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遠くの星  作者: 雨咲はな
27/43

27.黒点



 ──鏡に、白くほっそりとした面が映る。


「ほんとうに、奈津お嬢さんは、お綺麗ですね」

 私の髪を櫛で梳きながら、お清がうっとりとした口調で言った。


 八つの時からこの家に下働きとして住み込んでいるお清は、ずうっと私付きの忠実な女中であり、大切な友でもある。

 もちろん、炊事や洗濯などの家事も、他の年配の女中たちと一緒になって担当しているのだけれど、奈津お嬢さんの身の回りはあたしが、と昔からそこだけは譲らない。

 私よりも齢が下なのに、まるで婆やのようにこまごまと気を利かせ、世話を焼き、時にがみがみと説教したりもする。愛嬌のあるその姿には、いつも笑いが零れてしまう。

「お清だって、可愛いわ」

 私がそう言ったのは、なにもお愛想のお返し、というわけではない。今年十三になるお清は、いつも元気いっぱいで、頬が健康的な桃色に染まり、勝ち気な瞳が生き生きと輝いている。微笑ましいほどに、愛らしかった。

「いいえ、お嬢さん」

 お清は、櫛を動かしながら、ふるふると首を横に振った。


 真面目な顔つきで、「鏡の中の私」と、じっと目を合わせる。


「違うんですよ。可愛い、っていうのと、綺麗、っていうのとは、もう、天と地ほどにも差があるんです。そりゃああたしだって、そう悪い器量ってわけじゃないし、とみだ屋の幸太さんなんかも、可愛い、って言ってくれますけども」

 と、お清はただでさえ林檎のような頬を、ますます赤くして言った。

 とみだ屋というのは、この家に出入りする八百屋のことで、「幸太さん」はそこの息子だ。十五くらいになるのだったか。台所でもよく働くお清とは顔なじみで、仲も良いらしい。

「それでも、その幸太さんだって、お嬢さんのお顔を見ると、ポーッとなっちまってその場に棒立ちですからね。ちょっとばかり腹も立ちますけども、でもしょうがありません。お嬢さんはそんだけお綺麗なんですから。ですからそういう時はね、どう、あたしが大事に大事にお育てしたお嬢さんは、そりゃもう美しいでしょう、って自慢してやるんですよ」

