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遠くの星  作者: 雨咲はな
30/43

30.疑惑



「へ?」

 え? でもなく、は? でもなく、真っ先に私の口から出たのは、そんな間抜けな声だった。

 ぽかーんと目と口を丸く開けた状態で、すぐ前に座る季久子を見る。

 季久子は真面目な表情のまま私を見返したが、ほんの少しだけ、形の良い眉の片方を上げていた。


「好きな人?」

「そう」

「だから、和人さんでしょ?」

「それ以外の誰か、つってんのよ」

「へ?」


 私はもう一度、間の抜けた声を出した。というか多分、さっきのそれよりも、そこにはバカさ加減が上乗せされていたかもしれない。

 見開いた目を今度は点にして、生まれ落ちたばかりの赤ん坊なみに「何も考えない顔」になった私に、季久子がもう片方の眉もぐぐっと上げる。


「夏凛、あんた一体どうしちゃったのよ。確かに成績はあたしよりも下だし、ちょっと鈍感でアンポンタンなところだってあるけど、こんなことも理解できないくらいに馬鹿な子じゃなかったはずでしょ。わざと判らないフリをして……るわけではなさそうだけど」


 季久子は、私が、本気でまったく判りません、という表情で当惑しているのを見て、可愛らしい顔に訝しげな色を乗せた。叱り飛ばすようにそう言ってから、何かを考えるように、口を噤む。

 黙ってしまった季久子に、不安になったのは私のほうだ。

 未だに理解が追いつかなくて、置いてけぼりにされてしまった子供のように頼りない気分になり、「あのう……」と、ためらいがちに切り出した。

「だって、奈津が好きなのは、和人さんなんだよ」

「あんた、前世の記憶はほとんど無いに等しいのに、どうしてそこで言い切っちゃうわけ」

「え、だって……」

 季久子の冷静な指摘にさらに困惑する。


 だって、奈津と和人さんは、お互いに深く愛し合った恋人同士だったのだ。

 それは私にとっては、常識以前の当たり前のこと、だったのだ。

 空に昇っているのは太陽、くらいに疑問を差し挟む余地のない事柄だったのだ。

 ……今さら、いやあれは土星なんだよ、などと言われたって困る。


「そもそも、夏凛は、奈津が和人さんと仲良くいちゃついてる場面を、今まで見たことがあるの?」

「ないけど。いや、でも、あの時代で、男女がイチャイチャすることって、あんまりないだろうし……」

「じゃあ、好きですとか、愛してますとか、そういう言葉を交わしているところは?」

「ないけど……」

「和人さんの顔を見て、ああ好きな人のそばにいられて幸せ、って思ってるところも?」

「……ない、けど」

 私の惑乱はますます増加する一方だった。


 確かに、奈津と和人さんが一緒にいて、恋人同士の楽しいアレコレをしている場面を見たことはない。

 でもそれはきっと、ただ単に、「まだ思い出していない」という、それだけのことだ。

 私がそういったものを思い出すことをずっと怖れていたから、無意識の領分で、その手の記憶が戻るのを留めていたということも、十分あり得る。


 私がぼそぼそと口にしたその反論を、季久子はすげなく一蹴した。

「じゃあなんで、余計な記憶ばっかりが戻ってくるわけ。奈津と和人さんが真実、一分の隙もないほど完璧な恋人同士で、また生まれ変わったら一緒になりたいと思ってこの時代に転生したっていうのなら、まず真っ先にあんたが夢に見て然るべきは、一人っきりで桜の下で待っているところなんかじゃなく、二人が愛し合って幸福だった頃の記憶なんじゃないの」

