対エビフライ戦争の前夜(1994年・夏)
⚫︎へそ池(名呑池)
⚫︎茶屋ヒノスケ(17歳)
⚫︎瀬戸内カナメ(17歳)
⚫︎花奥恵(16歳)
商店街の外れ、公園の中にある広大な名呑池は地元民には昔から「へそ池」と呼ばれている。その傍の木陰で、二人の男子高校生が釣竿を垂れていた。
夏休みに乗じて髪を脱色した茶屋ヒノスケは、潮の臭いに鼻をひくつかせてため息を吐いた。釣果ゼロの自分に比べ、カナメは入れ食いだった。
「魚はいいみたいだけどさ、カナちゃんあっちの方はどうなんだよ」
キャストすると、シカケが放物線を描いて飛んでいき着水、カエルが飛び込むような音がする。ごくごく小さな波紋が二重三重、カナメたちのいる岸辺に到達するまで三秒、二秒……。
「何が」
カナメは餌箱を開けたがゴカイを使い切っており舌打ちする。そばを這っていたフナムシの一匹を掠め取ると針に突き刺してキャストした。
横目でそれを見ていたヒノスケは、うげえと顔を顰めた。あまり釣りには慣れていないが、暇だから仕方ない。電車で都会へ遊びへ行くにはお金も時間もかかる。
「……だからさ、その竹内夏音ってどんな奴なんだよ。可愛いのか」
肘で隣のカナメを小突く。
「いや、ナツはかわいいとかそういうんじゃないんだ。何を考えてるかわからんから、聞いてみたら何も考えてなかったりする。小さな子を見るのが好き。コーヒーは嫌いで泳ぐのは好きみたいだ。ハハッ、『ナツ』っていう変な生き物みたいだ」
――とか言いながら、もうあだ名で呼んでんじゃねえか。
ヒノスケは心中で突っ込んだ。シャカシャカとリールを巻いてシカケを寄せると、今度は池の反対側の縁を目掛けてキャストする。
「じゃあかわいくないのか、そのナツさんとやらは」
カナメは黙り、リールを巻く手が止まった。下を向き、やに下がる顔を見せまいとしている。
「畜生バカ野郎。うまくいってるからって調子に乗ってんじゃねえッ!」
カナメは高笑いしながら足元の岸に群生するフジツボを数秒見つめ、顔を上げた。彼はいつものヒノスケの横顔にいつもと違うものを見てとる。何か押し込めているものを。
――人の考えを当てるのは得意じゃないし好きでもないが、一人で悩まれるのも厄介だ。こいつも一人でグチグチ悩む奴だからな。
「そっちは去年からずっと花奥の担当者みたいじゃないか」
ヒノスケは竿を立てたまま、微動だにしない。聞こえなかった様子で間をおいて、手荷物の風呂敷を解く。
「……カナちゃん、そろそろ弁当食おうぜ」
★★★★
二人は箸を取り出し、それぞれの弁当を見せあった。
「柴漬けやるから、そのから揚げくれよ」
ヒノスケは全く等価交換になっていないことを言いながら、カナメのから揚げに箸を伸ばした。
が、逆に箸でつままれて止められた。
「お前、箸で箸をつまむのはアレだぞ」
ヒノスケは不敵に言いつつ再び狙う。弁当箱の上で、箸が行き交う攻防戦が繰り広げられた。
「行儀以前に、了承もない他人のおかずを勝手に交換する行為は人間として成立しない」
「どうせどっちも俺が作った奴だろ。作ってもらっといて偉そうに」
「それとこれとは関係ない」
「わかったよ。じゃ、このエビフライと交換してくれ」
「エビフライを……」
カナメは意外そうに友人を見つめた。しかし言われるがまま交換し、エビフライをしゃくしゃく食べた。
「ふがが」
口に詰めたまま話しそうになり、胸を叩いて慌てて飲み込む。
「食っといてなんだが、ヒノスケはエビフライ大好きじゃなかったか」
その時、ヒノスケの釣竿の先がくくんっと引いた。しかしそれを見ながら動きもしない。心ここにあらず。
「エビフライは、食べる奴がいないと美味しくないんだよ」
見かねたカナメが代わって竿を持ったが、既に魚は逃げていた。残念そうに目を細め、あてつけるように大声で独りごちる。
「ああ、もう少しでおいしい魚が食べられたのに」
「だから、うまいかどうかわからなかったろ。得体の知れない化け物だったかもしれないぜ」
カナメは黙り、また弁当を食べはじめた。箸を池に向ける。池は光を浴びて輝いていたが、その下は濃い青で少し先も見えない。深さもわからない。
「あれはアナゴか鯛だった。そういう引きしてたからな」
「違えよ。そういう話じゃないんだ。食べる奴がいて、釣り上げられる奴がいて、釣る奴にはそのタイミングにしかわからないっていう……あああわかんねえ」
ヒノスケは後ろ頭をボリボリ掻いて、その場にふて寝した。瞼の裏に最近の花奥恵が浮かぶ。辛くなり眉間にシワがよる。
「ヒノスケは、今さっきかかったのが化け物かもしれないから釣り上げなかったと。そういうことか」
顔に影がかかったので目を開くと、すぐ傍にカナメの顔がある。
「……釣りたいからキャストしたんだろ? どんな魚かわからないうちに諦めるのはおかしいんじゃないか」
「エビフライがまずくても?」
思わぬ返事にカナメは腕を組んで唸ったが、すぐに頭を振ってやめた。あまり悩んでも結局のところ、ヒノスケがやるかやらないかでしかない。
「エビフライがどうとかはわからないが、それ釣りとは関係ないだろ。あと俺が食ったエビフライはうまかったぞ?」
ヒノスケが笑って足を払った。カナメはそれをひょいと避ける。涼しい風が木を揺らし、濃い緑の香りを振りまいた。