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遠くの星  作者: 雨咲はな
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5.現世



「じゃあね、ナツ。また今度」

「……うん」

 家まで送ってくれたトモ兄と門の前で別れ、私は少しげっそりしながら、「ただいま」と玄関を開けた。

「知哉君は?」

 リビングから顔を出した母親の、おかえり、の前の第一声がこれだ。彼女の中で、一人娘のランクは一体どれくらいの低位置にあるのか、一度じっくり問い詰めてみねばなるまい。

「帰ったよ」

「んまあ、帰っちゃったの? 残念だわあー、お母さん、もっと知哉君と話したいことがあったのに」

「多分、トモ兄にはないと思う」


 そんなにトモ兄とお喋りしたけりゃ、もうちょっと強硬にファミレスに行くのに反対してこの家に引き止めたりだとか、さもなきゃ一緒について来ればよかったではないか。

 一緒に来られたら来られたで、うるさいし鬱陶しいに決まっているが、あの居たたまれない時間と空気を耐えるよりはマシだった。


「で、あんた、ちゃんとお金は自分で払ったんでしょうね」

 いきなり厳しい目つきと口調になった母親に、チェックを入れられる。私の母はわりと粗忽でウッカリなところが多い人だが、忘れて欲しいことは絶対に忘れない。

「う……それは」

「んまあ、なんなの、また知哉君にお金を払わせたの?!」

「……だってさ、トモ兄が、自分が誘ったんだから、って……」

 もごもごと口の中で言い訳すると、母は「んまあー」と呆れかえったように音量を上げた。今度のその感嘆詞には、「なんて非常識で図々しいのかしらこの子は」という副音声が思う存分盛り込まれてあって、私はなんとなく小さくなる。理不尽だ。

「あんたねえ、知哉君はまだ学生なのよ? そうそうお金を遣わせて、いいと思ってんの? 甘えるのもいい加減にしなさい」

 そんなことは判っているし、私はそんなに甘えているつもりもない。とは思うのだが、実際に自分の食べた分をトモ兄に支払わせている以上、それを主張する権利はないような気がして、私は口を噤むしかなかった。


 母親から見ると、私とトモ兄は今でも、子供の頃の過保護な兄と甘える妹、という関係から変わっていないのだろう。

 ……本当に、そのままならよかったのだが。


「可哀想にねえー、知哉君ったら、あんたみたいなのにお金を遣わされて、しばらく清貧に甘んじることになるわね。毎日毎日インスタントラーメンとパンの耳で、栄養失調になって倒れるかもしれないわ。お金がなくて病院にも行けず、食べるものもなくて、アパートで一人寂しく弱っていって、『ああ、こんなことならあの時、大喰らいの従妹に好き放題に食べさせるんじゃなかった……』と後悔の涙に暮れるのよ」

「いくらなんでも、そんなわけあるか!」

 わざとらしく鼻を啜る母親に、私は思わず大声を出して突っ込んだ。代金を払わせたといっても、所詮ファミレスである。ピザとコーヒーで、千円もいかないくらいだ。それくらいで破産するほどビンボーだと思われることのほうが、よっぽど可哀想だ。


「じゃ、そんなことにならないように、またウチに夕飯を食べに来てもらいましょう」

「…………」


 結局そこに行くのか。私はしばらく無言になってから、少し目を逸らした。

「……けどさ、大学生だっていろいろと忙しいんだから、そんなに頻繁に呼びつけたりしたら、かえって迷惑じゃないのかな。トモ兄だって気を遣うし」

 言ってはみたものの、やっぱり通じないらしく、母親はきょとんとした。

「なに言ってんのよ、親戚同士で」

「親戚付き合いなんて、学生のうちは面倒なだけだよ、きっと」

「そんなことないわよ。知哉君は自分からちょくちょく電話をかけてきて、『変わりはないですか』って聞いてきてくれるくらいだもん。あんたのことだって、高校ではどうか、とか、友達とはうまくいってるのか、とかってよく気にかけてくれてるわよ。あの年齢であそこまで配慮できる子って、そうはいないわよね」

「電話……」


 背中をヒヤッとしたものが駆けあがる。

 「配慮」、なのだろうか、それは、本当に?

