14
思い出されるのは、遠い日の記憶。
それは酷い嵐の夜のこと。
風も雨も轟々と唸りを上げていて、星や月は暗雲に呑まれて姿が見えない。
時折、その闇の中を蒼白い光が閃いたかと思うと、耳を叩くような激しい音が響き渡る。
幼いヨルサには、それがまるで世界の終わりのようにも思えて。
恐ろしくて恐ろしくて、ただ震えながら母の膝に縋り付いていた。
「ヨルサは怖がりね」
膝の上で震える娘の背を、母は優しく撫でる。
腰掛けた椅子が小さく軋む。
母一人と、子一人。それとまだ一人分には満たない重さに。
「あなたはもうすぐお姉さんになるんだから、しっかりしないと」
「だってぇ………」
そう言ってる間にも、また少女の世界が音に揺さぶられる。
ひっ、と小さな悲鳴が喉の奥で弾けて、視界は涙で滲んでしまう。
風は怖い。強く吹き抜けるそれは、まるで遠くで獣が吠えているようにも聞こえるから。
雨も怖い。大きな粒が家中を叩くと、まるで得体の知れない何かに取り囲まれてるように思えるから。
けれど、そんな恐怖さえ吹き飛ばしてしまうものがある。
幼い少女の心を、より強く震え上がらせるもの。
「きゃぁっ……!」
風も雨も、押し潰すような闇でさえも。
その輝きで切り裂いて、その轟音で踏みしだく。
雷を、ヨルサは何よりも恐れた。
「大丈夫だよ、ヨルサ」
そんな娘の恐れを和らげる、母の声。
撫でる手に込められた愛情が、震える心を落ち着かせてくれる。
ヨルサの記憶の中で、母はとても綺麗な人だった。
自分もウルルも似なかった赤い髪は、まるで夕焼けを映したように美しかった。
幼心にも、そんな母の髪が羨ましくて事あるごとに何度も触らせて貰った。
今もそう。母の膝の上で、長い髪に頬を寄せて。
「好きだね、お母さんの髪」
「うん……だって、綺麗だから、落ち着くの」
「お母さんは、ヨルサの髪も好きなんだけどなぁ」
笑って、母は娘の亜麻色の髪を―――母曰く、「お父さんによく似た」色の髪を指で梳く。
父親の記憶は、幼いヨルサの中には何故か殆ど残されていない。
優しい人だった、という記憶はある。
けど、それ以上のことは何も覚えていない。
一度だけ母に、父がどんな人だったのかを問うたことはある。
けれど聞かれた母は曖昧に微笑んで、娘の身体を黙って抱きしめるだけだった。
母は強い人だった。
少なくともヨルサの記憶の中では、母は涙を見せたことがない。
幼い娘に不安を与えてしまわぬようにと、気丈に振舞っていたかどうかは分からない。
元々そういう人であった気もするし、強く見せていた部分もある気がする。
思い返してみても、ヨルサは自分の母について多くのことは知らなかった。
ただ、綺麗で強い人で、厳しくも優しい母だった。
「………ね、ヨルサ?」
「?」
名を呼ばれて、ヨルサは伏せていた顔を上げる。
その指先で、母は娘の頬を撫ぜる。
乾いた涙の跡を拭うように触れながら、母は優しく笑った。
「もうすぐお姉ちゃんになるヨルサに、お母さんから特別なおまじないを教えてあげる」
「おまじない?」
「そ。怖いものからヨルサを守ってくれる、そんなおまじないよ」
止まない風雨に怯える少女は、そんな母の言葉に目を輝かせた。
怖いものから自分を守ってくれる、母のおまじない。
幼い頃に教えられてから、今もずっとヨルサの心を守ってくれている、大事な祈り。
ただこの時は、母が「特別」なんて口に出して言うほどだから、何か不思議な呪文でも教えて貰えるのではないかと。
ヨルサはそんな子供らしい期待に胸を躍らせていた。
「なに、どんなおまじない?ね、早く教えてっ」
「こらこら、落ち着きなさい」
また雷が落ちて泣いてしまう前に、おまじないを教えて欲しい。
そんな風にせっつくヨルサを、母は軽く窘める。
「これはとても大事なことだから、しっかり覚えなきゃダメよ。いい?」
優しいけれど、そう言う母の声はいつになく真剣で。
その雰囲気に少しだけ飲まれながらも、ヨルサはそれに黙って頷いた。
母の言葉が近くて、風雨の音は少しだけ遠く感じる。
「そんなに難しいことじゃないから、大丈夫よ」
「特別なのに、難しくないの?」
「ええ、凄く簡単。先ずは心の中で、強く祈るの」
娘の小さな手を取って、それを両手で包むように軽く握る。
指を祈りの形に組みながら、言葉を続ける。
「祈り方は、なんでもいいわ。助けて、とか守って、とか。兎に角強く思うだけ」
