今すぐ水族館へ行こう(1994年・夏)
⚫︎雨多ノ島水族館
⚫︎ユーミ館長(35歳)
⚫︎竹内夏音、ナツ(17歳)
⚫︎瀬戸内カナメ(17歳)
⚫︎茶屋ヒノスケ(17歳)
⚫︎佐藤順子(5歳)
水族館のお手伝い急募!!
業務:餌やり、水槽掃除、事務など
条件:高校生以上・泳ぎが上手・身体が丈夫
給与:時給900円~
時間帯:9:00~18:00のうち4時間ほど。土日は終日だが、応相談。
連絡:名呑町・国立水産研究所内雨多ノ島水族館(××××―××―××××)
★★★★
ひっそりした商店街にひっそり張り出されたバイト募集の小さなポスター。日焼けしたショートカットの女子高生がそれに目をとめた。
「泳ぎが得意、身体が丈夫……」
ナツはブツブツと呟いて手帳を開く。メモをとってぱたんと閉じると、サウナのように不快感しかない熱気の中、歩き出した。
★★★★
詰め襟のカナメは雨多ノ島へ行く渡船に乗っていた。生温い潮風が短髪を撫でていく。カナメは高校生になってから、ほぼ毎日放課後に一人で水族館に行く。何をするでもないが、水槽を行ったり来たりする魚を見ているのが好きなのだった。
「カナちゃん、あの水族館はヤバいって。雨多ノ島は呪われてんだよ。で、来た人間をよくわからんモノに変えちまうんだぜ」
友達の茶屋ヒノスケは冗談でそう言っていた。カナメは海を眺めながら、たとえそうであっても……と思う。
「そんな夢みたいなことが起きてるなら、見てみたいけどな」
★★★★
ナツは家に帰り、私服に着替えた。ラフなホットパンツに肩かけ鞄。カセットウォークマンのイヤホンをつけ、鏡の前で口笛を吹く。巻き毛が揺れた。
「おかーさん、ウチちょっとバイト面接行ってくるけん!」
泥だらけのスニーカーを履くと、駆け出していく。背後に声。ワクワクして立ち止まれない。
「ちょっと面接ってあんたその格好で!?」
渡船で内海を渡り、水族館に着くと受付のお姉さんに話しかけた。肩パットを入れすぎたスーツがまるでアメフト選手のようである。
「あの、先程連絡したアルバイト希望の者ですけど」
「ああ、それでしたら裏口の扉から地下へどうぞ。今から三十秒だけロックを解除しますから、その間に入ってください」
そう言ってスイッチを押す。
「…………」
唐突なことにナツが事情を飲み込めずボンヤリ突っ立ったままでいると、お姉さんはパンパンと手を叩いた。
「ほら、走る走る走る!」
「は、はいッ!」
裏口には関係者以外立入禁止と書かれた鉄の扉があった。この建物はまだ新しいはずだが、何故かその扉だけはひどく古びている。
赤錆だらけの鉄扉。
「怪しい」
ここから先は古い建物の構造が残されているのだろう。水族館以前にあった建物といえばあの妙な噂だらけの工場だったが。
「でも、何のために」
薄暗い室内に入り、後ろ手に扉を閉めた瞬間、ロックのかかる大きな音がした。磯のような潮気に、微かに薬品の臭いが混じる。
奥に進むとナツの身長ほどもある実験用水槽が並んでいた。
「うわあ……!」
見るからに強固で分厚い水槽には、触手に巻かれ過ぎて本体がわからないもの、数匹の鰯に紐を通すように寄生しているゴカイ状の生物、目や口や手足さえないぷるぷるしたピンク色の塊などが入っている。
「そういうリアクションをする子は珍しいわね」
そうした水槽に囲まれるように、白衣を着た太めのおばさんがいた。目が合うとシワの寄った頬が持ち上がり、化粧っ気のない顔が笑った。
「来たわね。あなたがバイト希望の?」
「ハイ! 竹内夏音です。みんなからはナツって呼ばれます」
「そう。ナッちゃん、私は館長の弓子。私はユーミって――呼ばれてたわ」
館長はどことなく淋しげな目をして言う。
「仕事は簡単。あなたには」
じろじろとナツの頭から爪先まで値踏みする。
