花奥恵の青い闇(1994年・冬)
⚫︎名呑高校
⚫︎茶屋ヒノスケ(17歳)
⚫︎花奥恵(16歳)
⚫︎マハカメリア宮(?歳)
⚫︎リリジョン101
⚫︎ゑべす
⚫︎像
裏名呑のとある場所。
床に蝋燭が置かれた。その横肌は皮膚を焼かれた白蛇の腹のように爛れている。花奥恵の顔は蝋燭の灯に照らされ、ゆらめく橙色に染まっていた。
「私は鱗族です」
彼女は闇の奥へ語りかける。かたわらの石造りの壁には全面に奇怪な人魚と触手が彫り込まれている。
「青闇の中に眠っていたのですが、目の前をゑべす様が横切っていかれました」
膝をつき、操られるように淡々と口を動かす。目は薄く開き、どこを見ているかも定かでない。
「それは美しかったということはわかるのですが、今ではどうだったか思い出せません」
霧が彼女の周囲を包み、輪郭がぼやけて亡霊のようだ。彼女は立ち上がり、朗々と呪詞を叫んで肢体をくねらせる。
彼女は四つ這いにひざまずき、床に接吻すると突如上体を跳ね上げ反り返った。全身を硬直させて釣り上げられた魚のように痙攣しながら叫ぶ。
やがて彼女は弛緩し、朦朧とした意識で再び語り出した。
「その時、私は釣り上げられました。私は汚れた地上へ昇っていきます。水圧が変化し、私の皮膚は沸騰したように綻び、浮袋が喉から飛び出て真っ白な世界へ――そこで目を覚ましたのです」
彼女は気を失い、ふぬけのような顔で白目をむいて倒れた。
★★★★
花奥の様子がおかしくなったのは――まァもともとある程度はおかしかったんだが――まだ俺が世の中とか学校の外なんかに興味がなくて、リリジョン101なんて知らなかった頃だ。だからあいつが突然一心不乱に何か作り始めてさ、「マハカメリア宮に頼まれて」なんて花奥が言ったときでさえ俺は何かまたおかしな設定をこしらえやがったな、くらいにしか考えてなかった。
ことあるごとに花奥が呟いたのは「見えないつながり」という言葉だった。俺が今でも大嫌いな言葉。
「その、どうして絵を描こうと思ったんだ?」
ある日の俺は花奥に聞く。
「どうかな。わかんないけど、どこか遠い誰かが、何か面白いことをやったり、ぼそっと呟いたりしてるの。私の本当の居場所ってそこだから」
花奥は一切こちらを見ない。窓から射し込む橙色の光が後姿に影をつけている。
「私はそれを見に行きたい。聞きに行きたくてたまらない。見えないつながりがそこには確かにあって。でも遠くて、どこまでいっても追いつけないから、仕方なく私は私でそれってこういうものかなって感じでいつも作品にする」
花奥は笑って、わかんないだろうな、と続けた。
わからん。
俺には「見えないつながり」が見えない。だって見えないんだから。ただ、花奥は「見えないつながり」こそが大事だと言っていた。花奥に、マハカメリア宮について尋ねたが要領を得なかった。
分かったのは、マハカメリア宮はその「見えないつながり」を束ねて持っているらしくて、そいつの所には面白いことがたくさん起こるから花奥は「好き」だという。
そんな簡単に「好き」なんて言うなよな。
例の像を作るときの花奥は嵐のように凄まじかった。
「見えないつながりは夢の青闇の中にあるの」と言って聞かず、寝て起きては「あの夢の続きを」と言ってまた寝るということを二週間ほど繰り返して衰弱死しかけた。俺は病院にかつぎ込んだが、点滴を打たれてそれでも夢の中に何か未知を探し求めていた。
そうして目を覚ます。
何かをつかんだ花奥は、今度は寝ずにデッサンを描きはじめた。夢の青闇にあるものをこっち側にもってくるためには、寝ながら描かなくちゃいけないと言って。
花奥は元々痩せているのに更に痩せ細り、即身仏のようになっていった。目の下のクマは濃く、頭痛に悩まされていた。
カンバスに向かって微動だにせず、よだれを垂らしながら夢と現を彷徨し続ける。
「ここ置いとくからな!」
聞こえているのかいないのか、脇にある俺の弁当はただ腐るばかりだった。
花奥はやがて授業中に窓から乗り込んできて誰彼かまわず赤ペンキをぶちまけ、その中でひゃひゃひゃひゃって猿みたいに笑ったことがある。何日も洗ってない髪は脂ぎって、妙にテカテカして顔面は痩せている。落ち窪んだ目は、奥からどろり澱んだ鯰の目じみた光を放っていた。
