4.前世
しかし、幼かった私は、その時のことを、わりとすぐに忘れてしまった。
トモ兄の顔や声が、いつもと少し違っていたことも。約束だよ、と何度も確認するように言った時の、彼の真剣な眼差しも。
「今度こそ」、という不可解な言葉の意味も、考えることもしなかった。
再び親たちの許へ戻った時、トモ兄はもう、いつも通りの優しいお兄ちゃんに戻っていて、庭であったことを二度と蒸し返さなかった。だから私も、そんなことがあったこと自体をすぐに頭から追い出してしまって、あれは何だったのかな、と思いだすことすらしなかった。
ひょっとしたら、無意識のうちに、自分自身にそう戒めていたのかもしれない。
あれは、ただのいっときの出来事だったのだと。全然、大したことではないのだと。忘れてしまったほうがいいのだと。
……トモ兄は、私の大好きな人。いつも優しい、お兄ちゃん、なんだからと。
事実、私は、中学生になるまでそう信じ切っていたのだ。トモ兄は多少過保護なところはあるけれど、基本的に、ずっと「頼りになる年上の従兄」という位置にいて、そこから踏み出すようなことは、決してしなかった。
私たちの間に、過剰なほどのスキンシップがあったわけでもない。頬にキスされたのもその一回だけで、あとは頭を撫でられたり、雑踏を移動する時に、私が迷子にならないように手を引いてくれたりする程度だった。
私はトモ兄のことを心から信頼していたし、本当の兄のように甘えて、慕っていた。いや実の兄であれば当然湧くべき反発心とか照れとかが、「従兄」という、少し身近で少し遠い関係によって、かえって全くなかったこともあり、子供だった私は、いつも憚ることなくベタベタと彼にくっついて、それを疑問に思ったこともないくらいだった。
トモ兄、トモ兄、と呼びながら後をくっついて回る私の姿は、口の悪い母に言わせれば、「カルガモの子供」「金魚のフン」「独占欲丸出しのコドモ」にしか見えなかったらしいが、トモ兄はいつだって優しく受け入れてくれていた。
「おいで、ナツ」と彼に呼ばれるのが私はとても好きだったし、時々ちょっと難しくもなるトモ兄の話を、隣にもたれてうとうとしながら子守唄のように聞くのも好きだった。
その穏やかな声を耳に入れるのも、眠っている時に頭を撫でられるのも、いつだってそれだけで安心して、心地よくなったものだった。
それほど私は、トモ兄という存在に心を許していた。全幅の信頼と愛情を一直線に向けることに、なんの躊躇いもなかった。
──その関係が劇的に変化を遂げたのは、忘れもしない、中学二年生の夏休みのことだ。
***
その日は、最高気温をまた更新しそうだとニュースでも言うくらいの、猛暑日だった。
父は仕事、母はパートで不在の平日の昼間、私はエアコンをガンガンにかけたリビングで、だらだらと夏休みの数学の課題を片付けていた。
中学ではソフトボール部に入っていたが、夏休みは午前中しか練習がない。その代わり、けっこう朝早くから出ないといけないので、私は数学の問題を解きながら、半分ウトウトと眠りかけていた。どうしようかなあ、寝ちゃおうかなあ、などと考えながら問題文を目で追っていたって、ちっとも頭に入りゃしない。それならさっさと昼寝をすればいいのに、私はなんとなく意地汚く、朦朧としながら、シャーペンを手に数学との格闘を続けていたのだった。
その時、インターホンが鳴った。
ん? とぼんやりしながら、リビングの壁に取り付けてあるモニターに目をやる。
そこに映っているのは、トモ兄だった。
カジュアルな服装で、高校生らしくスポーツバッグを肩に担いでいる。
私は驚いて玄関へと走り、勢いよくドアを開けた。
「トモ兄、いらっしゃい。どうしたの?」
目を丸くして問う私に、トモ兄はちょっと照れたように笑った。
「毎日毎日予備校と家との往復だからさ、少し気晴らしでもしようと思って、ナツの顔を見に来たんだよ。来る前に連絡すればよかったかなって、この近くまで来ちゃってから思ったんだけど」
