ、凄く簡単。先ずは心の中で、強く祈るの」


 娘の小さな手を取って、それを両手で包むように軽く握る。

 指を祈りの形に組みながら、言葉を続ける。


「祈り方は、なんでもいいわ。助けて、とか守って、とか。兎に角強く思うだけ」

「…………本当にそれでいいの?」

「い、いいのよっ。簡単でしょっ?」


 余りにも大雑把過ぎる内容に、流石に幼いながらも不安に感じる。

 しかし母が良いと言うなら良いのだろう。それに簡単なのは間違いない。

 ヨルサは言われた通りに、心の中で強く念じてみた。

 唸る風や、降り続ける雨。そんな恐ろしいものから助けて欲しい、守って欲しいと。

 念じてみてから、ふと気づく。


「………ね、お母さん?」

「あら、なぁに?」

「これで誰が助けたり、守ったりしてくれるの?」


 気になって、ヨルサは母に問いかけた。

 守るのも助けるのも、それをお願いする誰かがいなければ成り立たない。

 ヨルサが祈って、念じて、それは一体誰に向けて届くのだろうか。

 気になって聞いてみると、母はにやりと笑って。


「そうよ、それがこのおまじないの大事なところ」

 

 待ってましたとばかりに、母はあえてぼかしていたおまじないの肝を口にする。

 念じて、祈って、それを何に向けるのか。


「これが一番大事なことよ、ヨルサ。きっと将来、あなたを守ってくれる」


 指を祈りの形に握り、こつんと額を合わせる。

 風も雨も遠く、暗雲を切り裂く輝きが、また世界を揺らしたような気がする。

 不思議と、恐ろしさは感じない。

 

「私の可愛いヨルサ。もし、あなたがどうしようもなく恐ろしい目に遭って、一人では立ち上がれないような時は――――」





 目が覚めて、最初に感じたのは死の気配だった。

 

「―――――ッ!」


 意識が急速に覚醒する。

 身を起こそうとするが、身体が上手く動かない。


「わたし、は………?」


 ヨルサは必死に記憶を手繰り寄せ、我が身に起こったことを思い出す。

 魔物退治から戻ってきたトール。

 喋る馬、ロキと名乗ったトールの友人。

 現れたのは、闇。恐怖と絶望に彩られた、どうしようもないもの。

 そうだ、自分は確か――――。


「ッ…………」


 思考を中断したのは、その臭いだった。

 強烈な腐敗臭、鼻と口元を手で抑えるが気休めにしかならない。

 ここでようやく辺りを見回す。

 まるで墓標の如くに立ち並ぶ枯れ木に、ぐずぐずに腐敗し切った地面。

 生き物の気配はない。正確には、真っ当な生き物の気配は。

 明かりはなく、夜に押しつぶされた世界には、無数の魔物達が這いずっている。


 姿が見えないことは幸運だろうか、それとも見えない脅威に怯えることこそ不幸か。

 心が軋む。視界が涙で滲んでしまいそうになる。

 こわい。こわい。こわい。

 ここには恐怖と絶望、それに濃密な死の気配しかない。

 死の山と誰かが呼んだ通りに、この地は生者がいるべき場所ではない。


「…………ぅ、ぁ」


 逃げなければ。

 頭では分かっていても、身体はそれについてこない。

 特に怪我をしているわけではない。

 ただ恐怖に縛られ、絶望が染み込んでしまった身体は、這いよる死からは逃れられない。

 ずるり、ずるりと。その音が耳に響いてきても、ヨルサは逃げることができない。


 生暖かい獣の吐息が、首筋にかかる。

 背後にいる。いつの間にそこまで近づいたのかとか、考える意味はない。

 闇だ。この死の山を支配している名も無き悪神。

 名はあるのかもしれないが、この神無き地にてそれを呼ぶ者はいない。


【 あ 】


 声。脳髄を削り、頭蓋を内側から掻き毟るような不快な声。

 闇が動けぬ身体に纏わりついてくる。

 ぬるりと首から頬に触れるのは、獣の舌か。

 このまま自分は、この闇に食い殺されてしまうのだろうか。

 そんな考えが脳裏を過ぎれば、恐怖が際限なく溢れ出してくる。


 死ぬ。

 あの日の風雨とは違い、死はもう皮膚一枚を隔てただけの距離にある。

 容易くそれを噛み破って、鋭い爪と牙は心臓を切り刻む。

 どうしようもない。ヨルサはこの死に抗う力もなければ、逃れる術もない。

 

