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遠くの星  作者: 雨咲はな
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9.相違



 もう高校生だから勉強くらい自分で出来る、という私の抗弁は、もちろん母にはまったく通じなかった。


「自分一人でやってあの点数なんでしょ」

 と突き放すように言われて、言葉に詰まる。


 母にこんなことを言わせないくらい、もっと良い成績をとっておけばよかった、と、私は今こそ心から後悔した。後悔先に立たず、という諺がぐるんぐるんと頭の中を回っている。先に立たないも何も、試験はこれからなんだけど。

 じゃあせめてリビングで見てもらう、と言ったら、それも却下された。母いわく、「だってこれからお母さんドラマ見るんだもん」だそうだ。「テレビなんか点いてたら集中して勉強できないでしょ」だと。それなら一日くらい、娘の勉強のためにドラマを見るのを我慢すればいいではないか。もしかしてこの母は、神様が私を困らせるためにわざとこの世に遣わした存在なのかもしれない。なんで私ばっかりこんな試練を受けねばならないのでしょう、神様。

「なに今さら遠慮してんのよ」

 と母は笑ったが、断じてこれは「遠慮」などという言葉で括られるような単純なものではない。本当にトモ兄に遠慮している時は「遠慮がない」と叱るくせに、いつものことながら母と私の思惑は、地球と太陽くらいに距離がかけ離れている。

「いや、でも、私の部屋、散らかってるし」

 言い訳のように私が言うと、母は鬼の首を取ったかのように、それ見たことか、という顔をした。くそう、ムカつく。ムカつくけど、ここはひたすら忍耐だ。

「それも今さらでしょ。他の男の子だったら困るだろうけど、知哉君だもん、いいじゃないの」

 まあ夏凛が他の男の子なんて家に連れてくるわけないけどー、と軽く言われて笑い飛ばされた。否定はしないがそういう問題ではない。トモ兄に私の汚い部屋を見られて、今さら「恥ずかしい」なんて思うわけがないでしょうが。私としては、そこに気づいて、もうちょっと気を廻して欲しいのだ、お母さん。


 若い男女が二人きりでひとつの部屋にいるのはマズイかしらね、とかさあ!


 でも、この母の様子では、そんなのまったく望めそうもないな、と私はズキズキ痛んできた頭を手で押さえた。

 母は、私とトモ兄を、「男女」などという関係性で見たことはただの一度だってないだろう。それとなく言ってみたって、絶対に通じなさそうだ。

 大体、なんて言えばいいのだ?


 お母さんとお父さんの前では、私とトモ兄は仲の良い兄妹みたいなもんですけど、それ以外の場所では決してそういうわけではないのです──なんて?


 いやなんか、これだと妙に淫靡な響きになってしまうな。別に、私とトモ兄の間に、具体的な行為があったわけではないのだから、こういう言い方は違うような気がするな。しかしだからって、私たち二人の間に間違いなく横たわる、微妙な雰囲気をなんと説明すればいいものか。


 少なくとも、トモ兄は、私のことを「妹」だなんて思ってはいない。それは確かだ。

 なぜかといえば、私とトモ兄が前世で恋人同士だったからで、結婚の約束を交わしていた間柄だったからだ。

 とか?


 この母親にそんなことを言ったところで、爆笑されて、あげく私の頭を心配されるのがオチに決まっている。

「…………」

 もう、何もかもが虚しくなって、私は腹の底から深くて長い息を吐き出した。

「……じゃ、とにかく着替えてくるから」

 それだけを告げて、引きずるように片足を階段の段差にかける。二階に上りながらちらっと振り返ると、トモ兄がリビングのドアの手前で立ったまま、こちらに目をやっていた。

 背の高い細身の体に、爽やかな白い薄手のセーター。ジーンズに包まれた足はすらりと長い。その上に乗っかっている顔ときたら、本当に私と多少なりとも血が繋がってんのかな、と疑問に思えるほどに整っている。

 きっと、この容姿だけでも、女の子の大部分は、トモ兄に悪感情は抱けない。ましてや彼は、中身もかなり上等だ。この人に異性として好意を持たれたら、よっぽど嗜好が偏ってでもいない限り、誰でも喜ぶだろうと思う。

