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遠くの星  作者: 雨咲はな
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3.知哉



「──ナツ? 食べないのか?」

 怪訝そうに問われた声に、はっと我に返った。

 気づいてみれば、いつの間にか、さっき注文したピザが、美味しそうなチーズの匂いをぷんぷんさせて、私に食べられるのをテーブルの上で大人しく待っている。ぼんやりと回想に耽っている間に、運ばれてきていたらしい。

「あ、食べる食べる。美味しそう」

 慌てて言いながら、フォークを手に取った。ここに至ってようやく私のお腹も空腹を主張しはじめて、ふらふらと落ち着かなかった思考が、目の前のピザの一点に集中される。もうこの際、冷凍ものだろうがなんだろうが構わない。

「トモ兄は、なんにも食べないの?」

 はふはふと口の中で咀嚼しながら行儀悪く訊ねる私を見て、トモ兄はコーヒーカップを手に持ちながら、可笑しそうにくすくす笑った。


 窓から入る暖かな日差しと、真っ白なコーヒーカップがこれほど似合う人はあまりいないんじゃないだろうか、と私はそれを見て思う。このまま、何かのコマーシャルとしても使えそうだ。

 蒼君が冬の夜空だとしたら、トモ兄は春の木漏れ陽かな、などと考え、うーむ詩人だ、と自分で感心した。


「僕は普通に朝ごはんを食べたから、そんなにお腹が空いてないんだ」

「あのね、お母さんがね、家を出る前に、『知哉君にお金を出させちゃ悪いから』って、少しお金をくれたんだよ」

 もしかして、私に奢るつもりで自分は何も食べないのかなと気を廻し、そう言った。

 トモ兄は、以前から、「生徒一人一人の能力に合った学習を」というのがウリの個別指導方式の塾で、中学生に勉強を教えるバイトをしている。人気のある先生なのだそうで(そりゃそうだろう)、受け持つ生徒さんもかなり多く、したがって報酬もそう悪くはない、らしい。

 それでトモ兄は、けっこう気前よくそのバイト料を使って、私にご馳走してくれたり、何かを買ったりしてくれるのである。でも彼は現在、家を離れて一人暮らしをしているわけだし、言ってはなんだが、トモ兄の実家はうちと似たようなごくごく普通のサラリーマン一般家庭だ。バイトをしていても、懐事情はそんなに豊かじゃないのではと、常々私は心配していたのだった。

「だからトモ兄も何か食べなよ。今日は私の奢りだから、大丈夫だよ。ていうかお金はお母さんのだけど。あ、それともこのピザ、半分食べる?」

 しかしいつものように、私の露骨でぶしつけな気遣いを、トモ兄は笑顔のまま軽く受け流した。

「ナツはそんなこと気にしなくていいんだよ」

「でもさ」

「別に我慢してるわけじゃないし、ナツが美味しそうにぱくぱく食べるのを見てるだけで満足だ。そもそも僕が食べに行こうと誘ったんだから、僕が払うのは当たり前だろ?」

「いや、当たり前じゃないと思うな。それに、お母さんが」

「おばさんから貰ったお金は、ナツのお小遣いにすればいい」

「そういうわけには……」

「僕はそんなに甲斐性のない男に見えるかい?」

「……う、ううーん」

 にっこり笑われて、私は困惑して唸った。


 私がトモ兄にご馳走してもらったり物を貰ったりすると、母親はいつも「まああんたって子は図々しい、遠慮ってものを知らないんだから」とガミガミ叱る。

 しかし私は声を大にして言いたい。私は毎回、しっかり、ちゃんと、遠慮をしているのである。

 何が食べたい? と訊かれたら、私は自分の財布に見合った場所を指定し、自分が払えるかどうかを計算して、注文するようにしている。自分から何かをねだったこともないし、それどころか、トモ兄の前ではうっかり「あれ欲しいな」なんてことを言わないように気をつけてもいる。そんなことを言おうものなら、プレゼントしてくれるに決まっているからだ。

