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紫苑と忍。そして春

 山のかなたの空遠く


 「幸」住むと人のいふ。


 噫、われひとと尋めゆきて、


 涙さしぐみ、かへりきぬ。


 山のかなたになほ遠く


 「幸」住むと人のいふ。


                    カール・ブッセ 上田敏訳




 春が夢心地にふぎゃっと鳴いた。

 ベッドから落ちた春は、目を細めながらも慌てて辺りを見渡していた。やがて少し曲がった尻尾を立て、紫苑にこの失態を見ていたのかと一瞥をする。紫苑はみていないぞと首を振ったが信じないようで、慰めなどいらぬと背を向けた。その綺麗な両足で跳躍し、再びベッドの上に戻った。体を丸め、冬の気配が残る朝の中、艶のない黒毛をふわふわさせながら暖をとった。

 この雄猫は紫苑がこの古いアパートを借りてからの縁だった。勿論このアパートはペット禁止だが、管理人がおらず住人も少ないことと、春が怠け者だが大人しいこともあり問題にはなったことはない。他の住民たちも餌付けしており、煮干しをくわえながらジゴロ暮らしを満喫してるようだ。

 しかし、どこかの魔女の黒猫みたく言葉を喋ったはしないし、ガールフレンドを連れてくることもない。常に毅然とした眠りを嗜んでいる。そんな春を紫苑は気に入っていた。

「紫苑ー。めしー。ふくー。シャワー」

 同居人が春だけならばどんなによかったことか。高い声が紫苑を呼んだ。押入れの襖から出てきたのは、驚くほど整った容貌をした人間だった。

 肩まで掛かりそうな髪は椿油を被せたみたいで、いらつくくらいに綺麗な二重瞼。眠気眼をこする手は細く、洗っていない顔は染み一つない。何よりその瞳は無垢な涙をたたえている。服はだぼだぼで、いかにも無防備だ。ずるずると這いずるようにして部屋の真ん中に出てきたその人は、精巧な人形のような女らしい美しささえあった。

 名は、室戸忍という、まったく名前まで女のようだ。その点に関して言えば紫苑も同じであるが。

「てめえの飯はねえよ。さっさと支度して学校に行け。あとてめえの部屋は隣だろうが、俺の部屋の分まで家賃払わせるぞ」

 このアパートは隣室との壁がとても薄い、それこそ台所で湯を沸かす音すら聞こえるほどだ。そしてこの紫苑の部屋と忍の部屋は、押入の壁が破れ繋がっている。そのため、他の部屋の一割安となっている。それをいいことに忍は春休みの間。押入を通って紫苑の部屋に入り浸っていた。

「鬼畜だ。紫苑だ」

 夢の続きみたいな呆け切った顔で忍は言った。

「そーかそーか、怒ってほしいかMかお前。殴るぞ」

 そういいながら紫苑は猫缶を開け、春の近くの床においた。

「キャットフードでもいいからツナがいいな」

「にゃああああああああ」

 裂ぱくの気合(但し音量小)で飛び掛った春。何度も朝ごはんを忍に取られているので忍に対し好意的ではなかった 。

「ほらよ」

 威嚇している春を抱えている忍に、紫苑は食パンを一枚投げた。忍は片手でキャッチし、その隙に春は飛び退いた。毛と尻尾を逆立て威嚇ヴォイスを忍に送っているがこうかはいまひとつのようである。畳が傷つくので爪は立てないでほしかった。威嚇の声はヤカンの沸騰音に混じってやがて消えた。

 テレビはこの町、青橋市で起きている家出事件の話題を簡潔に質素に報道していた。どうやら少年が三ヵ月ほど前から行方不明になっているようだ。

「物騒だな…」

 と紫苑はひとりごちた。家族に対し置手紙があったようだが、三ヵ月というのはかなりの長期間の家出である。

「マーマレードは?」

「てめえの爪でもすり下ろしておけ」

「じゃあ爪切り」

「あああもう、ほら!ジャム使え!」

「ヘイ了解」

 忍と紫苑は、幼い頃からの腐れ縁である。というよりも戸籍上では弟に当たるが、紫苑は未だに慣れていない。

「つーか、制服着ろ。まじで入学式遅れるぞ」

「どこやったか忘れた」

「俺がこの前部屋にかけといただろ、お前の」

「捜索必須なんだぜ、兄貴」

「てめえに必要なのは頭と部屋の大掃除だな」

 こいつの部屋はすでに足の踏み場すらない上に、生ゴミがたまっているのだ。

「というわけで、紫苑の制服借りるね」

「なんでだ…ってなんでもう着ているんだよ!」

「愛だよ」

「不要だ!」

「紫苑の匂いだー」

「ああああ、背筋寒いからやめろおおおおおおおお」

 卸したてなのにそんなことを言う神経がわからない。

 春の首輪についた鈴が呆れたようにちりんと鳴った。




 新高校生。この響きはどこか幼さがみえるので、紫苑はあまり好きではない。だが自分自身がまだまだ子供であることも事実であるので、自己嫌悪に陥ることもまたよくあった。

 ともかく、高校生になった。明るい髪も元の黒に染めたし、厳しい叔父夫婦が仕事の関係で海外に勤務するのを機に、親元を忍と離れ一人暮らしも始めた。ただ金銭面のみ不安なのでアルバイトはしないといけないだろう。

