40.回帰
「トモ兄は、なんでも判っているようで、自分のことは全然判ってないよ」
私はナイフの刃の部分を握りながらそう言ったが、トモ兄はあまり聞いていないみたいだった。
けれどそれは、さっきまでのように、和人さんの記憶に心を絡め取られてしまっているためではなく、目の前で起きていることに、どう対処していいのか困惑しているためだった。
ナイフの柄を握っているトモ兄は、そのまま押すことも引くことも出来ずに、茫然と私の手からぽとぽとと滴り落ちる血を見つめている。
「私を殺しちゃうって? トモ兄はね、そんなバカなことで、迷ったり悩んだりする必要なんて、これっぽっちもないんだよ。……だって、トモ兄にはそんなこと、どうやったって、出来っこないんだから」
トモ兄はようやく目線を上げて、語気も荒くそう言い切る私の顔を見た。
困惑している表情に、少しだけさっと怒りのようなものが掠めていった。そこには、いつもの、余裕いっぱいの冷静な大人のトモ兄はいない。
けれど、私の知らない「怖い男の人」もいなかった。
「……ナツは、僕のことを判っていないんだ」
「判ってないのは、トモ兄だよ。自分自身のことが判ってないから、そんな風に和人さんの記憶に振り回されてるんだよ」
今の今まで奈津の記憶に振り回されていた私が言う台詞じゃない。どの口がそんなことを、と自分でも呆れたが、私はナイフの刃を握ったまま、せいぜい偉そうにふんぞり返って断言した。
「僕は、聖人君子じゃない」
「知ってるよ。いくらなんでも、トモ兄に腹黒いところがあることくらい、ここ最近で、私だって気がついてたよ。嘘つくし、勝手にキスするし、私の気持ちを無視して暗躍するし。天使さまだと思ってたら、実は魔王さまだった、ってくらいにショックだったよ。……けど、それが、なんだっていうの?」
私は完全に怒った顔でトモ兄に向かって言い放った。眉を上げ、眦を上げ、傲然とトモ兄を睨みつけながら。
……なのに。
ぴりぴりと唇の端が引き攣っている。声がところどころ震えてしまっている。
目の中に溜まっていた水分を、なんとか外に出さないように懸命に力を入れていたけれど、とうとう堤防が決壊して外に出てしまった。
私の意志に反して、一気に涙が溢れ出る。
「トモ兄が腹黒でも、意地悪でも、いろいろと陰謀を張り巡らせるのが好きな極悪人だったとしても、なんだっていうの? 私はトモ兄のことが好きだよ。大好き。今も昔も、変わらずに」
「…………」
トモ兄の視線が私の顔から、また手のほうへと移った。
その手は、ナイフの柄を動かしはしない。でも、離しもしない。
「……僕は、君に好かれるような人間じゃない」
「それはトモ兄が決めることじゃないよね? トモ兄は、どうして私の心を勝手に決めようとするの? 和人さんが奈津を殺したことを知ったら、私はトモ兄を、怒って、責めて、嫌わないといけないの? やだよ、そんなの。そんなこと、してあげないよ。だって、トモ兄は和人さんと違う。トモ兄には、私を殺すことなんて出来やしないんだから」
「買いかぶりだ」
「だったら、やってみればいいじゃない。このナイフを思いきり引き抜いて、もう一度私に向けてみればいい」
「…………」
挑戦的に見上げると、ナイフを握っているトモ兄の手が、ぴくりと揺れた。その分の振動が手の平に伝わって、痺れるような痛みが走った。
今度は痛みで、ぼろぼろと新たな涙が私の目からいくつも落ちた。
もう、ホントに痛い。今は怒りの感情が抜きんでて私の頭と身体を支配しているから、頑固なほどに指は動かないが、痛いものは痛い。
手の平を開いてみれば、普段の私であったらすぐ卒倒してしまうくらいに出血していることくらいは想像がつく。握ったままでもぬるぬるとした気持ちの悪い感触は伝わってくるのだから、トモ兄がその気になったら、血液による滑りやすさも手伝って、すぐにでもナイフは私の手の中から抜くことが出来るだろう。
私の手の平に、ざっくりばっくりと大きな切り傷をつけて。
そうやって、強引に抜いたナイフで、私を刺したら、トモ兄は救われるの?