「…………本当にそれでいいの?」
「い、いいのよっ。簡単でしょっ?」
余りにも大雑把過ぎる内容に、流石に幼いながらも不安に感じる。
しかし母が良いと言うなら良いのだろう。それに簡単なのは間違いない。
ヨルサは言われた通りに、心の中で強く念じてみた。
唸る風や、降り続ける雨。そんな恐ろしいものから助けて欲しい、守って欲しいと。
念じてみてから、ふと気づく。
「………ね、お母さん?」
「あら、なぁに?」
「これで誰が助けたり、守ったりしてくれるの?」
気になって、ヨルサは母に問いかけた。
守るのも助けるのも、それをお願いする誰かがいなければ成り立たない。
ヨルサが祈って、念じて、それは一体誰に向けて届くのだろうか。
気になって聞いてみると、母はにやりと笑って。
「そうよ、それがこのおまじないの大事なところ」
待ってましたとばかりに、母はあえてぼかしていたおまじないの肝を口にする。
念じて、祈って、それを何に向けるのか。
「これが一番大事なことよ、ヨルサ。きっと将来、あなたを守ってくれる」
指を祈りの形に握り、こつんと額を合わせる。
風も雨も遠く、暗雲を切り裂く輝きが、また世界を揺らしたような気がする。
不思議と、恐ろしさは感じない。
「私の可愛いヨルサ。もし、あなたがどうしようもなく恐ろしい目に遭って、一人では立ち上がれないような時は――――」
目が覚めて、最初に感じたのは死の気配だった。
「―――――ッ!」
意識が急速に覚醒する。
身を起こそうとするが、身体が上手く動かない。
「わたし、は………?」
ヨルサは必死に記憶を手繰り寄せ、我が身に起こったことを思い出す。
魔物退治から戻ってきたトール。
喋る馬、ロキと名乗ったトールの友人。
現れたのは、闇。恐怖と絶望に彩られた、どうしようもないもの。
そうだ、自分は確か――――。
「ッ…………」
思考を中断したのは、その臭いだった。
強烈な腐敗臭、鼻と口元を手で抑えるが気休めにしかならない。
ここでようやく辺りを見回す。
まるで墓標の如くに立ち並ぶ枯れ木に、ぐずぐずに腐敗し切った地面。
生き物の気配はない。正確には、真っ当な生き物の気配は。
明かりはなく、夜に押しつぶされた世界には、無数の魔物達が這いずっている。
姿が見えないことは幸運だろうか、それとも見えない脅威に怯えることこそ不幸か。
心が軋む。視界が涙で滲んでしまいそうになる。
こわい。こわい。こわい。
ここには恐怖と絶望、それに濃密な死の気配しかない。
死の山と誰かが呼んだ通りに、この地は生者がいるべき場所ではない。
「…………ぅ、ぁ」
逃げなければ。
頭では分かっていても、身体はそれについてこない。
特に怪我をしているわけではない。
ただ恐怖に縛られ、絶望が染み込んでしまった身体は、這いよる死からは逃れられない。
ずるり、ずるりと。その音が耳に響いてきても、ヨルサは逃げることができない。
生暖かい獣の吐息が、首筋にかかる。
背後にいる。いつの間にそこまで近づいたのかとか、考える意味はない。
闇だ。この死の山を支配している名も無き悪神。
名はあるのかもしれないが、この神無き地にてそれを呼ぶ者はいない。
【 あ 】
声。脳髄を削り、頭蓋を内側から掻き毟るような不快な声。
闇が動けぬ身体に纏わりついてくる。
ぬるりと首から頬に触れるのは、獣の舌か。
このまま自分は、この闇に食い殺されてしまうのだろうか。
そんな考えが脳裏を過ぎれば、恐怖が際限なく溢れ出してくる。
死ぬ。
あの日の風雨とは違い、死はもう皮膚一枚を隔てただけの距離にある。
容易くそれを噛み破って、鋭い爪と牙は心臓を切り刻む。
どうしようもない。ヨルサはこの死に抗う力もなければ、逃れる術もない。
【 き ひひ 】
闇が笑っている。
怯えるヨルサの様子を、を愉しむように。
戯れからか、悪神は鋭い爪の先で少女の肌を少しだけ切る。
裂けた皮膚からは、赤い血が玉になって浮き上がる。
それを舌で舐め取れば、恐怖に濁った血はさながら甘露のように甘い。
もう少し、もう少しだ。
もう少しで、この極上の贄は完全に自分のものとなる。
だから恐怖と絶望で、もっとこの少女を染め上げなければならない。
それを最後に喰らった時、その死はどれほど自分の力を強大にしてくれるだろうか。
悪神は歓喜と共に打ち震える。
神ですらないはずの己が、これほどまでに強い闇となった。
