笹百合
矛盾?なにそれ?(ガクブル)
このアパート、「かれくさ荘」は、三階建であり、全部屋あわせて十五部屋。その内入居しているのは三分の二といったところだ。一応忍の指定した三人以外も回ってはみたが、やはりというか日曜でも住人の多くは出払っているか、夜勤明けで眠っているかであり、話を聞けたのは結局三人だった。
一人は三十代のОL、名前は確か浜さと子。当日は丸々仕事だったようだ。玄関での話で終わったが、その内半分は自分の上司がいかに無能か、いかに自分が恵まれず結婚できないかを滔々と語り、その内紫苑を見る目が蛇のように変わっていったので、紫苑は逃げた。
二人目の十時さんは耳の遠い老婆だった。家族とは離れて年金暮らしをしており、日中ほとんど部屋にいる。その為か二階の住人にも関わらず、盗難の被害を受けなかった。確かにそれを知っているということは、犯人はこの建物のことをよく知っている人物だろう。
だがそれゆえか、物音を聞いたかどうかはわからず、有益な情報はなかった。だがお茶と饅頭を出してもらい和んだ。超和んだ。これからも行きたい、
三人目星野さんち。呼び鈴にでたのは女子中学生だった。
この小さなアパートで父親と二人暮らしをしているらしい。父親は仕事か出払っていた。昨日のこともあり、相当警戒心が先立っていた。
「…なんですか?」
チェーン越しの気弱そうな瞳が印象に残った。名は銀奈と言うそうだ。あまり長話を洋々し変質者と思われたも困るので、最低限のことだけ聞いた。
自分は学校で、父は仕事だったと言っておりこれと言って実になる証言はなかった。彼女の頬に傷があったのは気になったが恐らくはあまり触れてはならないことだろう。
聞き込みが終り少し早い昼食を取ろうと冷蔵庫を漁っていると、笹百合からメールがきた。
「 忍くんが倒れた!急いできて! 」
必要最低限の内容だったのは、動揺の表れだったのかもしれない。
昨日の経路を思い出しながら向かう。もしかしたらまた「森」に迷い込むかもしれないと少し怖かった。
コンビニに着くと、笹百合の父親が店番をしていた。笹百合が言うには、自分と両親と祖母、そしてアルバイトで切り盛りしているらしく。今時夜は十時までしか営業していないそうだ。
「室戸くん。待ってたよ。さあ奥に」
店から離れるわけにはいかないのだろう。笹百合の父親に促されるままレジの奥の部屋に入ると畳の上に、忍が寝かされていた。目の上にはタオルがおかれている。周りには笹百合と、祖父であろう目の細い老人が座っていた。
「紫苑?」
そう言って、忍は起き上がった。顔色は良かった。
単なる貧血のようなものだったのだろうか。だが中学時代ならいざしらず、この春からは忍の体調が崩れることはまずなかった。
「紫苑、バーボン頂戴」
「ねえよ」
そう悪態ついたが、ひとまずは安心をした。大したことではないようだ。
「ほら、ラス百円で買ったポカリ」
「えー」
「どうせ二日酔いで倒れたんだろ」
缶を投げる。
だが忍はそれを受け止められなかった。
「あ」
そう言って落ちた缶ジュースを拾おうとするが、その手は全く別の畳を撫でるだけだった。
「お前…」
森での出来事を思い出す。忍の眼前すれすれを掠れたあの剣閃、まさかあれが――当たっていた?
