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アパートのツキモノ

矛盾?なにそれです。すみません

警察に届けはしたが、帰ってくる気はしなかった。宮守椿姫の言をわざわざ聞いていたわけではないが、財布は絶対落ちない鞄の奥底に入れていたし、最後に入れておいた記憶もある。忍も紫苑も太陽が西の山に隠れるまでできる限り探したが結局みつからなかった。

 本当に、ツいていない。

 それだけならばまだ大きなダメージはなかった。クレジットカード等はもっていないし、通帳も家の机の鍵付の引き出しにいれている。財布には大した金額はいれていなかった。

 だがツいていないはそれだけではなかった。

 アパートに帰ってくるといつもは墓地のごとく静かなそこが喧騒に包まれていた。住人らしき人々が蟻のように入り口に集まっている。締め出されたのか?と一瞬思ったが、このボロアパートにはオートロックなどの便利なものはない。

 よくみると人だかりの中心には警官がいた。紫苑は嫌な予感がした。

 亡者のように詰め寄るうちの一人に声をかけた。同じ階の確かよく朝に会う三十代のOLだった。

「どうかしたんですか?」

 OLはまるで悪鬼のごとく顔を紅潮させながら、唾をとばした。

「空き巣だよ!二階の住人全部やられちまった!あんたのところもだよ!」

 紫苑は、何も言葉を返さず、自分の部屋に向かった。、このアパートは日中殆どが出払う上に、管理人の一人もいない。だがこんな場所を襲う甘みはないため、今まで大丈夫だと住人の誰もが高をくくっていた。

部屋の古い木製の扉は傷はなく、鍵も掛かっていた。紫苑の部屋は大丈夫だったのだろうか。そんな甘い期待抱いたが、扉を開けるとそれは粉々に砕かれた。

 部屋は目もあてられない状態だった。あるものは壊され、あるものは全てを出され、机の引き出しは鍵を無理やりこじ開けられていた。そして、当面の生活費を入れた通帳は当たり前のようになくなっていた。

 天地がわからなくなったように感じた。右腕は動かず、落とさない場所に入れた財布を落としたその日に空き巣に会う?そんな不幸の三連星のようなもの。厄日という言葉すら生ぬるいだろう。

 それこそ、何かワルイモノにツかれているのではないかと思うほどに。

 力なく部屋からでると、忍が待っていた。

「どうだった?」

 紫苑が訊ねた。

「明日からはもやしすら買えないかもな」

 紫苑は肩をすくめた。

「…おツかれ様」

 その言葉すら、恣意的に聞こえてしまう。

「警察に言ったら保証してくれないかな」

「賃貸の契約書ひっぱりだすか。お前のところは?」

「まだ入っていないけど、カードは全部僕の含めて紫苑が管理してるじゃん」

 そうだ。紫苑は、儀父母の「信用」の元に二人のカードを預かっている。それを裏切ったということだ。

「一応みてみるよ。奇跡が起こっているかも知れないし。紫苑は親父とおふくろに電話して」

 あまり両親には期待できない。なぜなら二人は今、時差八時間のアメリカで仕事をしているのだ。いや、もしかしたら別の場所にいるかもしれない。通帳の再発行などの手続きをあちらで出来るとは思えない。左手で苦戦しながら番号を押す。

「紫苑!」

 忍が叫んだ。

 紫苑は携帯電話をしまい、蹴り破るように鍵が開けられた扉を開けた。まさか。まだ空き巣が潜んでいたのだろうか。

 焦燥に駆られながら薄闇の部屋に入った。相も変わらず、ものものしい部屋だった。衣服は投げ散らかされ、スナック菓子の空袋が散乱している中、酒瓶と、柱のごとき本の山が聳え立っている。