 母は言わなくてもいいことをベラベラ喋ることにかけては天才的なので、これではうっかりと学校であったことや、バイト先であったことを話すことも出来ない。


「あーあ、本当に、あんな子があんたのお婿さんになってくれればいいのにねえー」

「……だからそういうことを……」

 しゃらっと口に出すのはやめろと言うのに。募る苛々をなんとか抑え込んで、はあーとため息をつくと、私は自分の部屋に行くために階段に足をかけた。


 母親は何も知らないし、何も判っていないのだ。かといって、事情を説明することも出来ないのだから、諦めるしかない。


 従兄として接しようとすれば甘えるなと責められて、距離を置こうとすれば冷たい子だとなじられる。どうすりゃいいというのか。孤立無援とはこのことだ。

「夏凛」

 階段を上がりかけたところで、名前を呼ばれた。

 ん? と振り向くと、母親が冷ややかな顔つきで右手をこちらに向けて突きだしている。

「使わなかったのなら、お母さんが渡したお金、返して」

「…………」

 はあーっ、と私はもう一度大きくため息をついた。



          ***



 傷心のままバイト先の本屋に行くと、蒼君に「遅い」と叱られた。

「ちゃんと時間通りだよ」

「新人バイト風情が、時間きっちりに来るな。もっと前から来て、しっかり準備しろ」

 言い返すと、さらに注意された。ここでは蒼君は私の先輩にあたるので、反抗は許されない。大人しく、ごめんなさい、と頭を下げる。

 午後からバイト入りの私と違い、蒼君は学校が休みの日はほとんどフル勤務である。何がそこまで彼を労働意欲に駆り立てるのかは謎だが、黒いエプロンをきっちり着用し、店内の隅から隅までを移動しながら、新刊本を手にキビキビと働く姿は眩いばかり。眩しくたってやっぱり全然愛想はないので、お客さんは探している本がある時でも、わざわざ蒼君を避けて他の店員に訊くんだけど。


「鷺宮は真面目だねえ」

 レジに入ると、先に入っていた先輩バイトの須田さんが、感心したように言った。


 どうやら、私が蒼君に叱られていた場面を見ていたらしい。

「そうですね、仕事してる蒼君は真面目です」

 相変わらず、「何かご不幸でも?」と聞きたくなるくらいに不機嫌そうな顔をしている蒼君なのだが、私が見る限り、仕事中にサボったりダラけたりしていたことは一度もない。ただ、学校では、よく授業中に居眠りをしていたり、ズル休みをしたりするようなので、性格そのものが真面目かどうかはすこぶる怪しい、と私は踏んでいる。

「そして厳しいねえ」

「そうですね、蒼君が優しいところは見たことないです」

 そこは学校でもバイトでも変わらないので、きっぱりと断言した。私に仕事の指導をする時なんて、鬼教官なみの厳しさだ。叱られて私が落ち込んだって、そのあとのフォローも、もちろん皆無。

 須田さんは、まじまじと私の顔を見た。

「ないんだ?」

「ないですね」

「カケラも?」

「カケラもないです」

「……そんな男の、どこがいいわけ」

「ええっ、なんで知ってるんですか?!」

 自分では蒼君への気持ちは上手に隠しているつもりだったので、飛び上がるほど仰天したのだが、須田さんはいつもの口の悪さで「知られてない、と思うあんたの頭のほうがよっぽどおめでたいね」とズケズケ言った。


 推定年齢二十代半ばの須田さんは、黙っていればたいそうな美人だが、非常にサッパリとした性格で、別の言い方をすると、ものすごくドライな人である。

 本が大好きで、本さえ読めりゃ、あとはどうだっていい、というのが須田さんの生きる上でのポリシーだ(と、本人が言い切っていた)。

 同じバイトという立場ではあるが、長いこと勤めているためか、この店のことは店長よりも詳しく知っているという。


「どこが……と言われても、私にもよく判らないんですが」

 私は赤くなってぼそぼそ言った。須田さんに、私が蒼君に関心を抱くきっかけとなった一件を話しても、きっと理解してはもらえまい。ますます、そんな男のどこが、と言われること請け合いだ。なにしろ私自身にだって、今ひとつ理解できない。

