The Unnamable,Unspeakable;Nothing(1991年・冬)
⚫︎それ
⚫︎ツナギ
⚫︎萩尾弓子、ユーミ(31歳)
⚫︎八目タマキ(29歳)
⚫︎雨多ノ島水族館
⚫︎マハカメリア宮(?歳)
開館時間の迫る雨多ノ島水族館。二人のスタッフがいそいそと水槽の餌やりから帰ってきた。
「うう、なまらしばれるう! 訳すと、クソ寒いわぼけー!」
ユーミが叫び、体を抱えて震える。歯が鳴る。
「寒いと思ったら……雪か」
タマキが呟いたので外を見ると、ちらほらと発泡スチロール片のような粉雪が舞い始めていた。水族館前のむき出しの地面は粉砂糖を振るったよう。
ユーミは不意に隣のタマキの体をまさぐった。
「あんたどんだけつけてんのよ。なんか、業者の人?」
黄ばんだ白衣の中は貼るカイロが大量に仕込まれていた。
「うるさいな、僕は寒がりなんだよ」
今日は佐藤順子が休みのため、二人は受付係をしつつ各水槽のモニタリングをしておくだけである。
「そういえば、どうして自分を『僕』って呼び始めたの。マンガとかアニメとか?」
と言いつつユーミは自然な動作でポテトチップスの袋を開ける。
「おい、仕事しろよ」
隣のタマキはイスから前屈みになってデスクに肘をつきながら、野球でも見るように、傍に置いた小型モニターを眺めていた。
「あんただってソレ、ツナギのプールのモニターでしょ」
タマキは無視して優雅に泳ぐツナギを観察して何やらメモをとっている。
「ったく、都合が悪いと黙ってるんだもんね。ひたすら黙ってればそのうち飽きると思ってるんだ? そうは問屋がおろさないわよ。何故なら仕事をしてない点においてあなたと私は平等に悪い、つまり責任の所在はフィフティフィフティで――」
タマキはため息を吐くと、手をのばしてポテトチップスを食べた。
「わかった、わかったから。で、何だって」
「タマキが『僕』になったわけ」
椅子を回転させ、タマキはユーミに向き直る。受付席は狭く、身体が近いせいでユーミは何故だか照れてしまい、まっすぐタマキの顔を見ることができない。
「僕らは『僕』と呼ぶことを自分で決めた。僕は四歳くらいで親が死んで、ある川沿いの孤児院――養護施設にいたんだ。そこはもう火事のせいでなくなってるけど」
ユーミの手が止まった。タマキは、気にするなというように軽く手を振る。それから両手を白衣のポケットに突っ込んだ。
「五歳くらいの頃だった。あるゼロ歳の赤ん坊が施設の前に捨てられていた。無許可のちょっとおかしな養護施設だったから特に何事もなく拾われて、戸籍もないまま育てられた。そいつには名前がなかった。性別もよくわからない。今でも何と呼べばいいのかわからない。ただ、腕に抱かれて子守歌を聞いてるそいつは、かわいかった」
ユーミは手についたポテトの油を人差し指、親指と舐めとる。指先に少しだけ口紅がついた。
「性別がわからないってどういうこと。名前なんてつければいいでしょうに」
タマキは眉間に皺を寄せ口を開いた。が、また閉じて考えて言う。
「そいつの裸を見た人間は黙った。何を見たのかは知らない。今じゃ焼け死んでるから聞き出すこともできないな。そいつはいろんな人間から与えられる名前を拒否した。結局、そいつは『そいつ』とか『あれ』とか『それ』としか呼ばれなかったんだ」
タマキはモニターの中のツナギを見た。それから、その元となった名前のない新種の生物「それ」を思い出す。どこかへ消えてしまった「それ」。
――この世には「呼びようもないもの」が確かにあるのだ。陳腐な名前をつけて人間の価値に貶めるのをためらってしまうような。
「五歳くらいになり、男にも女にも属さず、戸籍も責任もしがらみもないそいつは、やたらと自由で浮世離れしてたよ。でも淋しがり屋で、必ず誰かが傍にいないと泣くんだ。よくわからないが、カリスマがあった。そいつがいると、そいつはその場の主人公になっちゃうんだ。施設にいる大人やこどもは皆がそいつを好きだった」
ユーミはピンときた。
「その人も自分を『僕』って呼んでたんでしょ」
「そう。特に僕はそいつに心酔してたな。しかしあれは強要でも真似でもなかった。そいつは言った。『自分で自分をどう呼ぶか決める。まずはそれが大事なんだ。僕は今から自分のことを僕と呼ぶ』」
突然タマキは自嘲気味に笑い出した。白い顔の目元は陰になっている。ポテトの油でグロスを塗ったように光る唇の先が目立つ。
「以後、僕はなんとなく使ってた『私』をやめて『僕』にした。ま、そこにいた全員が一人称を『僕』に変えてしまってたんだが」
ユーミは笑えずに、頬杖をついてタマキの口元を眺めていた。
「で」
「でって、それだけ。僕は理系の成績が良いのを見込まれて、十歳くらいで買い手がついた」
タマキは口笛を吹きつつ手元のレポートに絵を描いていく。不定型なツナギの身体をうまくデフォルメして、アニメ調の大きな瞳をつけた。
「引き取ってくれた育ての親、でしょ」
「世の中的にはね」
ユーミはそれ以上聞くのが怖くなり、黙った。横でさらさらとタマキのペンの音がする。大した感情もないフラットな白い横顔。クマはあるし、髪はボサボサ。白衣は洗濯しているのかもわからない。
ユーミは数秒沈黙する。
不意にポテトチップスを二、三枚まとめて掴み、無理矢理タマキの口に押し込んだ。
ボリボリ。
「何だよ」
ユーミは受付の机に突っ伏した。
「それにしても、客が来ないわ」
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