 ふんぞり返って鼻息を荒くするお清に、私は思わず噴き出してしまった。

「私、お清に育てられたの?」

「はい」

 そう頷いて、お清は澄ました顔で私の髪を梳いている。

「私より、四つも下なのに」

「ほんの四つ、ですよ。昔からお嬢さんのお世話をしてきたのは、この清なんですから」

 きっぱりと言い切るお清の顔には、幼くとも漲る誇りと自尊心があった。

 朝から晩まできりきりと立ち働いて、いろいろなことを切り回している、という自信が、彼女にそんな顔をさせるのだろう。


 そう思うと、労働するということをまるで知らずにお蚕ぐるみで育てられた自分が、少しやるせなくなった。


「ご覧くださいな、このお顔。このお肌。まるで雛人形のようじゃないですか。真っ白で、すべすべで」

「……あまり外に出ることがないからよ」

 にっこりと鏡の中で笑うお清に向かって、私は曖昧に微笑む。自分のすぐ前にあるのは、雛人形というよりは蝋燭のような、あまり顔色の良くない娘の顔だ。

 口元が、わずかに弱々しく上がっていた。

「そりゃあ──お嬢さんは、この家の箱入り娘なんですから」

 お清が、少しだけ躊躇したように、一瞬言葉に詰まった。

 箱入り娘、と口の中で呟いて、私はさらに自嘲気味に唇の角度を上げる。なんて便利な言葉だろう、と思ったのだ。


 ……「籠の鳥」、よりは、聞こえがいい。


「あの、それに、この濡れたように黒々としたおぐしも美しくて。こんな風におさげに編んでしまわれるのは、もったいないですね」

 私の表情に気づいたのか、お清が慌てたように急いで言葉を継いだ。

 手に持っていた櫛を置き、私の髪を二つに分けはじめる。

「あの……」

 手を動かしながら、ちらりと、遠慮するようにお清が鏡の中の私を見た。

 活発で、目上の女中にだってはきはきと物を言うこの少女に、こんな顔は似合わない。ふいに申し訳ない気分になって、私は後ろを振り向き、にこっと笑った。

「なあに?」

 お清は言いにくそうに、もじもじしている。

「……あのう、そろそろ、おさげはおやめになったほうが……その、旦那様も奥様も、そう仰っておられますし……それに……」

「いいのよ」

 私は、できるだけ優しく、けれどきっぱりと、お清の言葉を遮った。

「いつもどおり、おさげに結ってね。お母様に何か言われたら、私がどうしてもと言い張るからしょうがなく、と言えばいいわ。本当のことなんだもの」

 どちらにしろ、父も母も、もう私に対してはそううるさいことを言いやしない。縁談が決まってからの二人の浮かれぶりといったら、見てはいられないほどなのだ。

 怒ることも、叱ることも、すっかり忘れるくらいに上機嫌だった。

 未だ興奮の冷めやらないらしい母は、何かというと私に向かって、「幸運」というものについて力強く語って聞かせる。

 目ばかりを爛々と輝かせ、身を乗り出して口を動かす母の姿が、ぱっと脳裏に甦った。

 そして、その口からぽんぽんと飛び出てくる、毎度同じように繰り返される内容も。



 お華族さまにお輿入れだなんて、まったく今まであんたを育ててきた甲斐があったというものだよ、奈津。

 あちらのご両親は未だに渋っておられるらしいけど、なに、そんなもの構いやしない。なにしろ肝心の和人さんが、妻は奈津でないとダメだときっぱり主張していらっしゃるというのだもの。あの優しげな方が、周りが驚くほどに、強硬な態度だというじゃないか。

 目に入れても痛くないほど可愛がっている自慢の息子が言うのだから、ご両親だっていずれ折れざるを得ないに決まってる。安心おし、あんたに恥をかかせないくらいの支度はさせてあげるからね。なんたってこれからは、私らだってお華族さまの親類だ。

 二年前、お前の縁談話を潰された時は腹も立ったものだけどねえ、こうなってみたら、潰れてよかったというものだよ。所詮はただの資産家、あんな三十男より、これからお医者にもなろうっていうお華族さまのほうがよっぽどいい。

 思えばあの頃から、和人さんにはお前を嫁取りするご意志があったんだね。何年もひとりの女を想い続けるなんて、珍しいほど一途なお人だよ。

 いいかい、奈津。決して、決して、和人さんに嫌われるようなことをしてはいけないよ。

 大人しくして、言うことをよく聞いて、口答えせず、いつも綺麗にして笑っているんだよ。

 ああ、本当にあんたは、この上なく幸せな娘だねえ!



 私は口を噤み、また顔を戻して、鏡の中の自分と目を合わせた。

 長く伸びた髪の毛と同じ、真っ黒な瞳。その下にあるのは泣きボクロ。私のことを美人だと言う人は、このホクロがまたその美しさに彩りを添えている、などと言う。これは天からの授かりものだ、と。

 けれど私はずっと不思議だった。


 昔から、あまり泣くこともない私なのに、どうしてこんなものがあるのだろう?


 そう思うと、そのホクロは、私にとってなんとも邪魔なものにしか感じられなかった。なんとなく忌々しくて、好きにはなれないでいた。これではまるで、私が泣き虫みたいじゃないの。

 同じように、私は自分の顔もあまり好きではない。綺麗だ、と言われるのも、本当は好きではない。この顔のために、十を越えた頃から、私にはいくつもの縁談話が持ち込まれた。

 十五の時に、資産家のお宅へ私が一人で行かされたのも、そのひとつ。和人さんが同行したために、両親がひそかに水面下で進めていたその縁談話は白紙に戻されてしまい、おかげで父は、仕事上でもずいぶんな損害を受けたのだそうだ。