 その中で忍はうずくまっていた。まるで何かを抱えるようにしていた。

 かすかに聞こえる泣き声で、紫苑は背筋に寒いものが走った。それは忍のモノではない。弱弱しく、今にも死んでしまいそうな、猫のものだった。

 ――春だ。

 薄闇に包まれている春の体は、蹴られたのか胴の辺りが抉れ、口から泡と血が流れていた。爪には赤いものがこびり付き、目が開けられないほど苦悶にうめいている。

「…紫苑、獣医さんに電話。南側三百メートル範囲に一軒あったはず。閉店でも無理やり開けてもらって、お金はたぶん、アパートのみんなに言えば出してくれるから」

 珍しく、忍の声に怒気が混じっていた。

「…わかった」

 紫苑は携帯をとりだし走る。うまく動かない左手を頼りに地図検索機能で獣医院を探す傍ら、何かに押しつぶされそうな心持だった。

 なぜ、春が傷つけられたのか。決まっている。賢い春のことだ。入ってきた空き巣に応戦したのだろう。そしてごみのごとく蹴られた。

 ――あなたは今、ツいていないし、ツかれている。

 宮守椿姫の言葉が本当の呪詛のように心を蝕んだ。

 ああ、確かに今自分はこれ以上なくツいていないし、ツかれている。

 だが、それは他人を巻き込むことがあっていいのか?

 春がそれで傷つけられていいのか?

 一通り憤り、いや、そうではないと思いなおす。

 …あっていいとか悪いとかそういう問題ではない。

 もし、運命や運勢などというものがこの世界の不文律として流れているとしたら、それには善悪すらない。絶対的で、暴虐的なものなのだ。確かにそれは不条理なものだ。

 不幸は誰かに連続して降りかかることはある。本当によくあることだ。そして一人の不幸が他人を巻き込むこともまたよくあることだ。

 だがそれには明確な意思はないはずだ。あくまで偶発的に連続しているだけ。

 しかし今の不幸な流れは、恣意的な意思が介在している感触がある。

 その違和感にはぬぐいきれない要素がある。それは、あの山での出来事だ。

 宮守椿姫が示唆したように、これらの不幸があの森での出来事によって行われたことならば。このたくさんの人を巻き込んでいる状況は、紫苑の不注意から起こったことなのでは無いか。

 自分の軽はずみな応戦が、これだけの人を不幸にしてしまったのではないのか。

 穴があるなら埋まってしまいたかった。そして叶うことならそのまま叫びだしたかった。

 どうすればいい。どうすれば、こんな取り返しのつかないことを取り返せるのか。

 メゾットはどこにあるのか。

 自分はあの世界に対して、あまりにも無知だった。

 アパートの住人達が集っている玄関に向かう。どうやら紫苑が姿をみたことがない管理人を待っているようだった。

 警官に詰め寄る人たちを押しのけ、春のことについて声をあげようとしたそのとき、誰かにぶつかった。柔らかな感触だった。

 女性特有の匂い、柔らかさ。

 ――腐臭と鉄くさい血液の味、胃から這い登る肉の味。

 一瞬、古い記憶とともに嘔吐感が全身を襲ったが、無理やりそれを飲み込む。もう、いい加減克服するべきだ。

「きゃあ!」

 どこか聞き覚えのある声だった。声の主はその声のまま紫苑の前で尻餅をついた。

「えっ?室戸君?」

 どこか間延びした柔らかな声。栗色のゆるくまとめられた髪。眠気を誘う大きな瞳。そして綿毛のようなその物腰。

「…えーと」

 誰だっけ。

「仲野です!」

 そうだ。仲野笹百合だ。ひどい!と仲野は言っている。

「なんであんたがここにいるんだよ」

 確か仲野は実家から学校に通っているはずだ。今朝行った自営業のコンビニエンスストアだ。

「えっと、このアパートの管理私んちなんで、お父さんがくるまで私が代理を…って室戸くんはここに住んでるの?」

「あ。ああ、じゃああんたは…」

 そういうと仲野は胸を張った。住人達は「ああ、お嬢が来た」「じゃあとりあえず大丈夫かな」などと言っている。

「はい!管理人代理、仲野笹百合です!」

 月夜より尚まぶしい笑顔で仲野は言った。

 先ほどまで全身を支配していた虚無感が、悉く崩れて暖かな虚脱に代わっていくのを紫苑は感じた。




 春の重症を聞いたアパートの住人達は色をなして怒り、気が気でない様子で獣医院の手配や、金銭のカンパ等をしてくれた。ペット厳禁のはずの賃貸であるはずだが、管理人代理の前で堂々と居ついた猫の話をしていた。

