38.去来
周りは、美しい満開の桜に囲まれていた。
見渡す限りの薄紅だった。まるで、一面にふわふわとした雲がたなびいているようで、天上に出たのかと錯覚しそうなほどだ。
けれど頭上を見上げてみれば、白い花々の隙間からは、漆黒に近い夜空が見えた。闇を照らすのは、しらじらと輝く満月。
そして、きらめく無数の星々──
闇の中に浮かび上がる桜の花は、月の光を浴びて、ほんのりと輝いていた。それ自体が白く発光しているかのようだ。
こういうの、なんていうんだっけ、と少し考えて思いついた。
……花明かり、だ。
前を向いても後ろを向いても、目に入るのは桜ばかりだった。むせかえるほどの可憐な花の群れは、美しいけれど威圧感がある。ぼんやりと霞がかった桜色に包まれた景色は、なんだかあまりにも幻想的で、違う世界にでも入り込んでしまったような心細さを感じさせた。
眩い月光は、足元の地面に、自身の影をくっきりと作り出している。それなのに顔を上げれば、降り注ぐ花びらに遮られ、前方すらもはっきりとは見通せない。淡い色の花弁は、一枚一枚がひらりひらりと散るたびに、きらきらと光り輝くようだった。
時折、ゆるく吹く風が花びらを舞い上げて、ざざ、とひそやかな音を立てる。聞こえる物音といえばそれくらいで、あとは静寂に包まれていた。人の話し声どころか、虫の鳴き声すらしない。何もかもが、しんと息を詰めているような緊張感があるのはどうしてなのだろう。
その静けさの中で、ふいに、サク、という軽い音が聞こえた。
どくんと心臓が跳ねる。
誰かの足音だ。こちらに近づいてくる。なのに、舞い散る桜吹雪に阻まれて、その姿は見えなかった。なんだかとても切ない気分になって、私はじっと身動きもせず、その場で立ち尽くす。
「……奈津」
近づいてくる誰かは、私の名前を呼んだ。
優しく穏やかな声に、泣きたくなった。瞼の裏が熱くなり、ちいさく震える手を、口許に当てる。息苦しいほどに、胸が痛かった。
地面に敷き詰められた花びらを踏んで、その人は私の前に現れた。降りしきる白い花の合間に、微笑む顔が見えた。深い愛情を湛える眼差しが、こちらに向けられる。
私はその人の名を呼ぶために、口を開いた。
「和人さん……どうして」
ここに来るのは、和人さんではなく、あの人だったはず。
どうして、とじんじんと痛む胸をぎゅっと押さえて呟く。
朱色の着物には、もう降りそそぐ桜の花びらが何枚もくっついていた。胸の合わせ目を強く握る私の右手にも、はらりと白い花弁が舞い落ちる。
そして、息を呑んだ。
闇の中、はらはらと降りかかる桜の花びらの向こうから現れた和人さんは、真っ白な顔に優しい微笑を浮かべている。
けれど──だらりと力なく垂れ下がる右の手に握られているのは、抜き身の小刀だった。
どこか覚束ない足取りで、こちらにゆっくりと歩み寄る和人さんの腕の動きに合わせ、ふわふわと頼りなく揺れる小刀からは、ぽたりぽたりと丸い滴が地面に向かって落下していた。
和人さんの手も汚れている。暗くとも、それが赤い色だということは判った。
月の光に反射して、白い刃がきらりと不気味に光る。
「和人さん、それは」
「ああ、」
震える声で私が問いただすと、和人さんは今気がついたかのように、興味なさげな目で自分が持っているものを見下ろした。
「あの子が悪いんだよ。だって、僕がここに向かおうとするのを邪魔しようとするから。あの女の子はどうして、僕が困るようなことばかりするんだろう」
淡々と言われた言葉に、手で押さえたくらいではもうどうしようもないほどに、心臓が縮んで痛くなった。
ああ、お清、お清──いつでも精一杯、私を守ろうとしてくれるあの子が。
「なんてこと……」
呻くように声を出し、下唇をきつく噛みしめた。
お清が悪いわけではないのに。あの忠実な子はただ、ひたすら私のことを思って、私のためにとしてくれたことだったのに。
「大丈夫、死んではいないよ。しがみついて離れないから、ほどこうとしたら、刀が掠めてしまった。あの程度の傷では人は死なないよ、奈津」
お医者さまになるための勉強を大学でしてきた和人さんは、冷静にそんなことを言った。
その勉強は、多くの人の命を救うためであって、このようなことを言うためではなかっただろうに。
どうして──どうして、こんなことになってしまったのか。
「……君が、悪いんだ」