和人さんの記憶は、もうトモ兄を苦しめないの?
そんなわけがない。逆だ。
「トモ兄に、そんなことは出来ないよ。私だって、そんなことはさせないよ。私を刺したって、トモ兄は救われない。ただ、和人さんと同じ絶望を味わうことになるだけ。今よりも、もっともっと苦しむ。トモ兄に、そんな思いはさせないよ、絶対に」
「──ナツ」
私の手が震えているのは、おもに痛みから来るものだったが、トモ兄の手が震えているのは、それとは別の理由によるものだろう。
トモ兄の頭の中では、今、一体どんな葛藤があって、どんな声が聞こえているのかと思う。
表情こそあまり変わらなかったけれど、トモ兄の顔色は、現在どんどん手から出血している私よりも、よっぽど白かった。
「……僕は、ナツを」
と言いかけ、そこで黙ってしまう。
その先を続けられないのは、トモ兄自身が、判らないからだ。見えなくなってしまっているからだ。
だから私は、トモ兄の代わりに、その先の言葉を続けた。
「トモ兄は、夏凛のことが好きだよ」
それはとても、単純で、簡単なこと。
「恋ではないけど。和人さんが奈津を想うようなものではないけど。それとは形が違うけど。トモ兄は、ずっと、従妹の小さな女の子のことが、好きだったよ。愛してくれていた。可愛がってくれていた。そこにはちゃんと、家族に向けるあったかい感情があったよ。昔も、今も」
「……好きだよ。でも、それは君が、奈津の生まれ変わりだからだ」
低い声でトモ兄が答える。
その答えを正視するのが耐えられないように、目が伏せられた。
「うん、それだよ」
私は至近距離で伏せられたトモ兄の目を無理やり覗き込みながら、きっぱりと言った。
「──私が、『奈津の生まれ変わりだから』、だからトモ兄は、それが恋じゃなくちゃいけないと、自分で思い込んじゃったんでしょ」
私が、トモ兄以外の人に恋をするのはいけないことだと、思い込んでいたように。
私とトモ兄は、血の繋がりがあるだけあって、思い込みの激しい部分がよく似ているのだ、きっと。
「恋じゃないと、前世のやり直しは出来ない。トモ兄が和人さんの罪を償うためには、私に向ける感情は、奈津に向けるものと同じものでなきゃいけなかった。だから、トモ兄は必死になって、そう思い込もうとしたんでしょ。──けど、トモ兄は、どうしても、私に恋は出来なかった」
つまり私とトモ兄は、お互いがお互いを、一人の異性として見ることは出来なかったのだ。
なのに、トモ兄は前世の記憶から来る罪悪感で、私は前世の約束に縛られて、その事実を無理やり歪め、目を逸らし、抑え込んだ。
そして結果として、ねじ曲がり、暴発し、周囲にもその破片を飛び散らす羽目になってしまった。
まっすぐにしてみれば、そこにあるものは非常にシンプルな感情でしかない。
「トモ兄は私に恋してるわけじゃないんだから、私に他に好きな人が出来たって、嫉妬したりも、怒ったりも、するはずがない。和人さんが奈津に抱いた殺意を、私に向けることなんて、出来るわけがない。だから今、こうして困ってるんだよ。和人さんの記憶に圧し掛かられて、前世と同じように私を殺そうとして、でも、トモ兄の気持ちは前世の和人さんとは違うから、どうしたらいいんだって、混乱を起こして、途方に暮れてるんだよ。ナツを殺したくないって? そんなの、当たり前だよ。トモ兄には、私を殺す理由なんて、まったくないんだから。恋ではなくても、トモ兄は夏凛のことを、大事に思ってくれているんだから」
「…………」
トモ兄は黙り込んだまま身動きしない。
私の手から、ぽと、と血が滴ってアスファルトに黒々とした染みを作るのを見て、ほんのわずか、口許をぐっと結んだ。
