12
トールは、自分の中で何か大事なものが途切れたのを感じた。
ロキを引きずって村長の家を訪ね、これは放っておいても良い危険物であると説明。
そして死の山で見たものと、ロキから聞いた話も伝えて。
これからどう対策するべきかとか、その話を始めようとした矢先。
ぷつりと、糸が切れてしまったような、そんな感覚。
今まで無意識下で感じ続けていた、とても大事な繋がり。
それが切れた。切れてしまった。
その糸の先が誰に繋がっていたのかなど、考えるまでもなく明白だ。
「ちょ、トール!?」
突然、弾かれたように窓から外へ飛び出した友人に、ロキが驚きの声を上げる。
だが今のトールには、そんなものは耳に入ってこない。
右手に呼び出したミョルニールを握り締め、文字通り稲妻の如く駆ける。
その足ならば、目的の場所までほんの数秒。
それでもその僅かな時間が、まるで永遠にも感じられて。
間に合えと、心の中で叫びながら雷神は走る。
見えた。そして見た。
ヨルサの家に落ちる、一条の雷を。
破壊された屋根から這いずり出してくる、一匹の闇を。
その闇の腕に抱かれている、一人の少女の姿を。
「ヨルサァァァァァァァ!」
トールはその名を叫び、強く地を蹴った。
メギンギョルズで倍加された脚力は、屋根を遥かに超える高さを跳躍する。
右腕に力を漲らせ、雷霆を渦巻く闇めがけて叩き落とそうとし―――気づく。
今、闇はヨルサを抱えていることに。
そこに渾身の雷を落としたならば、どうなってしまうか。
【 き ひ 】
その一瞬の躊躇と緩みを、闇は見逃さなかった。
ぬるりと、まるで水の上を油が滑っていくような動きで、闇が眼前に迫る。
思考の停滞による隙があったとはいえ、トールは決して敵から注意を外したりはしていなかった。
だというのに、闇は容易く雷神の懐へと踏み込んでくる。
「なにっ………!?」
闇が揺らめき、そこから何かが飛び出す。
殆ど反射的にヤルングレイプルに覆われた腕を十字に構えて、その一撃を防ぐ。
硬い激突音。そして、金属の表面を鋭いものが引っ掻く不快な音。
それは爪だった。
一つ一つがナイフの刃にも似た、分厚く鋭い獣の爪。
闇に隠されているため詳細には確認できないが、それが武器の類でないことは間違いない。
「ぐっ!?」
すると今度は、左下から抉るような衝撃を受けた。
さながら、重い鈍器で勢いよく殴りつけられたような感覚。
何をされたかも分からないまま、死角からの一撃にトールは無様に弾き飛ばされる。
それだけでは終わらない。
どうにか両足から地面に着地したトールの頭上で、黒い光が瞬く。
「なにっ……!?」
それは黒い雷だった。
闇が渦巻き、そこから無数の黒い稲妻が放たれ、次々とトールの身体を射抜いていく。
雷神に対して雷を武器にするなど、本来ならば馬鹿げた行為だ。
己が権能で天の輝きを自在にするからこその雷の神。
雷を以て雷神を害することはできない。
それが、ただの雷であれば。
「馬鹿な………!」
肉が焼かれる。骨が焦げる。
闇が―――悪神が放つ暗黒の稲妻は、確実にトールの身体を蝕んでいく。
それは無論、ただの雷などではない。
自然現象の形こそを取っているが、それは悪神がその身に宿す呪いを雷の姿で放っているに過ぎない。
故にその黒雷は、相手が雷神だろうがお構いなしだ。
ヤルングレイプルを構えれば、なんとか防ぐことはできる。
しかし悪神の攻撃は、最早雷の雨に等しい。
急所を幾らか守ったところで、それ以外の部分は着実に焼き焦がされていく。
このままでは負ける。
反撃の術は、ある。右手に持ったままのミョルニール。
万物を砕く雷霆の一撃であれば、この悪神も無事では済まないだろう。
呪いの黒雷を真っ向から吹き散らし、その轟雷は悪神の闇をも打ち破れるはずだ。
そこに、か弱い人間の少女さえいなければ。
「畜生が………!」
最悪の状況だ。
苦痛と口惜しさに、食いしばった歯を軋ませる。
あれは恐らく、死の山からここまでずっと自分達の後を追ってきたのだろう。
姿を隠し、気配を誤魔化し、そして邪魔な二柱の神が離れたところで、ヨルサを攫った。
気づいていればと悔やんでも、何もかもが手遅れだ。
だが手遅れだからと言って、このままで済ませて良いわけがない。
幸い悪神の攻撃は、ヤルングレイプルの防御力とミョルニールの治癒力を合わせることで、ギリギリ致命傷には至っていない。
ダメージは蓄積されているが、現状ならまだ無理も利く。
最強の一撃はヨルサを巻き込んでしまうので放てないが、それならそれで戦い方がある。
空中から雷撃の釣瓶打ちは、厄介だが同時に単調でもある。
意識して観察すれば、弾幕の薄いところも明白だ。
さりげなく重心を低くし、両脚にメギンギョルズを通した力を蓄積させる。
兎に角先ずは、ヨルサを助けなければならない。
相手はこちらを攻めることに夢中で、ヨルサには明らかに意識が向いていない。
その隙を突く形で突撃を仕掛け、こちらの被害は度外視した上でヨルサを奪い返す。
そうなれば後はこちらのもの。
最大出力のミョルニールを叩き込んで、それで終わりだ。
(覚悟しろ、目にもの見せて………!)