 それでも毎回性懲りもなく、こういう流れになってしまっているのは、トモ兄のこの笑顔にはどうしても逆らえないからなのだった。にっこり笑って、「そんなに貧乏だとナツに思われてるなら心外だな」などと言われれば、トモ兄に恥をかかせるようで、私だってそれ以上強硬には断れない。言っちゃなんだけど、綺麗すぎる笑顔は、他人に反論を許さない圧力みたいなものがある。


「……ねえトモ兄、今は付き合ってる彼女とかいるの?」

 ピザを食べながら、私はものすごく話のついで、という風を装って、屈託のないフリをして訊ねてみた。


 顔も頭もよくて、優しいし、紳士だし、何事においてもスマートだし、言うことはどれも男として模範的で、女に金を払わせない。こんな人、絶対にモテないわけはないと思うのに、私は今まで、トモ兄に彼女がいるという話を聞いたことがなかった。

 いや、きっと、まったく女の子との付き合いがなかった、ということはないのだろう。多分間違いなく、トモ兄は今までに、何人かの異性と付き合ったり別れたりをしているはずだし、母親経由で、トモ兄のお母さんがちらっとそんなことを話していた、とも聞いたことがある。

 それはいい。トモ兄にホモ疑惑が立たないのはめでたいことだ、と素直に思う。いいのだけれど、問題は。

 トモ兄が私に対しては、絶対に、まったくこれっぽっちも、ほんのカケラも、そんなことを見せもしないし言いもしない、ということなのだ。


 それは決して、恥ずかしい、という理由からではなく。


 この時も、私の質問に、トモ兄はまったく動揺を見せずカップに口をつけて目を細めた。

「いるわけないだろ」

 いるわけない、って、その返答はどこかおかしいのでは、と思わずにいられない。

「えー、でも、大学に綺麗な女の人、多いでしょ?」

「ナツのほうがよっぽど可愛いよ」

 そんなわけないだろう。昔と違って、今の私は自分の容姿について客観的判断くらいできる。それでも私は頑張って、無邪気な顔を保ち続けた。

「でもホラ、大学生だと、合コンとかもあるし、トモ兄だったら向こうからいくらでも寄って来るだろうし。どんな女の人でもよりどりみどり、遊び放題じゃない」

 少々乙女として慎みに欠ける私の発言を、トモ兄は大人の態度で受け止めた。

「合コンは、あんまり興味ないんだ」

「……そうなんだ。だよねー、トモ兄には、そんなわざとらしい出会いの場なんか必要ないよね」

「そうだね。出会い自体が、必要ないから」

 さらりと言い切り、トモ兄の瞳がまっすぐにこちらを向く。顔に貼り付けている私の愛想笑いも、そろそろ限界を迎えそうだ。

「じゃ、じゃあ、彼女が出来たらさ、私に紹介してよ。トモ兄の彼女っていったら、きっと美人なんだろうなー」

「……僕の彼女、って誰か女の子を紹介したら、ナツはヤキモチでも焼いてくれるのかな」

 静かな口調で言われ、ひく、と私の頬が引き攣った。表情は変わらなくても、トモ兄の視線が刺さるように強くて、痛い。

「あの、そりゃ、ヤキモチくらいは焼くんじゃないかな。だってトモ兄は昔から私の大好きなお兄ちゃんだし、妹としては、やっぱりさ」

「僕はナツを妹だなんて思ったことは一度もないよ」

「…………」

 ここでついに、私の根性は挫けた。

 話すのをやめ、目を伏せて、フォークに突き刺したピザの破片を、のろのろと口に持っていく。すっかり冷めてしまって、あんまり美味しくない。さっきまで旺盛だった食欲も、どこかへ失せてしまっていた。

 失礼しまーす、と言いながら、テーブルに銀色の水差しを持ったウエイトレスがやってきた。まだたっぷりと残っているトモ兄のグラスに溢れるほど水を注ぎ入れ、半分以上減っている私のグラスには、お愛想程度にちょびっとだけ注ぎ足す。接客マニュアルをきっぱり無視したあからさまなその態度、なかなかナイスです。