 とはいえ、春と今朝出会った仲野は、誰よりも挙措を失っていた。

 獣医をたたき起こし、数割増しの診察料を払った結果。何とか一命を取り留めることはできたようだった。ただ強く蹴られたことにより、圧迫骨折に加えて呼吸器に大きなダメージがあったらしく三週間の入院と二ヵ月の通院が必要になった。元々ボロアパートに住むような人間であり、その日の仕事で糊口を凌いでいる住人も多かった為、その費用の目処は中々つかなかった。

「しょうがない。うちがだそう」

 鶴の一声を発したのは、仲野の父親だった。どうやら数年前から春がいたことは黙認していたらしい。

「じゃあ、二人とも今年の春休みからこのアパートに住んでいるんだ?」

「ああ」「うん」

 警察の事情聴取や、損害契約などの諸々の雑事をおえ、三人は紫苑の部屋で一息ついた。

 小さな座卓テーブルの上に、安物のマグカップにインスタントコーヒーが三杯。笹百合はブラックのままだ。警察の調査の後、部屋は客が来ても、まあ目を瞑ってもらえる位には整理したが、激しく損傷した机の引き出しは直しようがなくそのままだった。ちなみに忍の部屋は犯行前と犯行後も対して変化はなかった。つまりはひどい有様である。

 笹百合の父親は、他の住人にそれぞれの収入に沿った話し合いをしているらしく、アパート中を回っていた。仲野も何人かは回ったらしい。

 仲野家の父は、この笹百合という娘から想像できないほどガタイの良い父親だったが、どこか同じような柔らかな雰囲気を持っていた。同じクラスだからという理由で、紫苑の部屋に笹百合を任せる辺り、人を信じやすい人間のようだ。もしくは賃貸業もしている分、他人をみる目には自信があるのかもしれない。