「走れ!忍!」

 学校までの道程を記したメモを片手に路地を走る。紫苑も忍も方向音痴というわけではなかったが、まだ引っ越して二週間近くしか経っていないため土地勘もなかった。だが迷ってしまうわけにはいかない。一年の計は元旦にあるように、高校生活の正否もまた入学式にあるのである。遅刻など論外だ。

「えっと。次のミラーある電柱の三叉路を左に…」

「ねむーい」

「お前の制服探してたせいでぎりぎりなんだよ!ちゃっちゃと走れ」

 おろしたてのブレザーは堅く激しく動かすたびに縄のように体を締め付けていた。背中を揺れる鞄はばすばすと背中を叩きリズムを作っている。

「ねえねえ紫苑?」

「なんだよ?間に合わなくなるぞ」

 眠気眼いっぱいに涙を浮かべている忍が訊ねる。

「春、ついてきてる」

 後ろをみるとヘーゼルの虹彩を持つ瞳がこちらを見上げながら走っていた。黒い四つの足がアスファルトを蹴る度に、色あせた鈴が微かにだが絶え間なく鳴っている。春である。

「愛猫家っていうキャラで高校生活通しちゃう?」

「…とりあえず校門が通れないだろうなそれは」

 このまま学校に行けば、春はそのままついてくるだろう。校門でさすがに先生に止められるだろうし、そこで一悶着起こすのは本意ではない。

 紫苑は、ポケットの上から蝦蟇口財布の感触を丁寧に確かめた。蝦蟇は潰されたかのように平たい。

「忍、今いくら持ってる?」

「んー。五十円」

 紫苑は表情を曇らせた。

「…お前昼どうする気なんだ?弁当つくってないぞ?」

「そりゃあ、丼食うかないね半ドンだけに。お願い紫苑」

「懐も洒落も寒すぎるわ。あとぜってえおごらないからな。じゃあいいや、道少し外れるぞ。いい感じにコンビニがある」

「まさか竹輪で陽動トラップとかいう古典をやるわけじゃないよね?」

「安心しろ。春に練り物は低確率で吐くからな。キャットフードでいく」

「…紫苑ってたまに馬鹿だよね」

「頭悪いのは否定できないけど。お前にだけは言われたくない」

 路地に入り、その先に聳えるコンビニの看板を目指す。対して高くはないが、一軒家が立ち並んでいるため、クルクルと暖色を見せびらかしているロゴはわかりやすかった。

 狭い道路に面したそのコンビニは全国チェーンではなく個人営業であるらしい。少なくとも紫苑も忍も「モリモリ」というコンビニなど耳に挟んだことすらなかった。春を連れ立ち入る。今時押戸だった。

 「モリモリ」の中は、どこか薄暗く、それでいてベージュの色彩に包まれていた。朝なのに夕刻だと思えたほどだった。蛍光灯の橙の光は淡く、入ってすぐ横に積み上げてある新聞紙のインクの匂いがつんと鼻を刺激した。レジには誰もいなかったが、その奥にある扉の向こうで本がめくれる音がする。客の姿はない。

「来月あたりつぶれそうだねここ」

 忍がそのように言う。紫苑がその頭をはたいた。

 よくあるチェーン店ほど品ぞろえもよくはなかったが、それでも目当てのものはすぐにみつかった。しっかり商品の整理もおこなっているらしく消費期限も三年先だった。このあたりの愛猫家に配慮したよい店だと思う。

 レジに向かい、呼び鈴を鳴らす。マジックミラーのついた扉から現れたのは、意外にもセーラー服を来た女学生だった。背は高いが、栗色の髪をゆるく二つにまとめており、大きな瞳はどこか眠気を誘うように細められていた。美人というより可愛らしいが先にでてくる容姿である。胸の上に結われたリボンは薄緋色であり、紫苑たちと同学年であることがわかった。

「いらっしゃいませー」

 声音はどこか間延びしており、響かないが溶けていくような色があった。

「……」

 無言で紫苑は商品を出した。コンビニで言葉を交わす必要はない。それに、

 女は、苦手だ。

「あ、同じ学校だ」

 脳天気な忍の声が後ろから聞こえた。こいつはと紫苑はため息をついた。

「あ、ほんとうだ。君たちも一年生?」

 女性の声も楽しげになった。

「うん。君もだよね。制服似合ってる」

「ありがとー」

「バイトなの?労基違反じゃない。訴えようそうしよう」

「心配ご無用。ここ私のお父さんが経営しているの」

 忍はとても自然体に楽しげに話していた。珍しいなと紫苑は思った。忍はこの容貌だからやたらモテる。そのせいで中学時代色々あったため、紫苑ほどではないにしろ女性に対しては壁があった。それが今はない。