 もしも、私が本当にトモ兄の妹だったら、ウエイトレスのお姉さんは、私にもなみなみとお水を注いでくれたんだろうなあ、と私はそのグラスを見ながらぼんやりと考えた。


 私に向けるトモ兄の目が、「妹」に対するそれであったなら。


 ……なんでだろ、と悲しい気持ちになって思う。

 たとえば本当に、トモ兄が私に向かって、照れながら、「これ彼女」と誰か女の人を紹介してくれれば。

 私はきっと、ええーと驚いて、冷やかし、からかい、二人の関係はどこまで進んでいるのかと問い詰め、ちょっとヤキモチを焼き、その女の人に少しだけ意地悪なことを言ってみたりしてトモ兄を困らせ、それでも心から祝福するだろう。

 トモ兄の妹分として、可愛がってもらっている年下の従妹として、トモ兄の彼女とも仲良くなれるよう、精一杯の努力をすることだろう。

 そうしていつか、トモ兄に可愛らしいお嫁さんが出来たなら、私は張り切って結婚式でスピーチし、充電が切れるまでスマホとデジカメで写真を撮りまくり、キスシーンを写させろとえげつない強要をして、みんなを湧かせることだってしただろう。

 それは決して夢想じみた考えではなくて、この空の下でよく見られるありふれた光景だと思うのに、どうしてこんな縋りつくように、いつかそんな日が来るといい、という祈りにも似た願いとして胸に抱かなければならないのか。


 そばに家族がいれば子供の頃のように甘えられても、二人きりになった途端、無意識に緊張し、ことさら「イトコ同士」ということを強調して必死に距離を取ろうとする自分に気づくたび、私はいつも、悲しくなる。


 なんで、こんな風になってしまったんだろう。

 ──中学生の頃まで、トモ兄は本当に心の底から掛け値なしに、「私のいちばん大好きな人」であったのに。



          ***



 ナツは、ぼくのおよめさんになるんだよ。

 最初にそう言われたのは、私が小学生の低学年くらいの時だ。



 トモ兄はその時すでに中学生だったが、学校では天文学部に所属し、成績はほぼオール5、体育大会ではリレーのアンカーを務めるような非の打ちどころのないデキた子供であったため、親戚も祖父母も、もちろん私の両親も、何かというと話題はトモ兄に偏りがちだった。

 だから、親類の集まりなどがあると、幼い私はいつも面白くなくてふてくされていて、その日も、大人たちの会話を聞きたくないばっかりに、祖父の家の庭の片隅で、一人ひたすら砂遊びに精を出すという根暗なことをしていのだ。


 そんな私のところにやってきたのは、トモ兄その人だった。


 しゃがみこんでいる私の隣に腰を落として、トモ兄は顔を覗き込んで笑いかけた。

「こんな所で何してるの、ナツ」

「トモ兄は、あっち行って。トモ兄は、大人と一緒にいればいいの」

 そう言い放ち、彼につんとそっぽを向いた私は、ホントに可愛げのない子供だったと思う。けれどトモ兄は、怒りもせずに、ちょっと眉を下げただけだった。

「どうして?」

「だってみんな、トモ兄のお話ばっかりだもん。かりんのこと、誰も言ってくれないもん」

「そうか……ごめんね」

 頑なに地面をがしがしと掘り続けながら、ぷう、と膨れた私に、トモ兄はちっとも悪くなんてないのに、申し訳なさそうに謝った。

 その優しさがいたたまれないやら、自分が情けないやら恥ずかしいやら、とにかくいっぺんに湧き上がってきた感情を、私はすべて、目の前のトモ兄への腹立ちにすり替えた。


「トモ兄なんて、嫌い」

「嫌い?」


 私の投げつけた、幼く残酷な言葉を聞いて、トモ兄は本当に悲しそうな顔をした。

 それを見て、自分の不用意な発言が彼の心を傷つけてしまったことを子供なりに感じ取り、私は身勝手にも非常にショックを受けた。

 熱いものが込み上げてきて、ぷっくりと目に涙を浮かべる。

 ごめんなさい、と素直に謝る知恵も持たず、ホントは嘘なんだよと撤回する余裕もなく、ただひたすら大好きなトモ兄にそんな顔をさせたことがつらく苦しくて、ひっくひっくとしゃくり上げながら、私が切れ切れに口から出したのは、