「トモ兄、私が奈津の生まれ変わりだって気づいたのは、いつだった? 小学校高学年? 中学生になってから? けど、それよりもずっと前から、トモ兄は私のこと、可愛がってくれてたじゃない。お母さんが言ってたよ。夏凛が赤ちゃんだった時から、知哉君はすごく嬉しそうに面倒みてたって。自分だってまだ小さいのに、頑張って抱っこしようとして、大人たちをハラハラさせたって。私だって、ちょっとだけど、覚えてるよ。私のお絵かきにも、泥んこ遊びにも、トモ兄はいつだって優しく付き合ってくれてたよ。お兄ちゃんが妹を可愛がるように、私を可愛がってくれてたよ」
トモ兄の瞳が、一瞬遠くなる。
けれどおそらく、見ているのは前世ではなく、私とトモ兄の幼い頃の記憶だ。
私たち二人の間に流れていたものが、平和で穏やかな愛情だけであった頃の。
「……その頃のトモ兄は、ちゃんとここにいるよ」
今度は血ではなく、涙がぽとりと零れた。
「今もあの頃のまま、夏凛を好きでいてくれてるよ。恋ではなくても、愛情は変わらず、トモ兄の中にあるよ。だからトモ兄は、私を殺すことなんて出来っこない。こんな風に、私の手に傷がついたことに、自分のほうが痛そうな顔をして、オロオロしてる。この状態で、トモ兄は絶対に、ナイフを引き抜いたりはしない。私はそれを知ってる。トモ兄は私を傷つけることはしない。トモ兄は、和人さんじゃないからだよ。私は、そういうトモ兄のことが大好きだよ」
トモ兄の手が、もう一度ぴくりと動いた。
私はまっすぐその顔を見据えた。
「私に向かって、助けてって言ったね、トモ兄? うん、助けるよ、必ず! 私が、夏凛が! トモ兄の心を、和人さんなんかに持っていかせたりしないよ、絶対に!」
「…………」
トモ兄は黙ったまま、私の顔をじっと見返していた。
──そして、しばらくの間を置いて。
その手から、ゆっくりと、力が抜けていった。
まるでボンドでくっついてでもいるかのように頑なに離れなかった長い指が緩み、少しずつナイフの柄から遠ざかる。
その手が完全に離れたと同時に、私もするりと力を抜いた。
両側から支えを失ったナイフが、地面に落下して、カシャンという軽い音を立てる。
「──ここにいるのは、トモ兄だよ」
私は静かな声で、そう言った。
鉄橋の上を、電車が大きな音を立てて、また走っていった。
***
落ちたナイフをぼんやり見ていたトモ兄は、ふらりと足元のバランスを崩してよろけ、立つ力を保っていられなくなったように、その場に座り込んだ。
アスファルトの地面に直接腰を下ろしたトモ兄のすぐ前には、血に染まったナイフが横たわっていたけれど、トモ兄はもうそれに手を伸ばそうとはしない。
──そして、私は気がついた。
視線の先に、蒼君が立っている。
今まで、トモ兄の身体が壁になっていたため見えなかったが、蒼君はトモ兄のずっと後方、トンネル状になっている鉄橋の向こう端のあたりに立っていた。
いや、立っていた、というか、もしかしたら、ここに来たのはほんの今しがたのことなのかもしれない。肩で息をして、鉄橋の脚部分のコンクリートの壁に手をついている。
どうして駅の反対方向から現れたのかは謎だが、とにかく、ここまでずっと走ってきたらしいのは推測できた。汗で、前髪が額に貼りついている。
いや、そんなことより、さ。
……めっちゃめちゃ、怖いんですけど、蒼君。
あの顔、ものすごく怒ってる。すんごい、怒ってる。怖い。普段、滅多に笑った顔も見せてくれない蒼君の、本気で怒った顔というのを、はじめて見た。出来ることなら、あんまり見たくはなかった、と思うくらい、怖い。
その吊り上がった眼が、まっすぐ私の血だらけの手に向けられていることに気づいて、そうっと両手を隠す。隠したところで、蒼君の怒りが和らぐとは思えなかったのだけど、気分はもう、イタズラを見つかった子供だ。
そしてもちろん、今さら隠したところで、やっぱり蒼君の顔は怒ったままだった。つーか怖い! 痛みが吹っ飛ぶくらい怖い! いやすごく痛いけども、やっぱり怖い!