「にゃはは」
「忍君、やっぱり寝ていたほうが」
「大丈夫だよまだ少しだけ見えてるし」
「忍、いつからだ」
昨日の時点では、まだみえていたはずだ。
「…うん。なんとなーく夜あたりから。ぼやけてて、遠くのものはまだかすかにぼんやり見えるんだけど、近くのものは全然…」
「それで、商品整理をしているときに倒れたの」
「老眼だな」
と言ったのは笹百合の隣に座っていたお爺さんだった。
「うちのおじいちゃん」
それはみたらわかるが一応頭を下げておいた。
「お前らの話はきいとるぞ貧乏学生共。…ちょっと待ってろ」
そう言って持ってきたのは老眼鏡だった。
「どうだ。小僧」
忍は渡された不格好なメガネをかけた。
「うん。まだなんとか見える。…ありがとうございます」
「老眼ってなんでだよ」
なぜ盲目ではなく、老眼なのだろうか。紫苑は疑問を口にした。
「さあね。僕もそこらへんの知識はないけど。紫苑が腕の筋肉を切られたみたいに、目の周辺の筋肉を切られたって解釈でいいと思う」
老眼というのものは水晶体の周りの筋肉が衰えていくことによって起こる。もし、紫苑の右腕のようにその筋肉が動かなくなっているならば、十分考えられる話だった。
もし、あのとき、もっと自分がうまく立ち回っていたなら。
紫苑は左の拳を爪が食い込むくらい握った。
「紫苑くん。これってやっぱり」
笹百合が訊ねる。
「ああ、やられた。あの森だ」
そう言うと、隣にいたおじいさんがこちらをみた。
「小童、その森ってのはなんだ」
「えっと」
それを話していいかどうかは悩んだ。昨日の笹百合の話から推測すると、あの「森」と「この町の神隠し」は密接に関わっている。それをこの町の人に伝えることの正否が、紫苑には読めなかった。
「おじいちゃん。お母さんの手がかり」
紫苑が驚いて笹百合を見る。彼女は涙をこらえた様子で言った。
「神隠しの異界よ」
その言葉に老人は顔を強く顰めた。
笹百合の母は、七年前、神隠し事件に巻き込まれたそうだ。彼女の高校の同じクラスだった女性の四分の一が一斉に姿を消したらしい。
当時のことを笹百合はあまり覚えていないらしく、詳細はおじいさんが語ってくれた。
警察は最初は捜索活動をしてくれていたらしいが、過去に大きな損害をだしたこともあり真面目に取り合ってくれなかったという。その代わり、この町で有名な神社の夫婦に捜索を頼んだらしいが、その夫婦も二週間後に行方不明となった。
それ以降。その神隠しのことを。界隈で口にする者はいなくなった。本当にソッチの力を持つと噂された夫婦が神に誑かされたのだ。自分達も関われば巻き込まれてしまうかもしれない。そう危惧したのだろう。
仲野家の娘だった笹百合は、毎日遠くまで母親を捜しに彷徨っていたそうだ。心配した近所の人が家に連れ戻す夜遅くまで、毎日、毎日。
そのことをお爺さんが話すと、笹百合は困ったように顔を赤くした。その様子を紫苑は不思議なものをみる心地で眺めていた。母を思う心。そんな雲をつかむようなものが理解できないというよりは、自分に無いものだから理解できなかった。
腐臭。口の中の鉄の味。冷たい肉の感触。
なぜなら、自分は母を――。
カシュッ!
