コーヒーは好きじゃないけど(1994年・夏)
⚫︎雨多ノ島水族館
⚫︎ツナギ
⚫︎萩尾弓子館長、ユーミ(35歳)
⚫︎竹内夏音、ナツ(17歳)
⚫︎瀬戸内カナメ(17歳)
世間では夏真っ盛りだが雨多ノ島水族館――地下研究室は相変わらず。二人の人物が実験室を監視していた。
その一人――カナメの背中をぬるく湿った空気が撫でていく。不快感に鼻息荒く首筋を拭う。
「なんで女しか駄目なんスか。こういう危ないのは男の俺に……」
カナメは強化ガラス越しに、青白い光を放つ生体スーツ「ツナギ」を見おろして尋ねる。
「危ないのは男に任せとけって? 意外とフェミニストなのね」
隣のイスに座っている雨多ノ島水族館の館長は、腕を組んでクスクス笑う。三十路も半ばを迎え少し腹が出ているのが白衣越しにわかる。
「そんなんじゃないス。ただ、ナツが危ない目に遭うのに俺が指をくわえてるだけなんて」
「嫌だ、と。その気持ち、わかるわあ。前回着用者も私の好きな人だった」
「好きとかじゃ……俺はあいつと同じ風景を」
カナメが眉間にシワを寄せ言いかけたところで、実験室のドアが開きナツが腕のストレッチをしながら入ってきた。丁寧に焼いたトーストのように日焼けした肌に、薄ら残るミルク色の消毒液のコントラスト。皮膚は水分を弾いて美しかったが、全裸だったのでカナメは慌てて視線を逸らした。
館長はマスカラを塗りたくった目を細めて笑いを堪えている。
「実はね。ツナギは女性にしか使えないの。子宮や胎盤、卵子と関係した仕組みだから」
共生相手を探すツナギは、まるで中身をくり抜かれたヒトのようである。
館長はマイクにスイッチを入れ、実験室のナツに指示を出した。
「では、指示した通りに始めて」
ナツはツナギの腹部の縦の裂け目の縁を広げる。糸を引いて開かれたそこには、柔らかな突起物が大量にある。ヨーグルトのようなにおいがする内部を見てゲンナリするが、意を決して足からヌチャヌチャと入る。
「早い話、ツナギはヒトの身体を様々な水棲生物へと作り変えるワケ。着用者は一度死んで別の生物として再生することになるわ」
ツナギはナツを取り込むように、全身に薄く膜を張る。ナツは怯えて口を開くが、声が出ない。身体が一体化して肉が溶け内部がゲル状になる。
「その時に自分の卵子その他を使い自分を生む。受精卵はツナギが要請する生物の遺伝情報に従ったうえで、自発的に細胞増殖因子を多量に出して急速成長する」
加速度的に細胞分裂を繰り返し、すぐに両腕が数十本の触手となった人型の怪物が生まれた。表面は両生類のように分泌液でテラテラと光っている。目の無い巨大クリオネが捕食しようと触手を開放したような形。
「ツナギは、まさにヒトと他生物へのつなぎってわけ。もちろんただ着て動くだけなら死ぬのも再生もしなくていいけど、それじゃ汎用性のあるコントロール能力が全く使えないから」
「でも、あれが……ナツなんですか」
というより見た目も中身もヒトではない。
例えばあれを輪切りにしても、そこにナツの姿はない。ならナツはどこにいる? カナメの言いたいのは、つまりそういうことだった。
「カナメ君は何をもってナッちゃんをナッちゃんと判断してる? 顔? 性格? 記憶? 性別? もしかしてカラダ?」
「全部です」
真顔で答えたので、館長は腹を抱えて笑う。カナメは不服そうに口を尖らせた。
「君、ホントに好きなんだね」
「ナツは――いい奴なんスよ」
「私は、君がいい奴だと思うけどな」
カナメは苦々しい顔をしてそっぽを向いた。
「じゃ、君はあれがナッちゃんじゃないと思うのね」
目を閉じて首を振る。何の迷いもなく自然と出た動作だった。
「そんなこと思えないス。あいつが気にしてるでしょうし」
言っていくうちにカナメは顔が赤くなった。隠すように頭を振る。
「それで俺は何をすればいいんスか」
「君はサポート。PCからツナギを操作して遺伝子の要請と細胞分裂の制御、ナッちゃんのアシスト。そして二人には」
マイクを再びオンにすると、ツナギを着たナツが顔を上げ、カナメも館長を見た。
「名呑内海の深海生物の調査をやってもらいます」
★★★★
カナメは海岸沿いの帰り道、制服に戻ったナツに缶コーヒーのバーディを買う。ナツは受け取りながらも不思議そうな顔つきだ。
「なん?」
「……なんか、悪いと思って」
低い声でカナメはつぶやいた。その声はカモメの鳴き声にかき消されそうなほど小さい。
「うん」
ナツはいつまでもそれを撫でるばかりで、飲もうとしない。
「コーヒー嫌いだったか」
「好かんね」
深海のような沈黙が辺りを包んだ。遙か遠くで渡船がゆっくりと駅前乗り場に向かっていく。
「なんか悪い。一番危ない役がナツになっちまって」
「別に」
ナツの表情は変わらない。しかしショートカットのうなじに潮風が吹いたとたん、気持ちよさそうに伸びをした。
「ナツが深海に潜ってる時に、俺なんて水上でサポートしか」
「別にいいんやない?」
それでもカナメは俯いたまま、ブツブツと「ああ、でもこれも単なる俺の自己満足で……」とか「あれを着るのがナツでホッとしてるような自分もいて……」などと呟き続ける。
ナツは肩を竦めて溜息を吐く。
「えっと――」
しばし迷ったが、制服のスカートを押さえて堤防へ身軽に登る。溶けた夕陽が水平線に落ちようとしている。潮風が強くなって、両腕を広げてバランスをとる。
「ウチは泳ぐのが好き。で、考えるのはあんまり。でもカナメはそうやってグチグチ考えるのが好きなんやろ。したらさ、ウチらはピッタリ最高にツナギ使うのに向いとると思うんよ」
カナメは夕陽に照らされたナツの顔を見上げる。ニッと線のような目になって笑うナツに、カナメは嬉しそうに困った顔をする。
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