しかし、蒼君が一歩を踏み出してこちらに向かってこようとしているのを見て、私は大急ぎで目で訴え、それを制した。怖いから、という理由ではない。
座り込んだトモ兄は、蒼君の存在には気づいていなかった。
まだ、私はトモ兄に言うべきことが残っているのだ。
蒼君は、私の無言の制止に気づいてくれて、すぐに足を止めた。
少しだけ躊躇したようだったけれど、結局、その場でじっと立ったまま、様子を見ることにしてくれたらしい。
ありがたかったが、顔はやっぱり怒ったままなので、私は内心、ビクビクだ。新たな発見をした。ナイフよりも、見知らぬ酔っ払いよりも、怒った蒼君はなにより怖い。
「……トモ兄」
私は膝を曲げて、トモ兄と目線を合わせた。
実のところ、手の痛みが激しすぎて、貧血を起こしそうだったので、そうすることは自分のためにも良かった。
トモ兄の後ろにいる蒼君のことは、なるべく意識しないよう心がけたが、だんだん感覚のなくなってきた右手は、拳にして背中に回し、トモ兄からも蒼君からも見えないようにした。
「あのね、奈津はね、和人さんから逃げようとしていたんじゃないんだよ」
私が穏やかな声でそう言うと、トモ兄は地面に落としていた視線をのろのろと上げて、私のそれと合わせた。
訝しげなものと一緒に、私の言葉をそのまま跳ね返すような硬さが浮かんでいる。信じていないし、受け入れようともしていない硬さだった。
でも、私は気にしないで続けた。
「奈津はね、もう人形でいることがイヤだ、って思ったんだよ」
「……人形」
問い返すというよりは、独り言のように、トモ兄は呟いた。
私はそのトモ兄の目をしっかり捉えて、頷いた。
「ずうっと、お人形のように生きてきた奈津はね、和人さんと結婚しても、同じようにただ庇護されるだけの人形のままではいたくない、と思ったんだよ。お人形のように、綺麗にして、黙って、笑っていればいいだけの生き方は、もうイヤだと思ったんだよ」
子供の頃から、ただ従順に父母の言うがまま大人しく過ごしてきた奈津。抗うことも、逆らうことも出来なかった奈津。好きな人から引き離され、自分の結婚さえも周囲によって決められて。
──君はただ、笑って僕のそばにいてくれるだけでいい。
──あんたが我慢してりゃ、それで済む話なんだから。
──結婚、おめでとう。お嬢さんの幸せを願ってる、って。
誰も、奈津の気持ちを、意志を、聞こうとはしてくれなかった。いつも、そうだった。
父も、母も、和人さんも、あの人でさえ。
時代が、環境が、そういうものだったといえばそれまでだが、奈津自身、諦めることに慣れていた。その時まで、奈津は泣くこともせず、いろんなことを諦め続けて、淡々と受け入れてきたのだ。
でも。
「でもね、奈津は、もう、我慢できなくなっちゃったんだよ。こんなのはイヤだって、キレちゃったんだよ。これ以上、自分の心を押し殺して、人形のように生きていくのは真っ平だって、思ったんだよ」
「……それで、和人から逃げ出して、あの男と町を出ようと決心したんだろう?」
自嘲気味にトモ兄の唇が吊り上がる。
その目から、さっきまでのぎらぎらとした危うい光は消えているが、それでもどうしても消しきれないものはしぶとく残っていた。
炎は立てていないが、煙を上げて、ぶすぶすとくすぶり続けている。
私はきっぱりと首を横に振った。
「違う。奈津は、和人さんと結婚することを決めてた」
「……バカな。だったら、なんで」
「あの人と会おうとしたのは、ちゃんとお別れを言うためだよ」
「…………」
私の言葉に、トモ兄の目がふらりと泳いだ。
信じない、信じられない、でも──という揺れ動きが見て取れる。