「よく判らない男のために、わざわざバイト先まで追っかけてきたの。物好きだね」

 ふふん、と皮肉っぽく口の端を上げられ、私はさらに赤くなった。

「だって学校では、なかなか話も出来ないんですよ」

 言い訳がましいなと思いつつ、そう言った。



          ***



 ──二カ月前のあの件以来。

 私は学校で蒼君と顔を合わせるたび、折を見ては彼に話しかけようと努力した。仲良くなりたい、とまでは言わなくとも、もう少し話らしい話をしたかったからだ。

 理由は判らないけれど、蒼君のことがもう少し知りたい、と胸の中をせり上がってくる気持ちに、私はどうしても抗えなかった。


 ……しかし問題は、蒼君のほうに、そんな気持ちがてんからなかった、ということだ。


 橘の呼びたいように呼べばいい、と言ってくれた蒼君は、名前を呼んでも、確かに怒ったりはしなかった。蒼君、と話しかけても、(それほど)イヤそうな顔もしなかった。立ち止まり、振り返る。それくらいはしてくれる。

 でも、それだけ、なのだった。

 有り体に言って、廊下で姿を見かけて、私これから音楽室なんだよ、とか、今日の体育はバスケだったんだ、なんてことを話しかけても、ちっとも会話がつながりゃしないのである。蒼君は一応、「うん」とか「ああ」とかの返事はしてくれるけど、それ以上続けようという意思はさらさらないらしく、すぐにスタスタ立ち去ってしまう。私は何度、その後ろ姿を歯ぎしりしながら見送ったか判らない。これならまだ、男に絡まれていたあの時のほうが交わした言葉が多かったよ!


 要するに、私と蒼君の間には、彼の心を動かすほど共通する話題が何もないのだ、と思い知るまでに、そう時間はかからなかった。

 同じ学校、同じ二年生、という、それだけでは、蒼君は私との会話にまったく意義を見出そうとしない。

 彼にとって、私の存在というのは、それほどに吹けば飛ぶような軽いものであるらしいのだった。


 あまりにも蒼君との距離が一向に縮まらないので、終いには私は、蒼君の周りにいる男の子たちにまで嫉妬する始末だった。蒼君は誰といてもそう笑いもしないしお喋りもしないけど、少なくとも、その場に留まってはいる。友人の誰かがぽんぽんと蒼君の肩を叩き、蒼君が黙ってそれを許容しているところを、私は物陰からハンカチをギギギと噛みつつ見るしかない。もう本当に羨ましくて羨ましくてしょうがなかった。何度、たった今私とあの男の子の身体を取り換えてください神様、と願ったことだろう。

 そして悟った。


 これはもう、私のほうからもう一歩か二歩踏み込まないことには、状況は絶対に改善されない、ということを。

 蒼君との間に、もっと共有する何かを作らなければ、どうにもならない。

 声をかける、のと、話をする、のとはまったく意味が違う。


 彼女になりたいとか、興味を持ってほしいとかいう以前に、私はなんとしても、蒼君ともう少しお喋りがしたかった。

 蒼君の声をもっと聞きたかった。

 彼の視界に、何気ない景色として混じっていたかった。

 だから、苦労して彼のバイト先を探り当て、その本屋で「バイト募集」の張り紙を見つけた時は、嬉しくて舞い上がりそうだった。新しく入ったバイトです、お願いします、と挨拶をした時、蒼君はちょっとイヤそうな顔をしただけで、特に何も言わなかった。

 蒼君は、基本いろんなことに対して無関心だけれど、だからといって、寄ってくるものを拒絶することもしないのだ。



          ***



「このバイトを始めるようになって、ようやく蒼君とまともな会話ができるようになったんですよ」

 しみじみとそう言うと、須田さんは鼻先でせせら笑った。

「へー。『もっとちゃんと働け、このボケ、役立たず、時給泥棒』みたいな内容の叱責を、あんたは会話と呼ぶわけね」

「蒼君はそこまで言いませんよ! 言うのはおもに須田さんじゃないですか! 蒼君は冷たい目で見て、『言ったことは一度で覚えろ、面倒だから二度言わせるな、お前には脳味噌がないのか』とか、それくらいです!」

