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遠くの星  作者: 雨咲はな
33/43

33.受信



 ふらふらと部屋に戻って時計を見ると、もうすっかり夜の遅い時間になっていた。

「ふうー……」

 大きなため息とともに、ベッドにぼすんと腰かける。

 窓の外に目をやれば、当然ながらそこはもう真っ暗闇だった。カーテンが端に寄せられたままの黒々としたガラス窓には、鏡のように私の部屋の様子が反射して映っている。

 ベッドに座り込んだ顔色の悪い女の子は、ひどく途方に暮れたような表情をして、私を見返していた。

 ……と。


 その時突然、机の上のスマホが着信音を鳴らした。


「わ!」

 そんなに大きな音ではないのに、心臓が口から出るくらいびっくりした。

 ただでさえ胃の中のものをすべて吐き出して、私のお腹の中はすでにカラッポの状態だというのに、この上心臓まで外に出したら本当に死んでしまう。

 ドキドキをなんとか呑み込みながら、私はそれを手に取った。

「え……」

 表示されている名前を見て、せっかく呑み込んだ鼓動がまた激しくリズムを刻む。確認するために、慌ててもう一度時計に視線を走らせた。


 ──そうか、考えてみたら、ちょうどバイトが終わる時間だ。


「も、もしもし」

「橘、どうした?」

 相変わらず前置きも何もない。けれど、手の中の小さな機械から聞こえる蒼君の声は、いつもよりも少し急いているように、私の耳に届いた。

 普段からあまり言葉の多くない、というか、足りなさすぎるくらいの蒼君だけど、私が電話に出た途端、跳ね返すような短い言葉がスマホから飛び出してきて驚く。

 それにしても、電話をかけてきて、いきなり「どうした?」はないんじゃないだろうか。それは思いきり、私のセリフなんだけど。

「え、どうしたって、何が?」

「バイト」

「……あー」

 簡潔で素早い返事だったが、私は納得した。なるほど、今日のバイトの欠勤について、聞かれているわけか。

 しかし気のせいかな、妙に詰問めいた言い方をされているような。

「うん、ごめんね、急に休んで」

「そんなことを言ってるんじゃない。どうしたんだ」

「んーと、ちょっと、体調を崩して」

 もごもごと言い淀むような口調になったのは、バイトを休む理由にはその他のことが大いに絡んでいるからだ。

 でもまあ、熱を出して一日とはいえ入院したのだから、その答えに嘘はない。

「風邪でも引いたのか」

「うん、そう」

「…………」

 私の肯定に、スマホの向こうで、蒼君はちょっと黙ってしまった。

 さっきから思っていたのだが、蒼君、なんだか機嫌が悪くないだろうか。問いかけ方が性急で、声にどこか尖っているような調子が混じっている。

 顔が見えないから判らないのだけど(見えても判らないかもしれない)、もしかして、私が休んだことを怒っているのかな。でも、病気でバイトを休むことくらいは大目に見てもらいたいなあ、と私が心の中で呟くと同時に、蒼君がぽつりと言葉を落とした。


「──悪い」


 急に謝罪されて、はい? と私は首を傾げた。問い詰められたり、いきなり謝られたり、さっぱりわけが判らない。

「何が?」

「あんな寒い中で、三十分近くも待たせて悪かった」

「…………」

 少し考えて、ああ! と理解した。理解したと同時に、慌てた。


 ……蒼君はどうやら、私が風邪を引いたのは、駅のホームに二十五分間座っていたせいだと思っているらしい。


「あ、ううん、違う違う」

 大急ぎで、蒼君からは見えもしないのに空いている手を振った。

 多分、あの前日からの私の行動を見ていたら、百人が百人、「自業自得」と断言するに決まっているくらい、風邪を引いて熱を出したのは、すべて私自身の不注意によるものだ。駅で蒼君を待っていたあの時間がなくても、間違いなく、高熱でぶっ倒れるという結果に変わりはなかったであろうと思われる。

「あれが原因てわけじゃないの。夜更かししたり、汗をたくさんかいたのに拭かなかったりしたから、そのせいなの」

 私の早口の抗弁に、蒼君は沈黙した。

 もしかして、私の休みを知ってから、今日のバイトの間じゅう、そんなことを考えていたのだろうか。そう思ったら、ますます身の置き所がないような気分になった。

 私にとって、昨日のことは、全部ひっくるめて、大事な宝物だ。駅で蒼君のことを今か今かと待っていたのも含め、知らない街を歩いたのも、長い階段をひいふう言いながら上ったのも、蒼君と一緒に高い場所から景色を眺めたのも、私には、とても楽しく、幸福な時間だったのに。