「…………」

 季久子の台詞に、私はなんと返していいのか判らず口を閉じた。

 その言い分は確かに理屈としては筋が通っているようにも思うけれど、でもそもそも、「前世」などというものに、理屈を求めるのもおかしな話のような気がする。

「だって、トモ兄はずっとそう言って……」

「それよ」

 私が言いかけるのを遮るように強い口調で断定して、季久子は再び私の鼻先に、びしりと人差し指を突き当てた。それって、どれ? と私はうろたえた。

「つまり、奈津と和人さんが深く愛し合っていた、っていうのはね」

 言い聞かせるような口調で、一言ずつ区切りながら言葉を出す。


「──あんたの従兄が(・・・・・・・)そう言ってる(・・・・・・)、ってだけのことなのよ」


「…………」

 またもぽかんとするしかない私に、季久子は人差し指を突きだしたまま、厳しい眼差しを、ひたと据えつけた。

 もどかしそうな、少し苛立たしそうな、けれど間違いなく心配そうな大きな瞳が、こちらをまっすぐに覗き込んでいる。

「しっかりしなさい、夏凛。ちゃんと目を覚まして、そこにある事実だけを見なさい。あんた、その従兄に洗脳されかけてるわ。奈津と和人さんが、恋人同士だった、愛し合っていた、きっと一緒になろうねと約束し合った──てのは、すべて、『和人さんだった知哉さん』だけが言ってることなのよ。あんたはそのうちの何ひとつ、具体的な記憶を持っていないのよ。そのことに、少しは疑問を抱きなさい」

「…………」

 私は茫然とした状態で、ただ季久子の顔を見返すことしか出来なかった。

 内容は頭に入って来るのに、なんだろう、心が理解することを拒んでいる。

「そ……そんなこと、ないよ」

 しばらくして、ようやく自分の口から出てきたのは、弱々しい否定の言葉だった。

 多分、そんなことない、といちばん思いたがっているのは私自身だ。奈津と和人さんの仲が実際どうだったか、ということよりも、トモ兄が今まで言ってきたことが本当ではなかったかも、ということのほうが、私にとってはよっぽど衝撃だった。

 ふいに、自分の足元の土台が崩れはじめたような感じがして、私は必死に頼りない柱に縋って立とうと試みた。

「だって、私、奈津の声を聞いたもん」

 蒼君が旅に出ると聞いて、夜空を見上げた瞬間、私は確かに自分の頭の中に甦るその声を聞いた。



 なんにも要らない。奈津は、これだけで幸せです。

 この綺麗な星空があって、こうして隣にあなたがいてくれたら──



 その時の奈津の声に、ひとかけらも嘘は混じっていなかった。少し恥じらいのこもった、とても幸せそうな声だった。

 いや声の調子云々なんてものよりも、私には奈津の気持ちが判るのだ。奈津の心情は、そのまま過去の自分自身のものだからだ。

 あの言葉を言った時、奈津は本当に心の底から幸福で、自分の隣に立つ人に対して、偽りのない恋心を抱いていた。

「見たの?」

 しかし、追及する季久子は、眉ひとつ動かさない。

 私は情けないほど両眉を下げ、さらに困惑を深めた。

「え、見た、って」

「奈津がそう言ってる時に、隣に立つその誰か(・・)の姿を見たの?」

「……ううん。奈津がその時見てたのは、星空だったから」

「じゃあ、奈津の言う『あなた』が、和人さんであったとは、限らない」

「…………」

 ここで、私の混乱はほとんどパニックに近いものになった。

 言ってみれば、自分の立っていた世界が、ここにきて、くるりと覆って反転してしまったようなものだ。


 ──え?

 あの時、幸せだ、と言った奈津の隣にいたのは、和人さんじゃなかった?

 誰か、別の男の人だった?

 え? だって、じゃあ、奈津は。


「……じゃあ、う、浮気したってこと? 和人さんがいながら、他の人に気持ちが移っちゃったてこと? 奈津が?」

 信じられない。

 今までずっと私にとって、奈津という娘は、「和人さんだけをひたむきに慕う一途な女の子」という認識で成り立っていた。というより、そういう認識しかなかった。

 今になって、奈津が婚約者がいながら他の男を好きになってしまう多情な性格だった、だなんて言われても、到底受け入れられる話ではない。


 だったら、夢の中で奈津が「会いたい」と思っていたのは、和人さんではなく、浮気相手の男だったということ?

 それであんなにも、悲しい顔をしていたの?