近くまで寄ってきた和人さんが、私を見下ろし、静かな声で断罪の言葉を落とした。
硬い石のような目が、私に向けられている。
──その目から、ふいに、ぽろりと涙が零れた。
「君が、僕から逃げようとするから。……あれほど禁じたのに、こんな場所で、あの男と会おうとするから」
あの人は来るだろうか、来ないだろうか。ここに来たら、桜の向こうで倒れているお清を見つけて、手当てをしてくれるだろうか。驚いて、ここに駆けてくるだろうか。
……来ては駄目、と祈るように願った。
和人さんの言うとおりだ、悪いのはなにもかも、私。
私が悪かったのだ。こんなこと、してはいけなかった。あの人に、会おうとしてはいけなかった。
こんなにも和人さんを傷つけて、お清を辛い目に遭わせて、あの人までも巻き込んで。
全部全部、私のせいだ。
「あの男と逃げるつもりだったんだろう? 僕の手から離れて、この町を出て行くつもりだったんだろう? 僕と約束したのに──約束したのに、奈津。一緒になろうと、結婚しようと、約束したのに。僕のものになると、言ったのに。……こんな風に、裏切って」
許さない、と和人さんが小刀の先を私に向ける。その目から、ぽろり、ぽろり、と涙が零れ落ちた。
裏切られ、傷つき、痛ましいほどに怯えて震えている哀しい瞳。
私は弱々しく首を振りながら、じっとその場に立って、和人さんの顔を見つめた。
私の目からも、ぽろぽろと涙が頬を伝って滑り落ちる。
ごめんなさい。
ごめんなさい、和人さん。
「奈津──」
輝く白い刃先がまっすぐこちらに向かってくる。
私は泣きながら、身動きもせず、ただ和人さんの顔だけを見ていた。
***
「……っ」
ぐらりと傾いだ上半身を、両足で踏ん張って持ちこたえた。
ブーツを履いた両足が、アスファルトの地面をガガッとこする。
下に向けられた視界は、ぼんやりと霞みかけていたけれど、ぐっとこらえて奥歯を噛みしめているうち、徐々にクリアなものになりつつあった。こめかみの方から流れてくる汗が顎へと移動する。
夏凛、という蒼君の声が頭の中でこだましている。
そうだ、私は夏凛だ。甦る記憶は奈津のもの。混同しちゃダメだ。しっかり自分を保っていないと。
こんなところで意識を失っている場合じゃない。ここで私が私を手放してしまったら、誰も、何も、救われない。もつれた糸はほどけない。
奈津の魂も、和人さんの魂も、中途半端に漂ったまま、トモ兄だって、救えない。
──そんなことにはさせない。
よろめく足許に力を入れて、私は血の気のない顔を上げ、すぐ前にいるトモ兄を真っ向から見据えた。
こちらを見返すトモ兄は、またやわらかく微笑んでいた。
「……思い出した?」
微笑んでいるのに、どうしてそんな悲しそうな目をしているの、トモ兄。
「トモ兄、駄目だよ」
がんがんと痛む頭をこらえ、私は掠れる声で言った。
まるで、子供に言い聞かせるような口調になっているのが、自分でも不思議だった。私がトモ兄に向かってこんな言い方をすることは、今までになかったのに。
「それは、和人さんの記憶だよ。呑み込まれてしまっては駄目だよ、トモ兄」
トモ兄はトモ兄なのだ。「和人という男の人の記憶を持った」トモ兄、なのだ。トモ兄は和人さんじゃない。そこを間違ってしまっては駄目だ。
「…………」
トモ兄は変わらない表情で私を見下ろし、それから視線を、さっき私から取り上げたスマホに移した。電源が切られているため、画面は真っ暗だ。
蒼君は、私を探しているのだろうか、とふと思った。
早く戻って来い、と怒鳴っていた。あの時、蒼君自身はどこにいたのだろう。どうして私がニセの伝言に呼び出されたことを知っていたのだろう。
私を探して、いずれ、こっちに走って来たりするのだろうか。
……来ちゃ駄目だよ。
記憶の中の奈津と同じことを思った。
私は多分、これから起こることを知っている。判っている。それに、蒼君を巻き込ませたりはしない。
そしてこれは、きっと、私にしか出来ないことだ。
トモ兄は、黙ってスマホの黒い画面を見つめた後、それをゆっくりとした動作で、自分の着ていたコートのポケットの中へとしまった。
そうして、また私に目を向けた。
トモ兄の片方の手が、そのままポケットの中に入れられているのを、私は黙って見ていた。
「──奈津は、和人から逃げようとしてた」
