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 気が付けば陽の光は去り、辺りには夜が訪れていた。



 穴の開いた天井から覗く夜空には、星のひとつも見当たらない。

 月もまた、狼にでも呑み込まれてしまったのか。

 押し潰すような暗闇だけが、視界一杯に迫ってくる。


「ッ――――――!」


 毛布を跳ね除けて、トールは横になっていた寝台から起き上がった。

 意識は覚醒したばかりで、記憶もやや混乱している。

 痛む頭を抑えながら思い出す。

 黄昏時に現れた、あの悪神のことを。

 そして力及ばずに敗れ去ってしまったこと。


 何よりも、闇に連れて行かれてしまった、一人の少女のことを。


「トール様っ」


 声。今にも泣き出してしまいそうな。

 トールは己のことで必死な余り、その声が聞こえるまで気付かなかった。

 顔を上げれば、すぐ傍らに幼い少年―――ウルルの姿があることを。


「ウルル………」

「良かった、トール様が、目を覚ましてくれて………起きなかったら、どうしようって。本当に不安で………」


 ウルルはそう言いながら、ぎゅっと目を閉じてこぼれそうな涙を堪える。

 男が簡単に泣くなと、トールがそう戒めてくれた。

 それを律儀に守ろうとする少年の姿に、トールはどうしようもなく胸が痛んだ。


「あれからワシは、気を失っておったのか」

「う、うん。ここまでは、ロキ様が運んでくれたんだよ」


 そして姉弟が使う寝台に運ばれてから、ウルルはずっとその傍を離れなかった。

 眠ったままのトールの手を、まるで祈るように握り締めながら。

 たった一人の肉親である姉が連れ去られてしまった現実に震えて、それでも涙だけは流さぬよう。

 何よりも信じる雷神の手を、少年は今も強く握り締めている。


「………すまん、ウルル。ワシが不甲斐ないばかりに」

「…………」


 苦渋に満ちた言葉に、ウルルは小さく首を横に振る。

 黒い雷に住み慣れた家を壊され、目の前で姉が闇に囚われるのも見て、震えて立ち上がることもままならない。

 そんな時にでも、トールの雷は必死に闇へと立ち向かうのをウルルは見ていた。

 だからウルルは恐怖を押さえ込み、ただトールへの信頼と共に応える。


「姉ちゃんを、助けてくれるんだよね。トール様」


 そう信じて、手は祈りの姿で握ったまま、少年は真っ直ぐトールを見上げた。

 伝わってくる信頼は、弱まってしまったトールの力に小さな火を入れる。

 未だに悪神の恐怖を拭いきれないウルルの心では、それはほんの僅かな火花に過ぎない。


 だがトールの戦意を燃え滾らせるには、それだけで十分だった。


「勿論だ。ヨルサは必ず、ワシが助ける。約束だ」


 祈るウルルの指を手のひらで包むようにしながら、トールは誓いを立てる。

 必ず果たされる戦士の誓約として、偽りなく心に刻む。

 勝ち目が薄いことも、ヨルサが無事である保証など何処にもないことも、すべて承知している。

 承知の上で、トールは立ち上がった。

 道理など知ったことではない。そんなもので雷神は屈しない。


 だからウルルの手を離して、トールはすぐにでも夜空の向こうへ飛び出そうとしていた。

 力は衰え、身体の傷は満足に癒えてもいない。

 首筋を黄昏で知った死の気配が撫でるが、それをあえて無視する。

 相打ち上等。あの悪神を雷霆の一撃で葬り去り、ヨルサ一人を救うことができればこちらの勝ちだ。

 なら躊躇うことはないと、一歩踏み出そうとしたところで。


「よう、トールちゃん!」


 その気勢を、道化の神があっさりとへし折りに来た。

 いつの間にそこにいたのか。寝室の扉を塞ぐ形で、メイド姿のロキがニヤリと笑っている。

 不快な笑みだ。どうしようもなく、こちらの神経を逆撫でしてくる。


「どけ、ロキ。お前の悪ふざけに付き合う暇なぞないんだ」

「あそこまで見事な負けっぷりを披露した挙句、今度は玉砕覚悟のバンザイアタック? 負け犬臭さがプンプンで鼻が曲がりそうだぜ」


 笑みの形を崩さないままで、ロキの口からは次々と言葉の矢が放たれる。

 全弾必中、道化の神は決して心の急所を外さない。

 ぐさりぐさりとトールの胸に突き刺さり、内側から毒で蝕む。


「………もう一度言うぞ、ロキ。そこをどけ。それとも力尽くでどかして欲しいか」

「やってみりゃ良いじゃんよ。負けるつもりで負けに行く腰抜けなんざ、オレぁこれっぽっちも怖かないねぇ」


 頭の天辺から爪先まで、ロキはトールの姿を睨めまわしながら言い捨てる。


「見ただろう。戦っただろう。そんで結果があの惨敗だ。 アイツは今のお前じゃ手に負えないよ」

「手に負えないからなんだ。ワシに戦わず逃げろと言うのかっ!」

「逃げりゃいーじゃん、関係なくね? 所詮はちょいと縁があっただけの他人だ。お前がそこまでする理由があんの?」


 ぎしりと、こめかみの奥で重いものが軋む。

 嘲笑う道化の言葉に、抑えきれない激しい怒りが沸き上がってくる。

 それを知っていながらも、ロキは毒を吐くのをやめはしない。

 相手が怒り狂い、自分を殺しかねない状況にあっても、決してその舌は止まらない。

 それが道化の神ロキの在り方で、すべてであるからだ。


「分かってんだろ、ここはオレ達の世界じゃない。それはオレが黄昏の向こうに沈めちまった。

 ここは他人が住んでる家の庭で、オレ達は何の因果か、たまたま転がり込んで来ちまっただけの旅人みたいなもんなんだ」


 だからお前が、ろくに力も出せない状態で、傷だらけの身体を引きずってまで戦うことはない。

 適当になぁなぁで済ませて、もっと別の土地に逃げ込んでもいいじゃないか。

 新しい場所でほどほどに楽しんで、また何か厄介なことがあれば、また逃げ出して。

 