 ──それを、「悪かった」なんていう言葉にされてしまうのは、あまりにも悲しい。


「うん、あの、風邪を引いたのは、ホントに自分のせいだから。気にしないでね。もう熱も下がったし、大したことないんだよ。駅にいる時は、別に寒くなんてなかったし」

 それも嘘じゃない。私はあの時、本当にほとんど寒さを感じなかった。というより、蒼君のことを考えるので忙しくて、それ以外の事柄に気が廻らなかった。

 思っていたのは、早く会いたいなあ、ということばっかりで、寒さなんて気にする余裕はなかったのだ。

 しかしそんなことを蒼君当人に告げるわけにもいかず、私は内心でうんうん唸りながら必死になって言い募った。駅でも、悪い、と言っていたし、蒼君はこれで、責任感の強い律儀なタイプなのかもしれない。言っちゃなんだけど、普段の言動からは、そんな部分はまったく推し量れないのだが。

「私が悪いんだから、蒼君が責任を感じることは」

「違う」

 私の言葉を、蒼君のボソッとした一言が遮る。

 ん? と口を噤むと、スマホを通じて、小さなため息らしき音が伝わった。

「責任を感じてるんじゃなくて」

「? うん」

「……心配、してるんだ」

「え」

 一瞬、何を言われたのか、判らなかった。

 私は言葉に詰まり、蒼君もそれきり黙り込む。二人の間に、なんともいえない空白が出来た。

「…………」

「…………」


 やめてええーー! 黙らないでええーーー!!


 かあーっと頭に血を昇らせて、心の中で大絶叫だ。

 胃の中を空にして、心臓が飛び出そうになって、今度はさっき失くした血の気を一気に取り戻すとは。文字通り、身がもたない。

 真っ赤に染まった頭がぐわんぐわんと揺れている。そろそろ倒れる、多分。それでまた救急車で運ばれて、季久子のお母さんに情報収集されてしまう。嫌だ。

「あ……うん、あの、ありがとう」

 完全に上擦った声で、なんとかそれだけを言った。

 いやいや、バイト仲間が病気になったら、大丈夫かな、と思うくらいは普通だ。普通だから落ち着こう。ていうか、蒼君がいつももっと普通に他人のことを気にするような性格であったのなら、こんな言葉くらいはさらりと受け流せたはずなのだが。

 滅多に自分の心情をそのまま口に出すことはない蒼君だから、ぽろりとそんな言葉を向けられると、つい、そこに特別な意味があるように思い込みそうになってしまう。


「熱を出したのか」

「うん」

「で、もう下がったんだな」

「うん」

「少しはよくなったのか」

「うん、もう平気」

「じゃあなんで、これからしばらくバイトを休むんだ」

「…………」


 げ、と思わず言いそうになった。

 浮かれさせておいて、これですか。ぽーっとしながら甘い気分で頷いて、まさかこんなオチがあるとは予想していなかった私がバカだった。蒼君て、実はものすごい策士なんだろうか。

 声がまた詰問調になっていて、ちょっと怖い。

「えーと、須田さんに聞いたの?」

「当分の間、橘はバイトに来ないから、って言ってたぞ」

「……うん、ちょっと、体調がすぐれなくてね……」

 わざとらしくゴホゴホと咳き込む私に、蒼君は冷たく言い放った。

「お前、今、熱も下がってもう平気、って言ったよな」

 あれは罠か。

 最初から、しばらくバイトを休むって、と聞かれていたら、なんとか誤魔化していただろうに、先に逃げ道を塞がれた。恐るべし蒼君。

 打って変わったようなこの容赦ない追及ぶり、こうなると、さっきの心配してるんだ云々も、どこまで本気だったのか怪しい。

「須田さん、何か言ってた?」

「あの人や店長が、訊かれたことにマトモに答えるような性格か」

 だろうねえ。須田さんも店長も、いろいろと変わってはいても大人なだけあって、店員の個人的なことまでをぺらぺらと口外したりするような迂闊なところはない。訊ねられても、さぞ適当極まりない口実で、蒼君や他の人たちを煙に巻いたのだろうな、ということは推測できる。