忍がポカリをあけた音で、紫苑は我に返った。
「それで、未だ母親を捜してる、それで、僕たちの話に食いついて、利用しようとしたっていうこと?」
わざと挑発するような忍の物言いに、笹百合は訂正しようとし、首を振った。
「ごめんね。言わなくて」
「いや、こっちも言い方が悪かった。第一笹百合は色々助けてくれただろう?」
職の手配に、この町の噂の提供。惜しみなく紫苑たちを助けてくれたことには代わりが無い。
「うん。僕は意地悪しただけだから」
そう言って忍はにやにや笑った。こいつは女のような顔をして、結構いじめる。じくじくといじって人を困らせるところがある。
「ほう。うちの孫にいたずらとは中々肝がすわっとるな。小童」
おじいさんは目がマジだった。
忍は、冗談、と肩を竦めた。
「でも、私が目的を隠してたことは確かだから」
下心というには幼すぎ、悪意とすら呼べないほどの潔癖だった。
「そうだな。さゆ。お前は子供だ」
笹百合の頭をおじいさんがぐりぐりと撫でた。さゆ、というのは、笹百合の愛称か何かだろう。
「ま、うちの事情はともかく、お前さんがた。その体の異変はなんとかせんといかんだろう。医者は駄目じゃったんだろう?ああっと、ジオン君」
「紫苑です」
どこの宇宙公国だ。
「今この町で起こっておる神隠しは知っておるか?」
お爺さんは切り出した。
「今、ですか」
老人はこくりと頷いた。
「そういや、紫苑。昨日ニュース見たって言ってたよね?」
紫苑は頷いた。昨日の朝だっただろうか。朝のニュースで中学生の少年が一人行方不明になっていることを伝えていた。
「確か、三ヵ月前の頭から行方不明になっていたはず。…じゃあ、その事件は」
「待っておじいちゃん。その事件って私も知ってるけど、失踪したその中学生以外の被害はないってテレビじゃ…」
「圧力がかかっておる」
「圧力?どこから」
「なんでもその失踪した中学生は学校内で長期的ないじめを受けていたらしくての。失踪の後そのいじめに関連した生徒の数人が錯乱、体に異常が起こったり原因不明の意識不明になったりしとる。その数、およそ十人」
中学校で十人が身体に異常。それにいじめに失踪とくればマスコミにとってはこれ以上無い餌になるだろう。
「教育委員会か何かが?」
「それもあるだろうが、いじめの主犯格は市議会のおえらいさんの息子らしくてな。昔のようにオカルトマニアに変にかぎつけられると、今じゃあれ、いんたーねっと、とやらで全国に広まるからの。それに学校側も大事にはしたくないじゃろ。そのおえらいさんから献金受け取っとるらしいしの」
「つまり、大人連中が呪いの副産物に戦々恐々していると」
忍が実に愉しそうな笑みを浮かべていた。忍はこういった話が大好きなのである。
「そういうことじゃ」
老人はにやりと笑った。
「でもなんでおじいちゃんそんなこと知ってるの?テレビじゃやってなかったと思うんだけど」
確かに、紫苑がネットで調べた範囲ではそんな情報はみつからなかったし、その失踪のニュースも本人の家出だとしてごくごく小さな地方ニュースとしか取り上げられなかった。
おじいさんは、ふんっと鼻を鳴らした。
「これでもかつての神隠しの関係者だしの。もっとも、ワシじゃなくて息子の嫁がだが。それでも色々噂は流れてくるもんじゃ。それにほれ。週刊誌を買いにくる主婦どもが頼みもせんのにそれはそれはピーチクピーチク囀ってくれる。奥方連中には圧力かけても圧力鍋みたく飯を旨くすることしかできんて」
その言い方に紫苑は少し笑みを浮かべた。中々面白い老人のようだ。
「それで、その事件と紫苑君たちにどんな関係があるの?」
笹百合が訊ねる。が、紫苑にはおよその察しがついた。
「つまりその巻き込まれた中学生の症状が…」
「うむ。口がまったく動かなくなったり、両足の感覚がなくなったりしとる。殆ど意識不明じゃがな」
紫苑と忍と、同一の症状。
――あの森の、呪い。