テレビ局の取材に来た人間は、これは使えないと言って早々に帰っていった。
これが「天才美少女芸術家」のあっけない終焉。勿論くだらない週刊誌のいくつかは校門前にたむろしていて、あんまりあることないこと言ってしつこいから、俺はその一人を殴って停学になった。
我が校の歴史で最高の人物だ、なんて風に持ち上げてた校長は、花奥がそうなってしまったという悪評と責任を恐れて他言を禁じた。いないも同然。花奥は今まで親のことなんて言葉の端にすら出さなかったし、仲が悪いのか元々ろくな親じゃないのか知らないが、とにかくもう誰もあいつを止める奴はいなかった。
俺以外には。
俺は食べられることのない弁当を意地のように作り続けた。エビフライをぴんと伸ばして揚げるのは難しいんだ。でもできるようになった。きれいなキツネ色にするにはしっかり温度を計らなくちゃならない。でもできるようになった。
花奥もおかしかったが、俺もおかしかったな。
その頃には、花奥は夢の何かのデッサンから造形の段階に入っていた。
ある日の放課後、俺はもう殴ってでもやめさせる覚悟で美術室に行った。五時くらいだったがもう校舎は暗い。じっとしていると肌に染み込んでくるような寒さ。俺は足を踏み出す。
入った途端、喉が詰まる。
花奥に首を締められていた。
あいつは意思の汲み取れない大きな瞳で俺の表情を観察し、解放するとまた粘土に手を加えた。
「何なんだよ、お前! そんなにまでやる必要があるのか」
花奥は答えない。
「頼むから俺の弁当食えよ! 今日のは……今日のもエビフライ入ってんだ」
花奥は近づいてくると俺を突き飛ばした。弁当が落ちて床に散らばり、もう食えない。
「飯を粗末にするなアホ!」
頭にきて花奥を殴ろうとしたが、相手が相手だけにうまく力が入らなかった。殴った後は顔が歪んで痣ができて泣くかもなとか嫌われるんじゃないかとか、余計なことを考えちまって。
でも花奥は奇声をあげながらぶつかって、怯んだ俺の右脚を持ち上げそのまま美術室から押し出した。
鼻先で扉に鍵をかけられた。俺は扉を叩いたが何の変化もない。黙って数秒考えた。扉に頭を預けたまま、静かに告げる。
「なあ、花奥。じゃあ最後だ。答えてくれよ。答えたら、もう何も言わない。勝手にしろ」
扉の向こうからは返事がないが、聞いているのはわかった。
「お前の大事な『見えないつながり』だが。それは目の前にある俺とのつながりを消すぐらい大事なのか? 見えるものをしっかり見る方が大事なんじゃないか? 俺は必要ないか? 隣にいちゃいけないか?」
返事はない。
「答えろよ花奥恵!」
粘土を叩きつける音が微かに聞こえた。俺は憤然と廊下を歩き出した。
だが急いで帰ろうと思っているのにすぐ足が止まる。走りだしてもすぐ動けなくなる。俺は階段を一段ずつ降りながら膝から力が抜け、どうにもできずに踊り場で座り込んだ。
何がきっかけで遠のいてしまったんだろう。
花奥。
そのサインはいつも出していた。
ふと見せる寂しそうな顔。
どうして俺は気づけなかった?
いや気づいていた。
でもどうしようもなかった。
俺じゃダメだった。
単純にそれだけの話だ。
花奥。
いつも一緒にいたのに。
いつも一緒に飯を食ったり笑ったり。
ふざけあった時間はもうない。
花奥。
誰よりもまっすぐ見ていた。
俺じゃ駄目だってことはわかってた。
なんとかしたかった。
なんともならなかった。
ごめん。
言えなかったけどな。
俺、好きだった。
完成したのはその次の日だった。花奥恵は嘘のようにけろりとして、像を作り始める以前と全く同じように戻った。
像は人魚に触手が巻き付いて、全身に鱗がびっしりと張り付いたものだった。手のひらを返したインタビュアーは、どことなく名呑町に古くからあるゑべす像に雰囲気が似ていることを聞かれ、花奥は「同じテーマですから」と答えた。
世間は素晴らしい出来だと褒めちぎってるが、俺は吐き気を催す。花奥は以前と変わらないように話しかけてきたが、俺はあいつが近付くと頭痛がするようになってしまった。
もう元には戻れないことを悟り、俺は高校を卒業して名呑町を出た。最後に見た海沿いの島は、それでも単純にきれいだと思った。
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