【 き ひひ 】


 闇が笑っている。

 怯えるヨルサの様子を、を愉しむように。


 戯れからか、悪神は鋭い爪の先で少女の肌を少しだけ切る。

 裂けた皮膚からは、赤い血が玉になって浮き上がる。

 それを舌で舐め取れば、恐怖に濁った血はさながら甘露のように甘い。


 もう少し、もう少しだ。

 もう少しで、この極上の贄は完全に自分のものとなる。

 だから恐怖と絶望で、もっとこの少女を染め上げなければならない。

 それを最後に喰らった時、その死はどれほど自分の力を強大にしてくれるだろうか。


 悪神は歓喜と共に打ち震える。

 神ですらないはずの己が、これほどまでに強い闇となった。

 この少女の魂を飲み干してしまえば、あの輝かしい神さえ届かぬ程の邪悪になれるだろう。

 呪いと狂気に濁った思考で、悪神は笑う。

 獣のように猛り狂いながら、闇は蠢く。


【 よこ せ 】


 頭上から押し潰すように、闇は嘲笑う。


【 お まえ の かがや き 】


 その魂の輝きを闇に染めて、我が血肉となれ。

 迫る。悪神が迫ってくる。

 恐怖と絶望を従えて、呪いと狂気をその身に纏いながら。

 ヨルサには抗う力も逃れる術もない。


 浮かんだのは、弟のウルルのこと。

 自分が死んでしまったら、あの子はきっと悲しむ。

 次いでトールの顔が浮かんだ。

 自分が不甲斐ないばかりに、きっと迷惑をかけてしまった。

 村の人達の顔も、次々と浮かんでは過ぎていく。

 比較的に恵まれた土地にあるとはいえ、自然はいつだって気まぐれで厳しい。

 母がいなくなってから大変だったことも沢山あったが、それでも村人達は何かと手助けをしてくれた。


 大切な人達のことが、浮かんでは消えて。

 最後に、母のことが浮かんだ。


 赤い髪が美しい、強くて優しい最愛の母。

 そういえば少しだけトール様に似ていると、今更のように気づく。

 闇が迫る。けれど、恐怖は少しだけ遠のいた気がする。

 思い出した母の笑顔が、ヨルサの心に僅かな光を取り戻させる。


「っ…………!」


 だからヨルサは、その光を消さぬようにと強く祈った。

 母から教えてもらったおまじない。

 そんなものに縋って、今更どうするのか。

 頭の片隅で囁く諦めも、絶望に麻痺する身体も、何もかも振り切ってヨルサはただ祈る。

 あの日、母が自分に教えてくれた通りに。大事なことも、ちゃんと忘れていない。


 固く閉じた貝のように祈る少女を、悪神は嘲笑う。

 無駄で無意味で、無価値な行いだと。

 神のいないこの世界で、祈りは何処へも届くことはない。

 あの雷を振るう猛々しき神も、悪神の呪いの前に無様に敗北したのだ。

 意味はない。すべて徒労だ。


 だから悪神は、少女に更なる呪いを刻むべく闇を広げる。

 穢して、穢して、穢し尽くして、何にも祈ることなどできないように。

 爪を振り上げ、その柔らかな肉のどこから裂いてやろうかと、悪神は濁った眼で少女を見下ろす。



 その時、一条の雷が山の大気を揺さぶった。



 驚き、閉じていた眼を見開く。

 悪神もまた同じようで、蠢く闇は明らかに混乱している。

 

「…………よぉ」


 闇を切り裂く稲妻と共に、腐敗した大地に降り立つ。

 その光に釣られて無数の魔物達が這い出してくるが、それは眼中にない。

 あらゆる不浄を払い、夜さえも押し退けて、猛々しき雷神は再び悪神と対峙する。


「無事か、ヨルサ。迎えに来たぞ」


 傷だらけで、本当は辛いはずなのに。

 トールはヨルサのことを安心させようと、明るく笑う。、


「っ………トール、様………!」


 届いた。

 祈りは、確かに届いたのだ。

 ヨルサの眼から、先ほどまでとは意味の異なる涙が溢れる。

 あの日、母が教えてくれた通りにヨルサは祈った。

 聞かされた時は半信半疑で、本当にそれで大丈夫なのかと思いもした。

 


 ―――あの輝き()に、祈るのよ。きっとあなたを、守ってくれるはずだから。



 自分が一番怖がってるものに、助けを祈る。

 試してみても、いざ雷が落ちれば怖くなってしまい、なかなか慣れなかった。

 母がいなくなってしまい、少しだけ大きくなってからも、それは変わらなかった。


 けれど、今は違う。


 頼もしき雷が、こうしてヨルサの祈りを聞き届けてくれる。

 それが嬉しくて、頼もしくて、ヨルサは泣いてしまった。

 母の愛が、トールの思いが、確かにヨルサを守ってくれている。


 だからヨルサは、その思いを声にする。

 トールは来た。来てくれた。


「たす、けて………」


 喉が震えて、満足に音になってくれない。

 それでも届いた雷に答えたくて、必死に振り絞って。


 少女は己の祈りを言葉にして叫んだ。


「助けてください、トール様っ………!」

「任せろ」


 間を置かずに、雷神は少女の声に応える。

 周囲を取り囲みつつある魔物の大群を一瞥し、その右手にミョルニールを握る。

 そして不利を感じさせぬ不敵な笑みを、ヨルサの傍らで渦巻く悪神へと投げかけて。


「来いよ悪神。ビビって逃げるばかりじゃ、ワシには勝てんぞ。それともまだ腰が引けとるのか?」


 悪友(ロキ)を真似ての挑発。

 それが通じたかどうかは分からないが、悪神は低く唸る。

 そうして闇が弾けて、それに追い立てられるように魔物達が一斉にトール目掛けて襲いかかる。



 それが開戦の号砲だった。




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