 現に紫苑もそちら方面ではまったく駄目である事情が有る。忍に至っては女には全く興味はないし。勿論同性愛者でもない。そう言った意味では彼女は安全といえるだろう。

「アルバイトはするの?」

 笹百合が訊ねてきた。

「しなきゃ、あと三日で干上がるからな」

 紫苑は答えながらため息をついた。残金はしめて百三十一円である。

「働きたくないなあ」

「ならてめえは霞でも食ってろ」

「僕はお酒がいいな」

 そういいながら紫苑は半分になったマグカップのコーヒーにウィスキーを足そうとした。それを紫苑は手で叩き落とす。

「ひどいよう。笹百合ぃ、紫苑がいじめるー」

「え。えっと、室戸君」

 笹百合は困ったようにこちらを向く。

「一々こいつに合わせなくていい。第三者のあんたの前では飲ませないから」

「…いつもは飲んでるの?」

「俺は預かり知らない、ということにしておく。俺は必ず止めているし、飲んでるところもみたことない」

「大丈夫だよー。これ一度煮沸してアルコール飛ばしているから」

「なんでわざわざそんなことを…」

 まったくである。アルコールのないウィスキーなど価値があるとは思えない。

「頭の中がかゆいんだからしょうがないよ」

 理解不能である。

「つうかお前がそんなもの買うから、俺らの生活費圧迫してるんだよ!酒は普通に高いからヤメロ!」

 空き巣が入っていなくても自分達兄弟の家計は火の車だったりする。

「まあまあ…。でもそんな切迫するなんておかしくない?通帳うんぬんはともかく、現金はないの?契約名義はしっかりご両親だったし。仕送りとかどうしたの?」

「落とした」

「へ?」

「財布な」

 笹百合は目をぱちくりさせた。

「えっと、…意外と室戸くんおっちょこちょい?」

「うん。割りとー」

 ぐりぐりぐりぐりぐりぐり。

「痛い痛い紫苑痛い」

「色々あってな」

「それにその腕どうしたの?クラスのみんな結構噂してたよ?」

「…そういうの嫌いなんだけどな。どんな噂だ?」

「今更目も当てられない中二病」

 紫苑の胸に不可視の何かが深々と刺さる。

「場違いななんちゃって不良、設定がまず痛い兄弟」

 さらにツーコンボが炸裂。帰る間際のクラスメイトたちの妙な視線を思い出す。

「………#」

「ひぃ!ご立腹!?」

 笹百合は紫苑の顔を見て新米の闘牛士のように顔を青くした。

「どうどう」

 と忍がなだめたが、逆効果である。

「あ、あ、ああいつら、今度一発殴ってやる…」

 羞恥と怒りで顔を赤くしなが紫苑は呻いた。

「まあそれは後々考えるとして」

「考えないでよぅ…」

 笹百合が力なく呟く。

「でも、今朝から不幸なんだよねえ。僕ら」

 そうだ。本当に今日は――ツいていない。

 はふう、と忍が煮沸ウィスキーが入った酸味の強いブラックコーヒーをすすりため息をついた。

「今朝…って、私の店に来たあとだよね。あの後遅刻してたけど、どうしたの?私より先に学校行ったのに何で一時間も遅刻してたし。あそこから学校まで迷うはずないもん。それにその…」

 笹百合が机を挟んだ奥の、紫苑の右腕に目をやった。包帯に包まれ、三角巾に吊り下げられたそれはいくら力を入れても微動だにしなかった。転んだくらいでこんなことにはならないだろう。

「ねえ紫苑。結局親父とかに連絡した?」

「…あ、いやまだだけど」

 朝は電話は通じなかったし。夜は春のことや、警察との話もあって結局まだしていない。警察が関わったのだから連絡はいくだろうが、もう深夜なので、警察から一報が届くのは明日になるだろう。

「僕、してくるー」

「良いって、俺がなくしたんだから」

「紫苑、右腕までとられて守ってくれたんだからこれくらいさせてよ」

「そんなの関係ないって…」

「それに、僕が言わないと紫苑その腕のこと言わないでしょ?」

 その言葉に紫苑は口を噤んだ。まさにその通りだったからだ。

「大丈夫。階段二段飛ばしして落ちたって言うから」

「ヤメロ。つうか、しねえよ」

 忍はけらけら笑いながら玄関に向かった。電波の良いところに行くつもりだろう。もしくは紫苑の対する申し訳なさを察したのかもしれない。

『今日僕たち不幸なんだよね』

 それの原因はたぶん、あの森での軽はずみな行為。

 忍の制止を振り切ったことで忍まで呪いが及んだあの出来事

 もしこの先も不運が続くとしたらあの弟を巻き込むことになるかもしれない。

 そんな紫苑の危惧を、忍は目ざとく嗅ぎ取っているのだろう。

「…大丈夫?」

 笹百合が言った。どうやら顔にでていたようだ。

「たぶん、この状況は、俺のせいなんだ。だから本来責められるのは俺なんだろうな」

「違うよ」

 笹百合ははっきり言った。

「少なくとも、そう言っている限りあなたには非はないから。それに、よくわからないけど、室戸くんが根拠にしている原因は室戸くんの善意によるものだと思う。だったら誇りこそすれ、非を感じる必要はないよ」