 従兄という贔屓目なしにしても、トモ兄はそういう「よく出来た」男の人だった。

 けれど私は、トモ兄のその視線を正面から受け止められない。その柔らかな瞳が、優しい微笑が、どうしても怖い。

 階段を上る足取りが乱れてしまうほど。手すりに置いた手が、わずかに震えてしまうほど。


 そしてそのことに罪悪感を感じずにはいられない自分の心が、なにより痛い。



          ***



 私服に着替えてから、私は改めて自分の部屋をぐるりと見回した。

 ──「勉強を見てもらう」って、どういう形がいちばんベストなんだろ? と考える。

 この場合、自分が話を聞きやすい、とか、トモ兄が教えやすい、なんて条件は二の次、三の次である。部屋が雑然としているのも、もはやどうだっていい。

 普通だと、私が勉強机に座って、トモ兄が別の椅子を持ってきたりしてその脇に座る、という形になるのだろうか。いやでも、それはあまりにも近いよね、と想像しただけでめげた。自分の身体や顔のすぐそばにトモ兄のそれがあるなんて、とてもではないが勉強どころの話ではない。

 やっぱりこっちにしよう、と私は部屋の真ん中というよりはかなりドア付近に寄せて、折り畳み式のローテーブルを置いた。小さなものだから、向かい合わせに座ったとしても距離が近くなるのは同じだが、お互い床に座ればいい分、まだしも圧迫感がない。自分が少しトモ兄から離れたところに座ればいいんだし。


「──……」

 そうやってスタンバイを終えたところで、我ながら少々ゲンナリした。


 なんかさあ、私って、ものすごく自意識過剰な、嫌な女そのものだよね。

 見知らぬ他人の家庭教師が来るとしても、ここまで全身に針を立てるみたいにして警戒したりしないだろう。

 だってそれは、どこまでも自分本位なことであると同時に、相手に対してすごく失礼なことでもあるのだから。


 ……私があまりにも余計なことを考えすぎなのかな、としゅんとして反省する。


 もっと普通に、年下のイトコとして無邪気に接すればいいことなのだろうか。トモ兄はいつだって紳士的なのだし、私の意志を無視して何かをする、なんてことはしたことがない。

 私がこの先も、ちょっと間抜けな「妹」として振舞っていれば、トモ兄もずっとこのままでいてくれるのだろうか。


 ──そうしているうち、前世の約束も、いつかは風化して、「なかったこと」になるだろうか。


「…………」

 拳をぎゅっと握りしめた時、部屋のドアがノックされた。びくっと弾かれたように顔を上げる。

「ナツ? もういいかい?」

「あ、うん、ごめんね。ちょっと待って」

 慌てて走り寄り、ドアを開けた。

「散らかってるけど」

 トモ兄を部屋に入れると、私はそのままドアを大きく開け放ち、廊下の壁にくっつけてストッパーで止めた。トモ兄は薄く微笑したままそれを見つめていたけれど、何も言わなかった。

「久しぶりだな、この部屋に入るの」

 長い脚を窮屈そうに折ってフローリングの床に直接座り、トモ兄は部屋の中を見回しながら呟いた。

「そうだっけ。昔はもっと散らかってたでしょ」

 私もその向かいに座って、鞄の中から教科書やノートを取り出してテーブルの上にドサドサと乗せる。小さくて乗りきらないので、テーブルの周りにも乱雑に広げた。

「人形やぬいぐるみがなくなったね。何に使うのかよく判らない石とかを集めた缶もないし、色紙の切り端やシールもない」

 トモ兄はそんなことを言ってくすくす笑い、私が適当に置いた教科書類を丁寧に揃えはじめた。

「あ、あったあった。昔、綺麗な石を見つけるたびに拾って持って帰って、缶の中に貯めておいたんだよね。お母さんが、どうせ拾うのならお金でも拾ってきなさい、なんてロマンのカケラもないお小言を言ってさ」