ぽつりとトモ兄の唇から出たのが、「和人」という呼び方であることに、心からホッとした。そうだ、ここは、「僕」などではあってはいけない。
「奈津があの男と会おうとしてる、ということを知って、和人は絶望したんだ。あの男と手に手を取って、この町から──自分の許から逃げ出そうとしてるのかと思うと、目の前が真っ暗になった。これほど愛してるのに、ずっとずっと昔から、奈津だけを見ていたのに、その自分を捨てていくのかと、嘆いて、喚いて、家の中のものを手当たり次第に投げて壊して暴れた。普段大人しい男だっただけに、家の人間は誰もが驚きのあまり、腰を抜かしていたよ」
くす、と笑う。
咆哮して狂乱する和人の姿を、トモ兄は、どんな思いで頭の中に甦らせているのだろう、と思うとたまらない。
前世の記憶の中で、私が奈津と同化するように、多分、トモ兄も和人という存在に同化してしまう。狂ったように叫んで暴れて物を投げつける和人は、トモ兄自身でもある。
「トモ兄──」
「そんなことはさせない、と思ったよ。おそらく、その時点で、和人は少し頭がおかしくなりかけてたんだろうね。愛情と執着と憎悪が全身を支配して、理性なんてものはほとんど残っていなかった。和人は、奈津を強く愛しすぎていたんだ。強い愛情は、たちまち強い憎しみに変わった。あまりにも、あっけなく、簡単に」
好きだから、愛しているから、憎くなる。
中学の頃、季久子に怒られただけで、すぐに好意を嫌悪へと変換させた男の子。ベクトルが違うだけで、彼が季久子に対して抱く感情は同じものだったのかもしれない。
強い感情を向けているからこそ、なくすことは出来なくとも、方向を変えることは容易いのだ。
最初からなんとも思わない相手だったら、何をされても、さほど嬉しくないし、傷つきもしない。
「そんなことはさせない、行かせない、とそればかりを考えてた。自分のものにならないのなら、奈津の幸福なんて願えない。奈津が他の男のそばにいると想像しただけで、身が焦げつくようだった。和人は──僕は、自分が、たったひとつ離れた星でいることが、どうしても、耐えられなかった」
「…………」
私は目を伏せ、幼い日の頃のことを思った。
ナツ、この時期はね、「夏の大三角」っていうのがよく見えるんだよ。
こと座のベガ、わし座のアルタイル、はくちょう座のデネブ。その三つの星が、夜空に三角形を描いてるんだ。
その三つの星のうち、ベガとアルタイルは、織姫と彦星とも呼ばれてる。ナツも知ってるだろ? 七夕の日だけに会うことのできる、恋人同士。
三角形を作る星は三つなのにね。恋人同士なのは、そのうち二つなんだ。
……ねえ、ナツ。
残された一つは、悲しくないのかな。どんな気分で、繋がった三角形の他の二つの星を、眺めているのかな。
暗い闇の中で、自分だけが取り残されたような気持ちで、仲の良い恋人たちを見ているんじゃないのかな。
だって、祝福なんて、できないよ。
悔しくて、寂しくて。
僕ならきっと、たまらない──
あの時、電車の窓から流れる夜空を見ながら、トモ兄は何を考えていたのか。
私はまったく、何も判ってあげることが出来なかった。
トモ兄がずっとずっと昔から、一人きりで抱え込んでいた、苦悩を、悲哀を、孤独を、私は何ひとつ理解してあげられなかった。
「トモ兄、聞いて」
「他の男のものになるくらいなら、奈津の声が、笑顔が、身体が、すべて他の男にしか向けられないのなら、だったらいっそ、この世からなくなってしまえばいい、と思ったんだ」
私の声は、トモ兄の耳を素通りしていた。トモ兄の目は間違いなく私のほうを向いているのに、彼が見ているのは私ではない。
和人さんが必要としているのは、「夏凛」じゃないからだ。
和人さんにとって、ずっと昔から追い求めていたのは、「奈津」、ただその人だけだったからだ。
ううん、でも。
私は拳をぐっと握る。
でも、ここにいるのは、「知哉」という人間だ。
和人ではない知哉は、夏凛のことを大事にしてくれていた。年下の従妹として、妹のように、可愛がってくれていた。
和人の記憶は記憶として、そういうトモ兄は、今も必ず存在しているはず。
あんたって周りに愛されて育った子なんだろうね、と須田さんが納得したように言うくらい、そこにはちゃんと、愛情があったのだ、間違いなく。
奈津の生まれ変わりだから、という理由とは別に。
私はそう信じてる。
