11
トールとロキが村に辿り着いた頃には、もう日も暮れ始めていた。
特に襲われた様子もないのを確認しながら、そのまま真っ直ぐにヨルサとウルルの家に向かう。
玄関先に到着すると同時に、半ば馬を蹴倒すように飛び降りる。
後ろでぎゃあとか悲鳴が上がってるのはまるっと無視し、その勢いのままに扉をぶち開けた。
「ヨルサ!無事か!」
「あ、トール様。おかえりなさい」
扉を大きく開いた姿勢のまま、急ぎ過ぎて肩で息をしているトール。
それとは対照的に、台所で夕飯の支度をしていたヨルサは、少し驚きながらも微笑んで応える。
その無事を確認した瞬間、トールは思わずその場にヘタリ込んでしまった。
「ど、どうしたんですか? どこかお怪我でも……!?」
「いや、いや、大丈夫だ。すまん、ちと気が抜けてしまっただけだ」
驚き、慌てて駆け寄ろうとするヨルサを、トールは軽く手で制する。
本当に、ここに戻るまでまったく生きた心地がしなかった。
自分が留守の間に村に危険が迫る可能性など、完全に頭の中からすっぽ抜けていた。
己の浅慮を恥じると同時に、村が無事であったことに安堵の息が漏れる。
「トール様、戻ってきたの?」
ひょこっと、奥から弟のウルルも顔を出した。
こちらは遠慮することなくトールの傍まで駆け寄ると、小さな手を差し伸べてくる。
「魔物の退治に、行ってきたんだよね。疲れちゃった? 怪我してない?」
まだ幼い子供なりに、気遣っているのだろう。
トールが疲れて座り込んでしまってるのかと思い、その手を貸そうとしてくれている。
微笑み、差し出された幼い手を軽く握り返してやりながら、トールはゆっくりと立ち上がった。
「大丈夫だぞ、ウルル。ありがとうな。魔物どもならワシが蹴散らしてやったから、一先ずは大丈夫だ」
「本当に? ね、またお話聞かせてね、トール様!」
「おぉ、勿論だとも。お姉ちゃんの言うことをちゃんと聞いて、良い子にしておったらな」
わしゃりと、小さな頭を撫でてやる。
ウルルは嬉しそうに笑いながら、トールの言葉に頷いた。
そんな様子を微笑ましそうに眺めていたヨルサだったが、ふと開いた扉の向こう側に視線を向けて、首を傾げる。
「あの、トール様?」
「お、どうした。ヨルサ」
「その………そちらの馬は………?」
そういえばすっかり忘れていた。
慌てて後ろを振り向くと、自分の存在をアピールするように馬が後ろ足で直立していた。
反射的にミョルニールをぶち込みそうになるが、ぐっと我慢する。
ロキはどんだけ折檻しても心は痛まんが、この距離ではウルルにまで火花が飛んでしまいかねない。
自分を落ち着ける意味でも、振り上げかけた右手をゆっくり下ろす。
下ろした先に不思議そうに馬を見上げているウルルの頭があったので、精神を安定させる意味でもう一度撫でた。
「あー、その、なんだ。この馬はだな」
「あ、君らがトールの言ってたヨルサとウルルって子達かい? やぁやぁはじめまして!