 よし、この路線で行こう、と私は口を動かしつつ心の中で方向性を決めた。「私はまだまだ子供です」路線だ。


「今でも綺麗な石を見つけると、つい拾っちゃう。私って、あんまり小学生の時から進歩がないから」

 あはは、と笑って言ったが、教科書をテーブルの上でとんとんと揃えていたトモ兄は、そこには同意してくれなかった。

「そんなに綺麗な石が好きなら、僕が今度指輪を買ってあげるよ」

 形のいい微笑を崩しもしないでさらりと言う。私は背中が一瞬にして凍った。

「あの、そういえばさ」

 話題を変えるために、ことさら声の調子を張り上げる。自分でも今の今まで忘れていたような、大昔の記憶を無理やり引っ張りだした。

「私がちっちゃい頃、トモ兄が縁日でオモチャの指輪を買ってくれたことがあったよね。五十円だか、百円だか、それくらいの。私が欲しいってダダこねるから、トモ兄が自分のお小遣いで買ってくれて、あとからうちのお母さんに『あんまり甘やかさないで』って叱られちゃってさ。私と一緒にいると、トモ兄がいっつも貧乏くじを引かされちゃうんだよねー」

 美しい思い出話に持っていこうとしたのだが、明らかにその話題は失敗だったらしい。トモ兄は、手に持っていた教科書を、ぱたんとテーブルの上に置いた。

「──あの時から、僕は『いつか本物の指輪をナツに買ってあげよう』と思ってたよ。こんな少ない金額のものしか買ってあげられないことが、屈辱だったからね。いつか大きくなったら、もっとケタの違う金額の指輪を買おうって」

 そして、視線をぴたりと私に据えつけた。


「ちゃんとしたエンゲージリングなら、おばさんも、『甘やかすな』なんてことは言わないだろう?」


「…………」

 私は血の気の引いた顔でトモ兄を見返すだけで精一杯だった。トモ兄は微笑んでいるけれど、その表情のどこにも、軽口だとか、冗談とかの浮ついた色はない。

 ──トモ兄は、本気なんだ。

 その考えは、私の心臓に直角に突き刺さった。


 前世の約束を、「なかったこと」にする気なんて、トモ兄はさらさらないんだ。


「……トモ、兄」

 乾いた喉から、なんとかそれだけを押し出した。吸い寄せられるように、目線がテーブルの上の教科書に移る。

 こんな言葉は聞かなかったことにして、「じゃあ勉強しようか」と言い出したい誘惑に負けそうだった。

 私がそう言えば、トモ兄はきっと頷いて教科書をぺらぺらとめくり、範囲はどのあたりだい、といつもと同じ口調で訊ねるだろう。


 だけど、そんなことはしちゃいけない。ここで逃げたら、何ひとつとして変わるものはない。


 その時、私の頭の中にあったのは、蒼君のことばかりだった。なに迷ってんの? という季久子の声が耳元で聞こえる気がした。

「トモ兄、あのね」

 顔を上げ、トモ兄を見る。

 トモ兄は無言のまま私を見返した。その口元には、もう普段の彼の優しい微笑は影も形もなかった。

「私は前世、奈津だった、んだけど」

 「かもしれない」とか、「ような気がする」なんて言葉は付け足さなかった。それは、過去に何度も、トモ兄と私とで話し合い、すでに結果の出ていることだ。

 トモ兄の話す「奈津」と、私の中に残っている「自分」は、立っていた場所、状況から、着ていた着物の細かい柄に至るまで、何度確認しても、いつでもどこもかしこもイヤになるくらいぴったりと一致していた。もうそんな言い方で誤魔化している段階ではない。「私は奈津だった」、それは基本の大前提。


 私は奈津だった。──でも(・・)

 話はここからだ。


「でも、今の私は、夏凛なんだよ」

「奈津とナツは、同一人物だ」

 私の言葉に、トモ兄はきっぱりと言った。

「…………」

 そう、そうだ、私は昔、奈津だった。同一人物だ、といえば、確かにその通り。

 だけど、ねえトモ兄、じゃあ。


 ──じゃあ、同一人物なら、どうして、好きな人が違う、なんていう事態になってしまうの?

 奈津が私なら、どうして、トモ兄に対して恋愛感情を抱くことが出来ないの?

 どうして、夏凛である私は、トモ兄を「従兄」としてしか見られないの?