和人さんとは違う、トモ兄という優しい人がいることを、私は知ってる。
「トモ兄、私の話を聞いて、お願いだから」
私は辛抱強く繰り返した。トモ兄の目を見て、「知哉」に向かって語りかける。
「和人さんの記憶に支配されてしまっては駄目だよ、トモ兄。ここにいるのは、トモ兄なんだよ。和人さんじゃない」
でも、トモ兄の口は止まらない。
ゆっくりと、淡々と、そしてもはや私に対してでもなく、言葉を紡ぎ続けた。
「奈津のところへ向かった時、気づいたら、手には小刀を持っていた。奈津とあの男がひと目を避けて会っていた場所は、いつも同じだったから、見つけるのは容易だった。桜が、とても美しく咲いていた。お清という女の子が、僕を見て驚いて止めようとした。お願いですから、と取りすがる小さな身体を振りほどこうとして、僕は小刀を動かした。そうしたら、真っ赤な血が飛び散って……そこで、箍が外れた」
トモ兄の口から出るのは、また「僕」という一人称に戻ってしまっていた。
瞳がどろんとした黒い膜で覆われようとしている。
私はトモ兄のコートの端をがしっと掴んで、叫んだ。
「トモ兄、しっかりして! 夏凛を見て!」
その大声に、一瞬、トモ兄がびくっと身じろぎをした。
遠くへ流れかけていた視線が戻り、私に焦点が合いはじめる。
その時、また鉄橋の上をけたたましい轟音を立てて電車が走って行った。なんという悪いタイミングで来るのかと、私は思わず舌打ちした。
せっかく、私の声がトモ兄に届きかけていたところだったのに、ゴーッという激しい音が、またトモ兄の目を私から離してしまう。
トモ兄は私ではなく、頭上のコンクリートの塊を無言で見上げている。
現在に戻りかけたトモ兄の振り子が、再び過去へと向かっていく。
徐々に遠くなっていく電車の音と共に、トモ兄の心までもが連れ去っていかれそうで、私は気が気ではなかった。
「……あの男は、まだ来ていなかった。奈津は、僕を見て、驚いたような顔をした。奈津が待っていたのは、僕ではなく、あの男だったからだ。僕に見つかって、『どうして』って、怯えるように呟いた」
「違う」
私はきっぱりと強い口調で言い切った。
違う、違うのだ、奈津は、自分の秘密の逢瀬が露見したと思って怯えていたんじゃない。和人さんに見つかったことを怯えていたわけでもない。
──奈津は、逃げようとしていたわけではないのだ。
「違うんだよ。トモ兄、奈津はね」
「それで、僕は……」
おそらくトモ兄の頭の中では、今まさに、和人の記憶が同時進行で進んでいるのだろう。
奈津に裏切られたと思い込み、衝動のまま家を飛び出して、成り行きで女の子を自分の手で傷つけ、すっかり「おかしくなってしまった」和人さんの記憶に、トモ兄は乗っ取られようとしている。
トモ兄の目に、ゆらゆらと狂気の光が灯りはじめるのを、私ははっきりと見た。
「僕は……」
ぼんやりとした声で繰り返して、トモ兄はようやく、ずっとコートのポケットに入れたままだった自分の手を出した。
けれど、そこにあるのは、私のスマホではなかった。
ナイフだった。
和人さんが持っていた小刀よりもずっと細身で小さなもの。何に使うためのものなのかは、私には判らない。でも、銀色に輝く刃は、それなりに切れ味がよさそうだった。
刃先は、私に向かっていた。
「…………」
私は口をぎゅっと引き結び、トモ兄の手の中にあるナイフを見て、それから、トモ兄を見た。トモ兄は、私と同じように、自分の手の中にあるナイフを見てから、私を見た。
私の視線とトモ兄のそれとがかちりと合った瞬間、トモ兄の石のような目の中に、ふっと何かが過ぎった。
そして。
「……ナツ」
一拍置いて、ぽろりと零れた名前は、私の名だった。
鼓動が大きく跳ねあがる。聞き間違えたりしない。私は何度、トモ兄にこう呼ばれただろう。
トモ兄が今呼んでいるのは、夏凛だ。奈津じゃない。
「ナツ」
「うん、トモ兄」
独り言のようなトモ兄の呼びかけに、私はしっかりトモ兄だけを見て返事をした。その手に握られているナイフの存在は、無視をした。死に物狂いで、無視する努力をした。
トモ兄の唇がわななくように震えている。「うん」と、私はもう一度答えた。
うん、トモ兄。
ここにいるのは夏凛だよ。
トモ兄が戻ってきてくれるのを、ずっとずっと、待ってたよ。
「──助けてくれ、ナツ」
そう言って、トモ兄は一粒、涙を落とした。




