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遠くの星  作者: 雨咲はな
34/43

34.確認



「……ふうん」

 と、スマホの向こうで季久子は言って、そのまましばらく、黙ってしまった。

「…………」

 長い沈黙の時間が居心地悪い。私はスマホを耳に当てたまま、明るい日差しの差し込む窓を見たりして、ひたすらおあずけをくらった犬のように、季久子が次の言葉を発するのを待った。

 今の季久子は、顔が見えたら、さぞかしあの可愛い顔で気難しそうに口をへの字にしているのだろう。

 普段の彼女はニコニコして朗らかだが、考え事をする時は、黙りこくって外部をシャットダウンしてしまう。そういう時に近づいて、無神経にぺらぺらと喋りかけたりすると、ものすごく怒られるのだ。


 ……そういえば、中学の時も、季久子のそういうところを知らない同じクラスの男の子が、「話しかけただけで怒られた」と憤慨していたことがあったっけ。


 多分、彼は季久子のことが好きだったのだろう。

 冷たく剣突を喰らわされたことが悔しかったのか、それとも可愛さ余って憎さ百倍という心境だったのか、とにかく陰険で幼稚な報復として、その同級生は、それから季久子についてのあることないことの中傷を、非常にねちっこくクラス中に吹聴して廻っていた。

 結果的に彼はクラスの女子全員から嫌われて、話しかけても怒られるどころか総スカンを喰らっていたが、口汚く季久子のことを悪しざまに罵るその男の子の姿を見て、私は心底不思議に思ったものだった。

 その時も理解できなかったけれど、今も理解できない。

 季久子のことを好きだった人間が、そんなほんの些細なきっかけで、ころりと掌を返し、いきなり憎むようになったのは、どうしてなのだろう。

 彼の季久子に対する好意は、一体どういう経緯を辿って、そのように真逆の方向へ変化を遂げてしまったのか。

「で、その、好きな人ってのは誰なのよ」

「え、だからキクちゃんでしょ?」

「……夏凛」

 唐突に考え事から復帰した季久子に質問されて、思わず逸れている思考のまま回答したら、はあーっと深いため息が落とされた。

 それで私も我に返った。


 そうそう、今は、夢で見た、奈津の記憶の話をしていたのでしたね。


「あんた、またなんか、おかしな妄想世界で遊んでたでしょ」

「だってキクちゃんが黙っちゃうからさ……」

「だってじゃない。間ができると、すぐに頭が変な方向にぽーっと流されちゃうのは、あんたの悪い癖よ。目の前のことを、もっと真剣に考えなさいよ」

「いや真剣に考えてはいるんだけど……」

 季久子にぴしぴしと叱られ、私は口の中でごにょごにょと言葉を濁す。

「あれから三日経つけど、奈津の夢、ちっとも見ないんだもん。あの前後のことが、よくわかんないんだよね。だからキクちゃんにこうして相談してるんじゃない」


 奈津と和人さんが交わした「約束」。

 奈津の恋と、和人さんの、執着と呼べるほどに強かった愛情。


 あの夢から判ったことはいろいろとあるが、同時に判らないこともいろいろと増えてしまった。

 眠るたびに記憶を取り戻すのだろうか、そして一気に何もかもが理解できるようになるのだろうか、と期待しつつ緊張しつつ、私はいつも睡眠に入るのだが、どういうわけか、あれっきり奈津からは何の音沙汰もない。

