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遠くの星  作者: 雨咲はな
37/43

37.和人



 お正月に会ってから、まだ一週間も経っていないはずなのに、そこにいたトモ兄は、私の知っているトモ兄とは別人のようになっていた。

 もともとあまり日に焼けないほうだったけれど、それでも健康的ではあった顔色が、今は薄っすらと青白くなりかけている。整っていることに変わりはないが、頬のあたりが少しこけて、顎が尖った印象を受ける。

 口元には微笑が浮かんでいるものの、瞳はどこか退廃的に疲れきっていて、そのくせ、底の方にぎらぎらとした正体の判らない強い光が居座っていた。

 この顔、誰かに似てる、と思って、背中が冷えた。


 和人さんだ。


 奈津の記憶の中にある和人さんと、顔は違うのに、今のトモ兄は驚くほどよく似ていた。

 まるで──和人さんの魂が、トモ兄の身体を乗っ取ろうとしてでもいるかのように。

「トモ兄……」

 驚きはある。混乱もある。衝撃も、怒りも、怖れもある。けれど、それらすべてを押しやって、この時私の口から出てきた声には、自分でも意外に思うほど、心配の色しか乗っていなかった。

 トモ兄、どうしたの。大丈夫なの? と、喉元まで言葉が出かかっている。

 あのイトコと二人っきりになるな、絶対だぞ、という蒼君の声を思い出し、泣きたくなった。

 ごめん、ごめんね、蒼君。あれだけ念を押されていたのに、私の足は動きそうにない。


 この状態のトモ兄を放り出して、自分だけこの場所から逃げ出すようなことは、出来ないよ。


 トモ兄はやっぱり、私にとって大事な人だった。

 私の意志を無視した強引な手段を取られても、こんな風に騙すようなことをされてさえ、それでもなお、私は彼を、徹底的に嫌うことも、憎むことも出来ない。

 どうしても、愛情を捨てられない。

 一人の男の人としては見られなくても、本当の兄ではなくても、トモ兄は、私のかけがえのない「家族」なのだ。

 私はその場にぐっと踏みとどまり、トモ兄と正面から向かい合った。

「ごめんね、ナツ」

 トモ兄は、やわらかい声で謝った。

「けど、こうでもしないと、君と二人きりで会えそうになかったからね。電話で話すことも出来ないし、だったら直接家に行くしかないと思って出かけたら、ちょうどたまたま、道の途中でおばさんが誰かと元気よくお喋りしてるのを見かけて」

 そう言って、くすりと可笑しそうに笑う。


 母と季久子のお母さんとのお喋りは、きっと近くまで寄らなくても、周囲に響いてトモ兄の耳にもよく聞こえたことだろう。

 母は興奮すると、どんどん声が大きくなる傾向がある。さぞかし張り切って、娘のデートの待ち合わせの時間も場所も、季久子のお母さんに逐一報告していたのだろうな、と思うと、ため息しか出てこない。


「それで、ちょっと利用させてもらうことにした。ナツは本当に、素直で、人を疑うことを知らないね。こんな風に、単純な手口でころりとおびき出されて。子供の頃から、ちっとも変わらない」

 バカだから騙されやすい、という内容を、トモ兄はかなり婉曲な表現で言った。

 昔から、トモ兄は私に対して否定するような言葉を使わない。幼い私が悪さをしても、「ナツのこういうところは偉いと思うけど」と、まず褒めてから注意した。

 私の褒めるところなんてほんの少ししかないだろうに、いつでも必ず、私を傷つけまいと、そればかりを最優先にしていたトモ兄。そういうところは、変わっていないのだ。

 私はこういうトモ兄が、ずっと大好きだった。無邪気にその背中を慕い続けていた。甘えきって、頼りきって、庇護されることに安心感を抱いていた。

 私にとってトモ兄は、絶対的に、「上にいる」存在だった。


 ──ごめんねトモ兄、と、静かに息を吐いて、今さらのように思う。


 これまで何度、どうしてトモ兄は私の言うことをわかってくれないの、ともどかしく思ったことだろう。

 言葉がすれ違う、心が噛み合わない、そのことを、時に苛立たしく感じたりもした。腹も立てた。

 でも、結局それはやっぱり、私の「甘え」でしかなかったのだ。

 私は今まで一度だって、トモ兄の気持ちを考えようとしたことがあっただろうか。

 自分の気持ちばかりを押しつけておいて、トモ兄のそれを汲もうとしたことがあっただろうか。

 なんでも出来るトモ兄、なんでも知っているトモ兄、だからトモ兄は、私のこともわかってくれなきゃいけないはずだ、という傲慢で子供じみた考えが、常に私の側にあったのではないか。