「―――それで良いじゃねぇかよ。なぁ、トール。我が無二の盟友よ。

 オレ達にはもう、背負わされた運命も押しつけがましい予言もないんだ。オレ達を神と崇めた民も、一人だっていない」


 何もないのだから、今度は好きに生きれば良いじゃないか。

 道化の神はおどけた口調で、同時にどこまでも真摯に雷神へと告げた。


「………お前の言いたいことも、分かる。ロキ。お前が本気でそれをワシに言ってることも含めてだ」


 一時燃え上がった怒りの炎も、今はない。

 怒りを向けるべき相手は、この優しくもふざけた悪友ではない。

 ロキに戯言など吐かせてしまった自分の弱い心こそ、その怒りで焼き捨ててしまいたかった。


「それでもワシは、行かねばならん。それはワシが自ら決めたことだからだ」


 この世界が、見知らぬ他人の庭であるとか。

 神としての運命は最早なく、予言もこの身を縛ることなどないことも。

 すべて承知した上で、トールはその生き方を選んだ。


 祈る誰かに手を差し伸べ、共に笑ってその日々を生きていく。

 あの黄昏を越えて、この顔も知らぬ地に落ち。

 助けを求める少女の声に答えてから、それがトールが神として定めた、新しい在り方だった。


「だからどいてくれ、友よ。この夜が明けてしまう前に、ヨルサを助け出さねばならんのだ」

「………もう手遅れかもしれないんだぜ?」

「そうでない可能性もある。ならばワシは、それを諦めたくはない」


 それは自分の後ろで成り行きを見守る、ウルルの信頼を裏切ることにもなる。

 この幼い祈りを無碍にすることなど、できようはずもない。


「負ける可能性も大だぜ? 犬死にするかもよ?」

「負けるつもりはないし、むざむざ死ぬ気もない。そんな無様を晒したら、お前は腹の底から大笑いするだろう?」


 こいつは笑う。絶対に笑う。

 言わんこっちゃないと両手を叩いて、友の死を嘆きながら馬鹿笑いを手向けにするだろう。

 そういう奴だと知っているから、トールは断言する。

 負ける前提、玉砕覚悟など、弱気に震える己の心を笑い飛ばすように。


「………あーあーあー、ホントまー呆れるわー。馬鹿すぎてこれ以上馬鹿にする言葉が出てこねーわーもー」


 トールの新たな決意をすべて聞き届けると、ロキは頭を抑えて天を仰いだ。

 こいつならきっとそう答えるだろうと、道化の神も知っていた。

 知っていて、改めて正面からはっきり言われると、腹の底から苦笑いしか出てこない。


「どーしよーもねぇじゃん、マジで。さっきから具体的な勝算とかなんも口から出てないんですけど」

「ないもんは仕方なかろう。一発逆転の秘策なんぞ、簡単にひねり出せるんなら誰も苦労せんわい」


 負ける気もないし死ぬつもりもないが、それでも現状そのものに変化はない。

 恐怖を集めた悪神の力は強大で、逆にトールの力は大きく弱まっている。

 あの敗北が、両者の力関係を明確に表している。

 その事実は変わらない。

 天秤の皿は完全に沈みきってしまっていて、ちょっとやそっとでは揺らすことすら叶わない。


 実際どうしようもない。

 どうしようもないが、やると決めたからにはやるしかない。

 一切の迷いがないトールの脳筋ぶりは、流石のロキも呆れるしかない。


「………あのさぁ、トールちゃんさぁ。なんかこう、ないの? ねぇ?」

「は?」

「だからさぁ! こう、いるじゃん! 頼れる奴が!」


 唐突に頬を赤らめ、両手で自分を抱きしめながらくねくねと身体を揺らし始めるロキ。

 どういうアピールなのかは知らないが、率直に言って気色が悪い。


「どうしたロキ。気持ち悪いぞ、病気か。頭のだな。つーかワシ、時間ないって言ってんだからはよどけよ」

「ひっど! ホントにひっど! ツンデレアピールしてんのに乗っかってこないとかセメントか!」