 それが三日続いたところで辛抱が切れて、私は季久子に電話して、お伺いを立ててみることにしたのである。明日でもう冬休みも終わり、明後日からは三学期が始まってしまう。

 問題が解決するまで、と須田さんは言っていたけれど、この調子ではいつになったらその日が来るのかまったく見えなくて、心はじりじりする一方だ。

「どう思う? キクちゃん」

「どうって、だからその夢の示す内容が事実なんでしょ。あたしが言ったとおりじゃないの、奈津は和人さん以外に、好きな人がいたのよ」

「うん……」

 考えながら、返事をする。

 なんとなく今でも信じがたいのだが、確かにそれは季久子の言うとおりなのだろう。


 奈津は、好きな人がいたのだ。

 それは、和人さんではなかった。


「好きだったのは、どういう男だったの?」

 と季久子に重ねて問われたが、私は、全然わからない、と正直に答えた。

 奈津と和人さんの会話などから推し量るに、その相手はおそらく、あまり裕福とは言い難い、地道な労働でその日の生計を立てているような人だったらしい。

 しかし、その人がどういう人だったのかも、彼のほうは奈津のことをどう思っていたのかも、よく判らないのだ。

 顔も判らない。判るのは、声くらいか。

 あまり優しい感じではなかったけど、落ち着いた、いい声だったな。

 そういえば、あの声──以前にも、どこかで聞いたような気がするんだけど、気のせいだろうか。


 いつか……いつだっけ。

 暗い闇の中で──


「こらっ、またボンヤリしてる!」

 もやもやした記憶を頭の中で探るのを、季久子の声で慌てて中断した。

 また叱られそうなので、考えていたことを、一旦綺麗さっぱりと外に追い出すことにする。

 怒る季久子は確かに怖い。今さらだけど、中学の時のあの男の子も、季久子の愛らしい外見で抱いていた幻想が大きかった分、けっこうショックだったんだろうなあ。

「でも、どんな人であれ、その人のことは諦めることにしたみたいなんだよね」

 と、私は思い出しながら言った。


 あの夢の中で、二度と会わない、と奈津は決めていた。

 いろいろと複雑な心情はあっても、彼のことは諦めて、和人さんと結婚しよう、というその決断に嘘はなかったはず。


「そんなにすっぱり割り切れるもんかしら」

 疑うように季久子が言ったが、恋愛経験のほとんどないような私が、その疑問に何かを言えるわけもない。さあ、とあやふやに首を傾げる。

「その人のこともよくわかんないし、奈津と和人さんが結局どういう結論を出したのかもわかんない。でも、問題はそこじゃないと思うんだ」

 私は改めて、話の舵を切り直した。

 そうなのだ、判らないことだらけの奈津の恋がどうなったのかはさておき、根本的な問題は、まったく別のところにある。


「……私たち、どうして、前世の記憶なんて持ってるんだろ?」


 記憶を取り戻せばその謎が解けるのでは、と思ったのに、解けるどころか深まるばかりだ。

 とにかく、「真実」はどうやら、深い深い愛情の果てに、前世で叶えられなかった約束を叶えるため、現世に生まれ変わった──などという、美しい話ではないらしいことは判った。

 でも、じゃあさ。

 どうして、私とトモ兄は、前世の記憶をこの現世に持ち越しているのだろう?

 いや、もっと判らないのは。


 ──トモ兄は、どうして「私」に拘泥し続けているのだろう?


 和人さんが奈津を愛していたのは間違いないのだろう。

 恋敵を排除してでも、どうしても手に入れたかった、それはいい。やり方やその是非はどうあれ、そのこと自体はまだしも理解できる。

 だって、それほどまでに、奈津というのは抜きんでて美しい娘だったのだから。

 けど、それはあくまで、「奈津」の話だ。

 前世の奈津とは違い、今の私は、自分で言うのも悲しいが、どこにでもいる凡庸な顔立ちでしかない。

 何か取り柄があるわけでもなく、聖女のように美しい心根を持っているわけでもない。子供で、甘ったれで、余分な想像力には富んでいるが、問題が起きてもオロオロと右往左往するしかない、ちっぽけな女の子だ。

 生まれ変わった和人さんは、そんな私に幻滅こそすれ、恋をしたり、ましてや何がなんでも手に入れたいだなんて、思うだろうか。

 言い換えれば、トモ兄が、私に執着するような理由が見当たらない。


 年下の従妹に対する愛情くらいはあったにしても、それだけだったら、トモ兄は、和人としての記憶を一人ひっそりと自分の胸の中だけにしまい込むという方法だって、いくらでもとれたはずではなかったか。