「僕ら、その問題に巻きこまれたってことかな?」
忍が言った。
「…俺ら、その中学生いじめたのか?」紫苑は不安げに訊ねた。
「中学時代はそれなりにやんちゃしたけどそれはない。というか校区違うし」
「ま、とばっちりか何かじゃろ」
他人事のようにお爺さんは言った。実際他人事なのだろうが。
「…どうにかならないのかな?」
笹百合が呟いた。
「その神隠しの関係者でこの世に残っている被害者はいないの?」
「そんな逝去したみたいに…」
と笹百合が言ったがあまり笑えない。
「いるっちゃいるが…」
おじいさんが声を詰まらせた。
「どうしたの?」
「笹百合、一昨年の冬に万引きした餓鬼。覚えとるか?」
「…あ、うん」
笹百合が歯切れ悪く答えた。
「あの子供が、最初の失踪者じゃ」
「…えっ?」
「笹百合、知ってんのか?そいつを」
「うん。そんな知り合いってほどでも無いんだけど…」
「こいつが、万引きした中学生を許したのさ。ご丁寧に商品あげてよ。ま、その後は常連じゃったがな」
そうお爺さんが嫌味っぽく言うと、笹百合が身をびくりと震わせた。
「売れ残りもったいないし。それにあの子、顔に傷があって今にも泣きそうだったから…」
笹百合が言うには、その子は華奢な体つきで、顔に誰かから殴られた後のようなものがあったという。最初の失踪者はいじめにあっていたという証言もあったし符号はしている。
「ふん。お前はいつもそうだ。残りものの弁当をホームレスのじじいどもに渡したり、かわいそうだからと餓鬼どもの万引きを注意するだけで見逃したりな」
確かに笹百合ならばそういったことをしそうではある。倫理とか、正義とはまた違う慈愛。だがそれは、憐憫とほとんど代わりが無い。
「あの後ワシが、お前に内緒で親御さんと話しつけてきたからそんな気にせんでええ。とにかく、そいつが行方不明になったんじゃ」
「名前は?」
「西永線葉」
「センハ」
変わった名前だ。ニュースでは地方の、未成年の事件ということでか名前までは出ていなかったと思う。もしくは紫苑が見逃していたか。
「そう、なんだ…」
笹百合が顔を曇らせた。もし、自分がその子の神隠しを止められなかったと、思っているのだろう。
「そう思っているうちは、何やっても無理だ」
紫苑が言った。笹百合がはっと顔を上げた。
「紫苑くんっていじわるだね」
「心外だな」
笹百合に笑みが戻る。
「ごほん」おじいさんが咳払いする。
「とにかく、初めの失踪者がそやつで、それ以降、そやつをいじめていた奴らが様々な不幸に見舞われとる。そやつには察しの通り友人が少なくての、話をできるのは一人しかいなかったそうじゃ」
「なんでそんなこと知ってるの?そんなことまで噂にはならないでしょ」
忍が訊ねた。
「その友人がワシを訪ねてきたからの」
「なにそれ。知らないよ私」
笹百合が非難の目を祖父に向けた。自分が置いてきぼりな場所で、物事が進められているのに憤りを感じたのだろう。
「まあ待て。ワシも、葉もお前に神隠しに触れてほしくなかったからの」
葉というのは、笹百合の父親のことだ。先ほどの話から、親の心情は想像に難く無い。もし今この町を蠢いているものがかつてと同じものならば、また大切な家族を失うことになる。それが、年端もいかない娘ならなおさらその不安は大きいだろう。
大人の倫理とはそういうものだ。それには子供が納得しないということも含めて。
責任をしょいこむことは子供でも大人関わらず人間が持つエゴである。献身的な理由ではなくあくまで、自身の独占性によって引き起こされる事柄であり、そこには優しさという偽善が敷かれている。だが、子供であってもその独善的なエゴは見抜けるものだ。
「勝手だね。おじいさん」
忍がぴしゃりと言った。おじいさんは反論する気は無いようだった。
「こういう問題は難しいからの。危険ということも含めてだが、何より他人の居場所の侵害になる。それがどれほど酷いものだったとしてもな。