 そうか、それでもしかして、蒼君は怒っていたのかな。

「橘、何があった?」

 私が突然ぎゃんぎゃんと泣きだした時にさえ、何があったのかと問わなかった蒼君が、真っ向から質問をしてきた。

 ぴしゃりとした、きつい口調だった。

「…………」

 うん、やっぱり怒ってるな。


 怒っているのは──多分、本当に、心配してくれているからだ。


 それに対して、嘘やいい加減なことを言って逃げたりするのは許されない。許されないっていうか、そういうのはイヤだ。

 だから、私は真面目に、そしてちゃんと正直に答えた。

「ごめん。まだ、言えない」

「…………」

 スマホからは、無言しか返ってこない。

 私は少し考えてから、率直に続けた。

「でも、もうちょっとしたら、蒼君に話せるんじゃないかと思う」



 そうなのだ。

 もうちょっと──もうちょっとで、すべてが判る、ような気がするのだ。

 前世にあったこと。和人さんのこと。奈津のこと。

 前世の記憶を、この現世にまで持ち込んでしまった理由。

 もつれた糸の、いちばん奥にあるもの。



 蒼君はしばらく黙った後で、

「──もうちょっとって、いつだよ」

 と、低くくぐもった声で言った。

 それはいつもの、落ち着いた、耳触りのいいものとは違っていた。どこか怒気を含んで、いろんなものを抑え込んでいるような声だった。

 どうしたんだろう。今日の蒼君は、少し変だ。

 言いたくないことなら言わなくてもいい、と私に言ってくれた時の、あの凪いだ水面のような静けさが乱れている。さざ波が立って、ざわざわと揺れ動いている。


 なんだか、まるで、焦っているような。


「……蒼君?」

「もうちょっとって、いつだ。お前、いつからバイトに出てくる」

「それは、ハッキリとは言えないけど……」

 もはや質問形にもなっていない口調で言われて、私は当惑した。

 蒼君が、他人にこんな風に何かを強要するような言い方をするのを、はじめて聞く。

「あの、そ」

「橘、頼みがある」

 蒼君、どうしたの? と問いかけようとする私を無視して、蒼君は出し抜けにそんなことを言った。急な話題の転換についていけなくて、私がまごついているのも置き去りだ。

 それくらい、蒼君の口調は、奇妙に切羽詰まっているように聞こえた。

 ……頼み?

 蒼君が、私に?

「う、ん。なに?」

 戸惑いながらも、そう訊ねる。よくは判らないが、蒼君が私に頼みたいことがあるというのなら、何を置いたって私はそれを聞かずにはいられない。

 が。


「──あの従兄と、二人だけで会わないでくれ」


「え?」

 唐突に言われたその言葉には、耳を疑った。

 え、なんで?

 なんで、蒼君がいきなり、トモ兄のことを口にするの?

「……あの」

「俺の考えが甘かった」

「はい?」

「呼び出されても、来られても、あいつと二人きりで会ったりするのはやめてくれ」

「…………」

 私はひどく混乱した。

 蒼君は何を言っているのだろう? どうして私とトモ兄との間に、問題が起きているのを知っているのだろう。

 須田さんか店長が、バイト先にかかってきた電話の件について、蒼君に言ったのだろうか。それとも、トモ兄が何か蒼君に対して行動を起こしたのだろうか。

 二人きりで会うな、なんて──聞きようによっては、嫉妬ともとれるような内容だけれど。


 スマホを通じて伝わってくるのは、そういう感情ではなかった。


「蒼君、どうして」

「お前が俺に何も言わないのなら、俺も理由は言わない。だから、頼んでる」

「……?」

 頭の中は、疑問符ばかりが盛大に乱舞しているような状態だ。

 訊ねたいことは山のようにあったが、私は喉の手前でそれらを強引に止めた。

 確かに、自分が何もかもを蒼君に黙っているというのに、こちらから蒼君が言いたくないことをあれこれ聞き出そうとするのは筋違いというものである。

 それに、蒼君の声には、いつものことだけれど、嘘がない。

 素っ気なくて、ぶっきらぼうで、愛想なんてカケラもなくて、必要最小限くらいのことしか言わない蒼君だけど、何かの思いつきや冗談で、いい加減なことを言ったりする人ではない。


「──うん、判った」

 判らないことばかりではあったが、蒼君の「頼み」についてはきっぱりとそう返事をした。


 どちらにしろ、もう少しはっきりしたことが判らなければ、トモ兄と二人で話をすることなんて出来やしない。

 新たに得た真実をどう受け止めるべきかの結論も、私はまだ、出せていないのだ。

「絶対だぞ」

「うん」

「あと、早いところ風邪を完治させろよ」

「うん」

「仕事のやり方を忘れないうちに、バイトにも出てくるようにしろ」

「うん」

「明日もこれくらいの時間に電話する」

「え」

「頼むから──俺の言ったこと、忘れるな」

 最後にそれだけを言うと、蒼君は電話を切った。



 ベッドに腰を下ろしたまま、スマホの黒くなった画面をじっと眺めていたら、階下から母の声が聞こえてきた。

「夏凛ー、起きたんでしょー。お粥作ったから、少しは食べなさーい」

「はーい!」

 返事をして、立ち上がる。

 明日の夜まで使うことのないスマホは、電源を切って、机の上にそっと置いた。





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