「どこがどう違うのよ。あたしが見る限り、鷺宮はあんたのことなんて、本のスリップ程度にしか思ってないね、絶対」

「ひっど!」

 スリップとは、新刊本の中に挟んである、書名とか出版社とかの書いてある細長い紙のことだ。パソコンが普及していなかった頃は、いろいろと使い道があったらしいが、現在、うちの店ではレジで抜き取った後、ほとんど見向きもしないでまとめて捨てるだけのシロモノである。否定できないだけに悔しい。

「ほれ、仕事」

 文句を言いかけた私の背中を、須田さんはぐいっと手で押しやった。

 本を手に近寄ってきたお客さんに、慌てて、いらっしゃいませと声をかける。日曜だから、今でもそこそこお客さんは多いけれど、これからの時間、レジはますます忙しくなるだろう。

 働きながらちらっと店内に目をやると、蒼君が黙々と、無秩序状態の絵本売り場を整頓していた。手つきは丁寧だし、別に怒ってはいないのだろうけど、顔つきは怒っているようにしか見えない。

 近くにいる子供たちが、完全にビビった顔をして、彼を遠巻きに眺めている。

 私はそれを見て、ちょっとだけ笑った。



         ***



 バイトが終わると、外はもう真っ暗だ。

 自転車で通ってきている蒼君は、バイトを終えると、必ず店の前に据えつけてある自動販売機で缶コーヒーを一本買う。そして、コーヒーを飲みながらのんびり自転車を漕いで帰っていく。お巡りさんに見つかったら怒られそうだな、と思うけど、蒼君は見つかったとしても気にしないのだろう。

 一緒に店を出て、蒼君が外の販売機に小銭を入れて缶を取り出すところまでをなんとなく眺めていたら、手に取ってからくるりと振り向かれた。

 ポケッと突っ立っている私を見て、「いらないのか」と訊ねる。

「え、奢ってくれるの?」

 びっくりして問い返したら、顔をしかめられた。

「百円ちょっとくらい自分で出せ」

 蒼君は、百円ちょっとくらいなら出してやる、という方向へは、決して思考が向かわないのである。さすがだなあと感心しながら笑って、私も財布を出して缶のおしるこを買った。それを見て、蒼君の顔がますますしかめられる。

「よくそんな気色の悪いもん飲むな」

「私が自分のお金で買ったものに対してまで、ケチをつけないでください。美味しいよ、甘くて。飲んでみる?」

 かなり下心ありありで言ってみた私の提案は、案の定すげなく却下された。

「そんなものを飲むくらいなら、水を飲む」

「そこまで嫌わなくてもいいじゃない」

 美味しいのになあ、と首を捻りつつ、心のノートに、蒼君はおしるこが嫌い、と書き足した。甘いもの全般が嫌いなのかな、今度聞いてみようかなと少し悩む。蒼君は、あまり自分のことを聞かれるのが好きではない、というバイトを始めてから得た情報も、ちゃんとノートには書いてあるのだ。

 蒼君がコーヒーを手に自転車に跨ったのを見て、「じゃあ、また明日ね。お疲れさま」と笑いかけた。

 蒼君は、ああ、と返事をし、それから何かを言いかけたようだったが、また思い直したように口を閉じた。

「明日な」

 と自転車ごと方向転換して背を向ける。

 軽快に走っていく自転車を見つめながら、私は自分の手の中で缶を転がした。


 ──こうしてなんでもない会話が交わせるようになって、少しずつ蒼君のことを知っていく。

 少なくとも、これまでのふた月の間で、「通りすがりの変な女」から、「役立たずのバイト仲間」に立ち位置は変化している。

 それは嬉しい。今、とても幸せだ。蒼君の透明な空気を感じ、蒼君のいい声を聞くたび、ドキドキするのは変わらない。日ごとに、そのドキドキは大きくなっていくような気もする。けれど。


 ……それから?


 そこでいつも、私の頭は停止してしまう。フリーズ状態、真っ白だ。浮かぶのは、こうしよう、こうしたいという意思ではなく、他人事のような疑問ばかり。

 それから、私はどうするんだろう。どうしたいんだろう。

「…………」

 私はただ黙って、夜空を見上げた。

 ここにいる「私」の目で見る空は、いつも、夢の中の「私」が見ていたものほど美しくはない。





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