 トモ兄は神様じゃない、人間だ。嘘もつく。悲しみも、苦しみもある。迷いも、悩みもあるだろう。弱さも、暗い部分だって、きっとある。

 もっと前に、ちゃんとそのことに気づいていなければならなかったのに。

 私はもう、トモ兄の手に守られて、満足しているだけの子供であってはいけない。

 もつれてしまった糸を、ほどく努力をしなければ。




「……トモ兄、奈津と和人さんは、ずっと愛し合っていたわけではないよね?」

 私が落ち着いた声で確認すると、トモ兄は驚いたように目を見開いて、それから、苦笑した。

「思い出したのかい、ナツ」

 問い返すことも、反論することもなく、そう言った。

「君が小さい頃からずっと、思い込ませてきたのにな。何度も何度も、しつこいほどに繰り返して、そう信じ込むように仕向けてきたのに」

 とうとう無駄になってしまったね──と、トモ兄は感情の見えない黒い瞳を私に向けた。

 ぞっとするくらい、乾ききった口調だった。

「何度も、何度も」

 ふい、と視線が私から離れ、宙を漂いはじめる。

 唇から出る言葉は、まるで謳うように滑らかだったけれど、ぽっかりと虚ろな響きを伴っていた。


「君が僕を好きになるように。僕一人だけを見るように。君が僕だけのものになるように。僕以外の男を好きになることを、君自身が罪悪だと思い込むようになるまでに。ゆっくりと、時間をかけて、君の頭に刷り込んでいったのに。……今度こそ、僕の手から逃げていかないように、細心の注意を払っていたつもりだったのに」


 結局、またこうなるんだね、と独り言のように呟いた。

 それからトモ兄は、再び私の方へと目を戻した。ふんわりと、どこかを彷徨っているような、そんな緩慢な動きと表情だった。

「……ナツ、和人という男はね」

 その目は私ではなく、ここではない遠いところを見ているんだと気がついた。

 だから、こうして向き合っていても、私の名を呼んでいても、ちっともトモ兄の心がこちらを向いている気がしないのだ。


「奈津がまだ子供だった頃から、ひたむきに彼女のことだけを想っていたよ。美しくて、明るくて、屈託のない奈津と一緒にいると、和人はいつでも心が晴れやかになったんだ。華族なんて、上辺だけは上品でも、内実は見栄と体裁だけで取り繕われた、空っぽの連中ばかりだった。ただ資産を食い潰すだけで、このままでは没落していくのが目に見えているっていうのに、誰もかれも、これまでと同じように特権階級として生きていけると呑気に思い込んでいる。時代が変わったということを認めようともせず、財政を立て直すための手を何も打とうとしない──手を打つ、という発想すらない、あまりにも愚かな周りの中で、和人は一人、歯がゆさと悔しさと憤りを感じて毎日を送っていた」


 空虚な調子でそこまで滔々と言って、トモ兄は、ふと微笑を洩らした。


「そんな時、奈津の愛らしさに、どれほど救われたか判らない。奈津は幼い頃から、ずっと無邪気に、和人のことを信じてた。賢くて、優しくて、和人さんはきっと立派なお医者さまになって、たくさんの方をお助けになりますよ、と、なんの疑いもなく言い切っていた。その言葉を、和人がどんなに心の底から嬉しく誇らしく聞いていたか、判るかい。どんなに──そう言ってくれる奈津を、愛おしく思ったか」


 懐かしそうに、幸せそうに、トモ兄は笑う。

 その顔を見て、言いようのない不安な気持ちが、私の身体の中を駆け上がる。

 ……トモ兄、それは、「和人の過去」だよ。わかってる?

 どこを、誰を、見ているの、トモ兄?