あはは、と私は笑って、迷うことなくトモ兄を家に招き入れた。
トモ兄が夏期講習で通っている予備校からだと、この家に来るのは電車の乗り換えがあったりして、自宅に帰るよりも時間がかかるし、面倒だ。つまりちょっと遠出をして気分転換をしたかったんだな、と私は納得し、受験生は大変だなあと他人事のように同情した。高校と大学の違いはあれ、私だって来年の今頃は同じような立場になるわけなのだが。
「勉強中?」
リビングに入ると、テーブルの上に雑然と広げてあった問題集や教科書を見て、トモ兄は感心するような声を出した。ほとんど勉強なんてしていなかったくせに、私はえっへんと胸を張る。
「問題集をねえ、二十ページもやらないといけないんだよ」
「そりゃ大変だね。で、何ページまで進んだの?」
「三ページまで」
「…………。ナツ、九月一日まであと十日くらいしかないよ。手伝おうか?」
「ぜひ、お願いします」
素直なのが取り柄の私はそう言って、トモ兄と自分の飲み物を出すために、リビングに一体化したキッチンの冷蔵庫へと向かった。トモ兄は、「ちょっと冷えすぎだ」と言いながら、リモコンでエアコンの設定温度を上げている。
「ナツ、暑いからってエアコンの温度をこんなに下げちゃ駄目だよ。大体、そんな薄着のまんまで、風邪ひいたらどうするんだ。もう一枚、何か着ておいで。飲み物も冷たいものばっかりだとお腹を壊すぞ」
「はあい」
冷蔵庫の中を覗きつつ返事をしてから、ちょっと悩んだ。冷たいものはいけないと言われても、私はともかく暑い中を歩いてきたトモ兄にホットを差し出すのは酷というものだろう。せめてもの折衷案で、氷なしの麦茶を出すことにする。
私にはどうやら昔から、「トモ兄至上主義」が刷り込まれているらしい。同じことを言われるにしても、母親の説教は腹立たしいばかりだが、トモ兄のお説教はちゃんと聞かずにはいられないのだ。
ふたつのグラスを盆に載せてテーブルまで持っていくと、ダイニングの椅子に座って私の問題集を眺めていたトモ兄は、眉を寄せて奇妙な顔をした。
「なんか、判別不可能な文字があるんだけど」
「えへへ、眠くってさあ」
照れ隠しに笑って誤魔化しながら、トモ兄の向かいの椅子に座る。そういえばテレビも点けっぱなしだった。ワイドショーのキャスターが、興奮したように若手俳優の熱愛発覚をけたたましく喚いている。
この環境で勉強するのは、不真面目さを注意されそうだなと思って、消そうかどうしようかと迷ったため、私の視線と意識はトモ兄から逸れた。
「眠いって、夜、眠れないのかい? 熱帯夜だから?……それとも、もしかして、怖い夢でも見る?」
だからその時、そう問いかけてきたトモ兄の声に、微妙な緊張感が滲んでいることに、気づかなかった。
彼がまるで窺うように、テレビに向けている私の横顔をじっと見つめていたことにも。
「んーん、そういうわけじゃなくて、部活で朝が早いから。私、怖い夢ってあんまり見ないよ。ずーっと、ちっちゃい頃から何度も見る夢はあるんだけど──」
そこでようやくテレビからトモ兄へと顔を戻した私は、口を噤んで笑顔を止めた。
え? と戸惑う。
トモ兄は、怖いくらいに真面目な顔をしていた。
「何度も見る夢?」
繰り返す声は、いつもの彼の声とは違っているように聞こえる。
「……あ、の」
「どんな夢?」
口ごもる私に、トモ兄は強い目を据えつけたまま早口で訊ねた。詰問のような口調だった。
「どんなって……あの」
私はますます困惑し、座っていた椅子から腰を浮かせかけた。何をしようと思ったわけではなく、勝手に身体が動いてしまったのだ。
心の奥底で、逃げなくちゃ、という警戒音が鳴っていた。
逃げなくちゃ、ここにいたら駄目だ、話題を変えないと──
ところが、私の動作の意図が伝わったのか、トモ兄は素早く腕を伸ばして、テーブルに置かれた私の手をぐっと捕まえて握った。私はびくっとして咄嗟に自分の手を引き抜こうとしたのだけど、握られている力は強くて、どうにもできなかった。