俺の名前はロキってんだ、トールの古い古いふるーい友達で、マブダチで、ベストフレンドって奴だぜ! よろしくねー!」
こちらが何か言う前に、馬がハイテンションでベラベラ喋りだした。
ヨルサは驚いて、思わず半歩下がる。ウルルはビックリし過ぎてノーリアクションで固まってしまっている。
当たり前と言えば当たり前過ぎる反応だ。
普通、馬が二足歩行した挙句に無駄にデカい声で喋りだしたら誰だって驚く。
そしてその辺の常識など弁えた上で、あえてそれをブチ壊しに来るからこの道化の神はタチが悪い。
「お前、いいから馬の姿はやめろ。それでぐちゃぐちゃやられたら目立って仕方がない」
「えー? 割と反応いいから気に入ってんだけどなーっていやいや嘘、ゴメン、やっぱり人の嫌がることはしちゃいけないよね!」
何かグダグダ言い出したが、軽くミョルニールを手元に呼んでチラつかせたら素直に従った。
馬は両方の前足を軽く腰の辺りに当てると、そのまま左右に数回ひねる。
足首すべてをぶらぶらと揺らしてみたりと、柔軟か何かなんだろうが、これが必要な動作なのかは分からない。
ヨルサもウルルも、異様な行動をする馬に視線は釘付けだ。
「おい早くせぇ」
「はーいはーい、トールちゃんはせっかちだなぁ」
馬はその場でぴょんと軽く跳ねながら、空中でぐるりと前転を決める。
同時にポンッとコミカルな音を立て、白い煙がその姿を一瞬だけ覆い隠す。
次の瞬間には、馬ではなく一人の人間がかろやかな動作で地面に着地していた。
「トールの格好が格好だし、こっちも懐かしいチョイスで一つ」
そう言う声質は、先ほどの馬の姿の時と変わらない。
逆に外見の変化は劇的だ。
そこに立っていたのは、長い黒髪を綺麗に後ろで編み上げた、一人の小柄な女性だ。
目鼻立ちの特徴は北欧のものではなく、東洋人が備えるものに近い。
決して過度な美形ではないが、隣に咲く花を引き立たせるような、そんな柔らかな雰囲気を纏っている。
身に付けているのは、ヨルサは勿論、トールも見たことがないような白と黒のコントラストが美しい衣装だ。
所謂、クラシックなメイド服なのだが、道化の神が何故そんなものを知っているのかはきっと誰にも分からないだろう。
「どうよ、ロキ様のメイドスタイルは! 懐かしくね?」
「懐かしくねーよ。あの時はそんな格好じゃなかっただろうがよ、お前」
外見が清楚になったからといって、中身が変わるわけではない。
ただ馬のまま喋られるよりはインパクトも少ないので、ヨルサもようやくまともに口を開く。
「あの……ロキ様、ですか? トール様のお友達、というのは………」
「………まぁ、否定はしたいところだが、うん」
正直、腐れ縁と言った方が近いとは思う。
ただロキも、今のところ害になるような真似はしていないし、こちらに協力してくれるなら助かりはする。
それ以上に問題の種になる危険性もあったが、背に腹は変えられない。
そんな風に考えていると、いつの間にやらウルルがロキの傍に立って、じっと見上げていた。
「………えっと、ロキ様?」
「お。どうかしたか、坊主?」
少年の目線の高さに合わせて、ロキはその場に膝を折る。
一体何を自分に言うつもりなのかと、道化の神はイタズラを期待する子供のように輝く。
場合によってはロクでもないことをしでかしそうな空気を感じ、トールが慌ててウルルを自分の方に引っ張ろうとするが。
「トール様のお友達ってことは、トール様を助けに来てくれたの?」
「……………」
子供らしい、幼くも純粋な問いかけに、それを投げかけられたロキも瞠目する。
それからすぐに、滲むような笑みを口元に浮かべると、細い指でウルルの頭を撫でる。
「そーだぞ、坊主。俺はトールの友達だからな、友達が困ってたらそれを助けてやるのは、当然のことだものな」
「坊主じゃないよ、ウルルって言うんだ」
「おぉ、そーだったそーだった。悪かったなウルル、お前は優しい男だ」
余程ウルルの言葉が気に入ったのか、無遠慮に撫でくり回す。
突拍子もないロキの行動に少し不安もあったろうヨルサも、それを見てほっと一息吐く。
トールもまた、あの道化の神たるロキにすぐ馴染んだウルルの順応性の高さに驚いてしまう。
子供らしい無邪気さが受けたのか、あるいはロキも頭の中身は子供みたいなもんだから、相性が良かったのか。
「まーオレは、トールの奴ほど強くはないが、そこはお前安心しとけ。なにせトールは無敵の雷神様だ、どんな敵もイチコロよ」
「うん、トール様はすっごく強いもんね。魔物もみんな退治したから、もう大丈夫なんだよね?」
ウルルに聞かれて、まだ問題が解決していないことを思い出す。