「だが、もし俺のせいで皆が…」

「そう思っているうちはどんなことをしても駄目」

 笹百合はどこか諭すような口調だった。

「…」

「たぶん室戸くんは、責任感の強い人だと思う。だけど責任も負うべきものと負わなくていいものがあるよ。責任から逃げる人もいるけど、負おうとする責任を見極められない人もまた多い。だから、ね。そんなに自分を責めないで」

「…悪かった。変なこと言って」

「いいよ。室戸君いい人そうだし」

 笹百合は言った。快い声音に、紫苑は息を吸った。

「仲野、信じてもらえないかもしれないが聞いてくれるか?」

「笹百合でいいよ。室戸君」

「なら俺も紫苑でいい。笹百合」

 紫苑の言葉に笹百合はにこりと笑い、うなずいた。心の底から安心できるような、暖かな微笑だった。




 森での出来事を言葉にしていくと、自分達に起きた出来事があまりに現実離れしていることを改めて思い知った。

 路地裏で森に迷い込み、朝から三時間と立たず夜も更け、小人に会い、鎧武者に襲われ、腕と心臓を貫かれる。タンタンやガリバーでもこんな奇妙な冒険はしていないだろう。こんな話、どれ程声高に叫んでもドンキホーテにしかなりえない。

 だが、笹百合は熱心に耳を傾けていた。最初は人を疑わない性格なのかと思ったが、なんとなく違うようだった。

 宮守椿姫のことも話した。そのことは笹百合も驚いていたようだった。彼女は紫苑が会った中で誰よりもあの世界に詳しそうで、癪に障る人物だった。

「手がかりってないの?そういえば、その刀を捕ったんだよね?それどうしたの?」

 一通り語り終えたとき、笹百合が訊ねた。

「ああ、こっちに戻ってきたときはなくなっていたけれど、代わりに」

 紫苑が左手でポケットをまさぐり、光を鈍く反射する幅三センチ、長さ十センチほどの鉄の板をだした。

「これなんなのかな?」

「知らん」

「ナカゴだよーたぶん」

 そう言ったのは、忍だった。どうやら電話は終わったらしい。

「どうだった。親父」

「金かかってもいいからでかい病院に連れてけってさ。あと財布も通帳も盗まれたって言ったら、急いで送るって」

「悪い息子だな」

 財布は紛失だ。盗まれたのは通帳だけである。

「それほどでも。でもやたら通信が悪い場所らしくてさ。通帳の再発行と振込みに一ヶ月かかるかもって」

「…どこで商売してんだよあの夫婦。アメリカじゃないのか?」

「アフリカで浄水装置をなんとかって言ってた。新しい制度ができたから利益がどうとか」

「そんなのNGOに任せろよ…。でも一ヶ月か。確定的に足りないな、食費と光熱費と雑費」

「仏陀は六年食わずに生きたよ?」

「そのくらいなら俺は煩悩に塗れていたいわ、やっぱバイトを探すか。だが一日二日で見つかんのかなあ。バイト」

「あの~ナカゴってなに?虫?」

 脱線した会話を元に戻そうとしたのか笹百合が訊ねた。

「たぶんそれはイナゴのことだよ」

「ゴしかあっていないじゃねえか」

 そういうと笹百合はむうっとむくれる。

「茎っていうのは、簡単に言うなら、刀身の柄部分のことだよ。ほら、上ら辺に穴があるでしょ?ここに釘とか打ち付けて柄とくっつけるの」

「室戸くん、ものしりだね」

「忍でいいよ~。で、彫ってある筑前国っていうのは地名、今の福岡辺りのこと。唐国、今の中国からきた鍛冶の一族が住んでたって話だったはずだよ」

 忍は本をかなり読む。最低限の生活費以外は酒と書物に使うくらいだ。妙な方向の知識はたんまりと頭に入っているのだろう。

「じゃあ、これは紫苑くんが…その、盗んだ刀なの?」

「人聞きの悪い」

「まあ、そう考えるのが自然だと思うな。質量の原則とか無視してるけど」

 確かにあの森で奪ったのは黒塗りの柄の刀だった。反りも結構あっただろう。当たり前だが卓の上においた鉄の板とは大きさも重さも全くの別ものだ。

「異界、だからかなあ」

 異界。宮守椿姫はかの世界をそう言い表した。確かに、それ以上あの世界を表す言葉は無いだろう。ありえない生物が存在し。人が刃で貫かれても死なない。だが「何か」を失ってしまう世界。