さあ、話を戻そうか。センハは、その友人には万引きをして見逃されたことも話していたらしい。そやつに話を聞けば、あるいは、その呪いの手がかりが掴めるかもしれん」
おじいさんは言った。そして忘れないように付け足した。
「笹百合、お前はこれ以上関わるんじゃないぞ」
「…なんで?」
笹百合は無理やり語尾を上げた。
「口で言わんといかんか?」
おじいさんは心苦しそうに言った。彼にしてみれば家族を二度失うようなものだろう。しばらく笹百合は下を向いていた。ぎゅっとスカートを握り締め、考えていた。
「おじいちゃん。その話を聞いて私がじっとしてると思う?」
数秒の後、搾り出されたのはそんな言葉だった。
「…思わんな。だから言いたくなかったんだ」
「じゃあなんで言ったの?」
「言わんくても、そこの小僧どもと噂から遅かれ早かれたどり着いただろうしの。それに…」
おじいさんは深くため息をついた。
「お前さんの母親みたくしばらくふさぎこんだあとにどやされるだろ」
図星なのか、笹百合は顔を赤くして俯いた。どうやら彼女のお節介は母親ゆずりのようだった。だがそれが彼女の母親をこの世ならざる場所へ誘いこんだのだ。
「で、その失踪者センハの友人って誰なんだ」
紫苑が、話を戻すように言った。
「うちのアパートの一階に住んでおる」
まさか。
紫苑の脳裏に今朝会ったあの少女が思い出された。
「名は、星野銀奈」
「親父!」
急に、部屋の扉が開いた。そこにいたのは、笹百合の親父さんだった。
「なんだ?また高崎さんとこからのクレームか?爬虫類の餌は扱わんと言っておけ」
クレーム常連者がご近所さんとは中々苦労しているようである。
「そっちは今店にきてるから親父が対応してくれよ。俺じゃあのばあさんと止まらねえ。それもあるが、えっと、どっちが紫苑くんだっけ?」
「あ、俺です」
紫苑は答える。
「電話」
「は?」
「君に」
両親だろうか。両親にこの店の電話番号は教えた覚えはない。もしかして不動産経由で知ったのだろうか。だがそれでも電話をするならば紫苑の携帯電話に直接かけるはずだ。それにここに紫苑たちがいることは、この店の人間以外誰も知らない。
「誰から?」
「宮守椿姫といえばわかるって」
「な!?」
宮守椿姫。
なぜあいつが俺に、この店に、電話をかけるのだ?
「宮守。ってえと、あそこか、あの夫婦がいた青岳神宮か」
「おじいちゃん知ってるの?」
「知っとるもなにも、お前の母さんを捜して行方不明になった夫婦の神社だ。その娘は知らんが、婆は天地がひっくり返っても死なん妖怪みたいな女じゃった」
くわばらくわばらと言っておじいさんは腰を上げた。
「あの婆さんの孫だ。心してかからんと足元すくわれるぞ、小僧」
「…わかってますよ」
笹百合の父親に案内され、いまどき珍しいダイヤル式の黒電話をとった。
『腕の調子はどう?』
「さあな」
第一声から、人の神経を逆撫でするような声音の女だった。
『あらあら、泣き言の一つでもよこしてくるものだと思っていたけれど』
「よくここがわかったな」
挑発には取り合わずに言った。
『うちのクソ婆様は人間じゃないからね。この町範囲なら現実での霊視はほぼ絶対よ』
実の孫からすら人外扱いとは、中々化け物なお婆さんのようである。
「あいかわらず胡散臭いが、信じてやるよ。で、わざわざ何の用だ。こっちから来いって言っていなかったか?」
『私としてはそれでいいんだけどね。どうやらうちの婆様があなたたちに興味を持ったらしくてつれて来いって煩いのよ。それにあなた、神隠しの事件、何か掴んだでしょ。取引といかない?』
「ここのおっさんに聞けばすぐわかるようなことばかりだぜ?」
『私はこれでも宮守の人間だからね。過去のこととか色々あるの。そこのお母さん、結局助けられなかったし…』
そこで、宮守椿姫は言葉を切った。
『で、どう、取引に応じる?』