「浮気──っていうか」

 季久子が口元に手を当て、視線を余所に向けてぼそりと呟く。

 顔の造作が格段に私の上をいく季久子は、頭の出来も私より優れている。難しい問題を解くようなこんな表情をする時は、彼女の脳内が素早く活動しているということだ。

 しかし結局、季久子は何かを言い淀んでから、「……まあいいわ」と顔を戻した。

「あんたの記憶っていうのが曖昧すぎて、時間軸がよくわかんないから、あたしにだって確かなことは言えないわよ。もしかしたら、あたしの考えすぎで、知哉さんの言うとおり、本当に奈津と和人さんは恋人同士だったのかもしれないし」

「……うん」


 恋人同士だったのかもしれない。

 かも、しれない?

 そんな不確かな言い方をされることに、私はまだ慣れることが出来ない。

 それは、私が奈津だった、というのと同じくらい、基本の大前提であったはずなのに。


「でも、和人さんの他に、好きな人がいたのかもしれない」

「他に……」

 ぽうっと反芻すると、季久子はまた少し厳しい顔つきになった。

「そういう可能性もある、ってこと。いい? 夏凛、大事なのはね、裏切ったのなんだのとウジウジ罪悪感を抱いたりする前に、まず状況に少しは疑いを持ちなさい、ってことなの。知哉さんはね、意図的なのかどうかまではわからないけど、あんたの人格形成に、おそろしいほど影響を及ぼしすぎてる。そのことをきっちりと自覚しなさい。鷺宮蒼を好きになって、夏凛はようやく、『自立したい、ちゃんとした大人になりたい』って気持ちを持ち始めたんでしょ。知哉さんが今になって暴走をはじめたのは、そのあたりに理由があるんじゃないの?」

 季久子の声は、しっかりと芯が通っている。

 一言ずつ、言葉が生真面目に紡がれるたびに、季久子のふっくらとした唇が動く。

 その動きを眺めながらも、私は未だぼんやりとした靄の中にいる気分だった。

「……キクちゃんの言うことを聞いてると、さ」

 対する自分の声は、イヤになるほど力が入っていない。ふわふわと夢の中を漂っているような覚束なさで、何かを考えるよりも先に口から勝手に言葉が出た。

「なんか、私、まるでマインドコントロールされてる人みたいなんだけど」

「そう言ってんのよ」

 季久子は容赦なくずけずけと言い切った。

「マインドコントロールって言葉が悪きゃ、従兄のことを信用しすぎてる、取り込まれてる、ってことでもいいわ。夏凛の心は今、その依存した状態から自力で抜け出そうとして、必死にもがいてるところなのよ。あたしが言ってんのは、それをもっと意識的にやってごらん、ってことよ」

「…………」

 私は口を閉じた。

 脳裏に浮かんでくるのは、トモ兄の声ばかりだった。


 奈津と僕は、ずっと愛し合ってたんだよ。

 僕らは前世で結婚の約束をしてたんだ。

 きっと一緒になろうねと、誓い合ったんだ。

 やっと、その約束が叶えられる。

 ナツは、僕のお嫁さんになるんだよ。


 あの中学二年の夏以来、トモ兄は私に向かって、ずっとそう言い続けてきた。

 私が覚えていないと返しても、いいや、覚えていないと言い張るたびに、まるで言い聞かせるように私の耳に囁いてきた。

 時に笑いながら、時に懐かしそうに、時に真剣に、執拗なくらい、繰り返し、繰り返し。

 私は、それをちらりとも疑ったことがなかった。トモ兄と私は前世で愛し合った恋人同士だったのだと、頭からすっぽりとそう信じ込んでいた。

 そもそもこの件以外でも、私はトモ兄の言うことやることに、疑いの目を向けたことなど一度もない。それほどまでに、トモ兄というのは私にとって、絶対的な存在だったからだ。

 子供の頃からベッタリだった。何かがあると、必ずトモ兄が助けてくれた。泣いていたら、真っ先に慰めてくれた。叱られたことも、怒られたこともない。私が何をしても、笑って受け入れてくれる、唯一の人だった。大好きだったし、甘えていたし、信頼しきっていた。実の親よりも、誰よりも。

