7.奈津
前世、というのが、人によっては、非常にいかがわしく、胡散臭いものであるようにしか思えないであろうことは、私も理解している。
私だって、ファンタジー路線はそんなに好きってわけでもない。幽霊やオバケはいたら怖いなと思う程度、超能力や超常現象に対してもけっこう懐疑的だ。
都合よく神様にお願いしたりするわりに、宗教についての関心もほとんどない。クリスマスにはパーティーをし、初詣でには神社に行き、お墓参りをすればお線香の前で手を合わせるという、ごく平均的な日本人をやってきた。
──だから、前世なんてくだらない、と言い切る蒼君の気持ちも、とてもよく判る。
私も、自分の身で経験していなければ、きっとそう思う。
以前、友人にムリヤリ「前世占い」というやつをやらされたが、その占いで出てきた結果は、「イギリス貴族の娘」というもので、正直、バカみたい、という感想しか浮かばなかった。一緒にやった友人も、「大富豪の愛人」という結果に大笑いしていて、それが正常な反応だとも思った。
前世なんて、バカバカしい。それはそうやって、時々話のタネにして笑いの対象にするだけのもので、実際にあるわけがない。
地球滅亡の大予言と同じだ。きゃあきゃあと盛り上がることはあるけれど、誰もが本当は、そんなことはあり得ないと知っている。
うん、そうだよね。だっていかにもウソくさいもん。私もそれは認めよう。──でも。
でも、それは、そこにある、のだ。
そうとしか、言いようがない。信じるも信じないもない。理屈云々ではないのだ。頭ではなく、心が先に理解してしまっている。
私自身、納得しがたい部分はあるが、事実としてあるんだから、しょうがない。
──たとえば、私がいきなり超能力に目覚めちゃったりして、手で触れることなく、思念だけで物を動かす、ということが出来たとして。
私はそりゃビックリするだろうし、ウソでしょ、と思うことだろう。こんなこと、あるわけないよね、と。
でも、動かす能力は間違いなくあって、そこにタネも仕掛けもないことは、自分がいちばんよく知っているのである。他人に見せても、親兄弟に見せても、きっと誰一人信じてはくれないだろう。何かの手品でしょ、としか思ってはくれないだろう。雑誌やテレビ局は面白がって取り上げてくれたりするかもしれないけど、彼らだって心の底では笑っているはずだ。一体どんなトリックを使ってるんだと。
そのうち、私はみんなからウソつき呼ばわりされて、疎外されることになるかもしれない。いい加減にしろよ、と怒り出す人もいるかもしれない。
でも、もうウソだということを認めろよ、と詰め寄ってこられても、私はただ困ってしまうだけなのだ。
だって、この力はここにあるんだから。
誰にも信じてもらえなくても、世界中の人に否定されても、私自身は受け入れるしかない。認めるしかない。しょうがないではないか。
私にとって、「それ」は、そこに、厳然として存在しているのだから。
──両肩に長いおさげ髪を垂らし、朱色の着物を着て、桜の中で誰かを待っていた「奈津」は、確かに前世の私だ。
私が見る夢は、奈津の記憶の一部分。私の前世の、ほんの断片。だから私は、奈津がどんな顔をした娘であったのか、そんなことすらも知らない。鏡を覗き込まない限り、私が私の顔を見ることが出来ないように。
でも、奈津が考えたことは私が考えたことで、奈津がしたことは、間違いなく私がしたことでもあるのだ。
奈津の感じた、胸を締めつけられるような想いも、切ないまでに揺さぶられる心も、全部、私が私として経験したことなのだ。
私はそれを知っている。
トモ兄も、それを知っている。
……だから、こんなにも、ややこしいことになっている。
***
本屋のレジは夕方くらいがいちばん混んで、夜になると少し一息つける。
もちろん一息つけるからってヒマだなと思う余裕なんてない。翌朝になると新刊書籍やら雑誌やらがどっさり配送されてくるので、夜のうちに場所を空けておかねばならないのだ。
そんなわけで、私はレジを離れ、ひたすらせっせと古い雑誌を抜き取るという作業に追われていた。女性向けの雑誌は、なぜか高級志向なものほど重いし大きいし分厚いから、意外と大変だ。