「そうね……。でもそればっかりは、もう少し記憶を取り戻さないと、はっきりしたことはわかんないんじゃないかな」

「だよね」

 考えるように季久子に言われて、私は短いため息をつく。

 奈津の記憶待ち、結局それしかないのか。

 この手段の少なさがなんとも歯がゆい。自分の意志でどうにかなることではないのが、この件のいちばん厄介なところである。

 季久子は少し声を落とした。


「……で、あれから、知哉さんからは、何かアクションあった?」


 その問いに、んんー、と私は曖昧に答えた。

 これが二番目に厄介な点だ。

 トモ兄の現在の状況が判らない。伯父は自分たちで説得する、と言っていたようだけれど、それはどうもあまり上手くいっていないらしいことは母から聞いた。

 だろうなとは思うが、まだはっきりと彼に対する態度が決められない現状では、蒼君に頼まれなくても、私はトモ兄と話をすることも顔を合わせることも、避けるしかない。

「家には、何度か電話があったみたい。……けど、私は出ないようにしてるし、お父さんやお母さんが受けても、私には取り次がないようにしてるから」

「家に? あんたのスマホには?」

「いつも、電源切ってるんだよね。あのー、夜の一定時間以外は」

「は?」

 そこで私は、口ごもりながら、最近、毎晩決まった時間に蒼君から電話がかかってくることを打ち明けた。

 季久子はおそらく驚いたのだろうけど、「ほほう」という相槌を打つだけに留めてくれた。

 ここで大げさに叫んだり、なになにどうして?! と興奮したりしたら、恋愛レベル小学生並みの私が耐えられない、と配慮しているのだろう。心底、ありがたい。

「毎晩ねえ」

「ま、毎晩っていうか、こないだ奈津の夢を見た日からだから、まだ三日くらいだけど」

「ほほう」

 でも絶対、にやにや笑ってるな。

「どんなこと話すわけ?」

「え、別に大したことじゃないよ。バイトのこととか、学校のこととか」

「ほほう」

「しつこいって」

「なーんだ、そっちはそっちで、うまいことやってんのね。ふうん、やっと夏凛も彼氏持ちかあー。これであたしも気兼ねなく男についての話をあんたに振れるのねえ」

 しみじみとした季久子の言葉に、私は慌てた。今までだって別に気兼ねなんてしないで結構きわどい話をぶっちゃけてたじゃん、というツッコミはとりあえず胸の中にしまい込む。

「いやいや違うよ、彼氏じゃないよ? 私たち、まだ全然、そういうのじゃない」

「だって、毎日電話してくるんでしょ?」

「そうだけど、バイトを終えてから家に帰るまでの、短い時間だし。内容だって、普通の日常会話程度の、なんでもないようなことばっかりだし」

「…………。けど、お正月に、デートだってしたんでしょ」

「デ、デート、とかじゃないよ。景色見て、話をしてただけで。大体、私、まだ蒼君には自分の気持ち、伝えてないもん」

「…………」


 スマホの向こうで、季久子が沈黙した。


 ん? と私は首を傾げたが、また何かを考えているのかなと思い、口を噤んで大人しく待つ。

「……夏凛」

 しばしの間を置いて出された季久子の声は、ちょっと低かった。

「うん、なに?」

「あんた、もしかして、この世の中の男女交際っていうのは全部が全部、『好きです、お付き合いしてください』『はい承知しました』っていうやり取りから始まるもんだと思ってるわけ?」

「え」

 私は本気できょとんとした。

「違うの?」

「…………」

 今度の沈黙は、さっきのよりも長かった。

「……鷺宮、気の毒に……」

 季久子はなぜか、心の底からの同情を混ぜてそう呟くと、「その話は、今度じっくりとしましょう」と厳かに告げて、電話を切った。



          ***



 夜になって、かかってきた蒼君からの電話で、私はその疑問を口にするかどうか、かなり迷った。

 ……普通一般的に、男女の付き合いっていうのは、好きだという気持ちの表明と、だから付き合いたいという申し出と、お互いの意思の確認があって、はじめて成立するものなんじゃないの?

 と、蒼君に訊ねてみたくてしょうがない。

 だけど、いきなりそんな話題を持ち出すのも、変だよね、やっぱり。そもそも蒼君だって、あんまりその手のことに詳しそうでもないし。いやでも、本をたくさん読んでいる分、知識はたくさんあるのかもしれないしなあ。

「どうかしたのか」

 悶々と考え込んでいたら、蒼君に問われてはっとした。

「あ、ごめん、なんでもない」

「……何か、あったか?」

 口調には、少し気遣うような、私の言葉の裏を読み取ろうとするような慎重さが覗いている。

 スマホの向こうにいる蒼君は、電話をかけてくるたび、時々、こういう言い方をする。まるで、何かを警戒しているように。


 ──蒼君は、一体何をそんなに気にしているのだろう。


「ううん、なんにもない。最近、働いてもいないし、そもそもあんまり外にも出てないし、何も起こりようがないよ。私、このままだと、運動不足で太っちゃう」

 笑ってそう言ったら、「ああ」という納得するような返事が返ってきた。え、待って、そこは納得して欲しくないし、頷いて欲しくもないんですけど。

「で、でも、もう明後日からは学校だしね」

「そうだったか?」

「…………」

 忘れていたらしい。

「蒼君、ちょっとは宿題やった?」

「しょうがないから、少しは」

 本当に、「少し」なんだろうなあ、と私は思ったが、口にはしないでおいた。

 やった、ということが大事なのだ、多分。結果よりもやる気、と小学校でも言われた気がする。高校の先生もそう思ってくれるかどうかは謎だが。

「宿題はともかく、橘」

「うん?」

「そんなに運動不足なら、明日、どっか行くか」

 蒼君のその言葉に、「えっ」と私は声を上げた。

 こうやって電話で話をするのは大分慣れたのに、ずっと平常心を保っているのはやっぱり難しい。心臓がまたタップダンスを踊りはじめている。


 蒼君とまたお出かけできるの?