「その異界とやらについてなんだけど」

 笹百合がぽつりと声を上げた。

「何だ?」

「二人は、この町には来たばかりなんだよね?」

「ああ、県も違う。車で三時間かかるくらいだな」

「地元、いい高校なかったしね。工業高校ばっかりで」

 色々地元に居辛かったという理由もあるが。わざわざ話すことも無いだろう。

「じゃあ、この町の噂知らないの?」

「噂?」

「うん。神隠しの噂」

「そんなのがあるのか?」

「あるの。みんな怖がってあまり話さないけれどね。長く住んでる人なら全員、絶対小耳に挟むはずだよ」

「なんで?神隠しなんて面白おかしく話しそうな話題じゃない」

 忍がもっともなことを言う。

「人死がでるから」

 笹百合が搾り出した言葉は、部屋の温度を下げたかのように冷たかった。

「人が…死ぬのか?」

 鸚鵡返しのような紫苑に笹百合はこくりと頷いた。

「かなり昔の、お父さんが小さい頃からあった噂、っていうか事件なんだけどね。

 五年くらいに一度。若い子とか母親とか、ふいにふっといなくなるの。この辺りって隠れるところ少ないし、駅も利用者少ないから家出はすぐにみつかるんだけど。いくつかの失踪はどうしてもみつからないの。

 でね。その人たちが神隠しに会った後にその人の近くの人、友達とか…家族とか…そういう人もいなくなったり、川で溺死したり、自殺したりする。絶対他殺じゃなくて、事故とか、自殺なの。それで何人か亡くなった後に、最初の人もみつかるんだけど」

 笹百合はそこで一息つく。あまり話したくないことのようだ。

「その人も最後にはいなくなっちゃうんだ」

「警察とかは?」

「昔は必死に捜査したらしいんだけどね。一度警察から何人も行方不明だしたらしくて、それ以外あまり関わろうとしない」

「国家権力カッコ笑いだ」  

 忍は揶揄した。だがしょうがないのかもしれない。

「じゃあその神隠しの正体が、俺らの迷い込んだ森だって言いたいのか?」

「ううん。そこまではわからないよ。私は入ったことないし。でも、神隠しにはもう一つ噂があって。戻ってきた人の少ない証言なんだけど」

「なに?」

「…望みが叶う。夢みたいな場所だったって」

 望みが、叶う?

 二人が迷い込んだ世界は異常でありこそすれ、願いが叶うようなユートピアではなかった。ならば、あの世界と神隠しはまったくの無関係なのか?いや、あんな不可思議なものがこの世にいくつもあったらたまらないと紫苑は思った。