まあ、いくら中身が高級ブランド品の写真ばっかりのお高くとまった雑誌でも、ちょっと売れないとすぐに他の雑誌に場所を取って代わられて、箱に詰められ返品させられるのだけど。栄枯盛衰、諸行無常、驕れるものは久しからずや。
「や、頑張ってるねえ、橘さん」
うんしょうんしょと雑誌を出していると、後ろから声をかけられた。
振り向くと、そこにいたのはこの店の店長だった。
多分、年齢は四十代前半、細身というより薄っぺらい身体つきをしている。こう言ってはなんだが、中身も非常に薄くて軽ーい感じの人で、店長なのに、新米バイトの私同様、須田さんに頭が上がらない。
「本屋の仕事は、けっこう体力勝負でしょ。続けてると、筋肉がついていいよー」
「あんまり、筋肉をつけたいと思ったことはないんですが」
ニコニコしながら言われたので、私は率直に返したのだが、店長はあまり聞いていないみたいだった。
「楽しいでしょう、楽しいよね、本屋。どうしてバイト募集の張り紙しても、人が来てくれないのかなあー」
「キツイわりに、時給が低いからじゃないでしょうか」
私はもう一度率直な意見を述べたが、店長はやっぱり右から左へと聞き流した。
「橘さん、辞めないでね。これ以上人手が減ると、僕困っちゃうんだー」
首振り人形みたいにフラフラ首を動かしながら、ニコニコした顔を崩さずにそんな台詞を吐かれても、ちっとも困っているようには見えない。
「私は今のところ辞めるつもりはないんですけど、そういうことは、須田さんとか、そ……いえ、他の優秀なバイトさんに言ったほうがいいんじゃないでしょうか」
「あはは、やだなあ。須田さんにそんなことを言ったら、足許見られて、『時給を上げろ』って言われちゃうよ」
「……少しは上げてあげたほうがいいと思います。私はまだまだ半人前だから抜けても大差ないけど、須田さんがここを辞めたら大ダメージじゃないですか」
「そうだねえ。橘さんは、まだまだ役には立たないよねえー」
店長は、私の言葉の前と後ろ部分をきっぱり無視して、真ん中のところだけにニコニコと同意した。
「…………」
そんなことをニコヤカに言われたら、私だって黙るしかない。私に対して、「こいつなら何を言ってもいい」と思う人が、ここにもいたか。
「でも橘さんなんかはさ、多分、本屋じゃなくても、どんなバイトでも、そこそこやれるんじゃないかと思うんだよね。須田さんとか、鷺宮君とかと違ってさ」
「……鷺宮君、もですか?」
私が釈然としない表情をしたのが、店長はかえって意外だったらしい。大げさに目を見開いて、「そりゃそうでしょう」と強調した。
「だってさ、鷺宮君がファストフードとかで働いてる姿、想像できる?」
「…………」
思わず口を噤む。確かに、蒼君があの帽子やエプロンを着けて、「いらっしゃいませー」とお客さんにスマイルを向けているところは想像するのが難しい。難しいというか、かなり不可能に近い。ていうか、考えようとしただけでもう怖い。
「コンビニやファミレスやカフェとかでも、ちょっとなあーって思うでしょ?」
「うーん……否定できません」
じゃあ蒼君には一体どんな仕事だったら馴染むのだろう、と考えてみたのだが、ちっとも思いつかなかった。とすると、やっぱり本屋がいちばん違和感がないのだろうか。昔のお話とかでも、本屋の親父は無口で頑固、みたいな設定をよく見るし。
「じゃあ、鷺宮君は、自分に適性がありそうな仕事ということで、この本屋をバイト先として選んだんでしょうか」
まだ高校生なのに、ちゃんと自分自身のことを判ってるんだなあ、と感心して私は言ったのだが、店長はあははーと軽く笑い飛ばした。
「そんなわけないじゃん。鷺宮君はね、何を考えてるかよく判らないように見えるけど、実は何も考えてない、っていうタイプだよ」
えらい言われようだ。
「本屋のバイトに来る子ってのは、まあ大体が、『本が好きだから』っていう理由だね。ほら、本屋で働くと、本が定価の一割引きで買えるしね」
「ああ、なるほど」
「たまーに、それ以外の理由で来る子もいるけどねえ」
「…………」
店長はニコニコしたままで、その表情からは何も読み取ることが出来なかった。