「そっちの要求は?」
『私の家に来て婆様の要求を聞くこと。現行神隠しの第一失踪者の背景の情報』
「おいおい、二つ目はともかく、要求を聞く要求ってまんま詐欺の手口だろそれ」
『しょうがないでしょ。私も婆様に詳しくは聞かされてないんだから、それと、あなたの持っているその刀がほしい』
「ああやっぱりこの板、刀なんだな。教えてくれてありがとよ」
『…っ』
宮守椿姫のかすかな動揺が電話線越しに伝わる。
「こっちの要求に応えれたら、後払いでどうだ」
『…へえ、珍しく殊勝ね。でも後払い?踏み倒す気?』
「そこまで腐ってる気はないが。あんたがでたらめである可能性も捨てきれないからな」
『ふん。そのでたらめに助けられたくせに』
宮守は挑発が得意な癖に少し短気なところがある気がした。紫苑も他人のことは言えないが。なんとなく彼女へのやり方はわかってきた。
「こっちの要求は、そっちの想像通りだ。俺達の奪われた全てを取り返したい。それから…」
『なに?』
「仲野笹百合の母親の捜索」
『それは無理よ』
椿姫は即断言した。
「なぜだ?」
『詳しく話すと長くなるけど。簡単に言うと絶望的だからよ、生死が怪しいってレベルじゃないし、そんなことしたらミイラ取りがミイラになる。私でも婆様でもね。でもなぜかということには解答を示すことはできるわよ』
「……」
紫苑は数秒考え、結論を出した。
「いつそっちにいけばいい」
『今から、あなたの弟と二人で。その笹百合って子には、刺激が強い話だから』
「青岳神宮…だっけ?場所知らねえぞ」
『あなたのアパートの近くよ…。ま、それは大丈夫よ。だって…」
「紫苑くん!」
店の奥から笹百合が紫苑を呼んだ。その瞬間電話が切れた。
笹百合に言われるまま、コンビニの裏口に向かう。
「さ、来なさい」
コンビニの裏に立っていた椿姫は、パタンと携帯を閉じそう言った。
急に緑の匂いが濃くなった気がした。それは土の匂いであり、花の香りであり、屍骸の腐臭だった。森の空気というのはそういったものだ。だがいつも通る道であるにも関わらず、そう感じるのは半歩先を行くこの女が、そうした森の空気をまとっているように錯覚させるからだ。
ここは青橋市のはずれだった。紫苑のアパートもこの辺りである。恐らく十分とかからない距離だろう。椿姫の話では紫苑たちのアパートから五分ほどで着くくらいの距離らしい。
「ねえ。宮守さんっとこのお婆さんってどんな人?」
忍が訊ねた。目はまだ治っていないが、笹百合のおじいさんから借りた老眼鏡をつけており、歩くくらいなら大丈夫そうだった。
「せこくて抜け目なくて若作りと言葉に容赦がなくて、とんでもなく強い。色んな意味で化け物」
「楽しみだ」
無邪気に忍は顔を綻ばせた。この男はどんな相手でも物怖じしないし、偏見を持たない。
その代わりに、面白くなければ見切りをつけるのも早いわけであるが。
「本当に笹百合をつれてきたら駄目なのか?」紫苑が訊ねた。
「…私はあの子とは離したことはないけど。噂くらいは聞いてるよ。ああいう子は、誰かのためには自分を簡単に質にいれる。掛け値なしに」
「噂になっているのか?あいつ」
「一部でね。ホームレスとか日雇いとか不良とか家出少年とか。その辺りの」
おじいさんの言っていたことを思い出した。
「あういう人は多くが欺瞞だし、彼女も大別はそれだけど、あの子の欺瞞は人からずれているからね。ある意味真実の愛に近いかもしれないけど。私はどっちも嫌いだよ」
こういった女性同士の感情は理解できないし、関わったら痛い目をみることは知っているのであえて触れなかった。それに少し気になる言葉もあった。
「その失踪者のセンハって奴が危ない状況なのか?」
話題を変える。宮守の言葉を深めに読むならば、笹百合が動いてしまうほど、危険な状況の人間がいるということだ。彼女の母親とは違う人間が。
「逆よ」
「逆?」