 私はトモ兄のことが大好きだ。今も昔も変わらない。

 ……けれど、それは、「恋」とは違うのだ。


「私はトモ兄のこと、好きだけど、でも」

 ぼそぼそと声を出す私を、トモ兄はじっと見つめている。居たたまれなくて、私は顔を下に向けてしまう。

「でも──私、やっぱり」

 下を向いていたから、トモ兄の顔は見えなかったけど、彼がかすかに溜め息をついたのは判った。

「ナツは、前世の記憶が少ししかないから、僕とは違うのかもしれないね」

「……うん」

 トモ兄の言葉に、私は小さく頷く。そう、違う、のだ。奈津と夏凛、私とトモ兄、いろんなことで齟齬がある。同じ人間、同じ相手、けれどどうしても、気持ちと心が重ならない。

 これに目をつぶっていることは出来ないよ──と口にしかけた途端、目の前のローテーブルが消えた。


 えっ、と思う間もなかった。


 トモ兄がテーブルを脇に押しやったんだ、と理解する前に、素早く伸びてきた手に、自分の手を握られていた。

 驚いてすぐに逃げようとしたのだけど、トモ兄に距離を詰められて進路を阻まれた。握られた手はがっちりと捕われたままだ。

「トモに」

「……けど、『奈津』の記憶がもっと戻ってくれば、もうそんなことで迷わなくてもよくなるよ、ナツ。奈津と僕はあれだけお互いに愛し合ってたんだから、そのことを思い出せば、ナツも僕のことを男として意識するようになる。従兄としてじゃなく、恋人として見るようになるよ、ちゃんとね」

 こちらを覗き込んでくるトモ兄の眼差しは、厳しいくらいの光を放っている。

「…………」

 そう、なのだろうか?

 私には確かに奈津の記憶がほんの少ししかない。だから、幼い頃からイトコ同士として育ってきた夏凛の意識が大きく占有して、トモ兄を異性として見ることを、自ら禁忌としてしまっているのだろうか。

 奈津の記憶をもっと取り戻したら、私はトモ兄のことを男性として好きになるのだろうか。

 その場合、現在の夏凛の恋心は、どこかに消えてしまうのだろうか。


 奈津にとっては、夏凛が抱く蒼君への気持ちなんて、何かの「間違い」で発生したものに過ぎないのだろうか?


 私は目を伏せて言った。

「──でも、今までだって、思い出さなかった」

 あの中学二年の夏からでも、特に奈津の記憶が急激に甦った、なんてことはなかった。トモ兄は私に、「奈津はこんな娘だった」と少しずつ話してはくれるけど、私にとってそれはまるで、すっかり忘れてしまった幼い頃の自分のことを語られるくらい、ぴんとこないものばかりだった。

 今まで何も動きのなかった記憶が、これから急に戻ってくるようになるとは思えない。

「そうだね。君は僕のことをちっとも思い出してくれない」

 君、という呼称にびくりとして顔を上げると、トモ兄は口元に、再び笑みを浮かべていた。

 けれど、その笑みは、少し冷ややかさを感じさせるようなものだった。


 心臓がどくんと跳ねる。

 怖い、とやみくもな衝動が押し寄せてきて、座ったままじりじりと後退した。

 トモ兄は私の手を握ったまま離さない。


「だから僕も今までずっと、強引な真似はしないで控えてたんだ。ナツはどう見ても、『従兄』としての枠からはみ出す僕に怯えて、警戒しているみたいだったから。君が記憶をもう少し取り戻すまではと、待ってたんだけど」

 けど──と、トモ兄の顔から、すうっと刷くように笑みが消えた。


「けどさ……ナツ、もしかして、他に好きな男が出来たんじゃないのかい?」


「……っ」

 私は青い顔で固まってしまう。肯定も否定も出来なかった。どっちをすればいいのか、混乱しきった私の頭では、まったく判断が出来なかった。

「そんなことは許さないよ、ナツ」

 トモ兄は、私の答えを待たずに、はっきりとそう言った。

「僕以外の男を選ぶなんて、絶対に許さない」

 射抜くような、鋭い瞳だった。





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