 あれから、二年。


 せっかく結ぼうとした誼を壊されて、和人さんに対して怒り狂っていた両親は、今、諸手を挙げて、彼の元へと嫁ぐ私を祝福している。

 私ももう、あの頃の私じゃない。背が伸び、髪も伸び、身体には女性特有のまろい柔らかみが加わって、当時の幼さはすっかり抜けた。

 十七になった私は、この年齢には少々そぐわない子供っぽいおさげ姿で、鏡の中で神妙な表情をして座っている。

「飲み物をご用意いたしますね、お嬢さん」

 私の髪を編んでから、お清がそう言って、静かに部屋を出て行った。

 きっと、気を利かせてくれたのだろう。お清ほど、私の気持ちを判ってくれる人は他にいない。

 私は鏡から視線を外し、窓の外へと向けた。

 今は昼前、お日様はまだ、中天にも昇っていなかった。

 声にならない声で、そっと呟く。

「……が、見たい」


  ──何を見たいの?


「……会いたい」


  ──誰と会いたいの、奈津?




          ***



 私が倒れたのは、精神的ショックによるものではなく、ただ単に風邪を引いたから、だった。

 考えれば考えるほど、そりゃあそうだよね、と納得してしまう。

 前日にろくすっぽ眠っていなくて、ただでさえ体力があまりなかったところに、貧血を起こして、たっぷりと汗をかき、それを拭きもしないでランニング、その上しばらく寒風吹きすさぶ駅のホームにじっと座っていたんだから。

 これでくしゃみの一つもしなかったら、風邪の神様に申し訳ない、というくらいのものである。


 思い返してみれば、家に帰り着いた頃から、頭が痛くて、寒気がして、そのくせ顔は火照って熱く、ぐらぐらと視界が揺れていた。

 なんのことはない、すべてが風邪の諸症状だったわけだ。


 とにかくリビングでぶっ倒れた私は、そのまま高熱を出して、ぐっすりと眠りこんでしまったらしい。

 睡眠不足が祟っただけなのだが、そもそも落ち着いているとは言い難い状態にあった両親は、揺さぶっても声をかけてもまったく目を覚ます気配のない娘にすっかりパニクり、救急車を呼んだらしい。

 私が目を覚ました時、まるで見覚えのない病室に寝かされていたのは、そういう成り行きであったのだと、あとになって聞かされた。

 救急隊の方々、ならびに医療関係者の方々、正月なのに、迷惑をかけてすみません。




 ただの風邪、という診断ではあったのだけれど、とにかく熱が高かったし、もうすでに夜になりかけてもいたので、一日だけ入院しましょう、ということになって、私はそのまま病院に居続けとなった。

 じゃあ明日また来るわ、と狭いベッドに横たわる私に言い置くと、父と母は自宅へと引き上げていった。

 帰り際、母は何度も何かを言いたそうに、口を開けかけていたけれど、結局やめて病室をあとにした。

 私が入れられたのは他に数人の入院患者さんが枕を並べる大部屋であったので、こんなところで例の話の続きをするのも……という気持ちがあったのだろう。それくらいの理性が母に残っていて、助かった。

 両親が帰ってから、私は腕に点滴針を刺したまま、じっと病室の天井を見つめていた。

 ベッドとベッドを区切るカーテンの向こうにも人はいるはずなのだけど、誰の話し声もしない。消灯まではまだ少し時間があるが、病室内はしいんとした静けさに満ちている。


 私はそうっと、寝ていたベッドに上半身を起こした。


 点滴の針を抜いてしまわないように注意しながら、足を床に下ろしてゆっくりと立ち上がる。ちょっとふらっとしたけれど、大丈夫、立てる、と自分自身に確認した。

 とにかくパタンと倒れてそのまま救急車で運ばれてきてしまい、明日にはもう退院してしまう我が身であるから、身の回りのものなんて何もない。スマホもなければ財布もない。せめて千円札の一枚くらい置いていってくれればいいのになあー、と私は思ったが、あの状況でそこまで望むのはやっぱり無理というものだろう。