やると、そう意気込んだ直後。
「な、なんだありゃぁ!」
「化物だ、化物が出たぞ……!」
「おい、あそこってヨルサちゃんの家じゃないか!?」
次々と聞こえてくるのは、半ば悲鳴となった村人達の声。
位置的には端の方とはいえ、ここは当たり前のように村の中だ。
そこで派手に雷が落ち続けていれば、当然村人達はその騒動に気づく。
気づいて、危険だと分かっていても確認のために近づいてしまうのは、好奇心という生き物の本能だ。
拙いと、トールは迫る危機に戦慄する。
丁度良いと、悪神は生贄の存在に歓喜する。
歓喜して、今までトールに向けていた黒雷を、あっさりと集まってきた村人達へ放った。
「こんの、クソッタレがぁッ!」
地を蹴り、駆ける。
悪神目掛けてではなく、村人達との間を遮るように。
走ることに全力を注ぎ込んだために、防御にまでは手が回らない。
黒雷の矛先が、次々と無防備なトールの身体を貫く。
「がッ、ぁぁあッ!?」
苦痛は絶叫となって唇から溢れ出す。
先ほどまでとは、ダメージの桁が違う。明らかに致命傷に近いものもある。
それでもトールは倒れなかった。
戦士としての気力と、雷神としての矜持。
そして守るべき者達の存在が、トールに膝を屈することを許さない。
「と、トール様!」
「いいから逃げろ、お前らァ!」
恐怖に竦んでしまった村人達を、トールは叱咤する。
身体が軋む。肉や骨は勿論のこと、内臓の重要な部分も焼かれてしまっている。
ただの人間ならば、とっくに息絶えてもおかしくはない。
それでもトールが倒れていないのは、一重にミョルニールが持つ癒しの魔力のおかげだ。
今も握る右手に力を込めて、ミョルニールの治癒を発動させ続けている。
最低限、動けるだけでいい。
この身体が動きさえすれば、あの悪神からヨルサを取り戻せる。
だからトールは、持てる全力を己の治癒に注いだ。
注いで、はたと気づく。
先ほどと比べて明らかに、傷を癒す速度が落ちていることに。
【 ひ ひひ ひ 】
不快な笑い声が、頭蓋の内側を削る。
笑っている。気づけば闇が目の前にあり、その向こうで悪神が嘲笑っている。
【 いかずち かがやき 】
眩しいと、悪神は笑う。
羨ましいと、悪神は笑う。
それを奪ってやったのが愉快で、悪神は雷神を嘲笑う。
【 おれの ものだ 】
この尊い娘も、村人達の祈りも。
すべて、すべて悪神の黒い雷が奪い取った。
神は人の祈りを受け取ることで、その力を増していく。
ならばその祈りを、他の神に奪われてしまったならばどうなるか。
しまったと、悔やむことさえ遅い。
この村を救ったことで得た信仰が、悪神の恐怖によって塗りつぶされていく。
【 ひ ひひ ひひひひひひひひひひ 】
黒雷を纏った爪が、闇を裂いてトールを襲う。
その奥に、赤い瞳があった。
呪いと狂気に染まり切った、赤い獣の瞳孔。
爪の一撃を、トールは防いだ。ヤルングレイプルで覆った両腕を十字に、それを受け止めた。
だが無駄だった。今や悪神の力は雷神を凌駕してしまっている。
黒い雷の呪いに骨身を焼かれながら、トールの身体は大きく弾き飛ばされる。
「ッ、が、はぁ………!」
背中から地面に叩きつけられ、その衝撃で呼吸が詰まる。
このままでは拙いと、頭では分かっている。
だが今の衝突で、このまま戦っても敗北は避けられないと理解してしまった。
何よりも肉体に刻まれたダメージが深刻だった。
ミョルニールによる治癒は、もう完全に追いつかなくなっている。
意識は朦朧とし、それを手放さないよう気力を振り絞る。
そんな雷神の無様な姿を嘲笑うように、悪神は再び意識を村人達へと向ける。
やめろという言葉も、声にならない。
身体は満足に動かせず、先ほどのように彼らを守ることもできない。
それが可笑しいのか、闇は波打つように身を震わせて。