 そんな相手を疑うことなんて、あってはいけなかった。

 トモ兄が言うことは、私にとって、いつでも優先順位のいちばん上になくてはならなかった。

 だから──


 ああそうだ。

 奈津が好きなのは、和人さんただ一人。

 だから私が好きになるのも、トモ兄だけでなくてはならないと、誰より思い込んでいたのは、多分、私自身だったのだ。


 季久子がきっぱりと言った。

「夏凛は夏凛よ。当たり前じゃないの、そんなこと。奈津が誰を好きになろうと、それと夏凛とは、まったく何の関係もない。奈津が誰と約束したって、夏凛がその約束を果たさなきゃなんない義務なんて、これっぽっちもない。他の男を好きになっちゃいけないなんて身勝手な言葉を、そのまま鵜呑みにする必要もない」

「……私は私、かな」

 ぽつりと呟く。



 ──すうっと、目の前が晴れて、視界が開けていくようだった。



 中二の夏から、トモ兄以外の人を好きになるのはいけないことだ、とずっと思っていた。

 トモ兄のことは好きでも、それは恋と呼ぶものではない、ということに気づいてからは、胸の中の重苦しさは増す一方だった。

 蒼君に会って、その重さは何倍にも膨らんで、苦しくてたまらなかった。

 蒼君を好きになっていくたび、奈津にも、トモ兄にも、酷いことをしているような気がしてならなかった。

 戻ることも、進むことも出来ずに、いつでも心が痛かった。


 ……私はもう、その呪縛から解放されても、いいのだろうか。


「そうよ、夏凛は夏凛」

「私、堂々と蒼君を好きになっても、許されるかな」

「許すもへったくれもあるもんですか。誰を好きになるのかは、夏凛の自由よ。他人の許可なんて、まったく必要ないの」

 雄々しく言い切る季久子の言葉で、少しずつ、少しずつ、私の中の何かが軽くなっていく。

 こうして他の人の声で耳に入れると、それは本当に、「当然のこと」のように聞こえた。


 誰を好きになるのかは、私の自由。

 ……そうか、それは、当たり前のことなのか。


 口を結んでじっとしていると、ふわりと私の手の上に、季久子の手が重なった。柔らかく、温かい感触が伝わる。

「可哀想にね、夏凛。そんな当たり前のこと、誰にも言ってもらえなかったのね。もっと早く打ち明けてくれれば、あたしが言ってあげられたのにね。前世は前世、今とは関係ない、って、何回でも」

 ああ、そんなようなことを、蒼君も言ってたな、と私は思った。

 昔は昔だ、と。今とは関わりない、と。

「奈津と和人さんとの間に何があったにしろ、それはもう終わってしまったことよ。生が終わった時点で、二人の人生もそこで終了したの。人が生まれ変わって、前の世のあれこれを現世で継続しなきゃいけないっていうなら、あたし達の人生にはなんの意味があるっていうのよ。ねえ、そう思うでしょ?」

「……うん」

 季久子のぽにょぽにょとした愛らしい手を見ながら、ゆっくりと頷く。

「──そうだね。本当だね」

 静かに答えながら、私はぐるぐると考え続けていた。

 トモ兄のこと、奈津のこと、和人さんのこと。

 季久子に提示されて、はじめて芽生えた数々の疑惑が、頭の中を渦巻いている。

 それらはやがて、もっとも根本的な、ひとつの疑問へと集約されていった。



 奈津と和人さんのことは、もう終わったこと。

 ──だったら、私とトモ兄の間で今も続いているものは、一体なんだ?

 他に好きな人がいたにしろ、いなかったにしろ、奈津が悲しそうな顔をしていたことは間違いない。婚約中だというのに、鏡の中の奈津は確かに、ちっとも嬉しそうでもなく、幸せそうでもなかった。

 和人さんは、そのことにまったく気づかないほど鈍感な人だっただろうか。

 たとえば奈津という娘が、和人さんと他の誰かと二股をかけるような軽薄な女の子であったとして、そんな子が、来世できっと結ばれよう、なんていう誓いを立てたりするものだろうか。

 けど……じゃあ、もし。


 もし、トモ兄の言葉のすべてが真実ではなかったとしたら。

 もし、奈津と和人さんの間に、「約束」などというものが存在していなかったとしたら。


 私たちは、どうして、前世の記憶なんて持っているのだろう?





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