この人、実は意外とあなどれない人なのでは……? いやそれより、私って、そんなに思考がだらだらと漏れて判りやすいのか、そこを気にしたほうがいいのだろうか。
「そういえば、みんな、本をたくさん買ってますもんね」
須田さんなんて、毎月毎月本を大量に購入しては、月末の請求書を見て倒れそうになっている。須田さんの部屋はもちろん本だらけだそうなのだが、最近ではベッドの上にも本が侵食しだしたので、ハンモックの入手を真剣に考えている、と言っていた。
蒼君も、須田さんほどではないけれど、よく本を買っているのを見かける。私だと間違いなく途中で挫折しそうな分厚いやつだ。
タイトルも作者名も聞いたことがないものばかりで、それは私が本に詳しくないという理由ばかりではなく、須田さんに言わせると「鷺宮の好みはどれも作風がマイナー」ということらしかった。
試験の学年順位表などでは一度もお目にかかったことはないのだが、そういうところを見ると、蒼君は頭がいいのかな、と思う。
私たちのような学生の間では、どうしても、成績がいいということが重視されがちになってしまうけれど、試験の点数が高いというのと、身につけた知識が多いというのは、必ずしも同じ意味というわけじゃないはずだ。
不真面目だけど真面目。
成績は良くないけど難しい本をたくさん読んでいる。
優しくはないけど冷たいわけでもない。
──蒼君は、不思議な人だ。
「まあ、一割引きは自店購入に限る、ってことになってるから、アダルト本はなかなか買えないのがツライところだけどねー」
「…………」
いきなり現実に引き戻された。店長はまた能天気にあははーと笑っている。
「やっぱり、みんなにバレちゃうからさ。すごい漫画好きなバイト君がいるけど、彼でもエロ漫画だけは別の店で買うって言ってたからねえ。この店の売り上げに貢献してくれればいいのに」
「でも、須田さんは、どぎつい官能小説も、描写の激しいBL本も、堂々と社販で買ってますよ」
須田さんは、どんな本でもそれが本である限り問題ない、という人なのである。文学もエロ本も、扱いはみな平等、差別しない。立派な態度だ。その読書傾向はこの際棚に上げておくとして。
「須田さんを一般人の基準で考えちゃ駄目だよ。普通は恥ずかしいもんなんだって。ましてや、鷺宮君なんて、思春期の男の子なんだからさあ」
なんだか、蒼君が当たり前のようにエロ本に興味を持っている、みたいな流れになってしまっている気がするのだが、いいのだろうか。
しかし本屋のバイトを始めて私の何が変わったかというと、そういうものに対する偏見や抵抗感が大分薄まった、というのがある。アダルト系の本なんて、本当によく売れるから、こっちだっていちいち恥ずかしがってばかりいられないのだ。実際、売る側に回ってみると、誰がどんな本を買ったって、ほとんど気にならないものだし。
中高生の男の子なんかは、そういう本を買う時は必ず私のレジを避けて、どんなに混んでいても、もっと年配の女性だとか、男性のレジに並ぶ。そういう姿を見て、微笑ましいなあ、とさえ思うようになってきた私は、店長の冗談にも、ついつい乗ってしまった。
「鷺宮君が恥ずかしがるところって、見てみたいような気もしますねえ」
店長はもちろん、ノリノリだ。
「でしょう~? 鷺宮君は方向性としてはどういうのが好みなのかなあ」
「案外、人妻ものとか、そういうのが趣味だったりしてー」
それはそれで、ちょっと困るなあ、と思いながら言った。そうすると、私は蒼君の嗜好の対象から外れてしまうことになるからだ。かといって、あまりマニアックなものが趣味でも困るのだけど。
そうして、店長とあはははと笑い合っていたら、
「──今が仕事中ってことを忘れてるな」
と、ひんやりした声が背中からかかった。
「…………」
私はかちんと固まった。
おそるおそる後ろを振り向いてみると、黒いエプロン姿の蒼君が、段ボール箱を抱えて立っている。
顔はいつもと同じ無愛想なものだけど、周囲を取り巻く空気がいつもの三倍くらい低い温度になっていて、怖いというか寒い。
「じゃあ橘さん、仕事頑張ってねー」