「結局その人もいなくなったらしいし、噂の域をでないけどね」

 と笹百合が続けた。

 紫苑は冷たくなったコーヒーを啜った。苦味を強く感じたのは、カフェインのせいだけではないだろう。

「じゃあさ。笹百合も気をつけないとね」

「なんで?」

「僕たち、その夢みたいな世界に入ったでしょ?」

 もし噂が本当ならば、近しい人が死に至る。

 今のところこの町に着たばかりの自分達兄弟に近しい人は限られている。笹百合のように。

 それを理解したのか、笹百合は俯いた。

 もしかしたら、この兄弟に巻き込まれて自分は死ぬかもしれない。そう考えているのだろう。

「笹百合、あまり俺達とは関わらないほうが…」

「嫌」

 紫苑の言葉に被せるように笹百合が言った。

「黙って、みておくなんてできない」

 まるで、この後、兄弟に何かが起こるとわかっているように。

「そういえば、バイト探してるんだよね?」

 気分を変えるように、笹百合が言った。

「ああ、ちょっと後でコンビ二の求人立ち読みするつもり」

「とりあえず明日のごはんだよね」

「じゃあ、うちで働かない?」

 うち、というのは、あのコンビニのことだろうか。

「…いいのか?」

「二人同時はさすがに無理だと思うけど、深夜の人手がないから。たぶんシフトに空きがあるよ。それに残り物くらいあげられるし」

「そんな。悪いって」

「悪いのはこっちよ。物件で事件が起きた責任があるし、ちょうど人手も足りなかったところだから」

「ここは甘えようよ紫苑」

 実際、今すぐにでも収入を得る手段を見つけないと生活が厳しい。この笹百合の申し出は渡りに船である。

「そう、だな。すまない。頼めるか?」

「いいっていいって」

 笹百合は笑顔で返す。この女性は、他人に屈託なく善意を分け与える女の子だった。それが少し、紫苑にはまぶしかった。

「じゃあさ、明日、僕が行っていい?」

 忍が言った。

「忍?」

「念のためにね」

 そういって忍は笑った。





「忍」

「なあにー?」

 笹百合が帰った後、二人は紫苑の部屋でくつろいでいた。夜もふけており、本当はすぐにでも寝た方が良いのだろうが今日起こったことを反復すると心が休まることがなかったのだ。

 なので、紫苑はインターネットで自分の腕の症状と、この町、青橋市の噂について調べていた。どうやらこの町は一部の心霊マニアには有名な場所であるらしいが、実際に笹百合の言ったような事件が起こるのは地域住民にだけらしい。

 それでもこの町から住人達が出て行かないのは、事件がかなり長い間隔をかけて起こること。この町が昔は山で鉄鉱石が採掘された為製鉄が盛んでありそれ由来の公共の良さ。あと都市に一本快速が通っている交通の便利さからのようだ。

 なんにせよ。本当にわずかな噂のみしかみつからなく、手がかりらしいものはなかった。

「なんで明日はお前がいくんだ?笹百合の親父さんから許可でたからよかったけれど」

 自分の扱っている物件で事件が起こったことに対しての引け目もあったのだろう。大した給料は出せないが、違うバイトがみつかるまで、衣食住の「食と住」くらいは保証すると言ってくれた。本当にやさしいひとのようだった。

「宮守さんの言葉、覚えてる?」

「ん?なんかコンビニについて話していたか?」

「そうじゃなくて…落し物に注意して、買い物は控えたほうがいいってさ」

「そんなこと言ってたか」

「それで、落し物は、本当にあったことだよね」

「まあな…」

 さすがにそれは否定できない。

「うん。でも、買い物についてはまだ何も起こっていない。でも、買い物も、財布の落し物もお金が関係する事柄だよね?」

「まあ、確かに」

「で、紫苑はツいていない。だけど今のところハードラックが重なっているのは金銭がらみだけ」

「で、なにがいいたい?」

「本当に迷信めいた力が紫苑に働いているなら、お金に関わることになるべく関わらないほうがいいと思うんだ」

「…考えすぎじゃねえの?」

 つまり、紫苑が奪われたものは。

 金運?

