死なない蛸(1992年・春)
⚫︎八目タマキ(30歳)
⚫︎萩尾弓子、ユーミ(32歳)
⚫︎奇愛晴子(42歳)
⚫︎佐藤順子(3歳)
⚫︎それ
⚫︎ツナギ
⚫︎アマネオ、あまねお
雨多ノ島水族館地下。
埃っぽい照明の下、タマキは生体スーツ「ツナギ」を着用して地下海水プールを優雅に泳ぎ回っている。ツナギは標準形態、腕以外は人間の形を保っている。数十本ある深緑の触手を身体の側面で器用に波打たせ、水中でブレーキをかけた。
ユーミは枝毛を探しながら、傍で見ていた。
「だいぶうまくなったわね」
ぼんやりして返事をしないタマキ。もう一度呼びかけると、プールから上がってきた。
「――そうか」
ユーミは無表情な彼女をふざけて肘で突いたが、やはり何も言わなかった。
★★★★
水族館の裏口通路で深呼吸したユーミは「関係者以外立入禁止」と書かれた扉をノックする。
「どうぞ」
「失礼します」
部屋には痩せこけた姿に白衣を着た老女がポットを持って立っていた。まるで雪の積もった朽木のよう。
「今コーヒーを入れたところだ」
奇愛館長は湯気をくゆらせたカップを彼女の前に置いた。
「段々暖かくなってきたね。春は良いよ。ずっと布団に入っていたくなる。私は春の晴れた日に生まれたから晴子って名前なんだ」
「そのお話、もう三度目ですよ」
ユーミはブラックコーヒーは好きではなかったが、とりあえず口をつけて飲んでみた。やはり焦げ臭いとしか思えなかった。
「ところで雨多ノ島水族館、次期館長は君に決まったよ」
「……タマキ研究員ではないのですか。熱心だし知識も豊富ですし」
砂糖とクリープを入れて混ぜ、コーヒーをグッと流し込む。緊張で喉が渇いているのだ。
「彼女は子供が出来たので半年ほど休むそうだ」
ユーミはコーヒーを噴いた。落ち着くまで何度も胸を抑えてエホエホ咳をする。
「まずかったかね」
「まずいです。いえ、このコーヒーはとても美味しいんですけど、非常にまずいです。タマキさん自身が一番わかってるはずなのに――ちょっと失礼します」
ユーミは部屋を飛び出した。階段を一気にスッ飛ばし勢い余って棚にぶつかり試験管やビーカーを撒き散らして転がり込むようにロッカールームにやってきた。
「タマ、タマ。ハァハァ」
「タマタマ?」
肩で息をするユーミとは対照的に、落ち着いているタマキ。ツナギを脱いだばかりで全裸だ。
「タマキ。あ、赤ちゃんできたって?」
「うん」
ユーミは胸倉を掴もうとしたが相手は裸、どこも掴めそうな場所がなかったので仕方なく腕を掴んだ。
「どういうつもり! 相手は? なんで言ってくれなかったのよ」
「聞かれなかったから」
ユーミは眉間にシワを寄せて口を開く。開いたが、そこから何も言葉が出てこなかった。タマキが一枚一枚服を着ていくのを眺めながら、仕切り直して尋ねる。
「どうするつもり。ツナギはせっかくできた受精卵を取り込んでしまうんでしょ」
「だから、胎児がツナギに吸収されないように変態もせずノーマルで使ってただろ。それにしばらく僕は事務仕事しかしないし」
「まだツナギは実験段階なのよ。危ないからもう絶対着ないで! もう。もう、いい加減にしてよ」
ユーミはその場に座り込んでしまった。
「何でユーミが怒る必要がある? これは僕の子だから、君には関係ないのに」
タマキは穏やかに言い放つと、白衣のポケットに手を入れ歩きだす。
「あたしは関係ないの? タマキとも」
無造作に伸びた前髪がタマキの目元を隠していた。
ユーミは館長になった。
二人は隣あったデスクで仕事をしていたが、事務的なものを除いて会話しなかった。タマキの腹は日に日に大きくなり、ほとんど無かった胸も少しずつ膨らんでいた。
ロッカールームの鏡を見て、タマキは腹を撫でてひとりごちる。
「僕のこども、僕のこども。何にかえても守ってあげる。眠れ、眠れ。抱きしめて温かくしてあげるから」
「どうして『僕』とか言ってるのに、そんな簡単に母になれるのかわかんないわ」
いつの間にやらユーミも傍に立って鏡に映っていた。
「僕は僕って呼び方にしただけで、性別は昔から女だと思ってるよ、君がどう思ってたか知らないけど」
「ハア?」
ユーミはロッカーを苛立ちにまかせて蹴って閉め、乱暴にドアを開けて出ていった。