「あのね、かりん、学校で、絵が上手ね、って先生に褒められたんだよ」

 という、それまでの会話の流れとまったく無関係の内容だった。

 だから何だ、と現在の私だってツッコミを入れたいところだが、なにしろその時の私は、頑是ない小さな女の子だったのだから仕方ない。


 そして多分、賢いトモ兄はそれだけで気づいてくれたのだろう。

 本当は、私がそのことを久しぶりに会ったおじいちゃんおばあちゃんに報告したくてしょうがなかったこと、トモ兄のように、みんなに「すごいねえ」と持ち上げてもらいたかったことを。

 けれど大人たちはトモ兄の話題で盛り上がっていて、ちっとも自分に話を振ってくれず、そのことが不満でいじけていたのだということを。


「そうか、ナツは前から絵を描くのが好きだったし、上手だったもんな。先生に褒められたくらいだから、きっと他の子よりもずっと、ナツの描いた絵は飛びぬけて良かったんだろうな。すごいな、ナツは。僕は絵は昔から苦手でさ、馬の絵を描いたら、みんなに『変な犬だね』って言われたくらいなんだ」

 私の頭を撫でて、にこにこしてそう言うトモ兄の返事は、育児書に手本として載せたいくらい、百点満点回答だった。子供の虚栄心と自尊心を満足させるために、自分のことまで貶してみせるというテクニックは、私の母に見習わせたいくらい立派なものだ。

 もちろん私は、コロリと機嫌を良くした。

 えへへーと眦に涙を残したまま顔を崩して笑う現金な私に、トモ兄は柔らかく目元を緩めた。


「ナツは誰よりも可愛くて、いい子だよ。だから、大人たちのことなんて気にしなくていいんだ。あの人たちは、表面的なことしか見えていないんだから」


 その時一瞬、トモ兄の薄っすらと笑った顔が、いつもの優しい笑顔と違う、という気がしたのだけど、私はそこにこだわるほど深く物事を考えるような子供ではなかった。ただ、目を瞬いて、彼を見返しただけだ。

 トモ兄はその顔のまま、声音を落とした。


「……ナツ、僕のことが好き?」

「うんっ、大好きー!」

「…………」


 さっき言ったことをけろっと忘れて元気よく返すと、私の頭を撫でていた手が、するりと額に下りた。

 ぱっつん切りにしていた前髪を指先でふわりと梳かれ、私は少しくすぐったくて身を竦めた。軽くなぶるような繊細な手つきは、何度も何度も、繰り返し私の髪と額を往復し、決して離れてはいかなかった。


「──じゃあ、約束しよう」

 トモ兄は、囁くようにそう言った。


「やくそく?」

 きょとんと問い返した私は、その時になってようやく、こちらに向けられているその視線が、いつものトモ兄の「優しいお兄ちゃん」のものとは、はっきりと違っていることに気がついた。

 なんとなく身を後ろにずらしかけたのも、それがちょっとだけ怖かったからなのだが、トモ兄の指は私から外れるどころか、今度は滑るように頬に移動した。

「トモ兄?」

「約束だ、ナツ」

 当惑する私に、トモ兄の瞳はどこまでも真剣だった。


「ナツは、僕のお嫁さんになるんだよ」


「およめさん?」

 いくら私がバカな子供であったとはいえ、その単語の意味が判らなかったわけではない。テレビや本で時々見る、純白のドレスを着た「お嫁さん」の姿は、私にとって遠い未来の憧れでもあった。

 ……けれど、その時、私はなぜか、それに無邪気に頷くことが出来なかった。

 大人たちのいるところで、いつもの顔と声でトモ兄に「僕のお嫁さんになる?」とにこにこしながら軽く問われたら、きっと「なるー!」と即答しただろうに。

「なるんだよ、いいね?」

 トモ兄は、私の返事も聞かずに、念押しするようにそう言うと、顔を寄せ、頬に軽いキスをした。

「約束だよ」

 今度こそ、きっとね──と、トモ兄はその時、小さな声で言った。



 今度こそ、約束を叶えよう、ナツ(・・)





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