「ナツ、大事なことなんだ」
トモ兄の声が低い。
大事? 大事ってなにが? ただの夢の話じゃない。
私は切実に、そう言って笑い飛ばしてしまいたかった。どうしたのトモ兄、たかが夢のことで、そんなにムキになって。ねえ、宿題手伝ってくれるんでしょ。こんな話はもうやめようよ。
「だ──大事って、ただの、夢のこと、なんだし」
笑いを浮かべようとしたけれど、どうしても引き攣ったものにしかならなかった。声も細く小さく、自分の口から出るものじゃないみたいだ。さっきトモ兄が設定温度を上げたのに、ノースリーブから伸びた剥き出しの腕には薄っすらと鳥肌が立っている。
「どういう夢なんだ?」
トモ兄は、私の言葉なんてまるで耳に入っていないようだった。いつもは穏やかな瞳が、今は突き刺さるような鋭さを伴って、私に向かっている。
──怖い、と思った。
思った途端、歯止めが利かなくなった。まるで雪崩のように、怖い、怖い、という感情ばかりがどっと押し寄せてきて、竦み上がった。足が細かく震えている。
ここにいるトモ兄は、私の知ってる「従兄」じゃない。
全然知らない一面を持つ、「ひとりの男の人」だ。
怖い。
「……さ、桜が、いっぱい咲いてて」
口から出る声は、もうすでに泣き声になっていた。だというのに、トモ兄は、私の手を離してはくれなかった。それどころか、はっきりと顔色を変え、ますます手に力を込めた。
「……っ」
喉に何かが詰まって、声を出すのも難しかったけれど、私はなんとか続きを絞り出した。
「だ、誰かが、私の名前を呼んで、近寄って来るの。私は、その人を待ってたの。ずっと──ずっと、桜の中で、待ってて」
途切れ途切れに出す言葉は、幼稚園児にでも戻ってしまったかのように、たどたどしいものになった。握られた手が痛い。けれど、なぜか胸も痛い。締め付けられて、苦しいほどだ。
「だんだん、すぐ近くまで、誰かがやってきて、私は、そ、その人の名前を呼んで」
「呼んで? 呼んで、それから?」
急かすように促すトモ兄は、もうすでに椅子に座ってなんていなかった。立ち上がり、間に挟んだテーブル越しに身を乗り出すようにして私に顔を寄せて、ただの一言も聞き漏らすまいとしていた。
ひく、と私は喉を鳴らす。ぽとりと涙が落ちた。
「……そ、そこまでで、いつも終わる。それだけの、ほんの短い夢なの。あとは何も」
あとは──あとは、美しい夜空と、白い星々のことしか覚えていない。
「…………」
トモ兄の手はようやく、ゆっくりと私から離れて行った。
再び椅子に腰かけると、その手を額に当てて顔を下に向け、深いため息を吐く。
失望したのか、落胆したのか、私には判別できなかった。
しばらくの間、トモ兄はその姿勢のまま、石になったかのように身じろぎ一つしなかった。
まだびくびくしながらも、私は涙を手の甲で拭い、おそるおそる椅子から立ち上がった。
テーブルを回り、トモ兄のすぐ傍まで近寄る。
「……ト、トモ、兄?」
そっと呼びかけてみたが、なんの反応もない。その強い視線がこちらに向けられていなければ、やはり彼は私の大切な従兄だった。顔を伏せてうな垂れる姿を見たら、さっき覚えた怖さよりも、昔からの親愛の情のほうが打ち勝った。
心配になって、眉を下げた私はもう一度「トモ兄?」と名前を呼んだ。
「ねえ、どうしたの? 大丈夫? トモ──」
そうしたら、出し抜けに立ち上がったトモ兄に、いきなり抱きしめられた。
「ト」
「……覚えてたんだね、ナツ。やっぱり、ちゃんと、覚えていてくれたんだ」
トモ兄の胸に顔を押しつけられ、私はすっかり混乱して、何も考えられなくなっていた。ただ、耳元に落とされるその声が、さっきまでの私のように、少し震えていることだけは判った。
「トモ、兄、ねえ、トモ兄。なんで」
なんで? という疑問だけが、私の頭の中でがんがんと激しく響いている。なんで? なんで、こんなことするの?