「収益の計算と、時々餌やりをしてもらおうかしら。まあ主に事務だけど」
「あの、ウチ、水泳部で泳ぐの得意なんで……」
館長は目を丸くした。
「水槽掃除の方をやりに来たんだ? へえ。結構体力使うから女の子は難しいかと思うけど。それに女の子には他にちょっとした服――後で詳しく説明するけど、生体服を着てもらう仕事があるしね」
そう言ってナツの身体を隅々まで触って確かめる。
「ウチ、計算とか苦手です。動物に餌やるのもやってみたいですけど掃除してたいです」
ユーミはそれを聞いて深く頷いた。ナツのやる仕事が決まった瞬間だった。
★★★★
「いらっしゃい」
カナメは学生証を受付のお姉さん――胸の名札には「佐藤順子」とある――に見せた。顔見知りなので殆ど確認はされない。名呑高校の学生は無料で水族館に入ることができるのだ。それでも人気も無ければ見所も無い。おまけに悪い噂も立ち始めて半ば心霊スポットである。
「新しい生き物、何か入りましたか?」
「無いなあ。ああでも、入ったと言えば入ったかな。君が好きかどうかはわかんないけどね、あの生物」
そう言うと意味深に笑った。
「なんですかそれ」
「若者よ、時は金なりだ。さあ行った行った」
本館入口脇には錆びたイルカのプレートが建てられ、「海の生き物に触れ合おう! ※イルカはいません」と書いてある。
カナメはいつものように赤い甲冑を着込んだタカアシガニや風に靡くビロードのようなエイの水槽を過ぎ、この水族館最大の目玉である円柱水槽へとやってきた。巨大な水槽にもたれるように座る。
薄暗い館内はさながら海の底、そこへ銀色イワシの群れが反射して輝き、見上げるにつけ水の色が白くなっていく。時折ウミガメがカナメに挨拶するようにゆっくりと旋回していった。
「海の生き物っていいよなあ……」
目を細めて嘆息する。と、突然カナメはガラスに手をつき食い入るように見つめ出した。
「ナツ?」
パンフレットが手から落ちる。小学校以来、学校が別々になり話すことのほとんどなかった幼なじみのナツが水槽を降りてきた。小学生のナツは活発で木登りが上手く、鈍臭いカナメはよく泣かされていた。正直に言うと男子以上にガサツで、苦手な人間の一人だった。
しかし今、彼は目を閉じることができなかった。
ナツは競泳用水着だったが、光輝を一身に浴びて天上からやってきたように見えた。彼女は気づく様子もなく水をかいて泳ぎ始めた。
いつの間にかカナメの隣に来ていた館長は、落としたパンフレットを拾いあげた。
「試しに潜ってもらったんだけど。あの娘ここで働くってよ。カナちゃんさ、君もバイトしない?」
彼は視線を一切逸らさず、魔法にかけられたように固まっている。
「いつも来てるし、この水族館の勝手がわかるでしょ。それに、働いたら海のことだってわかるわ」
カナメは姿勢を少しも変えなかった。やがてぽつりと呟いた。
「……ヒノスケ。水族館が人間を別の何かに変えるって? そうだな。まるで人魚だ」
青い水槽の中、ガラス越しに魚たちと戯れる彼女を見て、カナメは胸を抑える。
「あ」
――どうして忘れていたのか。
それはたった一度きりのこと。
小学生のナツがいつものように木に登る。からかってくる。
幼い自分は泣いている。あの木の上から何が見えるのか知りたかったけれど、できないことが悔しかったのだ。
見かねたナツは、周りに他の子がいないのを確認すると俺に向けて手を伸ばした。
俺はその手を取ったけれど、結局登れなかった。
そのうち他の子がやってきて、ナツはいつものナツに戻った。
そしてそれきり、疎遠になったのだった。
「館長」
隣に腰掛けていた館長が微笑みながらハイハイと返事をする。
「お願いします。俺、やりたいです」
今度こそ。
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