この村にも件の悪神は来ていなかった。ならばまったく別の土地で、人を襲って力を蓄えているのだろうか。
それはそれで厄介だ。居場所が分からなければ対処のしようがない。
「魔物は確かに蹴散らしたが、まだやることが残っておる。おい、ロキ、ちょっとついて来い」
「え? なに? 俺もうちょっと若い子とスキンシップ取りたいんだけど」
抗議の声は無視しつつ、がしっと首根っこを引っつかむ。
「ヨルサ、ワシはちと村長と話をしてくる。こいつの事とか、説明しておかんといかんこともあるからな」
「あ、はい。分かりました。お夕飯は用意しても大丈夫ですか?」
「おう、頼む。余裕があれば、こいつの分も用意してやっといてくれ」
片手にぶら下げたロキを示すと、ヨルサはくすりと笑って頷いた。
「ええ、ちゃんと用意しておきますから。お気をつけて」
「すまんな。ヨルサも、戸締りはしっかりしておけよ」
言うが早いか、そのままロキを引きずるようにしてトールは村長の屋敷へと急いでいく。
何があったかは分からないが、魔物退治に山へ向かう前よりも、何となくトールが生き生きしているように感じられる。
あのロキという人物(?)の影響だろうか。古い友人、とは言っていたが。
「………良かった」
そんな言葉が、自然と出てくる。
トールは気さくな人柄ではあるが、やはり自分を含めた村人達とは、どこか一線を引いて接していた。
少しだけ寂しい反面、それもまた仕方のないことだと思っていた。
まだ出会って間もなくいが、お互いに対する尊敬や親愛はある。
けれども十分な年月を積み重ねたわけではない以上、成熟した関係性とは言えない。
ふとしたことでも、互いの距離を意識してしまう。
それはこれからの時間で解決していくことができると、ヨルサは信じている。
信じているからこそ、そこへ届くまではトールにとって本当に気心の知れた相手はいないのだと、認めることになってしまう。
それが本当に歯痒かったからこそ、ロキの存在はヨルサにとっても救いだった。
「仲が良さそうで、ちょっと羨ましいけど」
トールが聞いていたら即座に否定しそうではあるが。
その様子もありありと思い浮かび、それもまたおかしくて。
穏やかに笑っているヨルサは、気付かなかった。
床下から滲み出して、自身の背後にゆっくりと現れつつある闇の存在に。
「……っ!? 姉ちゃん、後ろ!」
気づいたのは、ウルルだった。
危険を知らせようと、悲鳴に近い声をあげるが、すべてが手遅れだった。
ウルルの声に、ヨルサは自分の後ろを振り返った。
そこにあるものが何なのか知らぬまま、いっそ呑気とも言える動きで、それを見た。
闇だった。
それが何かと問われたならば、ただ「闇である」としか答えようがない。
黒く、ただ黒く。骨の髄まで黒く染まった、それは恐るべき闇だった。
この地に染み込む呪いと狂気、そして多くの魔物や人々から得てきた恐怖と絶望。
そのすべてがそいつを強くしていた。
身に纏う闇はかつての頃よりも遥かに濃く、尋常な者ならば直視しただけで精神を砕かれてしまうだろう。
ヨルサとウルルは、そうはならなかった。
そうはならなかったが、そいつが放つあまりに悍ましい気配に、恐怖してしまった。
恐怖に震え、「このまま自分達は殺されるのだ」という絶望に囚われた。
【 あ 】
耳の奥、頭蓋を内側から掻き毟るような、不快な声。
【 ひ ひひ ひ 】
それが目の前に在る闇が発したものだと、麻痺しつつある脳髄でもかろうじて理解する。
闇が蠢く。その正確な形は分からない。
ただ床を掻くような爪の音と、獣の吐息が耳に届く。
【 か が や き 】
ずるりと、闇が近づいてくる。
一歩、一歩と踏みしめて、獣臭と腐臭を漂わせながら。
動けない。自分も、ウルルも。
恐怖と絶望に身体が竦んでしまい、一歩も動けない。
声も出ない。これでは、誰も助けを呼ぶこともできない。
突発的な事態と、現れた存在のあまりの異質さに、ヨルサは完全に恐怖の虜となっていた。
母に教えて貰った祈りさえ、頭の中から失せてしまっている。
だからせめて、弟だけでも守ろうと。
動かぬ身体で、ヨルサは闇の前に立ち塞がる。
魔物による襲撃の時と同じく、彼女は大切な誰かを守るためなら、躊躇いなく我が身を投げ出す。
迷いなく闇に対峙せんとする、その心の輝き。
その輝きが眩しくて、闇は哂った。
その輝きが尊くて、闇は喜んだ。
その輝きが欲しくて、闇はその手を伸ばした。
【 よ こ せ 】
その光を、その命を、その魂を。
すべて飲み干せば、この呪われた身は、あの輝かしい神にも届くだろうかと。
そんな、眼前に迫り来る闇の怨嗟を感じ取ってしまいながら、ヨルサは意識を手放した。