 朝の星占いでもあるまいし。

「用心するに越したことはないってこと。石橋は叩いて渡っとかないとね。…それにこれ以上笹百合の家に迷惑かけたくないし。そもそもその腕じゃ、出来る仕事少ないでしょ」

「…それには同感」

 空き巣被害もあるし、こんな安い物件を扱っているくらいだ。経営は苦しいだろう。それでも生活費の当てがないという理由で紫苑たちを格安だが雇ってくれた。

「あとさ紫苑、電気暗すぎない?節約もいいけど本が読めないよ」

「我慢しろ。つか、十分明るいだろう」

 実際電気代もとことん切り詰めないと、厳しいことには代わりがない。だが蛍光灯を半分にしただけで、活字を読めないほどではなかった。

「火がほしいね」

 そう言って忍が本を置き、煙草を取り出した。それを紫苑が取り上げる。

「節約だ」

「ほうらって明るくなるのに」

「煙草なんて紙幣丸めて火つけてるようなもんだ」

 紫苑はそのままライターと煙草を取り上げ自分のポケットにしまった。

「没収だ。明日日曜で、九時からモリモリだったよな。忍は」

「うん。メールには一応紫苑も午後から来てほしいって、業務内容教えたいらしいから」

「ああ、それまではもうちょいこの町について調べてみる。だからお前はもう寝ろ。午前だぞもう」

「後四頁」

「なに読んでんだよ」

「ランボー」

「ベトナム帰還兵!?」

「シルヴェスター・スタローンが書いてるのならそれはそれで読んでみたい。詩集だよ。フランス人」

「…相変わらず変なの読んでんな」

 紫苑は詩など教科書以外で読んだことなどない。

「僕もランボーはあまり好きじゃないけどね、どっちかっていうとボードレールのほうが好みだし。あ、紫苑一つ明日の午前中に頼みたいことがあるんだけど」

「なんだ?」

「このアパートの人たちに聞き込みをしてほしい。居る人だけでいいから」

「なんでだよ。そんなことをしている暇があるなら、呪いを解く方法を…」

「紫苑」

 忍が遮った。

「少し落ち着いて。確かにあの森であったことが、今の事態を引き寄せたことは確かかもしれない。でもね紫苑、引き寄せたのは呪いでも実際に盗んだのは人間だ。そこを履き違えたらいけないよ。呪いを解くのも大事だけど。まずは、一刻も早く空き巣の犯人を捕まえること」

「このアパートの住人が怪しいってか?」

「あんな派手に部屋は壊していたのに、鍵は壊わされていない。指紋も残していないみたいだった。こんな大掛かりな時間のかかりそうな犯行なのに、目撃者がいないことを考えてもちょうど住人がいない時間帯を知っていたとしか思えない。それを知っているのはアパートの住人が一番ありえる。計画的なはずなのにどこか杜撰なのが気になるけどね。このアパートは日雇いの人も多いから、金銭を奪う理由は腐るほどある」

「だがこんな派手にやったらいつか捕まるだろ、警察はそんな無能じゃないぞ。通帳はそれだけとっても意味ねえし。使えば即座に捕まる」

 そういうと忍は黙り込んだ。それは忍も考えていたのだろう。

「それに手当たり次第に聞き込みだと時間の無駄のような気がするが」

「101号室の浜さんと、205号室の十時さん、あと、304号室の星野さんだけでいいよ。たしか明日の朝ならいる。スケジュール的に空いてるはずだし」

「…なぜ知ってるデス」

「そんくらいここで暮らしてたらわかるでしょ。見る目がないよ紫苑。結婚できないね」

 あいかわらず、抜け目の無い奴だ。というか数週間暮らしているだけでそんなことまで把握できるのだろうか。

「黙れ、つうか、結婚は無理だってお前もわかるだろ」

「…そうだったね。ごめん」

「別にいい。わかったよ。出来る限り聞き込みしてみる」

 紫苑が承諾すると、忍は「地獄の季節」と書かれた文庫本をパタンと閉じた。

「おっけー。じゃあ、僕、部屋に戻るね」

「飲みすぎるなよ」

「努力はする。朝、起こしてねー」

 そう言って、忍は押し入れの襖を開け、部屋に戻っていった。まったく、能天気なものだった。

 朝起きると、忍はいなかった。いつもは紫苑が起こさなければならないほどの寝起きの悪さなだけに、紫苑は少し驚いた。

 忍が倒れたという知らせを受けたのは、聞き込みを終え、コンビニに向かおうとする、まさにそのときのことだった。


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