 口を挟まないようにいい子にしてるウルルだが、そろそろ視線に不安が乗っかり出している。

 ロキに任せると際限なく馬鹿話が続いてしまうので、トールの方から流れを向ける。


「何かあるんだな、策が」

「一応って但し書きがつくけどな。やんないよりはマシだろ」


 三日月のような笑みを浮かべながら、力強くロキは頷く。

 相変わらず軽い言葉だが、そこに偽りの色はない。

 我に策ありと、道化の神が断言しているのだ。

 ならば信じる以外に道はない。


「ワシに何か、するべきことはあるか?」

「脳筋の雷神様に七面倒臭いことをやらせるわけないじゃーん」


 だから。


「お前のやること自体は変わんねーよ、トール。突っ込め。いつものように、雷のように」


 それでいい。雷神トールはそうすればいい。

 天を駆ける雷は、何も面倒なことなど考えない。

 ただ暗雲をその稲光で切り裂いて、闇の彼方へと雷鳴を轟かせる。

 ロキがトールに求めるのは、その純粋な在り方のみだ。


「あんな神ですらないゲテモノ如きに、お前が負けるはずねーんだから。ぶっ飛ばしてやれよ、なぁ?」

「―――おうよ、任せておけ」


 そう言って、トールもまたロキの言葉に力強く頷いた。

 

「ヨルサを助けて、必ず夜が明ける前には戻ってくる。お前の名誉にかけて誓おう、友よ」

「よせよせ、道化に名誉も何もあるかよ。オレはただ、お前の最強にかけて勝つと言ってるだけだぜ」


 両者は笑い、自然と互いの拳を軽くぶつけ合う。

 そうすることで、友の信頼と名誉が拳に宿るのを感じる。

 その熱を握り締めながら、雷神は今度こそ迷いのない一歩を踏み出す。

 ロキは戦へと赴くトールに道を開けながら、今度はその背後へと視線を向ける。


「そこの、ウルルだったよな。お前にはちょっと頼みがある」

「えっ?」


 まさか自分に役目が与えられるとは思っていなくて、ウルルは驚く。

 そんな少年の様子も可笑しくて堪らないのか、ロキは腰に両手を当てながらにたりと笑う。


「トールの盛大な負けっぷりを見て、すっかり腰が引けてる村の連中を、できる限り集めてこい。欲を言えば全員だが、まぁ無理は言わんさ」

「えっと……村の人達を、呼んでくればいいの?」

「そうだ。場所はー……そうだな、酒場はあるよな?そこでいい。兎に角、できるだけ多く呼び集めて来い。

 トールが無事にあのクソッタレな悪神をぶっ飛ばして、お前の姉ちゃんを無事に取り戻せるかは、その働きに掛かってるぞ」


 熱の篭った言葉で、ロキはウルルの耳元に囁きかける。

 トールの勝利と姉の無事が、自分の両手に預けられたような錯覚。

 それは本当に錯覚に過ぎないかもしれないし、実際にロキの言葉は詐欺師のものと変わらない。

 だがその言葉で、少年の心にもまた熱が入った。


「行ってくる。僕、絶対に村の人たちみんな、集めてくるから………!」


 言うやいなや、ウルルはトールの横も走り抜けて外へと飛び出す。

 雷神も呆気に取られてしまうほどの勢いだ。


「……お前、今は信用しとるが、ウルル巻き込んで下手な真似したら後で酷いからな……?」

「心配すんなよ。確かに相手にとっちゃ悪だくみかもしれないけどな」


 これから起こるであろうことを頭の中で思い浮かべているのか。

 道化の神は、これ以上ないほど楽しそうな笑顔を見せる。

 馬鹿が吠え面かくんだろうなと、楽しくて楽しくて仕方がないとロキは笑う。


「あの真っ黒クロスケが、どこの世界でぶいぶい言わせた悪党だか知らねーが、オレから見りゃあ三流もいいとこよ。

 舐めた真似しくさったこと、キッチリ型に嵌めて後悔させてやるよ」



 一つの世界さえも滅ぼした悪神、道化の神たるロキは笑みと共にそう告げた。




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