「あの人は、あの夜、町を出て行くことになってた。それを知って、お清ちゃんが、お願いだから最後にお嬢さんに会っていってください、って頭を下げてお願いしたんだよ。こんな別れはあんまりだ、お嬢さんだって心の整理をつけられない、せめて、ちゃんと顔を合わせて、お別れの言葉を言ってあげてくださいって。わざわざ、そのための、時間と場所のセッティングまでしてくれた」
お清ちゃんも、奈津に同情はしてくれていたけれど、判っていたのだ。
いくら好きでも、その人と奈津は、「恋」は出来ても、「生活」は出来ない、ということを。
小さい頃から働いていたあの子は、奈津よりも、和人さんよりも、よっぽど世間を知っていた。
たとえ二人で逃げたとしたって、その先に待っているのは幸福などではないと、知っていた。
──でもせめて、奈津には、はっきりとした「区切り」が必要だと、お清ちゃんは考えたのだ。
「それを聞いて、奈津も納得したんだよ。しっかりと地に足をつけて歩いていくためには、自分には何かのきっかけか、けじめが必要なんだって。だから、あの人に会って、きちんと向き合って、さようなら、って言おうと決めたの。私もこれから自分で幸せを掴む努力をするから、あなたもどうか幸せに、って笑ってお別れを言うつもりだった」
「…………」
トモ兄は口を噤んだまま、小さく頭を動かした。首を横に振っているのだと判った。
うそだ、という聞こえないくらいの小声が唇から洩れる。
「嘘じゃない」
一瞬、すべてを忘れて両手を出し、だらりと力なく垂れ下がっているトモ兄の手を取って強く掴んだ。
あ、と思った時には遅かった。トモ兄の手には、私の血がべったりとついてしまった。ごめん、トモ兄。
馬鹿なことをしたせいで再び激痛が走り、しばらく口もきけずに悶絶しているバカな私を見て、トモ兄は我に返ったように目を瞬いた。
「大丈夫かい、ナツ。止血、しないと。タオルとか──」
いきなり私の心配をしはじめ、自分を見下ろす。
ハンカチやタオルを持っていない、その代わりになるものもない、ということに気がついたようで、いつの間にやら地面に放り出されていた私のバッグへと視線を移した。
私はそのトモ兄を引き留めるため、また手に力を入れた。痛い。
「聞いて、トモ兄」
「後で聞くから。ナツ、とにかく今は」
「今じゃなきゃ駄目だよ。聞いてくれなきゃ、私、暴れるかもしれないよ」
「わ、判ったから」
私の脅迫に負けて、トモ兄はぴたりと動きを止めた。勝った、と私は思った。
「嘘じゃないんだよ、トモ兄。奈津は本当に、そうやって、自分の恋に決着をつけて、和人さんと人生を歩もうとしてた。ちゃんと、約束を果たそうとしてたんだよ」
夫婦というのは、お互いに自分のすべきことをして相手を支え、労り、共に立つ、そういうものではないんですか。
それが、奈津の、「夫婦」に対する理想で、夢だった。
和人さんとそういう夫婦になれるよう、努力していきたいと、奈津は願ったのだ。
人形としてではなく、籠の鳥としてでもなく、一対一の人間としてあれるよう。和人さんと一緒に、少しずつでもその理想に近づいていけるといい、と。
「……でも、出来なかった」
出来なかったのだ。あの夜、あの場所にやって来たのはあの人ではなかった。奈津に裏切られたという悲しい誤解をして、自分も他人も傷つけた、和人さんだった。
奈津は彼のその誤解を解けなかった。そこから始まるものを、止められなかった。
結局、奈津は、また、諦めてしまったのだ。
最後の最後で。
絶対に諦めてはいけない場面で。
「……あの悲劇はね」
私はトモ兄の手を捕まえたまま、眉を上げた。
「すべて、奈津の弱さが引き起こしたものだったんだよ」