その陰から恐る恐る佐藤順子が顔を覗かせた。
「あ、ちょっと見せてもらってもいい」
「いいですよ、触るなら蟻をつまむように優しくしてくださいね」
順子は飛び跳ねながらやってきて、ユーミのお腹をおっかなびっくりといった様子で撫でた。
「うわあ、生命の神秘だ……!」
「大げさですよ。世界中のどこだって起こってることですもん。でも自分が妊娠するとは思いませんでしたけど」
「名前は」
「まだ考えてないです。どんな名前が良いと思います?」
佐藤順子はわざわざロダンの考える人のポーズをとって唸る。
「あまねお」
「どういう意味ですか」
彼女は少し首を傾げて、笑い飛ばした。
「わからないけどまーいいじゃん、雰囲気雰囲気。今ふと頭に降ってきただけだもん」
「それってどんな字ですか」
「さあ? 何か天とか海とかそんな字かな」
あまり適当なことを言うので、タマキはもっとしっかり考えてくださいよとツッコミつつも「そんなに嫌いじゃないな、あまねおちゃん」と考えている。
そして事件は起こる。世界は見えない。予兆はいつだって後になってからしかわからない。
地下プールで、ユーミは裸になってツナギの傍へ泳いでいき、餌をやっていた。ツナギは牛や鶏のレバーを触手でしゅるるっと手から乱暴に掠め取る。
「イタッ!」
ユーミは手の平をさすった。
「なかなか懐かないのね。あんた、やっぱりタマキの方が好きなんだ」
その時、ユーミの背後で水が立ち上がっていた。ツナギとは比べ物にならない無数の触手と蝙蝠の羽を合わせたような形をした――「水」だった。消失したと思われていた怪生物「それ」は水に同化して、今までプールで身体を回復させていたのだった。
ユーミは気づかず泳いで戻ろうとする。「それ」が襲いかかった。硬化した水の触手が彼女の左腕を締め付ける。ビリビリビチビチと筋肉が弾ける音が大きくなる。
ごきん。
二の腕が折れ、関節が一つ増えた。
「ぎゃああああああああああああ!」
悲鳴を聞き付け、タマキが事務室から少し膨らんだ腹を抱えて走ってきた。事態をすぐに把握すると、迷わずプールへ飛び込んだ。
「ユーミ、ユーミ! 大丈夫か!」
タマキはすぐに水中でツナギを着た。身体に薄く膜が張り、両腕が触手になった。溺れ始めているユーミを、標準形態の触手を伸ばして奪い取る。そこから反動をつけてプールサイドに投げ上げた。
「それ」は遠くなった獲物を諦め、今度はタマキへ狙いを変えた。
巨大なゼリー状の「それ」がツナギ全体を包みこんでいく。
「馴れ馴れしいぞ、僕の指一本とられたの結構痛かったんだからな!」
ユーミがだらんとした左腕を押さえながら叫ぶ。
「タマキ――ッ」
「大丈夫、大丈夫」
ツナギは瞬時に水に対して浸透して凝固、「それ」を体内に引き込む。一瞬だけだったが、時間が止まったようにタマキとユーミは見つめ合う。
「ユーミ、僕はツナギ内部で精子を作る実験をしていて妊娠した。今度は君の遺伝子から作った精子が原因だと思う。ごめん、勝手に。だから一人で産んで育てようと思ったんだよ。でも結果的に良かったと思ってるんだ。僕はもうこどもが望めない身体だったし、君の――」
タマキは暴れだした「それ」を抑えつけた。
それじゃ。
ツナギは変態を開始した。それは胎児を犠牲にすることを意味した。ユーミは叫んでいたが、言葉にならなかった。「それ」を含んだプール内全ての水をツナギが吸収し、そのツナギはドロドロに溶けたタマキの肉体ごと子宮内部の胎児に吸収された。
からっぽのプールで、胎児だけが残った。それは小さな口からブクブクと泡を吹き出している。胎児はリセットされたツナギだった。「それ」もタマキも彼女の子も、全てこの新しいツナギに吸収されてしまったのだった。
ユーミは震える足どりでツナギに向かった。プールの底に降り、手の平サイズしかないツナギを折れていない方の手で拾いあげる。彼女は穏やかに明滅するツナギを優しく抱えた。脈動を感じる。しゃくりあげながら、子守歌を呟いた。
――私のこども、私のこども。何にかえても守ってあげる。眠れ、眠れ。抱きしめて温かくしてあげるから。大好きなあなたの、こども。
お読み頂きありがとうございます。