中身の軽そうな店長は、逃げ方も鮮やかなまでに身軽だった。「無駄話しちゃダメだよー」と言いながら、素早く店の奥へと去っていく。そもそも私に無駄話を振ってきたのは店長だったはずなのに、どの口がそんなことを言うのだろうか。
「あ、仕事、仕事ね、はい、やってます」
慌てて私は古い雑誌を抜き取る作業を再開しようとしたが、蒼君はそれを遮った。
「ここは俺がやる。そんなにモタモタやられたんじゃ、お客さんにも迷惑だ。お前はこれを倉庫に運べ」
と、手にしていた箱を押しつけられる。つい反射的に両手を出して受け取ったのだが、蒼君が手を離した途端にずっしりとした重みがきて、二、三歩よろけた。本の入った箱を運ぶのも、多少は慣れてきたとはいえ、私の持ち方はやっぱりまだまだヘタクソだ。しかもこの箱、通常よりもずいぶんと重量がある気がする。
「ちょ……蒼君、これ、めちゃめちゃ重い」
「俺の芸術的な詰め方で、上下左右一ミリも隙間なくぎっちり本を入れたからな」
「いや、もうちょっと余裕をもって入れようよ……台車、使っていい?」
「ダメに決まってるだろ」
蒼君はそう言い放つと、さっさと私に背を向けて、てきぱき雑誌を抜きはじめた。抜いたところが空白にならないように、きちんと他の雑誌で隙間を埋めるのも忘れない。きっと、私が二人いるよりも、蒼君の手際の良さにはかなわないだろうから、諦めてすごすごと本を運ぶしかなかった。
それにしても重い。明日は間違いなく腕が筋肉痛になりそうだ。
「蒼君、これ、明らかに嫌がらせだよね?」
「なんの話だ」
「だから、蒼君が人妻好きか否かという……」
「これも持ってけ」
蒼君はたった今抜いたばかりの雑誌を、私が抱えているダンボール箱の上に乗せた。
一冊とか二冊とかではないので、さらにずっしりした重みが加わって、私は腰が抜けそうになった。
「鬼だ……」
ぶつぶつ呟いてみたが、蒼君はまったくの知らんぷりだ。仕方なく、私は箱および雑誌を持って踵を返し、よろよろと倉庫へと向かって歩き出した。
そうしたら、後ろで、かすかに噴き出す音が聞こえた気がした。
けれど、振り返ったら、蒼君は普段と同じ仏頂面で、黙々と手を動かしているだけだった。
「……?」
気のせいかな、と首を傾げ、よろめきながら足を動かす。
店の奥にある倉庫へと行く途中で、またもふらふらしている店長に会った。さっきから、仕事もしないで何をしているのだろう。須田さんに言いつけてやる。
「店長のせいで、叱られちゃったじゃないですか」
ひそひそと文句を言ったが、店長はニコニコしている。
「いやあー、若いっていうのはいいよねえー」
「はあ?」
私は怪訝な顔で問い返した。この人は、「人の話を聞く」という人間関係の基本的なところを覚えたほうがいいんじゃないのか、と本気で心配になった。
「やっぱりねえ、架空の世界よりも現実世界、本よりも人間、可愛いアイドルよりも隣の女の子だよね。それに勝るもんはないってことさ」
「はあ?」
もう一度言ったが、店長は、じゃあねー、と手を振ると、鼻歌を歌いながら店の通路を泳ぐように行ってしまう。私がこんなに重いものを運んでいるのに、手を貸してもくれなかった。もう店長なんて信用しない。
ふう、と息をつきながら、またよろりと足を踏み出す。
「……架空の世界よりも現実世界か……」
歩きながら、ぼそりと小さな声が口からこぼれ出た。
架空の世界と、現実世界。
──それは、前世、という曖昧なものと、現世、という明確なものとの関係によく似ている。
私とトモ兄以外の人たちにとっては、前世なんていうものは、ただの「架空の出来事」でしかないのだろう。
けれど、私とトモ兄にとっては、それもやっぱり、「現実の出来事」なのだ。
奈津は私で、私は奈津。奈津も、夏凛も、同じ「私」で、それは二人にとっての確かな事実。
だから、トモ兄の中で、彼と奈津が交わした約束は、今もなお、有効なままで存在している。
将来必ず一緒になろうと誓い合い、けれど奈津が若くして病気で亡くなってしまったために叶えられなかった前世の約束は、この現世でもまだ続いている、とトモ兄は考えている。
でも。
……でも、「奈津」が選んだ人と、「夏凛」が好きになった人は、違うのだ。