 それにこの女も自然体である。忍の容貌を前にして気後れも、気負いもない。いや、そんなことを気にする必要がないくらいこの女は鈍いのか。

 そこにぴょこりと春がレジに飛び上がった。

「……こまりますねー。この店一応ペット入店、盲導犬以外禁止だよ?」

 腰に手をあて、その女が言った。

「ごめんごめん。すぐ出るから」

「ううん。私も猫好きだしいいよ。でもほら、あちこち消毒しないといけないから、今度から、店前で待っててほしいな」

 そう言って、春は彼女に抱き抱えられた。春は人間に対して警戒が薄いほうだが、ここまで無防備に抱かれるのは初めてかもしれない。

(まあ、借りてきた猫はなんとやらともいうし)

「うりうり~~~」

 女は、猫の喉を鳴らしていた。春の尻尾も緩く動いており、抱かれ心地は良さそうだった。

 店の時計がビインと大きく針を動かした。仰ぎ見ると入学式前の集合にぎりぎりと言ったところだった。

「おい。あんた」

 紫苑が声をかけると女性はびくりと竦んだ。あーあ怖がらせたと忍はちゃかしのでその頭を少し強めにはたいた。忍の頭は打楽器だ。パチンと良い音が鳴った。

「な、なんですか?」なぜ敬語だ。

「時間、まずくないのか?あんたも新入生だろう。入学式」

 腕時計を指す。途端に彼女の顔が青ざめた。

「わ、わ、やばい。私準備してない!」

 そういって彼女は慌てて春をレジに下ろし、レジの奥に向かう。

「おい。ちゃんと会計しろ!」

「それあげますー。猫ちゃんまたねー」

 扉の奥から言葉が帰ってきた。紫苑は駄目だろう言葉を返そうとして。

「ありがとうー」と忍が言った。再び紫苑は忍の頭をはたいた。今度の音は鈍く忍は「っ」と変な声を上げた。

 お金をレジの上に置いた。丁度がなかったが、仕方あるまい。同じ学校ならば返してもらう機会もあるだろう。

 店を出ようとしたとき、レジの合間から声が聞こえた。

「気をつけてね!」

 そんなことわざわざ言わなくてもいいと紫苑は思った。

 しかしその後、気をつけていればよかったと思う羽目になった。

 コンビニのすぐ横の空き地、そこで猫の缶詰を開くと、春は待ってましたと言わんばかりに飛びついた。

「ほら、急ぐぞ」

「もう少し愛でたい」

 そう言って忍は春の腹をなでていた。気持ちよさそうに春は食いつつ寝ている。テクニシャンである。

「だめだ。…というか食うな食うな食うな!」

 忍は缶に指をつっこみシーチキンのような餌をとろうとしていた。

 なんとかひっぱがし、二人は路地に入り走った。少し背の高い塀に続く道を走る。

「そういやさ。忍」

「なに?」

「やけにあの女と喋ってたな」

「なに、嫉妬?」忍はにやけ面を作りながら紫苑を見た。

「…次に気持ち悪いこと言ったらその舌引っこ抜くぞ?」

「こんな短気な閻魔様いたら、死にたくないなあ」

「で、なんでだよ。中学の頃あんなに女嫌ってたのに」

「人の中二病を抉って楽しい?結構傷つくんだけど。まあ強いて言うなら、考えずに話せそうな人だったから」

「馬鹿っぽかったな。確かに」

「違う違う。そうじゃなくて…ねえ紫苑」

「なんだよ」

「この路地、こんなに長かったっけ?」

「…ん?そういや…」

 確かに長い路地だった。ここにくるまでこのような道を通っただろうか。立ち止まりメモしておいた地図をみる。方向感覚はある方だったので間違ってはいないはずなのだが。地図をみながらスピードを緩めた。

 りん、と耳の端に鈴の音が聞こえる。

 ふいに、香ばしい匂いが鼻についた。鼻孔の奥まで来る香油に似た香りだ。しかしその中に腐葉土の湿った匂いもあった。

「紫苑」

「…なんだよ。ちょっと待ってくれ。今地図確認しているから」

「紫苑の節穴アイに頼るのは今はまずいと思うんだ」

「喧嘩売ってんのかてめえ」

「周り。みてみなよ」

 忍が辺りを仰ぎ見る。艶のある髪がつられて揺れ、紫苑の瞳に幕のように被さる。

「――な?」

 驚愕が、言葉になり空気に触れた。

 そこは森だった。

 否だ、森になっていた。

 先ほどまで背中を暖めていた朝日も高い樹木の葉で薄れ、木漏れ日がわずかに漂っていた。

 地面は倒れた木が重なり合いながら腐りかけ、落ち葉は黒く湿っていた。高い木々に挟まれた二人はいるのはみたところ獣道に近い林道だろう。先ほどまでアスファルトに舗装された道路など見る影もない。道は坂になっており、先をみると木々が重なりながら続いていた。

「なんだよここ!」

 紫苑は叫んだ。

「ここはどこ?私は誰?」

「こんなときにぼけとる場合か!」

 バキリと何かを踏み折った。杉の枝だった。乾いた音を立てたそれは森の良い香りがした。


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