「自分の妻になるのは奈津しかいない、とずっと決めていた。奈津の親が反対するはずがないし、自分の親も説得する自信はあった。奈津だって、僕に悪い感情を持っていないことははっきりしてる。奈津に持ち込まれる縁談は、出来る限り裏から手を廻して潰した。奈津が年頃になって、こちらから結婚を申し出れば、あの欲深な両親は諸手を挙げて了解するだろう。だからなんの問題もないと、和人も、少し高を括っていた部分はあったんだろうね。……だって、まさか、思いもしなかったんだ」


 奈津が、他の男を好きになるなんて、と、小さな声で言った時、トモ兄の瞳にちかりとした炎が宿った。


「和人が大学に行って、帰ってきた時には、奈津はすでに、『恋する女』になっていたよ。子供だったのに……子供だと思って、油断していたら、あっという間に、奈津は見事なまでに『女』へと変貌していた。無邪気さと屈託のなさが消えて、愁いを帯びた儚さを身につけ、さらに美しくなって。──けれど、彼女が熱を帯びた視線で見ているのは、僕ではなくて、他の男だった」


 「和人」と言ったり、「僕」と言ったり、トモ兄の言葉には、明らかに混乱が現れはじめていた。

 けれど、本人はまったくそのことに気づいていないようで、少しずつ早口になっていく口調からは段々、穏やかさと冷静さがぽろぽろと抜け落ちていった。


「相手の男は、雇われて山に入って石を削り賃金を得るような、その日暮らしの労働者だった。どこか余所から町に流れてきたらしくて、素性だって確かじゃない。奈津という娘は、昔から、自分の成り上がりの親と生活を恥じて、そのために貧しい人間に謂れのない罪悪感を覚えるようなところがあったからね。最初は、同情だったり、憐れみだったりしたものが、恋に変わったと──それが恋だと、勘違いするようになったんだろう。よりにもよって、そんな男に」


 そんな男、と吐き捨てるかのように言った。

 貧しい労働者を見下しているのは、トモ兄ではなく、華族という立場を疎んじながらも豊かな暮らしを享受してきた、和人という男の人だ。

 けれど、今のトモ兄に、その区別がついているのか、私には判らなかった。


「もちろん、僕はそんなの、許せなかった。……許せるはず、ないだろう?」


 問いかけるような言い方をしていても、トモ兄は、まったく私の返答を必要とはしていない。


「すぐに奈津の両親に、彼女と結婚させてほしいと申し込んだよ。彼らはもう、大喜びで賛同してくれた。もともと、ただの労働者なんかを、娘の配偶者として認定するような親じゃない。奈津はいつもひと目を忍んでその男と会っていたようだけど、それさえも出来ないように、厳しく言いつけた。あんな男の一人や二人、どうにだって出来るんだと遠回しに脅しをかけて、奈津に諦めさせた。僕はそうやって、奈津を手に入れた……手に、入れようとした」


 そこで、ぱたりとトモ兄は黙り込んだ。

 目線を下げ、唇を引き結ぶ。

 ──何かあるんだ、きっと、と私はその顔を見て思った。

 トモ兄が私のことをなんでも見破ってしまえるように、私だって今までの経験で、トモ兄のことが判る。

 重要なのは、この話の先、なのだ。

 その先に、糸のもつれてしまった原因がある。トモ兄が、こんな風に追い詰められている理由が。それを知らなくちゃいけないんだ。

 私は必死で、自分が見た、奈津の記憶を思い出そうとした。そうだ、そうやって、和人さんと奈津は、結婚の約束を交わしたはず。奈津は悲しい思いもしたけれど、それでも好きな人のことは諦めて、和人さんと夫婦になろうと決心したはずだった。

 嫁入り道具も整って、結婚はもう間近に迫っていた。

 「あの人」はどこかへ行ってしまうけれど、奈津の幸せを願っている、とそう言ってくれていた。

 奈津は、それをすべて、受け入れようとしていた、はずだ。

 そこまで思って、私ははっとした。天啓のように、突然、閃いた。


 あれ──でも、これって。

 変、だよね?


 季久子が、私の話を聞いて、ちょっと変だなと思った、と言っていた意味が判った。

 トモ兄が今まで私に教えてくれていた内容と、私が見た奈津の記憶には、どう考えても齟齬がある。

 私はやっぱり、トモ兄の言葉を無条件に信じようとするところが抜けきらない。だから、今までそのことを疑問にもしなかった。

 もっとちゃんと客観的に物事を眺めてみれば、いちばん根本的な部分に問題があると、気がつけただろうに。

「……トモ兄」

 私の呼びかけに、トモ兄はのろのろと反応した。私が何を言い出すか、もう判っているかのような、面倒そうな仕草だった。

 ──あのね夏凛、奈津は、どうして……

 あの時、季久子が言いかけたであろう先を、私はトモ兄に向けて、言葉にした。


「奈津は、どうして死んだの?」


 トモ兄は表情を変えないまま私を見た。

「病気だよ。そう言っただろう?」

「なんの病気?」

「…………」

「不治の病だった? それとも、突然流行病にでもかかった? ほとんど家の中から出られない毎日だったのに? 奈津がずっと病気がちだった、ってことはないよね。私が覚えてる奈津は、いつでも健康だったよ」