この少女の魂を飲み干してしまえば、あの輝かしい神さえ届かぬ程の邪悪になれるだろう。
呪いと狂気に濁った思考で、悪神は笑う。
獣のように猛り狂いながら、闇は蠢く。
【 よこ せ 】
頭上から押し潰すように、闇は嘲笑う。
【 お まえ の かがや き 】
その魂の輝きを闇に染めて、我が血肉となれ。
迫る。悪神が迫ってくる。
恐怖と絶望を従えて、呪いと狂気をその身に纏いながら。
ヨルサには抗う力も逃れる術もない。
浮かんだのは、弟のウルルのこと。
自分が死んでしまったら、あの子はきっと悲しむ。
次いでトールの顔が浮かんだ。
自分が不甲斐ないばかりに、きっと迷惑をかけてしまった。
村の人達の顔も、次々と浮かんでは過ぎていく。
比較的に恵まれた土地にあるとはいえ、自然はいつだって気まぐれで厳しい。
母がいなくなってから大変だったことも沢山あったが、それでも村人達は何かと手助けをしてくれた。
大切な人達のことが、浮かんでは消えて。
最後に、母のことが浮かんだ。
赤い髪が美しい、強くて優しい最愛の母。
そういえば少しだけトール様に似ていると、今更のように気づく。
闇が迫る。けれど、恐怖は少しだけ遠のいた気がする。
思い出した母の笑顔が、ヨルサの心に僅かな光を取り戻させる。
「っ…………!」
だからヨルサは、その光を消さぬようにと強く祈った。
母から教えてもらったおまじない。
そんなものに縋って、今更どうするのか。
頭の片隅で囁く諦めも、絶望に麻痺する身体も、何もかも振り切ってヨルサはただ祈る。
あの日、母が自分に教えてくれた通りに。大事なことも、ちゃんと忘れていない。
固く閉じた貝のように祈る少女を、悪神は嘲笑う。
無駄で無意味で、無価値な行いだと。
神のいないこの世界で、祈りは何処へも届くことはない。
あの雷を振るう猛々しき神も、悪神の呪いの前に無様に敗北したのだ。
意味はない。すべて徒労だ。
だから悪神は、少女に更なる呪いを刻むべく闇を広げる。
穢して、穢して、穢し尽くして、何にも祈ることなどできないように。
爪を振り上げ、その柔らかな肉のどこから裂いてやろうかと、悪神は濁った眼で少女を見下ろす。
その時、一条の雷が山の大気を揺さぶった。
驚き、閉じていた眼を見開く。
悪神もまた同じようで、蠢く闇は明らかに混乱している。
「…………よぉ」
闇を切り裂く稲妻と共に、腐敗した大地に降り立つ。
その光に釣られて無数の魔物達が這い出してくるが、それは眼中にない。
あらゆる不浄を払い、夜さえも押し退けて、猛々しき雷神は再び悪神と対峙する。
「無事か、ヨルサ。迎えに来たぞ」
傷だらけで、本当は辛いはずなのに。
トールはヨルサのことを安心させようと、明るく笑う。、
「っ………トール、様………!」
届いた。
祈りは、確かに届いたのだ。
ヨルサの眼から、先ほどまでとは意味の異なる涙が溢れる。
あの日、母が教えてくれた通りにヨルサは祈った。
聞かされた時は半信半疑で、本当にそれで大丈夫なのかと思いもした。
―――あの輝きに、祈るのよ。きっとあなたを、守ってくれるはずだから。
自分が一番怖がってるものに、助けを祈る。
試してみても、いざ雷が落ちれば怖くなってしまい、なかなか慣れなかった。
母がいなくなってしまい、少しだけ大きくなってからも、それは変わらなかった。
けれど、今は違う。
頼もしき雷が、こうしてヨルサの祈りを聞き届けてくれる。
それが嬉しくて、頼もしくて、ヨルサは泣いてしまった。
母の愛が、トールの思いが、確かにヨルサを守ってくれている。
だからヨルサは、その思いを声にする。
トールは来た。来てくれた。
「たす、けて………」
喉が震えて、満足に音になってくれない。
それでも届いた雷に答えたくて、必死に振り絞って。
少女は己の祈りを言葉にして叫んだ。
「助けてください、トール様っ………!」
「任せろ」
間を置かずに、雷神は少女の声に応える。
周囲を取り囲みつつある魔物の大群を一瞥し、その右手にミョルニールを握る。
そして不利を感じさせぬ不敵な笑みを、ヨルサの傍らで渦巻く悪神へと投げかけて。
「来いよ悪神。ビビって逃げるばかりじゃ、ワシには勝てんぞ。それともまだ腰が引けとるのか?」
悪友を真似ての挑発。
それが通じたかどうかは分からないが、悪神は低く唸る。
そうして闇が弾けて、それに追い立てられるように魔物達が一斉にトール目掛けて襲いかかる。
それが開戦の号砲だった。