 少し考え、ベッドの脇に据えつけられている小型のロッカーに目をやった。


 患者が自分の私物などを保管するためのロッカーだ。大部屋だからなのか、個室でもこんなものなのか、とにかく必要最小限しか入らなさそうなコンパクトさである。

 私はそのロッカーに手をかけ、開けた。

 ガチャン、という音が響いて、少しどきっとする。大したことのない音なのに、あまりにも静かだから、なんだか悪いことをしているような気がしてしまう。

 当たり前だけど、ロッカーの中は空っぽだった。うん、それはいいの、それは判っている。

 ──スチール製のロッカーの平べったい戸の内側には、小さな鏡がついている。

 私は、ごくりと唾を飲み込んでから、おそるおそる、その鏡を覗き込んだ。

 見慣れた黒い目が、私を見返した。


 その目の下には──泣きボクロ(・・・・・)


「!」

 思わず、びくっと全身で身じろぎして、後ずさる。

 ドキドキと胸が大きく波打っているのは、何も熱のせいばかりではないのだろう。額に、じっとりと汗をかいている。よろける両足に力を入れて硬い床を踏みしめた。

 もう一度そろそろと近寄って、鏡に自分の顔を映した。


 ……そこにあるのは、間違いなくちゃんと「私」の顔だった。


 生まれてこのかた、綺麗だね、とも、美人だね、とも言われたことのない平凡な顔立ち。お化粧して、派手な着物を身につけた七五三の時でさえ、可愛いという褒め言葉しか貰ったことがない。季久子のお人形のような整った顔に比べて、数段も劣るこの顔。

 泣きボクロなんて、どこにもない。

 ふー……、という、深くて静かな息をお腹の底の方から吐き出した。

 目線を下にやっても、視界に入るのは艶々とした長いおさげなどではなく、肩のあたりで切り揃えた短い黒髪だけだ。

 寒気はもう感じなくなっていたけれど、足はやっぱり小さく震えていた。




 長いこと、私は鏡の中の自分と睨めっこをし続けた。まだ熱っぽい頬っぺたを掌でぺたぺたと触ってみたり、びよんと伸ばしてみたり。

 ハタから見たら遊んでいるようにしか見えなかっただろうけど、私はかなり、真剣だった。

 気が済むまでそうやって確認してから、私はロッカーの戸をパタンと閉じ、またのろのろとベッドの中へと潜りこんだ。

 大きく息を吸ったり吐いたりしながら、目線を白い天井に向ける。

 ……もうすぐ、今日という日が終わるんだなあ、と思ったら、妙にしみじみとしてしまった。私の人生史上いちばんと言っていいくらい、煮詰めたブラックコーヒー並みに濃い一日だった。

 そういえば、私、ほとんど御飯も食べてないじゃん、と今になって思いつく。いや、別に、食欲もないんだけど。明日の朝は、看護師さんは私の分も朝食を用意してくれるだろうか。心配だ。

 とりとめもないことばかりが浮かぶ私の思考は、また再び闇へと沈んでいこうとしていた。よほど睡眠が足りていないのか、身体が疲れているのか、とろとろと瞼がくっついていく。


 眠ったら、また、奈津の記憶を見るのかなあ。


 半分溶けかかった頭で、そんなことを考えた。けれど、そこに恐怖心はあまり存在していなかった。どうしてだろう。昼間、和人さんの夢を見た時は、あんなにも怖くてしょうがなかったのに。

 もしかして、はじめて「奈津」の顔を見たからなのかな。

 鏡に映った姿といえど、ようやく客観的に、奈津という娘を捉えることが出来たから、なのかな。

 ──幸せな娘だねえ。

 私は目を閉じ、暗闇の中に意識を埋没させながら、その言葉を胸の中で反芻した。

 白い肌にぽつりと映えるホクロ。

 真っ白な紙に一滴の墨を垂らしたら際立って目立つ。私の頭の中にぽつりと浮かんだ黒い点は、今までなんの疑問も覚えなかった分、深い深い違和感を心に植え付けた。



 鏡の中の奈津。

 和人さんとの結婚が決まって、幸せいっぱいだったはずの、奈津。

 ……どうして、あんなにも悲しげな顔をしていたの?





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