 鏡の中にいた奈津の顔色が悪かったのは、病気だったからではなく、「あの人」に会えないよう、ずっと家に軟禁されているような状態だったからだ。消沈して、食事だってろくろく喉にも通らないような毎日だったに違いない。

 けれど、少なくとも、今すぐ治療が必要な病気などではなかった。

 和人さんの家まで、走ることだって出来ていた。息が切れていたのは、運動に慣れていないから、と奈津自身が思っていた。つまりあの時だって、本人に病気などという認識も、自覚もなかった。

 もうすぐ嫁入り、という時にさえ、奈津にそんな兆候はなかったではないか。母親だって、お清ちゃんだって、誰一人として、奈津の健康状態に問題があるなんていうことは、まったく口にしていない。


 奈津は、病気などではなかったのだ。


「なのに和人さんと結婚する前に、奈津は死んでしまったの?」

「……そうだよ」

「そんな短い期間に、どうして? 何があったの?」

「…………」

 私の真っ向からの追及に、トモ兄は口を噤んで、ただじっとこちらを見返してくるだけだった。

 私とトモ兄は、ぴいんと張りつめた緊張の中で、お互いの顔を見つめ合った。

 と、ふいに、トモ兄の口許が緩んだ。

 いや、緩む、と言うより、歪む、と言うほうが正確かもしれない。

 口元が上がり、ちっとも笑いではない笑いを浮かべ、トモ兄は呟いた。


「……そこだけは、思い出さないんだね」


 どこか自嘲気味な、優しくて悲しげな言い方だった。

 それからトモ兄は口を開きかけたけれど、その時ちょうど、鉄橋の上を電車が走り抜けていって、私の耳にまったくその声は聞こえなかった。

 ゴーッというお腹の中まで響く大きな音が、トモ兄の言葉をすべて吸い取ってしまう。

「え?」

 ようやく電車が去って、もとの静けさが戻ってきてから、私は眉を寄せて聞き返した。

 トモ兄はまた少し黙り、ゆっくりと足を動かして、こちらに近づいてきた。

 すぐ目の前に立って、真っ黒な瞳で私を見下ろす。

「──僕が」

 間近にあるのは、石のような硬質さを帯びた目だった。

 私はこの目を知ってる、と思った。

 私がトモ兄よりも、はっきりと蒼君を選んだ、クリスマスの夜に見た。

 ううん、違う──思い出した、あの時も、私はこの目を以前にも見た、と思ったではないか。


 和人さんだ。

 私がこの目を知っているのは、奈津が、和人さんの「この目」を知っていたからだ。


 トモ兄が、私の知っているトモ兄ではなくなる瞬間。私がトモ兄から逃げようとする時、トモ兄はいつも知らない男の人の顔になった。

 そういう時、トモ兄の心には、前世の和人という人格が、強く現れるからだ。

 和人さんは、確かに、こんな目をしていた。

 奈津は、それを知っている。

 桜の中で──


「……僕が(・・)殺したんだ(・・・・・)


 トモ兄はぽつりとそう言って、自分の手を見下ろした。

「僕が、この手で、奈津を刺し殺したんだよ」

 その手が、赤い色に彩られる。

 いいや、幻だ。そうに決まっている。

 トモ兄の手と、真っ赤な血で染まった手がダブって、ぐらぐらと目の前が揺れた。

 ああ、これ、覚えがある──奈津の記憶が甦ろうとする前兆だ。


 満開の桜が見える。


 そうか、と今こそ心から納得した。

 ずっと子供の時から見続けた夢。

 いつもいつも同じところで途切れる、桜と星空の、美しい記憶。

 どうして同じ場面ばかりを見るのかと、不思議でたまらなかった。


 それはあれが、奈津の、「最期の記憶」だったからだ。

 だからずっと、私の魂の奥深いところに、刻み込まれてしまっていたのだ。





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