そして嬲るように、黒雷を村人達の頭上から降り注がせる。
駄目だ。どうしようもない。
トールも村人達も、誰もがそう絶望しかけた時。
まったく唐突に、巨大な石壁が黒雷と村人達の間を遮った。
予想外の事態に呆気に取られる村人達を余所に、黒雷はすべて石壁に着弾する。
黒い火花を散らしながら、表面を削って亀裂を走らせる。
「いってぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!?」
そうしたら、石壁がどでかい悲鳴を上げた。
ぶるんぶるんと表面が波打ち、まるで風に吹かれた麦穂のように揺らめいている。
「おま、ロキか!?」
「イッエーイ! トールちゃん見てるぅー! 美味しいところをオレ様にかっさらわれて今どんな気持ちいてててててて!?」
道化の神の戯言も、悪神には知ったことではないらしい。
間断なく降り注ぐ黒雷が、今度はロキが変化した石壁を削り取っていく。
「ぎゃあああ調子こいてヒーローっぽいことしたらやっべぇ死ぬぅぅぅぅぅ!?」
ふざけた悲鳴のせいでいまいち緊張感がないが、危険なことは間違いない。
トールと違って、今のロキは変身能力以外の力は持っていない。
自分の傷を癒したりなど、そういう真似はできないのだ。
与えられたダメージはそのまま蓄積され続け、程なく限界を迎えるだろう。
死ぬ。ロキが、あの道化の神が。
自業自得のツケでなく、誰かを守ろうという善行を行ったが故に命を落としてしまう。
己の力が、及ばぬばかりに。
「っ………ざ、けるな………」
途端に吹き出すのは、煮え滾る溶岩の如き怒りだった。
余りにも不甲斐ない自分自身に、似合わぬ真似をして死にかけている親友に。
何よりも、恐怖と絶望を撒き散らしながら笑うあの悪神に向けられた、激しい怒り。
「ふざ、けるな、よ………っ!」
今まで、トールに力を与えていたヨルサや村人達の信仰は、悪神の恐怖により薄らいでしまっている。
逆に悪神は、魔物や人々の恐怖を吸い上げることで、その力を強大なものにしている。
両者の力関係は、明確に定まっていた。
いくらトールといえども、それを簡単に覆すことなど不可能だ。
分かっている。理解している。
だが不可能だからと突きつけられて、それで諦めることなどできるわけがない。
トールは右手を握り締めた。
ミョルニールの柄が、僅かに軋みをあげるほどの力で。
一瞬で良い。それ以上は望まない。
この激情を種火とし、その一瞬だけでもあの悪神を凌駕する力を。
「ワシは――――――」
それは不可能か。あり得ざることか。
その一瞬さえも届かせるには奇跡の業が必要か。
ならば成せる。成し遂げられる。
奇跡の業を、己の意思で成し遂げられることこそ神の領分だ。
ならばできる。できないはずがない。
何故ならば。
「ワシは、雷神トールだ――――――ッ!」
ミョルニールを持つ右手を、天に掲げる。
凄まじい雷がその大鎚より放たれて、光の柱となって天地を貫く。
文字通りの神の御技を、すべての者が目にしていた。
石壁に変じたロキも、悪神の恐怖に震えていた村人達も。
そして、悪神もまた。
【 】
果たして最後に、悪神はどんな悪罵を囁いていたのか。
それは誰の脳髄も掻き毟ることなく、闇は少女を抱いたまま、天の雷を背にして飛び去っていく。
逃げた、と前向きに取ればいいのか。
逃がしてしまったと、後ろ向きに取ればいいのか。
どちらにせよ、今ある現実は変わらない。
ロキはなんとか死なせずに済んだ。村人達もそうだ。
けれど、最も大事なものを一つ、悪神に奪われてしまった。
「ヨルサ………ッ」
悔恨の声で名を呼べども、それは虚しく宙に散っていくばかりで。
それは雷神トールがこの地に落ちてから初めて味わった、完全なる敗北だった。