聞き返したが、椿姫は口を噤んだ。彼女の婆様とやらが教えてくれるのだろうか。
りぃん…
鈴の音。耳の中の空気が転がる。
春ではないだろう。春は今獣医院で傷を癒している。こんなところに来ることなんてできない。
紫苑は後ろを振り向いた。
「どうしたの?紫苑」
「…いや、なんでもない」
聞き違いかもしれないかもしれないし、放し飼いの猫が首をかしげた音かもしれない。そう思い、二人の後に続いた。
たどり着いたのは、小さな丘の麓の長い階段だった。鳥居が玄関になっており紫苑の背二つほどもある石の鳥居は朽ちかけた注連縄が撒かれ、物々しく、入る者を見張っていた。鳥居の側には赤い自転車が置かれていた。恐らく椿姫のものだろう。
「この先よ」
椿姫はめんどくさそうに言って落ち葉が乗った石階段に足をかけた。
りぃん…
まただ。金属がぶつかり合う、清涼な空気の振動。
「鈴の、音」
二人には聞こえないように、紫苑は呟いた。
階段を上がる。急勾配と名高い神域の石階段の例に漏れず、それは高い傾斜を誇っていた。体力にはそこそこ自信があるつもりだが、さすがに息が上がっていった。
りぃん…
また、
「誰だ!」
椿姫が音に反応するように鋭く声を上げて振り返った。
鳥居に隠れていた栗色の髪がびくりと身を竦ませた。
「笹百合だよ。宮守さん」
忍が言った。
鳥居の柱の影から現れたのは、確かに笹百合だった。
「なんで…」
「…」
笹百合は応えない。だが、だいたいの想像はつく。母親の、そしてかつて自分とわずかに関わった少年のことが気になりついてきたのだろう。
「忍、気づいてたのか。なんで黙ってたんだよ」
「うん。面白そうだったから」
こいつは。
「あなたにどうにかできる問題じゃないわ。帰って」
宮守はそう言った。
「でも!」
「母親みたいになろうとしたのよね。無関係の誰かでも助ける。家族の中においてもね。それがあなたの行動原理」
笹百合の体がびくりとすくんだ。
「だけどそれは、自分の母親の帰る居場所を埋めてしまうことには気付いてる?」
「そんなこと!…」
「そしてそれが、もし母親が帰ってきたとき、自分の居場所を失うことだとわかってる?」
今度こそ笹百合は口を噤んだ。
「浦島太郎がなぜ不幸なのかわかる?それは老人になってしまったことじゃない。元より自分が所属していた、自分というものを形成するコミュニティを丸々失ってしまったこと。それをあなたはそれを母親に行った。母親がいなくなっても大丈夫なように。そんなことをして、あなたは、母親の前で平気で居られるの?」
「お母さんは生きてるの!?」
「平気で居られるの?って聞いているわ」
りぃん…
鈴が鳴る。笹百合のものでは、ない?
「笹百合、この鈴の音。お前のストラップかなにかか?」
突然の紫苑の質問に全員面食らったようだった。
「鈴?そんなものもってないけど…」
「鈴!?あなた、それが聞こえるの?」
椿姫が切羽詰ったように紫苑に詰め寄った。
「あ、ああ。つかさっきからずっと鳴ってるぞ?聞こえないのか、お前ら」
忍と笹百合が何を言っているのかわからないように首を傾げた。
だが、その言葉に椿姫は顔を青くした。-
「全員上の鳥居まで走りなさい!仲野さんも!」
「なんで…」
「いいから早く!飲み込まれてしまう!」
鬼気迫る声に、全員の足が動いた。少し上にいた忍がいち早く、他の三人がそれを追う形になった。
りぃん…りぃん…
音が大きくなる。小さなその音が鐘のように大きくなっていく。音の鳴る感覚が狭まる。
長い階段の先、いち早く忍が足をかけようとし、
突然、頭上高い太陽が西に白けた。
あまりに眩しく、全員が目を細める。
強い森の匂いがする。
鐘が鳴る。たかく、たかく、…そして無音。
音が戻っていく。木々のざわめきが響き、石階段がなくなっていた。
夕暮れ。目の前に増える木の影。
――そこはあらゆるものを飲み込む、傾斜を持つ森の異界だった。