「僕だよ」
トモ兄の声は、場違いなほどに、甘く切なく、優しかった。
「君が待ってたのは、僕だ。僕は、君がそれを思い出してくれるのを、ずっとずっと待ってた」
トモ兄に、「君」、なんて呼ばれ方をされるのはこれがはじめてだった。そこには、どう聞いても、年下の従妹や妹に向けられるものではない響きがあって、私は抱かれたまま全身を固くした。
トモ兄は私から少し身を離すと、強張って青い顔をしている私の両肩を掴んで、下から覗き込んできた。
私はこの時になってようやく、思い出した。
この目、この顔、「約束だよ」と言った、あの時と同じだ。
私の知っている「トモ兄」ではない、誰か。
「君は、『奈津』の生まれ変わりだ」
彼は、はっきりとそう言った。
「僕と奈津は、前世で結婚の約束をしてたんだ。きっと一緒になろうねと、誓い合ったんだ。──やっと、その約束を叶えられる」
「…………」
私はわけが判らないまま、幸福そうに語るトモ兄のその言葉を、茫然と聞いていた。
その時思っていたのは、ただ。
──そういえば、「夏凛」という名を持つ私のことを「ナツ」と呼ぶのは、ずっと昔から、トモ兄一人だけだった、ということだ。
「ナツは、僕のお嫁さんになるんだよ」
トモ兄は、数年前と同じことを言った。
***
喉の奥に押し込むようにして私がピザを食べ終わると、トモ兄はコーヒーカップをカチンとソーサーに置いた。
かすかな音だったのに、それだけのことでピクリと指先が反応してしまう自分が嫌になる。
「それで、今日は時間があるのかい?」
問われて思い出した。そういえば、そもそもトモ兄は、私を遊園地に連れて行ってくれるつもりで、家に来たのだっけ。
「あ、うん、ごめんね」
私は半ば申し訳なく、半ばほっと安心しながら返事をする。トモ兄だって決してヒマではないのに、せっかく誘いに来てくれたことに対する申し訳なさが半分、それを断るのに嘘の口実を作らなくても済むという安堵が半分だ。
「今日、午後からバイトがあるんだ。これからうちに帰って準備して、出かけなきゃいけないの」
「そうか。じゃあ、しょうがないな」
トモ兄は少し残念そうな顔をした。私の中の、「申し訳なさ」の比率がぐぐぐと上がる。
「ごめんね、気を遣ってくれたのに」
素直な気持ちで謝罪をすると、トモ兄はちょっと笑って、軽く手を振った。
「別に、気を遣ったわけじゃないよ。僕もナツと出かけたかったからさ」
「…………」
私は曖昧に笑って、所在なく視線を動かした。そんなことを言われたって、どう返していいか判らない。
……昔、トモ兄と二人だけで出かけるのが、本当に楽しみな時期があったな、と懐かしく思い出し、ちくちくと胸が疼く。以前の私なら、トモ兄と一緒に遊園地に行けるなら、わーい、デートだー! と無邪気に笑って喜んだだろうに。
今は、そんなことは間違っても口に出せない。トモ兄のほうが、それをはっきり「デート」だと考えていることが、判ってしまったからだ。
あの中学二年の夏休みから、すべてが変わってしまった。
「じゃあ、帰ろうか。送っていくよ」
言いながら、トモ兄がさっさと伝票を持って立ち上がる。もう今さらそれを止める気にもならず、私は力なく、「……ごちそうさま」と頭を下げた。
「どういたしまして」
トモ兄が笑ってぽんぽんと私の頭を撫でるように叩いて、少し緊張した。同じことをされても、母親がいる前なら、まったく平気なのに。
私の両親や他の親戚がいる前では、トモ兄は決して、「従兄」の顔を崩さない。だから私も安心して甘えられる。
でも二人きりになった時や、見知らぬ他人の前では、トモ兄はふいに違う顔をちらりと見せて、私はそれが怖かった。
……その顔は、桜の花吹雪の向こうから現れて、私を「奈津」と呼んだ男の人と、よく似ていたから。