「でも蒼君、バイトは?」

「明日は休み」

 わあー、と舞い上がってしまいそうだ。

 明後日学校に行ったら久しぶりに蒼君の顔が見られるなあ、と楽しみにしていたのだけど、その前に、もっと楽しみなことが出来てしまった。

「行くか?」

「行く行く! 絶対に行く! 這ってでも、転がってでも、石にかじりついてでも行くよ!」

「普通に歩いてこい」

 張り切って返答すると、あちら側で軽く噴き出す気配がした。

 私の家と蒼君の家は少し離れているので、ちょっと話し合って、繁華街中心部にまで出て待ち合わせたほうが早い、という結論になった。

 午前十一時、駅前ターミナルの大時計下だ。

 デートみたい、と思って、私はぽっと顔を赤く染めた。




 話をしながら部屋の時計をちらっと見たら、そろそろ蒼君が家に着く時間になっていた。

 外はびゅうびゅう風が鳴って、窓ガラスを叩いている。

 私は最近あまり外に出ないから鈍感になりつつあるが、きっとこの時間、冷気も強くて、寒いだろう。

 蒼君はどうも、スマホを片手に自転車を押しながら歩いているらしいので、早く家の中に入って身体を温めないと風邪をひいてしまう。本日のトークタイム終了の刻限だ。

「……あの、蒼君」

 少し考えて、最後にお願いをしてみることにした。

「ん?」

「あのー、ちょっと、理由は言えないんですけど」

「お前の話はそんなのばっかりだ」

「ごめん。でもその、ひとつ、お願いが」

「なんだ?」

 蒼君がため息交じりに訊ねる。

 私は息を吸って、その願い事を口にした。


「──私の名前、呼んでくれない?」


 今夜、もしかしたら、奈津の夢を見るかもしれない。

 また、見ないかもしれない。でも、見るかもしれない。それがどんな内容でも、ちゃんと受け入れようと、覚悟はしているつもりだけれど。

 ……記憶を取り戻すたびに、大汗をかいたり、泣いたり、吐いたり、泣きボクロの幻影を見たりするのは、正直言って、少々しんどいのだ。


 それらはすべて、私の──「夏凛」の、拒絶反応なのではないか、と今の私はそう思う。


 私の前世は奈津という娘だった。でも、今ここにいる私は奈津ではない。

 過去の記憶として見る夢は、夏凛の過去なのではなく、奈津の過去だ。でも、夢の中で、考えたり怒ったり悲しんだりしているのは、間違いなく私自身だ。

 一人の人間が、二人分の過去と記憶を持つということが、多分、私の頭に混乱を生じさせてしまうのではないか。

 私は奈津だったが、夏凛は奈津ではない。魂は同一でも、価値観や考え方は同じであるとは限らない。

 だから夢で奈津になると、拒絶反応を起こして、いちいち心身に変調をきたしてしまう。

 私が、きちんと自我を確立させられないほど子供で弱い、ということなのかもしれないが、時間をかけて大人になるのを待つ余裕はないのだから仕方ない。

 ここにいるのは奈津じゃない。夏凛だ。何度も何度も自分に向かってそう確認するよりも、蒼君のしっかりした声で、私の名前を呼んでもらって、安心して眠りにつきたかった。

 私は私だと、足を踏ん張って立っていられるように。

「…………」

 蒼君は、少しの間黙っていたけれど、それでも理由を問うこともせず、私の唐突な願いどおり、ちゃんと呼んでくれた。


「夏凛」


 ──と、いつもとまったく変わらない調子で、下の名前を。

 私は卒倒しそうになった。

 真っ赤になってしばらく口もきけないでいたら、蒼君がむっつりとした声を出した。

「……自分で言っといて、なんでそこで無言だ」

「え、いやあの、うん、ごめん。私、てっきり、いつもみたいに『橘』って呼んでもらえるものだとばっかり思ってたから、ちょっと、心の準備が間に合わなくて」

 しどろもどろに言うと、蒼君はまた黙り込んだ。

 電話でよかった。今にも火を噴きそうなこんな顔、蒼君には見せられない。

 そして猛烈に後悔した。一世一代の不覚、今の、録音しておけばよかったよ……!

「…………。それならそう言え」

 短く言って、電話は少し乱暴に切れた。

 スマホの向こうで、蒼君は今、どんな顔をしているのかなあ、と私は思った。


 うん、ここにいるのは、「夏凛」だ。





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